はてなキーワード: トンネルとは
その夢は決まって同じ場所だった。大きな店の中央奥にぽつんと扉があって、その扉を弟と二人で開ける。扉の向こうには細いトンネルが続き、それを抜けると面緑の芝生の丘が広がっていた。
子供心に強烈な印象が残っていて、ずっと夢だったと思っていた。
それから長い年月が経ち、自分にも子供ができた。ある休日、ふと思いついて、家族で郊外のとある公園を訪れた。特に目的があったわけでもなく、偶然見つけて立ち寄った場所だった。
でも、その場所に足を踏み入れた瞬間、私は立ち止まった。
そこは、あの夢とまったく同じだった。
広がる芝生の丘、緑が眩しいほど鮮やかで、丘のところどころに小さなトンネルが点在している。
不思議な気持ちになった。夢だと思っていた場所が現実に存在している。それとも、子供の頃に実際に訪れた記憶を夢だと勘違いしていただけなのだろうか。
どちらにせよ、自分が子供だった頃に見た景色に、自分の子供を連れて来ていることが、なんだか嬉しくて切なくて、少し胸が締め付けられるようだった。
こんな経験をした人は他にもいるのだろうか。
弟と二人でその扉を開けると、細くて暗いトンネルが続いていた。
少し怖かったけど、不思議と前に進むのが怖くなかった。
そして――トンネルを抜けた先に広がっていたのは、見たこともない世界だった。
どこまでも広がる緑の丘。
ふわふわの芝生が風に揺れて、空は優しく青く光っていた。
ただ静かで、暖かくて、胸の奥がふわっと軽くなるような景色だった。
幼い私は、その光景をただじっと見つめていた。
でも、大人になるにつれて「きっとただの夢だったんだ」と思うようになった。
⸻
何気なく訪れた町の郊外。歩いていると、ふと目の前に広がる景色に足が止まった。
そこに、あの丘があった。
なだらかな芝生の丘が続き、やわらかい風が草を揺らしている。
遠くまで広がる空。
まるで、あの夢の中で見た世界そのままだった。
胸の奥が、不思議な温かさでいっぱいになる。
「…たぶん、ここだったんだ。」
もしかしたら、本当にあの時、扉を抜けてここへ来ていたのかもしれない。
それとも、ただ夢が未来を教えてくれていたのかもしれない。
今、私の隣では子供が楽しそうに丘を駆け回っている。
あの時の自分のように。
私はゆっくりと息を吸い込んだ。
祐介は現場に立ち続けた。
だが、その現場はかつての熱気を失い、
冷え切った風が吹き抜ける場所になっていた。
「人が足りない。経験者がいない。」
そう呟くのは、かつての同僚たちだ。
かつて5000人いた社員は1000人に減り、
彼らは司法試験に受かっても、
法律事務所の門は閉ざされ、
途上国じゃあるまいし…」と嘆く声は消えず、
---
祐介の言葉は重い。
だが、それだけではない。
それは、失われた30年の産物だった。
---
祐介はふと空を見上げる。
彼の目に映るのは、崩れかけたビルの梁の影と、
その下で懸命に働く若者たちの姿。
「このままでいいのか?」
祐介は問う。
---
倉上龍の言葉が、遠くで響く。
「どれだけの命が奪われたのか、
どれだけの未来が閉ざされたのか。」
そして、祐介は決意する。
「語り継ごう。
この錆びた梁の下で、何が失われ、
誰がそれを奪ったのかを。」
未来を見据えた祐介の歩みは、
まだ終わらない。
けれど、点検報告書には「異常なし」とだけ、そっけなく印字されたPDFが添付されてくる。
三十年前なら、それを見逃す者はいなかった。
いや、“生き残った”というべきか。
当時の仲間の多くは職を失い、家を売り、なかには命を絶った者もいた。
バブルの余熱がまだ残るころ、祐介の所属した会社は全国にリゾート開発を展開していた。
銀行は金を貸し、不動産会社とゼネコンはその金を使って「未来」を建てていた。
小泉政権が“構造改革”の名のもとに進めた金融再編は、銀行にとっては救済だったが、
祐介の会社も、4000億円規模の開発が“回収不能”とされ、メディアに名指しで叩かれた。
だが、祐介は知っていた。
開発案件の大半は、もともと国主導の“ケース事業”だったことを。
裏では大蔵省が土地を押さえ、リゾート政策を煽っていたことを。
現場で汗を流した職人たちは、開発計画が潰れても責任を問われることはなかった。
代わりに、技術者や現場監督たちが矢面に立ち、切り捨てられた。
協力会社の担当者にそう言われた夜、祐介は初めて会社のトイレで吐いた。
---
そして今。
