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非国民通信

ノーモア・コイズミ

民主党マニフェストがいかにいい加減なものだったかが改めてはっきりした

2011-02-27 23:37:33 | ニュース

子ども手当2万6千円、「議論当時びっくり」 首相答弁(朝日新聞)

 菅直人首相は24日の衆院本会議で、民主党が2009年衆院選マニフェスト(政権公約)で子ども手当の支給額を月額2万6千円としたことについて、「議論がなされている小沢(一郎)代表の当時、ちょっとびっくりしたことを覚えている」と答弁した。党代表の首相が公約の実現性に当初から疑問を持っていたことを自ら示した発言だ。

 民主党のマニフェストでは、小沢代表時代の07年参院選以降、子ども手当は月1万6千円から2万6千円に増額された。この日の本会議での首相の発言は、社民党の阿部知子政審会長が「現実の財政状況で満額支給は当面不可能」などと問いただしたことに答えたもので、議場は一時騒然となった。

 野党は反発し、自民党の谷垣禎一総裁は「小沢さんが提案したものだから責任を負わないぞ、と言っているように聞こえた。無責任極まる発言だ」と指摘。公明党の石井啓一政調会長も「民主党マニフェストがいかにいい加減なものだったかが改めてはっきりした」と批判した。

(中略)

 一方、首相周辺は戸惑う。岡田克也幹事長は「最終的に我々はマニフェストを選んでおり、びっくりしたけど合意したということだ」。政府高官は「首相は正直なのだが、本当のことを言ってはいけない時もある」と漏らした。

 そりゃまぁ、私だって民主党の公約の実現性には政権交代前から疑問を呈してきたわけですけれど(財源もさることながら民主党の「本気」に疑わしい部分が感じられましたから)、当時から民主党の幹部であった人間にそれを言われたくはないものです。経済系の言説がそうであるように、とかくお金の動くところほど根拠などなくとも力強く断言してしまえばそれで済まされるところがありますが、首相にしてこの体たらくなのですから日本が凋落を続けるのも当然の帰結でしょう。とりあえず明らかになったのは、菅直人が実現性に自らも疑問を感じている公約を掲げて、有権者に支持を訴えてきたということです。もっとも有権者側に民主党の公約の実現性を判断する材料が与えられていなかったかと言えば決してそんなことはなかったわけで、有権者は「騙された」のではなく、ただただ考えることを止めて「信じた」のだと見るべきだと思います。

 

岡田幹事長に怒声=神奈川県連パーティー―民主(時事通信)

 民主党の岡田克也幹事長が25日、横浜市内で開かれた党神奈川県連のパーティーで出席者から激しいやじを飛ばされ、会場内が騒然となる場面があった。菅直人首相の政権運営や小沢一郎元代表の処分をめぐり党内対立が先鋭化する現状に、統一地方選を控えて危機感を強める地方組織が不満を爆発させた形だ。

 岡田氏があいさつで、衆院選マニフェスト(政権公約)の見直しに理解を求めたのに対し、「マニフェストを守れ」「挙党態勢ちゃんとやれ」などと怒声が上がった。これに対し、岡田氏も「誰が見てもできないことをいつまでもできるというのは、まさしく国民に対する不正直だ」と、開き直って応酬した。 

 さて、冒頭のニュースで岡田は「最終的に我々はマニフェストを選んでおり、びっくりしたけど合意したということだ」と述べています。しかし、岡田自身が別の会場で見せたマニフェストへの姿勢はどうでしょうか? 曰く「誰が見てもできないことをいつまでもできるというのは、まさしく国民に対する不正直だ」とのこと、産経新聞のように民主党を目の敵にしている新聞ではなく、簡潔すぎて退屈な報道が特徴の時事通信からさえ「開き直って応酬した」と書かれてしまう有様です。岡田もまた幹部として「合意した」はずのマニフェストを反故にすることを、屁とも思っていないことがわかります。

 ただ世論調査が示す結果を見る限り、民主党の掲げた公約は決して有権者の支持を集めたものではありませんでした。幅広く支持されたのは一部の公務員叩き的なものだけで、子ども手当のような類は賛否両論がいいところだったはず、むしろ公約実現のための手段、財源捻出のための手段として掲げられた「ムダ削減」の方にこそ有権者の期待は寄せられていたわけです。だから菅内閣のマニフェスト撤回の動きは必ずしも民意に反するものとは言い切れないのですが、とはいえ自らが有権者に約束してきたものを軽々しく撤回するような政治家が非難されるべきなのは当然でしょう。ましてや、その約束が実は自らも実現の可能性を疑わしく思っていたものとあらばなおさらです。選挙と求人広告には嘘が許されるのが慣例ですけれど、実現不可能とわかっているものを「できる」と言って契約を迫るとしたら、それは詐欺以外の何者でもありません。

 岡田は自党のマニフェストを「誰が見てもできないこと」と語っています(外国人地方参政権とか民法改正とか、財源とは無関係な公約はいずこへ?)。それは政権交代前から同じであったはずなのに、今になって「誰が見てもできない」などと言を翻すのはどうでしょうか。選挙で国民に嘘を吐いたことの責任を取って政界から永遠に身を退こうとする段階での発言なら理解できますが、今後とも閣内に居座ろうとしている人間がこれを口にするのですから呆れるほかありません。岡田には「誰が見てもできないこと」を有権者に約束した、その詐欺行為の責任が問われてしかるべきです。

 しかるに最悪なのは、菅内閣を追い落としたところで、それに取って代わるのは「さらにタチが悪い」連中であろうということでもあります。往々にして現状の停滞感に乗じた台頭してくる連中は、その前任者以上に有害な破壊者ばかり、政権は「変えれば変えるほど悪くなる」のが実情です。しかも昨今では台頭著しいポピュリストに靡いているのが無党派層とは限らない、名古屋市長選でもわかるように既存政党支持層、とりわけ民主党支持層がポピュリストに靡く傾向も強まっています。民主党内の現執行部に反発している勢力もまた、「維新」と称して河村や橋下の類と連携を模索する動きが盛んです。あの菅よりもタチが悪い連中が勢力を伸ばそうとしている政治って何なんだろうと嘆息せざるを得ません。まぁ「誰が見てもできないこと」を掲げた党に投票してしまうような有権者なのですから、次もロクなのを選ばないこと請け合いです。

 

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目指してる未来が違う

2011-02-25 23:29:51 | 非国民通信社社説

 とかく経済的な豊かさというものはネガティヴに語られます。世界の中で日本だけが成長を止め、貧困化が進んで久しい現在もなお「成長のツケ」だの「豊かさの弊害」といった類の言説は頻繁に、そして得意気に繰り返されてきました。経済的な豊かさは、何か他の(日本人にとって)大事なものを損ねる負の要因として位置づけられてきたわけです。経済的な豊かさよりも精神的な豊かさの方が大事だ、そういう理想を追求してきた結果として今に至るのかも知れません。この十数年来の経済停滞は、理想へと近づく過程でもあったのでしょう。