祐介は小さな建設コンサル会社で、インフラ点検の補助をしている。
自治体からの委託案件が多く、担当者は若い、30代前後の契約職員ばかりだ。
経験がなく、知識も浅く、なにより「責任を取らされるのが怖い」という眼をしていた。
ある若手が問う。
「たぶん、じゃダメだよ。記録に残すか、写真を撮って報告するか」
祐介は答えながら、心のどこかで諦めていた。
この青年が次の現場に行くころには、もうこの異変のことを忘れているだろう、と。
チェックリストに○をつけ、Excelで表を整えれば、それが“点検”になる。
本当に危ない橋やトンネルを救うには、「異変を感じ取る目」と「報告する勇気」が必要だ。
---
「昔は、職人が天井裏を覗いて“ヤバい”って言えば、それで補修工事が決まったんだよ」
祐介がそう話すと、若者たちは苦笑した。
祐介は思う。
これはもう、先進国ではない。
国がコストカットと外注主義を極めた結果、「インフラという生命維持装置」が壊れていく過程なのだと。
そして皮肉なことに、あの時“ムダだ”と叩かれた公共事業を切り捨てた代償は、
今になって「工事費5割増し」「技術者不足」として跳ね返ってきている。
---
日が落ちる。
継ぎ目の錆は、もう一段深くなっていた。
あの夜のトンネル崩落事故のように、何かが起きるまで誰も動かないのかもしれない。
もう誰も彼に命令しない。だが、彼は知っている。
そして、
「俺たちは、本当にあの時“ムダ”だったのか?」
という問いだけは、永遠に胸に灯し続けるつもりだった。
一方で、ハマスのほうは病院や学校の下にトンネル掘って、わざとそういう場所から攻撃してくる。完全に民間人を盾にしてる。そんな状況で、「民間人の被害をゼロにしろ」って言われても、正直それは無理な話。
イスラエルを批判する声は多いけど、「じゃあどうやってハマスを止めればいいのか?」っていう代案が全然出てこない。ただ「もっとソフトにやれ」「もっと正確に狙え」って言われても、それが現実的じゃなかったら意味ない。逆にイスラエルが手を止めたら、「民間人を盾にすれば安全」っていう前例を作っちゃって、それこそ武装勢力を増長させることになる。
比例原則って言われるけど、「どのくらいの攻撃ならOKなのか」っていう具体的な基準なんてない。だから実際は、「他のやり方があったのか?」とか「どれくらいのリスクを取ればよかったのか?」っていう現実的な判断のほうが重要になる。そうなると、イスラエルの行動が「しかたなかった」と評価される流れになっても不思議じゃない。
もっと倫理的な対応を求めるなら、国際社会が自分たちで動いて、ガザを非武装化したり、多国籍軍を派遣したりするしかない。でも実際には誰もそのリスクを負おうとしない。だから、結果的にイスラエルの「国を守る」という行動のほうが、現実に即した正当性を持ってるように見えてしまうんだと思う。
イスラエルは反撃に際しても、ただ無差別に攻撃してるわけじゃない。空爆する前にSMSを送ったり、ビラをまいたり、建物の屋根だけを先に爆破して警告を出したりして、民間人が避難できるようにしてる。つまり「できるだけ巻き込まない努力」はしてるわけだ。
一方で、ハマスのほうは病院や学校の下にトンネル掘って、わざとそういう場所から攻撃してくる。完全に民間人を盾にしてる。そんな状況で、「民間人の被害をゼロにしろ」って言われても、正直それは無理な話。
14歳が冤罪で収監されたという一例を出して、イスラエル全体の軍事行動を正当化できないって?それは個別の人権侵害の話であって、ハマスによる民間人虐殺の正当化には絶対にならない。
ハマスは2023年10月に、赤ん坊や妊婦を含む市民を無差別に殺害し、家族全員を縛って焼き殺し、性的暴行まで加えた。フェス会場で音楽を楽しんでいた若者に機関銃を乱射し、生きたままトラックで拉致した。これがパルチザン運動だと?どこに軍事拠点への抵抗がある?どうやっても正当化できない戦争犯罪でしかない。
そして、そういった蛮行の中で子どもを盾にし、学校や病院の下に地下トンネルを掘って兵器を隠すのがハマスのやり口だ。民間人の被害をわざと増やし、それを国際世論の武器に使う。この行為そのものが民間人を人間の盾として使う戦争犯罪だ。つまり民間人の犠牲の大半はハマス自身が意図的に引き起こしている。
最終的に「死ね」だの「バカウヨ」だの罵倒に逃げるのは、君がもう論理的に反論できない証拠だよ。感情をぶつけて満足したいなら壁にでも向かって叫んでくれ。議論したいなら、まずは人としての礼儀と筋の通った論理を持ってこい。
ハマスが民間人を盾にしてるから被害が広がるわけで、何か言うならハマスに民間人を盾にするなってことだと思う
民間人に手を出すなって言うなら、それはイコールハマスに手を出すなって意味になっちゃうんだから
ハマスをもっと有効に攻撃出来るって言うなら、イスラエルと協力して攻撃作戦に取り組めばいいんだよ
はっきり言って、そんな方法ないんよな
あるって言ったら一緒にやらなきゃいけなくなるしさ
イスラエルは多国籍軍でハマスを攻撃することに大賛成だと思うぞ
hungchang なぜハマスを攻撃すべき前提に立っているのか。
たとえば2023年の10月に起きた、ハマスによるイスラエルへの攻撃。あれはどう考えても国際法違反で、完全に戦争犯罪だよね。民間人が狙われて、子どもや女性まで殺されたり拉致されたりした。あれが起きた以上、イスラエルが「自衛のための反撃」に出るのは当然の流れだと思う。
で、イスラエルは反撃に際しても、ただ無差別に攻撃してるわけじゃない。空爆する前にSMSを送ったり、ビラをまいたり、建物の屋根だけを先に爆破して警告を出したりして、民間人が避難できるようにしてる。つまり「できるだけ巻き込まない努力」はしてるわけだ。
一方で、ハマスのほうは病院や学校の下にトンネル掘って、わざとそういう場所から攻撃してくる。完全に民間人を盾にしてる。そんな状況で、「民間人の被害をゼロにしろ」って言われても、正直それは無理な話。
イスラエルを批判する声は多いけど、「じゃあどうやってハマスを止めればいいのか?」っていう代案が全然出てこない。ただ「もっとソフトにやれ」「もっと正確に狙え」って言われても、それが現実的じゃなかったら意味ない。逆にイスラエルが手を止めたら、「民間人を盾にすれば安全」っていう前例を作っちゃって、それこそ武装勢力を増長させることになる。
比例原則って言われるけど、「どのくらいの攻撃ならOKなのか」っていう具体的な基準なんてない。だから実際は、「他のやり方があったのか?」とか「どれくらいのリスクを取ればよかったのか?」っていう現実的な判断のほうが重要になる。そうなると、イスラエルの行動が「しかたなかった」と評価される流れになっても不思議じゃない。
もっと倫理的な対応を求めるなら、国際社会が自分たちで動いて、ガザを非武装化したり、多国籍軍を派遣したりするしかない。でも実際には誰もそのリスクを負おうとしない。だから、結果的にイスラエルの「国を守る」という行動のほうが、現実に即した正当性を持ってるように見えてしまうんだと思う。
つまり、批判は簡単だけど、その先の責任を取ろうとする人がいない。だからこそ、イスラエルの主張や行動のほうが「通ってしまう」状況が生まれてるんじゃないかな。
fatpapa 10/7のテロは悪だが長年国際法違反して入植地を広げパレスチナ人の土地を奪い殺し投獄してきたのはOK?5万人以上虐殺してハマスの拠点が殆ど見つかってないのに人間の盾?パレスチナを国と認めアラブ人を人と認めろよ
その主張をするなら、まず現実を見てくれ。
日本はパレスチナを「国家」としては公式に承認していない。日本政府の立場は、あくまで「将来の二国家解決を支持する」というものであって、現時点でパレスチナを独立国とみなしてはいない。つまり「パレスチナ国家を認めろ」という訴えは、日本政府の基本方針ともズレている。
さらに言えば、日本はイスラエルと安全保障・防衛技術の分野で協力を進めている。たとえば自衛隊とイスラエルの国防企業との間では、サイバーセキュリティ、無人システム、センサー技術などでの提携が進行中で、外務・防衛の両レベルで定期的な協議も行われている。イスラエルが国際法違反しかしていない「非道な存在」なら、なぜ日本を含む先進国がここまで協力しているのか?
感情論をぶつける前に、少なくとも国際政治の現実と日本の立ち位置を把握してから話をしてくれ。
これではっきりしたと思うけど、本当にイスラエルが悪いと思ってるなら手の届くところにやるべきことがあるんだよ。ワイドショー感覚のはてな民は絶対に動かないだろうけどさ。
頑駄無がど〜の、
乃木坂がど〜のって、
あーだこーだ言うてる連中っちゅうんはやなぁ
ほれ、
あの凍りついた就職氷河期に、
もろ直撃してもうた かわいそうな世代の、
せやろ? そないな身分で ギリギリ食いつないでる人らやんか?