 我々の社会が経済的な豊かさを否定して精神面の豊かさを追い求める中、貧しくとも心だけは豊かな人が増えてきたように思います。つまり、実態として経済的には貧困だけれど、心は富裕層もしくは経営層である、そんな人が多いのではないでしょうか。いかに貧しくとも富裕層の心は失わない、そうして高所得者の視点もしくは経営者の立場からしか物事を見ない、心は(経済的に)豊かな人が多いわけです。ネット世論上は元より、市井の人々もまた金持ちや経営側に有利な政策を実行してくれる人々を積極的に選び取るなど、貧困化が進む中でこそ「心は豊か」な人が増えているように感じます。

 こうした傾向を「気分はエグゼクティヴ」と呼びたいと思います。つまり、どれほど貧しくとも気分だけはエグゼクティヴ、富裕層や経営者の視線を失わない人が、昨今の日本では多数派を形成しているわけです。心までは貧困層とならない、心だけはエグゼクティヴクラスであり続ける、そうした人が多いのではないかと。先日は「プラヴダ主義経済学」というエントリを上げましたが、「プラヴダ主義」とでも呼ぶほかないトンデモが受け入れられる背景には、何かにつれ世論が経営者目線に寄り添っていることも大きく影響しているはずです。経営者の立場でしか物事を考えられないからこそ、経営側の都合だけを一面的に語る言説に共感してしまう人も多いのではないでしょうか。

 日本の経済言論の特徴を一言で表すとしたら何か、実はプラヴダ主義経済学と呼ぶ代わりに、もう一つ別の候補もありました。総じて日本の経済思想とは、日本の主流派の論者が曲解しているところのマルクス主義を逆転させたものでもあるように思います。つまり、極めて階級闘争的でありつつ、資本家の立場から労働者――とりわけ正社員なり労働組合なり――を打倒すべき階級敵と見なすわけです。現に労組を敵視した不当労働行為や労組加入者を標的とした不当解雇の事例には事欠きませんし、経済系の論者は(そして気分はエグゼクティヴな賛同者も)挙って雇用の問題は雇用主ではなく労働側に責任があるかのごとく語り、正社員や労組が既得権益を手放さないから悪いのだ、学生が選り好みするか悪いのだと説いてきました。この逆転した似非マルクス主義こそ日本の経済言論における支配的なイデオロギーであり、謂わば「逆マル派」とでも呼ぶべき人々によって牛耳られていると言えそうです。

 正社員や労組を既得権益云々と呼んで敵視し、そのせいで改革が進まないと説く人は枚挙に暇がありません。そこに僅かでも真実があるというのなら、正規雇用率の低い小売や飲食業界が日本経済を牽引していてもおかしくはないですし、労組が企業ごとに細かく分割されており、それ以前に組織率が際立って低い、労組など存在しない企業が大半を占める日本こそが世界で最も改革の進んだ国家となりそうなものです。にも関わらず「改革が足りない」かのごとく語る論者の絶えることがない辺りに、いかに日本の経済言論が現実に適合しないものであるかを感じずにはいられません。

 経済的な豊かさを否定する日本は何を目指しているのでしょうか。営利企業は当然のこととして利潤を追うものです。しかるに国全体の経済のパイを増やすこと、すなわち経済成長が歓迎されない中、企業利益を伸ばす方法として選ばれたのは、労働者の取り分を会社側に移すことでした。売上を減らしてもなお、それ以上にコストを削る、人件費を中心にコストを削ることで会社の利益を増やす企業が続出しています。これは労働者を階級敵と見なす「逆マル派」にとっても、理想に近づく一歩であるのかも知れません。経済成長による企業利益の最大化よりも、階級敵の打倒=従業員の利益の最小化=人件費削減を軸にしたコストカットを優先してきたのが日本的経営というものですから。

 日本だけが世界経済の成長から完全に取り残されているのは、別に日本人が劣等だからではなく、目指している未来が違うからだと、そう考えるほかありません。経済的な豊かさには背を向け、精神的な豊かさを追い求める、その中では必然的に実利よりもイデオロギーが幅を利かせ、経済誌に載せられた「逆マル派」の空疎なプロパガンダが現実よりも優先される――このような現状を指して「プラヴダ主義経済学」と呼びたいわけですが――そうして現実に立脚「しない」政策が次々と押し通され、日本だけが停滞を続けて来たわけです。それでもイデオロギーを優先し続けるのが日本的経営なのでしょう。結果を出すことよりも、自らの正しさを証明することの方に力点が置かれているとも言えますね。

資本主義国のおとぎ話は「昔々、あるところに」で始まる
社会主義国のおとぎ話は「いつか、どこかで」で始まる。

 これはソヴェト時代のジョークですけれど、では日本の、逆マル派のおとぎ話はどうでしょうか? 現代日本のおとぎ話は「いつか、誰かが」で始まります。誰か正義のヒーローが現れて、悪い奴をやっつけてくれることを待ち望む、それこそ日本の多数派が示す民意であるように思われます。その願いを託す対象が小泉純一郎であれ小沢一郎であれ橋下徹であれ、「いつか、誰かが」悪い奴をやっつけて、それで世の中が良くなってくれることを待ちわびているという点では変わりがありません。ヒーロー役と「悪い奴」の役が異なろうとも、「いつか、誰かが」で始まることには変わりがないのです。

 そもそも労組とは何かと考えたときに、個人では立場の弱い人が「自分を守る」ために寄り集まったのが労働組合だと書いたことがあります(参考)。そしてこの労働組合は、何かにつれ敵視されがちです。たぶん「いつか、誰かが」で始まる逆マル派のおとぎ話とは、最も相容れないものなのでしょう。だって労組とは寄り集まることで「自分(たち)を」守るものですから。しかし逆マル派が期待しているのは「誰か」が助けてくれることです。自分を守るためではなく、他人のために戦ってくれてこそヒーローと考えている人にとって、自分たちを守るために戦う組織というものは悪玉に他ならないのです。

 「誰か」に期待するってことは、要するに「他人のため」の行動に期待すると言うことです。だから自己のためではなく他人のために戦ってこそヒーローとして世論の支持も集まる一方で、逆に自分自身を守ろうとしている人々は打倒すべき悪として位置づけられます。ではヒーローとして、他人のために戦う証として求められるのは何か、まず求められるのは自分自身の利益を手放すことなのかも知れません。自らの報酬を削減するなど自己犠牲を払う姿勢をアピールできれば、己のためではなく世のため人のために戦う存在として認知され、その攻撃の対象が何であろうと善意に解釈される、他人に同様の自己犠牲を強いることすら正義として扱われているようですから。その一方で自らの権利や利益を手放さない、反対に守ろうとしている人々こそが打倒すべき階級敵として扱われるわけです。その権利を手放せ、と。

 かくして貧しくとも心は豊かな、気分はエグゼクティヴな人々によって逆マル派の空疎なプロパガンダは大いに称揚され、現実ではなくイデオロギーに沿った政策が繰り返される、そうして継続される沈滞の中、人々は「いつか、誰かが」悪い奴をやっつけてくれることを信じて、自分たちを守ろうとしている人々に怨嗟の声を向け続けます。そしてグローバル化する世界が浮沈を繰り返しつつも発展する中、日本のガラパゴス化は大いに進み、類を見ない新興衰退国として、そこに住む人々は今後とも喘ぎ続けることでしょう。しかしこれは、日本人が望んだことでもあるように思われます。