ほんまにやで…
底なし沼みたいに ずぶずぶ 深ぁ〜〜くて、
「どないしたら そない闇深なるねん?」って、
聞きたなるくらい おっそろしい。
そやけどな、
ワイはホンマ 神さんに手ぇ合わせて拝みたいくらい、
心の底から 胸なで下ろしてるねん。
──せやせや、
戦後の焼け野原から奇跡の復興を遂げ、世界第二の経済大国に上り詰めたというのが日本人の自慢話だが、その「経済発展」とやらは果たして本当に中身のあるものだったのか。冷静になって考えてみればわかるだろう、日本の成長は自前というより他力本願、実体より見せかけに支えられきただけだ。
日本人は日本の戦後復興と高度成長を語るとき、「自助努力」だけを強調するが、実際にはアメリカという強力な後見人の存在があったからにすぎない。敗戦直後、占領下の日本にはGHQによる多額の資金援助が注がれ、固定為替相場制(1ドル=360円)の下で輸出振興の下地が整えられ、1950年に勃発した朝鮮戦争では「特需」と呼ばれる大量の米軍発注が日本経済を潤し、これが完全復興への端緒となったのだ。要するに、日本は「発展した」というより「発展させてもらった」面が大きいのだ。ネトウヨはよく「朝鮮半島を発展させてやったんだ」というが、日本も「欧米に発展させてもらった」のだ。1960年代の日本の高度成長は、日米同盟なしには起こり得なかっただろう。米国の安全保障の傘の下、思う存分経済成長に邁進できたという構図であり、裏を返せば日本の「奇跡」は米国の戦略的寛容に支えられた他力本願の産物だったのだ。
もちろん、日本人自身の努力や数の多さやかつてはあった勤勉さも少しはあるが、少なくとも「俺たちの実力で世界を驚かせた」という自画自賛は恥ずかしいのでやめるべきだ。高度成長を陰で支えたのは、米国市場という巨大な需要先と資金・技術支援、そして安価な労働力と国内の高貯蓄率(今の中国と似た構造。中国は日本を反面教師にする必要がある)。日本は自ら飛んだというより強力な追い風に乗って舞い上がった風船なのだ。
今は怠け者で知られる日本人はかつては勤勉で生真面目、サービス残業もいとわず働く世界でも評判の勤労民族だったが、その労働生産性の実態はといえば残念ながら芳しくなく、統計をひもとくと、1970年代以降の日本の時間あたり労働生産性は先進国の中で常に最下位という不名誉な記録を更新し続けている。2020年時点でも日本の時間あたり労働生産性は49.5ドルとOECD加盟国全体でも圧倒的最下位。つまり、日本経済は戦後一貫して「効率の悪さ」で世界トップクラスだったわけだ。高度成長期は追い風といえる要素に満ち溢れていたため、その弱点も見えにくくなっていたものの、90年代以降はIT化の遅れなども相まって諸外国との差が拡大し放題となっている。
長時間働いても生み出す付加価値が低いのでは、経済が豊かになるはずがない。日本人は人口増が確実視された時点においても一貫して生産性という肝心の成果をおろそかにしてきた。おかげで「働きバチ」のを自称し、平成時代までは実際そうでありつつも、実はハチミツの生産量は先進国でビリなのだ。 他国が効率化とイノベーションで着実に成果を上げる横で、日本だけが生産性停滞の沼にハマり続けている。それなのに日本人はうぬぼれているのだ。
日本経済の実態をもう少し長いスパンで眺めていくと、主要な実体経済指標は1970年代をピークにその後低下の一途をたどっている。あの見せかけの繁栄におぼれた1980年代後半、日本が世界で「ジャパン・アズ・ナンバーワン」(笑)ともてはやされた時期でさえ、実は経済成長率やインフレ率といったリアルな指標は高度成長期の70年代より低水準だったのだ。急激な円高後のカネ余りで株価と地価が暴騰し、日本があたかも世界一裕福に見えたのは錯覚に過ぎなかったのだ。つまり、見かけの資産価格は派手に跳ね上がっても、日本経済のエンジンそのものは既に昭和の時代に回転数の限界を迎えていたわけだ。 高度経済成長のピークが70年代だったとすれば、その後の平成・令和期の停滞ぶりにも合点がいきます。事実、1989年末に日経平均株価が史上最高値を更新して日本経済が「歴史的ピーク」に達した後は、泡がしぼむように停滞が続いている。
結局、日本経済の実質的な力は1970年代に頂点を迎え、その後は長い停滞期に入ったと見るのが妥当だろう。高度成長を成し遂げた昭和は遠く、平成以降は晴れ間の少ない停滞の時代。1980年代のバブル期に世界一リッチに見えたのも、実体経済が伴わない見せかけの繁栄。そのツケは日本人が平成以降に味わった停滞という形で帰ってきている。