 

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カッコーの巣の上へ

2011-02-23 23:02:36 | ニュース

<特集ワイド>ご存じですか? 20~30代で受診増「大人の発達障害」(毎日新聞)

 大人の発達障害が注目されている。これまでは子どもの障害とされていたが、大人になっても症状が残る人がいる。特に20~30代で発達障害を疑って受診する人が増えているという。大人の発達障害とはどのようなものなのか。

(中略)

 会を主宰する冠地情(かんちじょう)さん(38)は「発達障害の人の多くは、学校や会社で『努力が足りない』『相手の気持ちを考えろ』などと散々叱られ、自信をなくしている。自己肯定感を取り戻すことが重要です」と話す。

 熊谷みゆきさん(33)は、約20社で契約社員などとして働いたが、いずれも人間関係になじめず辞めた。幼いころから自分から人に話しかけられなかった。小学生の時に先生から「あの子に委員会があると伝えておいて」と頼まれたのに、話しかけるタイミングがつかめず伝え損ねて叱られたことを今も覚えている。

 昨年9月まで1年半、テレホンオペレーターとして勤務。比較的単純な受け答えが中心の間は何とかこなしたが、用件の予測がつかない社内の電話も受けるように指示された途端、うまくいかなくなった。相手の声が言葉として聞き取れず、伝言もあいまいな説明しかできなかった。

 何度注意されても改善できず、次第に朝起きるのがつらくなり、出社してもトイレに閉じこもる時間が増えた。昨年6月に発達障害と診断され、仕事を辞めた。一つよかったことは、人と違うことばかりする熊谷さんに絶縁を言い渡していた姉が、障害と分かってからは一番の理解者になってくれたことだ。

(中略)

 「大人の発達障害がわかる本」(洋泉社)を監修する吉祥寺クローバークリニック(備瀬(びせ)哲弘院長)を、発達障害で受診する人はここ2、3年で約2倍に増え、特に20~30代が多い。備瀬院長は「啓蒙(けいもう)が進み、メディアが取り上げる機会が増えたこと」を要因に挙げる。20~30代に多いのは、就職を機に問題が表面化することが多いからだ。

 発達障害は先天的に脳の機能が偏ることが原因で、知的発達に問題のないケースも多い。学生時代は成績も悪くなく、気の合う友達と付き合うだけでも済むため障害が見過ごされやすい。しかし、就職するとより高度な社会性や協調性、コミュニケーション能力が求められ問題が顕在化する。

 例えば児童虐待なんかが典型的ですが、実態は大差なくとも社会的な知名度が上がることで認知件数が飛躍的に増加することがあります。従来は水面下に隠れていたものが、急に顕在化し出すこともあるわけですね。そこで今回、発達障害の受診件数が急増していることが伝えられています。ただ記事が伝えているところを見ると、どうも受診件数が増えているだけであって、実際に発達障害として診断結果を下される人が増えているかというと巧妙に言葉が濁されているフシがありますので、その辺はちょっと怪しいところです。まぁ、急に発達障害の人が増えるはずもありません。確実なのは、自らを発達障害と疑うようになる人が増えているということです。

 引用元では「発達障害は先天的に脳の機能が偏ることが原因」とされていますが、こういう風に説明されると「誰だって偏っているに決まってるだろうが」と言いたくもなります。映画「カッコーの巣の上で」でジャック・ニコルソンが精神病院に収容され自由を奪われている患者達を指して、「町を歩いているバカどもと変わるもんか」と言い放つシーンがありますけれど、誰だって欠けているところ、抜けているところがあるわけです(それに無自覚な人は多いにせよ)。実際のところ、ちょっと尺度が変われば誰だって障害を持っているのではないかという気がしますね。

 一方で「就職を機に問題が表面化することが多い」、そして「(学生時代は)障害が見過ごされやすい」とも伝えられています。要するに学生生活を送る上では何の支障もない人でも、昨今の就業環境においては障害者となってしまうわけです。果たしてこれは、本人の障害の問題なのでしょうか? 超・買い手市場に甘やかされた雇用側が従業員に完全無欠であることを要求するが故に、職場で「欠陥」を露呈する人が増えているだけではないでしょうか。「コミュニケーション能力」と称して社員にエスパー並みの「気の利かせ方」を求めるなら、それに適応できない人が続出するのは当たり前の話です。

 順番が前後しますが、中段で紹介されている熊谷みゆきさん(33)の事例には興味深い点があります。何でも「熊谷さんに絶縁を言い渡していた姉が、障害と分かってからは一番の理解者になってくれた」そうです。これをどう見るべきでしょうか? 逆に言えばこのお姉さん、「障害」と認定されない間は決して理解者となってくれなかったことを意味しています。この辺もある意味、日本的なのかも知れません。本人に何ら変化がなくとも、医師が下した診断結果次第で周囲の対応が180°変わることも珍しくないわけです。

 たとえば、生活保護申請の場合を思い浮かべてください。本人の窮乏状態もさることながら、ものを言うのは医師の診断書だったりすることも多いのではないでしょうか。職場においても、「障害」と診断されないうちは罵声が飛んでくる一方で、「障害」と診断されると腫れ物に触れるような扱いになったりすることも少なくないはずです。診断の前後で本人には何の変化はなかろうとも、医師がどう診断を下したかどうか、それ次第で周りの人間は態度を変えるものです。診断を受けることで変わるのは「患者」ではなく、「患者」を取り巻く周囲の人間と言えます。

 引用した記事で触れられているように、発達障害を疑って「受診する人が増えている」わけです。いったいどういう意図で受診しているのでしょうか。もちろん、自身が発達障害かどうかをはっきりさせたい、発達障害であるなら何らかの手段で治したいと、そう思っている人が大半でしょう。しかし、そうした人々の中にも「『障害』として認定を受けたい」という願望もあるような気がします。熊谷みゆきさん(33)のケースを考えてください、熊谷さんは「障害」として診断されることで初めて、姉から理解を得ることができたのです。自分ではなく、周りの対応を変えるために受診している人が多かったとしても、もはや不思議に感じることはありません。

 結局のところ、学生生活を送る上では何ら支障がないレベルの「偏り」でさえ、昨今の就業環境においては深刻な欠陥となり、社会から排除される要因となってしまいます。障害がないのであれば、「できて当たり前」が無制限に要求されるものです。そして、このような労働環境における免罪符の代用品が、医師による「障害」という診断結果になっているかも知れません。診断書がなければ「努力が足りない」として罵倒されるばかり、「ちょっとぐらい欠点や偏りがあってもいいじゃないか」みたいな感覚は通用しない、それこそ「甘え」のごとく扱われるものです。しかるに「障害」として認定されることで初めて「障害なら仕方がない」として周囲の非難から逃れられるようになるとしたら、「障害として認定されたい」という思いで受診に踏み切る人が増えたとしても驚くには値しないでしょう。医師の診断書でもなければ「つらさ」を理解してもらえない、追い詰めた人が増えれば増えただけ、受診が増えている、そんな因果関係であるようにも思えます。

 

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反発を頂くような行動や中身は一つもない

2011-02-21 23:49:16 | ニュース

反発頂く行動や発言ない…枝野長官が不快感(読売新聞)

 枝野官房長官は20日、自らの北方領土視察に関するロシア側の反応について、「私の行動も発言も、(ロシアの)反発を頂くような行動や中身は一つもない」と述べ、不快感を示した。

 視察後に訪れた北海道白老町で記者団の質問に答えた。

 枝野氏は19日に上空から国後島と歯舞群島を視察した。20日には根室市の納沙布岬から歯舞群島を視察し、記者団に「一刻も早くはっきりと先が見えるような状況で、島を見つめて頂けるよう努力する」と語った。

 アホの枝野が外国に対して挑発的な言動を取るのは毎度のことですが、それに対して「反発を頂くような行動や中身は一つもない」などと述べているそうです。これを本気で言っているとしたら、その頭の悪さには呆れるほかありません。とりあえず今回、発言の是非に関しては保留するとしましょう。日本側の一方的な言い分であって国際的に通用するものではない、あくまで国内向けのパフォーマンスであって他国に対する呼びかけとしては意味をなしていない等々ツッコミどころはありますが、まぁ立場上はやむを得ない発言でもありますから。

 ただ、どのような発言であれ、それがどういう結果を招くかについて理解できないようであれば、官房長官としての能力不足を問わざるを得ません。床屋政談ならいざ知らず、発言には責任を伴うのが政治家というもの、それも与党幹部ともなればなおさらです。にも関わらず、予測されてしかるべき相手の反応を理解できていないとしたら政治家失格と言う他ないでしょう。

参考、悪いのは相手だとしても

 どちらが良い、悪いかというのを単純に決められるケースは滅多にないですけれど、仮に相手が「悪い」と決まっていたとしても、だからといって自らの「正しさ」を一方的に主張すれば済むというものではありません。子供の喧嘩ならともかく国家間の外交である以上、求められるのは「どちらが正しいか」ではなく、「上手くやる」ことです。枝野は毎度ながら、日本側の「正しさ」を言い放っては「反発を頂くような行動や中身は一つもない」と踏ん反り返っているようですが、結果としては徒に相手国の反発を招いているだけです。相手国と交渉して好条件を引き出すような駆け引きは皆無、ただ「俺は正しい」と主張するだけの子供じみた態度でしかありません。しかし、こうした考え方は枝野の個人的資質の問題ではなく、国民感情もまた枝野と同レベルと思われる辺り、なおさら頭の痛いところです。

 

内閣支持率20% 発足以来最低 朝日新聞世論調査(朝日新聞)

 朝日新聞社が19、20日に実施した全国定例世論調査(電話)によると、菅直人内閣の支持率は20%で、昨年6月の内閣発足以来最低となった。不支持率も62%で最高。また、菅首相の進退について聞いたところ、「早くやめてほしい」が49%で、「続けてほしい」の30%を上回った。

(中略)

 一方、民主党内の小沢一郎元代表に近い国会議員から菅首相の退陣を求める動きが出ていることについては「評価する」が19%で、「評価しない」が69%に上った。

 政治資金問題で強制起訴された小沢氏に対し、民主党が裁判終了まで党員資格を停止する処分を打ち出したことについては、「適切だ」が52%、「軽すぎる」が28%、「重すぎる」が9%だった。

 小沢氏が、検察審査会が決めた強制起訴と検察の起訴とではまったく違い、議員辞職や離党を必要ないとしている主張については、「納得できない」72%が「納得できる」17%を大きく上回った。

 一方、日本国内の有権者に向けては「反発を頂くような行動や中身は一つもない」と言っても良いのではないかという気がします。菅内閣ひいては与党民主党への支持は減り続ける一方ですが、しかし「反発を頂くような行動や中身」はどれだけあるのか、よくよく考えてみると意外に怪しいものです。それはもちろん、左派からすれば逆進課税を進めようとする菅内閣は許容しがたい存在と言えますが、世間一般の無党派層からすれば敢えて菅内閣に反発すべき要因はほとんどないように思われます。ただ何となく「ダメっぽい」という沈滞感だけで、見限られているフシはないでしょうか?

 菅内閣をもっとも強く攻撃しているのは、自民党よりも小沢一派にすら見える昨今ですが、この小沢一派の動向を評価する向きはほとんどありません。小沢への党員資格停止処分に関しても過半数から「適切だ」との評価を得ています。じゃぁ、菅内閣が支持されたって良さそうなものです。しかし菅内閣の支持率は下がり続けています。

 他には何かあるでしょうか? 法人税減税や消費税増税といった逆進化だって、必ずしも有権者の反発を買っているとは言い難いところです。民主党と同様に法人税減税と消費税増税を唱えてきた党だって特に支持率を落としているわけでもない、逆に議席を増やしていたりもするのですから、この辺が支持率を落とす要因となっているとは考えにくいところです。ではマニフェスト放棄に関してはどうでしょう? 最新の世論調査はこれから出てくると思われますが、マニフェストに記載された個々の政策への支持は、政権交代直後の民主党の絶頂期においてさえ、決して高いものではなかったことを思いだしてください。民主党は支持するけれども、民主党が看板に掲げた政策は支持しない人が多かった、民主党そのものの支持率は高いけれど、マニフェストの個別の項目への賛同者は少なかったわけです。ならばマニフェストの放棄もまた、世論の離反を招く要因としては合理性を欠くと言えます。

参考、国民が民主党に期待するもの

 自らが責任を負うべき立場に立って、以前ほど無責任な官僚叩き、公務員叩きができなくなったのもありますけれど、菅内閣がやってきたことを具体的に思い起こしてみると、それが必ずしも世論の反発を招くようなものであるとは考えにくいのです。枝野だけではなく菅だって十二分に世論に媚びた政治家であり、実際のところ国民の要望に添った政治を続けているのではないでしょうか(だからこそ日本は沈滞の度合いを深めるわけですが)。世論に抗って大きな政府へ踏み出したわけでもないのに支持率が急落するとしたら、それこそ「反発を頂くような行動や中身は一つもない」を不快感を示しても良さそうなものです。

 

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もう「日本」には期待しない方が良いんじゃないかと思った

2011-02-19 23:20:31 | ニュース

コメ31%牛肉46%高騰、20年農水省試算(読売新聞)

 農林水産省は18日、新興国での需要の増加などによって食料価格の上昇傾向が続くとした「世界の食料需給見通し」を発表した。

 2020年には穀物価格が08年に比べ名目で24~35%、肉類が同32~46%値上がりすると予測している。18日からパリで開かれる主要20か国・地域(G20)財務相・中央銀行総裁会議では、食料価格高騰が主要議題となる見通しで、価格安定に向けた対応が焦点となる。

(中略)