1980年代後半のバブル景気は、日本経済史上もっとも華やかで浮かれた時代だった。地上げや財テクに浮かれ、土地と株式の価格は天井知らずの上昇を続ていたのだ。その狂乱ぶりはテレビでも見てわかる通りだ。例えば1985年から1990年にかけて地価は約400%も上昇し、日経平均株価のPERは80倍から直前には100~200倍という異常な水準に達していた。何が言いたいかというと、実体経済の裏付けなどまるでない「バブル」という名の幻影だったのだ。 当然、このバブルは1990年代初頭に見事に弾け飛んだ。当たり前だ。「平成景気」という名の打ち上げ花火が消えた後に残ったのは巨額の不良債権と、下降線をたどる経済成長率だ。1989年末の株価最高値を境に、日本経済は長期停滞のトンネルに突入することになったのはもはや語るまでもないだろう。
バブル期にはまるで自分たちが世界を席巻する経済超大国になったような気分に浸っていたものの、それは砂上の楼閣に登った気分だったのだろう。後に残った実体経済の疲弊を見るにつけ、あの繁栄がいかに中身の乏しい見せかけであったかを痛感させられる。 バブルの絶頂期、日本企業は世界中の不動産や美術品を買い漁り、「ジャパンマネー」がもてはやさされたという。しかし、それで得た栄光は永続的なものではなく、気がつけば日本経済は地に足がつかないまま宙ぶらりんの状態だったのだ。資産価格の幻影に酔いしれたツケとして、その後の「失われた数十年」を甘受するハメになったのは当然の帰結だ。
バブル崩壊後、日本の政策当局は景気テコ入れに躍起となったが、その数々の処方箋は結果的に何一つ功をなすことはなかった。1990年代には今の減税・バラマキポピュリスト達が喜びそうな大型の財政出動や減税が何度も繰り返されたものの、景気は一向に本格回復せず、未来へのツケである政府債務だけが膨れ上がった。結局、バブルで抱え込んだ民間企業の過剰債務を政府が肩代わりしただけで終わり、景気浮揚には無力だったのだ。
今の減税ポピュリストや給付金ポピュリストが教訓とすべきことでもある。「借金で借金を救う」ような政策では、問題の先送り以上の成果望めなかったのだ。 ゼロ金利政策や量的緩和といった金融緩和策も導入されたものの、デフレは2000年代まで深く根付いた。そして現在に至るまで日本経済は低成長から脱却できていない。気付けば、経済政策は場当たり的な景気刺激策の継ぎ接ぎだらけで、一貫した成長戦略や構造改革は国民が反発することもあり、実行されなかったのだ。
その間にも少子高齢化は進行し、生産年齢人口は減少、国内市場は縮小と、構造的な課題が山積している。 海外からは日本の政策対応は手厳しく嘲笑されてもいたことはご存じだろうか。世界が90年代以降の日本を語る際に「日本化(Japanification)」という言葉が生まれたほどだ(参考→https://en.wikipedia.org/wiki/Japanification)。それは「不況下で有効な改革をせず、無駄な公共事業で延命を図る現象」を指すもので、改革よりも道路や箱物を作り続ける日本の政治家を「無為な政治家」として揶揄するものだ。
あまり言いたくないが、日本経済の停滞を語るとき、忘れてならないのは日本社会・国民のメンタリティだろう。政治家の政策ミスを批判するのは容易なのだが、民主主義国家において政治家は国民の鏡だ。政治家は国民を望む政治をやる。嫌がる政治はやらない。政治家が一番嫌うのは「落選」だからだ。ゆえに、ほぼ日本人が自らの手で衰退させたともいえる。もちろん、日本人の気質そのものにも問題ある。「変化を嫌う」風土、物事を深く考えず前例通りに済ませようとする思考停止状態、失敗を恐れる風土、迷惑に不寛容な風土、出る杭を打つ文化、人の足を引っ張る文化、高度経済成長期の成功体験に固執する傲慢さが、日本の停滞を長引かせた要因だろう。 実際、多くの日本企業や組織では予定調和や前例踏襲が幅を利かせ、新しい発想や議論を避け、排除する。その結果、変革が避けられない状況でも無自覚に「今まで通り」のやり方に固執し、いたるところで思考停止に陥っているのだ。しかも厄介なことに、そうした楽で無自覚な現状維持志向こそが日本経済低迷の発生源なのである。