 需給見通しは、農水省が独自の計算モデルを使って試算している。

 「農水省が独自の計算モデルを使って試算」だそうです。とかく官僚や省庁の類は全否定されがちですが、こういうケースの信頼度はどうなんでしょう。農業に関しては農水相の官僚や族議員といった普段なら国民の敵とされる人々の方が保護政策に熱心だったイメージがある、概ね世論に近いところにあるような気もします。天下りにしても鯨研みたいなのは批判の対象とならないようですし、日本「人」の優位を説くような言説には眉を顰める人も日本「食」の優位を説くことには無抵抗で、食生活の欧米化=悪みたいな言説も垂れ流されがちです。食料論議もまた経済論議と並んでトンデモやダブスタが罷り通りやすいところなのかも知れません。

 今回の試算からわかるのは、需要増加などよりも天災の方がよほど影響が大きいということですね。2008年から2020年までの12年間で、食料価格が僅かに3割程度しか上昇しないということの方が、私にはむしろ驚きです。日本「以外」の国なら12年もあれば名目GDPも3割くらいは上昇するでしょうから、日本人以外が苦労することはあまりなさそうに見えます。一方で経済成長を止めた日本だけは例外となりそうですが、だからといって市場を閉ざしたところで何の解決にもなりません。まぁ、他国から食料を買えなくなるほど貧しい国は必然的に数値上の食糧自給率が高くなりますので、そうなったら農水省としては目標達成となるのでしょうか。

 菅の唱えるTPP参加は不評ですが、小沢の唱えていたアメリカとのFTA締結はどうだったんだろうと思わないでもありません。小沢の対米FTAはスルーで菅のTPPは叩くとしたら、まぁ「小沢先生なら何とかしてくれる」ってことなのでしょう。とりあえず私としては他国を侵略者と見なすような見解には頷けない、仮に他国が日本への侵略者たり得るとしたら、それに対して採るべきは交流を閉ざすことではなく互恵的なパートナーとなるべく努力することではないかという気がしますし、他国との関係悪化を自明の真理として防衛手段を整えるよりも良好的な関係を保つことの方に重きを置くべきではないかとも考えるわけです。それが軍事であろうと食糧問題であろうとも。

 

民主・原口氏が維新の会…橋下知事らと連携へ(読売新聞)

 民主党の原口一博前総務相(衆院佐賀1区)は13日、佐賀市内で開かれた民主党県連常任幹事会で、地域主権の推進を目的に掲げた政治団体「日本維新の会」と「佐賀維新の会」を結成する考えを明らかにした。

 大阪府の橋下徹知事や名古屋市の河村たかし市長らとの連携を目指すという。

 佐賀県内の民主党系議員や首長らに参加を呼びかけ、佐賀維新の会を今月中にも結成、その後、自身が代表となって日本維新の会を発足させ、全国的なネットワークづくりを進めるという。

 総務相当時、地域主権を推進していた原口氏は、「地域主権を前進させる人はすべて同志。改革を進める力を結集し、幅広く支援できる団体にしたい」と語った。

 さて民主党の分裂が決定的になった昨今ですが、こんな動きもあるようです。東京でも同様に「東京維新の会」を結成、橋下や河村と連携する動きがあることも伝えられています。そりゃ民主党は(鳩山の頃から)ダメだと思いますが、そこから距離を取って行き着く先が橋下と河村であるなら、なおさら事態は悪化してするばかりでしょう。しかるに有権者サイドはどうなのか、先の名古屋市長選では無党派層よりも熱心に民主党支持層が河村たかしを支持する有様です(参考)。自民党はもうダメだから別の政党を、民主党はもう救いようがないから別の政党を、そういう選択は結構なのですが、結果としてより悪いところへと流れていくばかりだとしたら事態は絶望的です。もはや日本には自力で復興できる可能性が失われているかに見えてきます。

 菅は「平成の開国」だの抜かしていますけれど(「維新」を掲げる連中と、好む言葉は似ていますね)、私が期待したいのはむしろ「平成の敗戦」です。とりわけ日本の政治文化や日本の企業文化には、もう未練などありません。日本的な政治、日本的な職場環境などはさっさと破壊されて、どこか他の国のそれに置き換えられる、グローバルな水準のものに置き換えられた方が、ずっとマシなのではないでしょうか。少なくとも今より悪くなることなど、とても考えられないですから。

 

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採用に積極的な業界ですから

2011-02-17 23:30:30 | ニュース

光回線の強引勧誘に苦情増 クーリングオフ適用外が背景(朝日新聞)

 インターネットの光通信サービスの契約を巡る消費者トラブルが増えている。「強引な勧誘を受けた」などの苦情相談が、全国の消費生活センターに2010年度は11月までで3500件を超え、前年度同期の約1.6倍。クーリングオフ(無条件解約)などを定めた特定商取引法が、契約代理店など電気通信事業者に適用されないことも、増加の背景にあるようだ。

 昨年夏、埼玉県久喜市の男性会社員(42)宅に、光通信サービスの代理店を名乗る男性営業員が訪ねてきた。「いまだにADSLを使っているなんて。絶対に損はないから乗り換えて」。留守番をしていた母親(73)に契約を持ちかけた。「いりません」と言って帰らせても、週に3、4回来ては1、2時間も勧誘を続けたという。根負けした母親が息子名義で契約。男性は代理店に苦情を言い、契約解除したが、代理店契約を結んでいた通信会社にも苦情を言うと、「どこが問題なのかと、取り合わなかった」という。

 光通信はインターネット回線の一つで、従来主流だったADSLに比べ、大容量のデータを高速で通信できる。動画や音声を送受信する機会が増えたことなどで需要が高まり、通信会社が直接販売するほか、通信会社と契約を結んだ代理店が戸別営業に回っている。同じ地域で多数の代理店が営業活動をするなど業者間競争が激しくなっている。

 経済誌や就活本の類をいくら読んでも永遠に知ることはできないけれど、直近で就職活動をしたことがあれば簡単に気づくことと言うのも多いと思います。エコノミストやコンサルタントの類が「見ないで済ませる」「なかったことにする」代物には事欠きませんから。アホなコンサルの著書を鵜呑みにして、すっかり裸の王様になっている人もまた多いわけですけれど、そうこうしている間にも日本社会は経済を中心に着々と衰退を続けています。

 さて光回線の強引な勧誘に苦情が増えているそうです。まぁ、そうなんでしょうね。何となくわかる気がします。だってほら、光回線の勧誘をする仕事の求人って恐ろしく多いですから。あれだけ盛んに求人を出している業種であるなら、その営業活動が活発であろうことは容易に想像が付きます。業態としては「押し売り」と呼ぶのが実態を正しく伝えているのでしょうけれど、その辺の内実は丁寧に包み隠して至る所に求人が出ているわけです。以前にも同様に強引な勧誘が問題視されているマンション販売業を取り上げたことがありますが(参考)、それと比べても通信回線経の押し売りは求人が多いように見えます。かつてはタクシー業界が「雇用の受け皿」みたいに言われたものですが(実際に受け皿として機能したかははなはだ怪しいものです)、今「雇用の受け皿」と呼ばれるにふさわしいだけの求人を出しているのは、こうした押し売り・勧誘系のビジネスと言えそうです。そして勧誘系ビジネスの中でも特定商取引法の規制の適用外となる通信関連は、とりわけ営業活動にも採用に積極的になるのでしょう。