国民一人ひとりを見ても、急激な変化の痛みを恐れて結局は現状にしがみつく。または「義務を果たさないくせに権利ばかり主張する」 、「生産性が低いのにもかかわらず働かない」というそんなゆでガエル的な集団心理が、日本の停滞を固定化しているのだ。変化や痛みを避け続けた結果、気づけば茹で上がっていたカエルよろしく、取り返しがつかないほど実体経済が冷え切ってしまったのだ。
かつては世界第二位のGDPを誇り、現在も4位を維持している状態を見て「経済大国日本」と胸を張っているネトウヨがあまりにも多いが、ふたを開ければその先進国ブランドも風前の灯火だ。例えば一人あたりGDPで見ると、近年の日本はOECD加盟国中22位まで順位を落とし、韓国にも台湾にも追い抜かれた。1980年以降で最も低い順位で、もはや経済指標上は「一応先進国」と呼ぶのもはばかられる。
かつて恐れられた日本経済が国際舞台のスポットライトから消え、「存在感の薄い国」に成り果てつつあるのが現実だ。 日本が世界に誇っていたはずのものが、気が付けばことごとく色あせている。かつて最先端だった技術・産業は存在感を失い、盛り返す気配すらなく、平均所得は停滞し、気力も勢いも感じられない。これでは「かろうじて先進国」と揶揄されても仕方がないでしょう。国際機関の統計を眺めれば、日本より豊かな国・地域に住む人々はもはや十億人規模にも上る(日本同様に数の暴力で豊かに見えてる中国は違うからね)。もはや日本は特別裕福な国ではなく、世界の中ではアルゼンチン二世的な立ち位置に落ち着きつつあるのだ。 <h3>o- *</h3>
結局のところ、最も根源的な「劣悪材料」とは、失敗から学ぶ能力の欠如である。「失われた30年」 は、経済的課題に対する30年間のほとんど失敗した、あるいは不十分な対応の歴史である。今の日本人はその過ちをさらに取り返しのつかなくなるような形で繰り返そうとしている。社会の変化への抵抗 や構造改革(社会保障改革や労働市場や規制緩和など)への抵抗は、その必要性が明白であるにもかかわらず、根強く残っている。国家や国民が自らの失敗を批判的に評価し、そこから学び、意味のある変化を実行できないのであれば、その最も基本的な「材料」、つまりは、自己修正と進歩のための能力は、まさに「劣悪」であると言わざるを得ない。日本は今後立ち直ることはないだろう。
ChatGPT:
こんにちは、***。おかえりなさい。今日はどんなサポートが必要ですか?
あなた:
今日は、川端康成の雪国の素晴らしさを説明してください。私は情景の表現能力が素晴らしい所に、多くの人の評価を得ていると思ったのですが、如何でしょうか。
ChatGPT:
こんにちは、***。いい問いですね。「雪国」は川端康成の代表作であり、彼が1968年にノーベル文学賞を受賞する大きな要因となった作品です。あなたの感じておられる「情景の表現能力」についての評価は、まさにその通りで、多くの読者・批評家がそこに川端の美学を見ています。
雪国の素晴らしさ
1. 詩的な情景描写
この冒頭の一文からも分かるように、川端はごく簡素な言葉でありながら、読者を瞬時にその世界に引き込む描写力を持っています。雪の冷たさ、静けさ、孤独、そしてその中にある人間の温もりが、視覚・聴覚・触覚的に伝わってくるのです。
雪国の厳しく美しい自然は、登場人物たちの内面の寂しさや情熱と強く共鳴しています。川端は風景を単なる背景にとどめず、人物の心の状態と呼応させて描くのが非常に巧みです。
日本的な「わび・さび」や「無常観」が全編を通して流れており、それが登場人物の関係性(島村と駒子)にも反映されています。決してはっきりと語られない思い、交わらぬ心、それでも一瞬の交差にある美しさ。それを淡く儚く描く手法は、世界文学の中でも特異なものとされています。
川端の文章は冗長さがなく、非常に簡素です。しかし、その中に緻密な観察と繊細な感情の流れが込められており、日本語の持つ曖昧さや余白の美を活かした文体が評価されています。
***がおっしゃるように、「情景の表現能力」はまさに川端文学の核心であり、彼の描写によって読者はまるで雪の中に立っているような臨場感を味わいます。この視覚的・感覚的な豊かさが、「雪国」が高く評価される大きな理由の一つです。そしてそれは、言葉だけではなく、沈黙や行間にも宿る表現の美しさでもあります。
ご希望があれば、「雪国」の中の具体的な場面を取り上げて、情景描写を詳しく読み解くこともできますよ。
どの場面に興味がありますか?
あなた:
駒子との会話の表現に、性的魅力を潜ませていた部分が有ったと思います。そこで説明してもらえますか?