 強引な勧誘を受ける側の人にとっては迷惑この上ないでしょうけれど、勧誘する側だって必死なんです。相手のニーズなど考えている場合じゃありません。とにかく契約を取らなければ自分のクビが危うい、こんな仕事でも続けざるを得ない、生きるためには人の心を捨てて戦闘機械にならなければならない、アフリカ辺りの紛争国の少年兵みたいな状況に置かれている労働者も多いはずです。他に選択肢があれば、こんな道を選ぶ人などほとんどいないと思いますが、「生きるためにはそれしかなかった」みたいな状況に追い込まれている人は増加の一途にあるのではないでしょうか。

 学生に対して「中小へ目を向けよ」などと説くのが昨今の流行りですが、しかるに「採用に積極的な中小企業」の実態は決して語られることがありません。ではいったいどういう企業が積極的な採用姿勢を見せているのか、実際に求人を見てみると真っ先に目に付くのは、引用元でも問題視されているような勧誘系の職種、要するに押し売りだったりするわけです。人に迷惑をかける押し売りなんてやりたくないと、良心が咎めない真っ当な仕事を探せば採用は遠のき、選り好みするから悪いのだ、企業のせいにするなと説教されるのが現状であるにも関わらず、その一方で押し売りが迷惑がられているとしたら、もはや生きていてごめんなさいとでも言うほかなさそうです。。

 ちなみに、この手の押し売りは、しばしば「コンサルティング営業」なんて触れ込みで求人が出されていたりします。私に言わせれば「コンサルw」といった風情ですけれど、アホなコンサルタントの妄言を鵜呑みにする人も後を絶たないことを見るに、それなりに「かっこいい言葉」として認識されているのかも知れません。しかし、コンサルタントの「中小に目を向けよ、中小は採用に積極的だ」という虚言を真に受けて、「採用に積極的」名業界に飛び込むと、「コンサルティング営業」として世に迷惑をかけ、当然のこととして疎まれる日々が待っているわけです。とんだお笑い種ですが、このお笑い種に否応なく付き合わされるのが日本の現状でもあります。

 

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150年前は北海道すら日本ではなかったのだが

2011-02-15 23:02:14 | ニュース

日ロ交渉「男女関係に似ている」前原氏、ロシアラジオで(朝日新聞)

 ロシアを訪問した前原誠司外相が12日、ロシアのラジオ局「モスクワのこだま」に出演した。北方領土は「日本固有の領土」との主張を従来通り繰り返した一方、日ロ交渉を「男女の関係」にたとえる表現も飛び出した。

 前原氏は、平和条約が締結されていない日ロ関係については、「戦後が終わっていない」との見方を示した。

 北方領土は「日本人のみが住み続けた島」だと説明。約7500人の元島民が今も帰還を願っている、と訴えた。北方領土を巡る日ロ両国の食い違う立場については「真実は一つだが、国際政治はそれぞれにとってよい解釈をしがちなものだ」と説明した上で、「国際法に照らせば、日本の立場が支持されると思う」と自信を示した。

 平和条約締結までどのくらいかかるか、との質問に、「お互いがどれほど大切に思っているかによる。男女の関係に似ている」と回答。好きな映画には、ソ連が舞台の「ひまわり」を挙げ、「ロシアにはいいイメージを持っている」と締めくくった。

 変な誤解に基づいて支持を集めていたり過大に評価されている政治家もいれば、少数派ながらも等身大の理解を受けている、正当な評価を受けている政治家もいます。前者の代表は小泉純一郎であり、政権交代前であれば鳩山と小沢を筆頭として民主党全般が該当するでしょうか(小沢は今でもそうかも知れませんが)。そして後者の代表は森と麻生でしょうかね。森と麻生に関しては、その政治家としての資質にふさわしい評価を、支持率という形で受けていたように思います。やっかいなのは明らかに前者の方ですが、今回取り上げる前原は民主党にあっては希有な例外と言うべきか、民主党幹部でほぼ唯一の、誤解に基づく支持も偏見に基づく嫌悪も受けていない、有権者から正しく理解されている政治家です。ネット世論上で菅や仙谷を叩いている声、あるいは橋下や河村を擁護する声の8割は脳内設定や無理解に基づいた不当なものであるように思われますが(まぁ前者に関しては大いに批判される余地がありますが、しばしば筋違いの叩かれ方をしていますので)、前原に関しては概ね適切な理解に沿って非難されていると言っていいでしょう。まぁ、政治信条面では全く賛成できない議員なんですけれど、変なねじれはないのかなと。

 さて前フリが長くなりましたが、前原外相が日ロ交渉を指して「男女の関係に似ている」と意味不明のコメントを残しています。昨今の日本では男女のすれ違いも広がりがちと言いますか、本当に気のあった相手としか結婚しない、高望みするばかりで決して妥協しない傾向もあるように思えるだけに、それが男女の関係に似ているのなら「全面的に満足できる条件でなければ首を縦には振らない」という日本側の宣言に聞こえなくもありません。

 それはさておき、ツッコミどころは盛りだくさんです。北方領土は「日本人のみが住み続けた島」と前原は断言しているようですが、では「今」北方領土に住んでいる人は何人なのでしょうね? そもそも「日本人」が指す範囲はどうなのか、「日本」に編入される以前より長きにわたって独自の文化を持っていた人々こそ、北方領土に元から住んでいた人々であり、最も長く住んでいた人でもあるはずです。そうでなくとも日本占領以前に北方領土に移り住んだロシア人だっているわけで、結局のところ北方領土を「日本固有の領土」などと言い放つのは、北米大陸を「アングロサクソン固有の領土」と強弁するようなものだと思うのですけれど。加えて「約7500人の元島民が今も帰還を願っている」とも語られていますが、じゃぁ朝鮮半島とか満州地域とか台湾とか、同様に日本が占領していた地域の「元住民」が同じことを願ったらどうなのでしょう?