ChatGPT:
とても鋭いご指摘です、***。
川端康成の『雪国』における駒子と島村の会話には、直接的な描写は少ないものの、微妙な言葉の選び方や仕草、間合いを通して、明らかに性的な魅力や緊張感が漂っています。それは決して露骨ではなく、むしろ抑制された美しさの中に潜ませることで、読者に深い印象を残す手法となっています。
駒子は芸者でありながらも、どこか純粋で真っ直ぐな性質を持っています。島村との会話の中で、彼女は冗談を交えながらも、距離を詰めようとする素振りを見せます。その中に、読者は彼女の身体性や情念の強さを感じ取るのです。
「あなたって、ほんとうにいやな人ね。」
このような言葉は一見、怒っているようですが、背景には甘えや関心の裏返しがあり、そこに親密さや性的緊張感が潜んでいます。
川端は駒子の身体を直接的には描写せず、所作や衣擦れ、髪や肌の質感などを通して、その存在感を伝えます。例えば以下のような場面。
「駒子は浴衣の裾をはだけながら、ふと見せた足を引っ込めた。」
こうした一瞬の動作の描写と、それに続く何気ない会話とがセットになることで、読者の中に淡く性的な気配が生まれます。会話自体は日常的であっても、その沈黙や目線の動きが情念を代弁しているのです。
駒子は次第に島村に心を許していき、自分の不安や哀しみを吐露します。ときには自虐的に、そしてときには感情的に揺れ動く駒子の言葉には、島村への強い愛情と肉体的な渇望が滲みます。それが、単なる恋愛感情を超えた、人間的な「求め」の深さを感じさせるのです。
川端は「エロス」を露骨には書きませんが、「美しいものとしてのエロス」を描くことに長けていました。駒子の色気や女性性は、島村との淡い会話の中で時折顔を出します。それはあたかも、雪の中に赤く灯るこたつの火のように、はっきりとは見えなくても、存在感があるのです。
もしご希望でしたら、特定の章やセリフを引用して、さらに細かく分析してみましょうか?
あなた:
今のところは、この説明で充分です。また後程伺うかもしれません。
ありがとうございました。
ChatGPT:
『雪国』のような作品は、読むたびに新たな美しさや深さが見えてきますので、またいつでもお声がけください。お待ちしています。
どうぞよい時間をお過ごしください。
氷河期世代はかなりの高確率で普通自動車免許を持っており、また取得時期が昔なのでその免許で中型トラックも運転可能。
大型の長距離は無理だが、ラストワンマイルや短中距離輸送の人員不足を賄ってくれるはずだ。将来的には自動運転でシュリンクする業界だが、シュリンク出来るまでの時間稼ぎにもなるお得な施策。
コメを筆頭に後継者不足が激しくこのままではコメすら自給出来なくなる。ノウハウ伝授は必要だが氷河期世代を活用することで15年は食料自給率を維持できるはずだ。
下水道やトンネルの維持管理に活用する。こないだの八潮道路陥没事故で明るみになったが、既存のインフラ維持管理の人手がとにかく足りない。維持管理に必要な技術革新はまだ時間がかかる。これも氷河期世代の人手を活用することで15年は寿命を延ばせ、技術革新の時間を確保することが出来るはずだ。
「これらは真っ当な職ではないのか?」と言い返してあげよう。
春の雨が止んだ夕暮れ、就活帰りの芽衣は傘をたたみながらマンションの前で深呼吸した。二十四歳の兄・俊と二十二歳の芽衣は、この四月から一緒に暮らしている。きっかけは単純だった。東京での部屋探しに行き詰まった芽衣が「お兄ちゃんと住めば安心だよね」と漏らし、俊も「俺も一人よりは助かる」と応じた。
けれど本当の理由はもっと根の深いもの――幼い頃から続く、互いへの依存だった。
両親は共働きで家を空けがちだった。小学三年生の夜、芽衣が高熱で泣きじゃくったとき、俊は水枕を作り、額に貼る冷えピタを薬箱から探し出し、朝まで横に座っていてくれた。芽衣の記憶に焼き付いたのは、熱と寒気より、そのとき握り返された手の温度だった。それ以来、芽衣は何かあれば兄を呼び、俊は呼ばれずとも飛んできた。
進学で一度は離れたものの、電話やメッセージで毎日状況を報告し合い、些細な決断――夜食のカップ麺を選ぶ程度のことすら相談してきた。だから同棲は自然の成り行きに思えた。
だが生活が始まってみると、ふたりの「自然」は常識から外れていた。芽衣は朝、俊が淹れるコーヒーの香りでやっと目を覚まし、俊は芽衣が帰るまで晩ごはんに箸をつけない。スーパーの特売日にふたりの予定が噛み合わず買い物へ行けないと、冷蔵庫が空になってもインスタント食品を買おうとはしなかった。
居間の壁に掛かったホワイトボードには、緻密なタイムテーブルが書かれている。起床、出勤、帰宅、入浴――歯磨きの時間までびっしり。同じタイミングで同じことをし、同じシーンで笑い、同じ場所が好き。予定の空白はふたりの不安を刺激するから、徹底的に埋められていた。
五月初旬、俊の職場で飲み会があった。「二次会はどう?」と誘われた俊は時計を見た。芽衣が面接で遅くなる日だから、帰宅時間は二十二時を超える。ホワイトボードの「二十一時・再集合」に間に合わない。
結局、俊は一次会で席を立った。彼のスマホには芽衣からの「着いたよ。緊張で吐きそう」というメッセージが届いていた。俊は駅まで走り、改札口で妹を見つけると、背筋が緩んだ。芽衣も兄の顔を見てやっと笑う。互いの不安を打ち消すのは、相手の存在だけだった。
けれど社会はふたりの都合で動かない。六月、俊は大手クライアントとの打ち合わせを命じられた。地方支社で二泊三日。部長は「滞りない進行には君が一番」と微笑んだが、俊の心臓は縮む。出張当日の朝、芽衣は無理に笑顔を作り「お土産、黒豆饅頭でいいよ」と言ったが、声は震えていた。
新幹線がトンネルに入るたび、俊のスマホは振動した。家事の手順、ゴミの分別、炊飯器のスイッチ――芽衣からの質問が止まらない。返信しなければ妹が泣く気がして、商談の資料に視線が定まらない。結局、俊は二日目の夜に発熱し、上司に許可を得て一日早く帰京した。マンションの玄関に崩れた俊を抱きしめながら、芽衣は「ごめんね、私が弱いから」と嗚咽した。
事件は七月に起きた。芽衣の内定先から「配属先は名古屋支社」と連絡があったのだ。面談室で通知を受けた瞬間、芽衣の視界は真っ白になり、そのまま過呼吸で倒れた。搬送先の病院に駆けつけた俊は、点滴台のそばで涙を拭う妹に「大丈夫。辞退しよう」と囁いた。
ところが医師は「お兄さんも一緒に暮らしているの? 少し病的な依存があるね」と指摘し、心理カウンセラーを紹介した。俊は反発した。自分たちは家族だ、助け合っているだけだ、と。しかし芽衣はベッドで顔を覆い「私たち、普通じゃないのかな」と震えた。
カウンセリングは八月から始まった。最初の面談で、カウンセラーは白紙のメモに縦線を引き、左に「俊くんの人生」、右に「芽衣さんの人生」と書いた。
セッションでは宿題が出た。「週に一度、互いに相談せず決断してみる」。芽衣は美容院を予約し、俊は映画をひとりで観に行った。初回はどちらも胸が締めつけられ、スマホを何度も開いたが、二回目、三回目と回数を重ねるうちに、未知の風が入り込む感覚が芽生えた。
九月の終わり、俊は職場の同期・沙織に誘われて、趣味のランニングサークルに参加した。芽衣は週末に同僚と鎌倉へ日帰り旅行に出た。リュックに兄の分の水を入れなくてもいい身軽さと、砂浜を歩きながら響く潮騒が、彼女の胸を満たす。夕暮れ、集合写真を撮る頃には、兄に報告しなければという焦りが少し薄れていた。
一方、俊のスマホに届いたのは芽衣の「海の写真だよ。お兄ちゃんも走るの頑張って」。文章の終わりにハートマークはなかった。それを見て、俊は短い安堵を覚えた。
秋が深まり、マンションの壁に貼ったホワイトボードは半分が空白になった。芽衣は自室の本棚に就活で読んだビジネス書を並べ、俊はキッチンに好きなミュージシャンのポスターを貼った。カウンセラーは「良い変化ですね。境界線は線ではなく、ゆるやかなグラデーションでいい」と微笑んだ。
相変わらず同居は続いている。ただ、食卓の椅子は向かい合わせではなく、斜めに配置した。視線を逸らせる角度が必要だと気づいたからだ。
十二月、ベランダに出た兄妹は凍る夜気に肩を寄せた。街のイルミネーションが遠くで瞬く。「来年、名古屋に行ってみようかな」と芽衣がぽつりと言う。胃の奥が冷たくなる感覚に俊は怯えたが、すぐには首を振らなかった。
それが、自分の言葉として驚くほど自然に出た。芽衣は小さく笑い「まだ怖いけど、そう言ってくれると少し平気」と答えた。
ふたりはまだ完全に自立したわけではない。深夜に悪夢で目覚めれば、どちらかの部屋の灯りがつく。だがドアをノックし、一拍置いてから入るようになった。ささやかな境界が、互いを守るフェンスになっている。
年明けには、またボードを更新する予定だ。今度は空白を恐れず、余白のまま壁に残すつもりだと俊は言った。芽衣も頷く。余白には、ふたりそれぞれの未来が描き込まれるはずだ。
兄妹で同棲することにした――その選択は、依存の檻にも、再出発のアパートにもなり得る。どちらにするかは、これからの彼ら次第だ。