 北方領土は日本の領土なのだと、日本国内ではそういう建前が支配してきました。自国政府の都合の良い説明には批判的であるはずの政党も、ソヴェト政権と不仲であったせいか北方領土問題に関しては日本側の一方的な主張を受け入れているフシもあります。そのせいか日本政府側の設定が日本国内においてはほぼ無批判に垂れ流されているわけですが、しかし世界から見るとどうなのでしょう。「国際法に照らせば、日本の立場が支持されると思う」と前原は自信を示したとのこと。ただ日本「以外」の国で作られた世界地図を見る限り、北方領土に関してはロシア領と見なすのが普通のようです。日本政府が異議を唱えていることが注記された地図もありますが、どちらの立場が支持されているかは考えるまでもないように思います。

 まぁ米ソ対立が激しい時代ならば、無理筋であろうとソ連と対立してさいれば西側諸国は味方に付いてくれたものかも知れませんが、今はそんな時代ではありません。かつてソ連側が応じる姿勢を見せた2島ずつの山分け案を、日本が4島一括変換へと要求を切り替えることで拒絶してしまった以上、この問題は終わってしまったのです。かくなる上は領土獲得は放棄して「利権」の獲得を狙うのが上策に思えますが、とかく実利よりもイデオロギーを優先させるのが近年の日本政府であるだけに、それも難しそうです。とどのつまり前原発言は日ロ交渉を何ら進展させるものではない、ただただ前原が日本国内に向けて「外国に屈しない強い姿勢」をアピールしただけの話と言えます。

 

首相の「暴挙」発言は国民の声…前原外相が説明(読売新聞)

 前原外相は11日の日露外相会談で、菅首相がロシアのメドベージェフ大統領の北方領土訪問を「許し難い暴挙」と批判したことについて、「国民の声を代表するものだ」と説明した。

 日本の国内世論の厳しさを伝えるとともに、日本政府の公式な見解ではないと釈明する狙いもあったとみられる。

 で、菅にもまた「許し難い暴挙」云々と、外交上は何の意味もない完全に国内向けの発言があったわけですが、これを指して「国民の声を代表するものだ」と説明したそうです。私がロシア側の代表だったら「だからどうした?」と返したくなるところです。まぁ、こういう論法は日本の政治家が好むところなのかも知れません。死刑制度に関しても「国民の声」を理由に堅持している等々、為政者が自ら下すべき決断の責任を国民にアウトソーシングしているとも言えます。まぁ国民にも責任はあるのでしょうけれど、政治家が「国民の声だから~」と言い訳するようになったら、それはお終いだと思います。

 

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どうしてチョコなんだよ

2011-02-13 22:43:22 | ニュース

中3女子、チョコで途上国支援企画 スーパーなどが協力(朝日新聞)

 中学生が一人で企画を思いつき、インターネットを駆使して大学生や企業とつながった。バレンタインデーに合わせて大手スーパーでチョコレートを販売するイベントを、東京都の中学3年生の森川絢瑛(あやえ)さん(15)が11日に催す。ただのチョコではない。途上国を支援する「フェアトレード」のチョコだ。

 「もともと社会の役に立ちたいっていう気持ちが強い」と森川さん。1カ月前、フェアトレードの制度を広く知ってもらいたいと考えていて、バレンタインに合わせたイベントを思いついたという。

(中略)

 2日、森川さんはツイッターなどで募った販売スタッフ向けに、フェアトレードを学ぶ研修会を都内で開いた。「お客さんに『フェアトレードって何?』って聞かれたらちゃんと答えられないといけないから。単に企業の商品を売ることが目的ではないので」。会場には首都圏の女子中高生16人が集まり、日高ゼミの学生が講師を務めた。

    ◇

 〈フェアトレード〉 途上国の生産者が自立した生活を守れるような適正な価格で取引をすること。途上国で作られた安い産品は、児童労働や農薬の大量使用などで生産コストを下げている場合がある。国際フェアトレード基準を守っている製品には「国際フェアトレードラベル機構」の認定ラベルがつけられている。

 「会場には首都圏の女子中高生16人が集まり」とのことで、盛り上がったのか盛り上がっていないのか非常に微妙に見えるのですが、何故か全国紙で取り上げられています。企画を思いついたのが中学生ということで取り上げられているとすれば、児童ポルノ問題では正義感ぶる一方で子どもに黄色い声援を送って止まない日本の世相をよく表しているとも言えそうです。

 さてフェアトレードの理念そのものには大いに共感する一方で、どうにも釈然としないところもあります。それはフェアトレードという概念の適用される範囲が、どう見てもごく一部の農産品に限定されており、工業製品や各種サービスに関しては完全にスルーされているかに思えることです。この手のフェアトレードに参加している人の内、いったいどれだけの人がチョコやコーヒー「以外」の商品を視野に入れているのでしょうか。チョコレートだけをフェアトレードの対象にしたところで、それはあまりにも小さな一歩です。決してムダではないにせよ、その小さすぎる一歩で満足しているとしたら、良心的なフリをしているだけの単なるアリバイ作りに他なりません。

 工業製品や各種サービス業にしたところで同様、従業員が健康で文化的な生活を送れるよう適正な雇用環境を維持している、労働基準法を守っている企業に「国際フェアトレードラベル機構」の認定を付けるくらいのことは可能なはずです。反対にフェアトレードの認定を受けられない企業の製品やサービスは白眼視されるようなことがあっても決しておかしくありません。しかし現実はどうでしょうか? 従業員を次から次へと自殺に追い込むFoxconnで生産されたiPodやiPhoneは日本でも売れ行き好調ですし、自動車絶望工場で生産された日本車はアメリカの自動車産業を絶えず追い詰めています。従業員の犠牲の上に成り立つワタミのサービス(参考)は利用者からは好評のようですし、すき家を筆頭に総じて飲食業界は従業員の待遇が悪いところほど業績を伸ばしているように見えます。とりわけ日本では、従業員に身を削らせることを以て「消費者のため」の企業努力として歓迎されてさえいるのではないでしょうか。

 まぁ、トヨタやキヤノンの従業員の扱いが非人道的であるといっても、それに続く業界2番手、3番手の企業が労働者を「フェア」に扱っているかと言えば、そうとは限らないのが頭の痛いところです。店員の安全を考えていないという点では業界トップのすき家が群を抜いているのは間違いのないところであるにせよ(参考)、労働者の扱いがマシな企業を探すのはなかなか難しいように思います。キヤノンがダメならリコーやゼロックスはマシなのか、トヨタがダメならホンダマツダはマシなのか、業界トップで槍玉に挙げられやすいところ以外にも、特に中小では、というより世間の注目が低い中小でこそ酷いところが多いですし。

 だからこそ、工業製品やサービス製品に対してもフェアトレードの概念が適用されるべきなのです。その製品やサービスは適正な価格で取引されているか、提供する側の従業員に適正な賃金が支払われているか、労働基準法は守られているか、そういう尺度に基づいた認定があっても決しておかしくはないでしょう。フェアトレードの自動車、フェアトレードの介護サービスがあっても良いはずです。しかるにフェアトレードの対象になるのが、せいぜいチョコレートとコーヒーぐらいに止まり続けるとしたら、そこにある種の欺瞞を感じずにはいられません。

 携帯電話はiPhoneを使い、プリンタはキヤノン、そしてトヨタの車に乗りながらコーヒーとチョコレートだけは「フェアトレード」などと言い出す人がいたら、それこそぶん殴ってやりたい気にもなります。全くもってフェアでないメーカーの製品を愛用する一方で、安価な嗜好品だけ「フェアトレード」を称するとしたら、そんなものは「フェアトレードごっこ」に過ぎません。フェアトレードに参加する良心的な自分に酔いしれているだけです。善意を身にまとった「フェアトレードごっこ」はそれなりに世間の関心を集めているようですが、むしろそれはフェアトレードの理念を矮小化しているように思います。そうではなく、フェアではない事業者を淘汰していく社会政策として、チョコレート「以外」、農作物「以外」の領域に踏み出すことが、フェアトレードの次なる一歩として待望されるところです。

 

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北朝鮮から逃れてきた人を保護しようとか思わないんだろうか

2011-02-11 23:12:40 | ニュース

 俯瞰的な視点を持てないでいると、南から飛んでくる渡り鳥と北へと飛んでゆく渡り鳥が、それぞれ正反対の行動を取っているように見えるそうです。南方から日本へ飛んでくるのも、日本から北方へと飛び立つのも、よくよく見れば北へ向かって移動しているに過ぎないのですが、ともすると「南から飛んでくる」のと「北へと飛んでゆく」のが逆の行動に思えてしまうこともあるとか。昨今では逆進性を強める税制改革を唱える政治家が支持を失う一方、累進制を弱める税制改革を唱える政治家が圧倒的大差で選挙に勝ったりもしたわけですが、果たして日本の有権者の目には何が映っているのでしょうね?

 

「大村氏は脱北者」=民主・石井氏(時事通信)

 民主党の石井一選対委員長は6日夜、党本部で記者団に、愛知県知事選で当選した大村秀章前衆院議員について「自民党の脱北者だ」と述べた。大村氏が自民党に離党届を提出して除名されたことを北朝鮮から逃れた人に例えたものだが、「不適切」との批判も招きそうだ。

 とかく考えの足りないところの目立つ枝野なんかにも問題発言は多いように思われますが、枝野の場合は悪い意味で民意に添った発言になっているせいか問題視されることが少ないのに対し、この石井一は露骨に「ずれた」感じの発言が多く、いかにも典型的な失言政治家といった風情です。過去には公明党を指して「ばい菌みたいなものだ」などと言い放ったり(地方議会では連立のパートナーだろうが!)、あるいは「1票くらい、聖徳太子1枚くらい出せば十分取れる」とか「鳥取県とか島根県と言ったら、日本のチベットみたいなもの~」なんてのもありました(参考)。こういう人を重用している党の良識を疑いたくなるところです。

 さて今回は、愛知県知事に当選した大村秀章を「脱北者」に擬えたことが伝えられています。民主党は一応、対立候補を立てていただけに大村秀章を賞賛しているとは考えにくいですから、つまるところ否定的なニュアンスを込めて「脱北者」と呼んだものと推測されます。石井一、ひいては彼が幹部を務めるというにとって脱北者とは、そういうイメージなのでしょう。

 北朝鮮政府に対して否定的であるならば、その北朝鮮政府の支配から逃れようとしてきた人々をどう取り扱うのが筋の通った対応と言えるのか、その辺は一考の余地がありそうです。敵の敵は味方みたいな色分けには問題があるにせよ、北朝鮮政府に対して否定的であり、それと同時に北朝鮮政府から離れようとする脱北者に対しても否定的であるとしたら、いったい日本政府はどの立場に立っているのでしょうか。自らの政敵でもある人物を「脱北者」と呼ぶ石井一の感覚には、そんな日本政府の在り方を窺わせるものがあります。北朝鮮政府相手を話し合う余地もない悪役として扱う一方、人々がそこから解放されることを望んでいるわけでもない、そういう考え方だからこそ否定的な意味合いで「脱北者」という言葉が出てくるように思われます。

 

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家族が大事に決まってるだろ

2011-02-09 23:17:58 | ニュース

企業との面接日に急用! その時どうする!?(R25)

急な予定が入り、明日の面接をキャンセルしなくてはならなくなりました。採用担当者の気分を害することなく、面接日の日程変更をお願いしたいのですが、どのように交渉すればいいでしょうか。(28歳・営業)

急用の程度にもよるが、たとえば親族や配偶者が倒れたなど…どうにかしてすぐに向かわなければならないという状況は、必ずしもないとも言い切れない。しかし、面接日を変更することは可能なものなのだろうか…。

リクルートエージェントによれば、なるべく面接を優先させた方がよいとのこと。意識しなくてはいけないのは、まず、面接官は転職希望者と会うために、予定を調整して時間を空けて待っている。また通常、企業は採用選考のスケジュールを立て、それに沿って候補者との面接を設定しているということ。日程を変更することは、面接官に迷惑がかかるだけでなく、選考そのものに支障きたす恐れもあるので、できる限り自分の予定を調整し、面接を最優先にするようにしたほうがよいとのことだ。

 急用の程度にもよるのでしょうけれど、引用元でも挙げられているような「親族や配偶者が倒れた」ケースだったらどうなのか、リクルートエージェントによると「なるべく面接を優先させた方がよい」そうです。今をときめく就職ビジネスのトップランナーである同社が断言するからには、それが日本における「社会人の常識」なのでしょう。家族に何があっても仕事に穴は開けない、その姿勢があってこそ一人前の社会人と言ったところなのかも知れませんね。

 阪神ファンの私はランディ・バースのことを思い出します。退団に至るまでには諸々のゴタゴタがありましたが、引き金となったのはバースの子どもの病気でした。水頭症を患った長男の治療のためにアメリカに帰国したバースと阪神球団の溝は見る間に広がっていったわけです。家庭の事情で職場である球団を離れたバースに対しては少なからず否定的な視線が注がれたと伝えられています。バースにとっては家族を優先するのが当たり前であったかも知れませんが、家族が大変なときでも仕事を続けてこそ真のプロフェッショナルと美談化される日本では、彼の行動は理解を得にくいものだったのでしょう。

 何はともあれ、家族が倒れても面接を優先させた方が良いとされています。家族を優先することを許さない、面接を優先させないと就業機会を与えないような会社など願い下げと言いたいところですが、昨今それでは永遠に就職できないのでしょう。家族のために面接をキャンセルしようものなら仕事への意欲を疑問視される、そういう世界なのです。そしてこれは、面接時に限ったことではないはずです。面接時がそうであるように、入社後もまた家族と仕事のどちらかを優先するかを迫られたときは、会社を優先させるべきという社会的合意ができあがっているのが日本社会と言えます。生きるために働くのではなく、働くために生きる、それがジャパニーズビジネスマンというものです。

 やれグローバル化だの厳しい国際競争だのと喧しい中で、日本企業は従順で割安な労働力を武器に圧倒的な国際競争力を発揮して莫大な貿易黒字を積み重ねてきました(参考)。何かにつれ危機が煽られる割には、悲惨なのは国内市場だけで国際競争面では輝かしい勝利が続いているわけです。それでもグローバル化を口実とした賃下げ圧力は強められるばかり、それゆえグローバル化を「犯人」に見立てて、これ見よがしに批判してみせる言論には事欠きません。しかし日本は本当にグローバル化に巻き込まれているのか、その辺ははなはだ疑わしく感じられます。

 浮沈を繰り返しながらも経済成長を続けてきたのがグローバル化する世界経済であり、その一方で輸出相手国の経済発展の「おこぼれ」に与るばかりで自発的な経済発展からは完全に背を向けているのが世界経済の例外である日本です。過渡的な格差を生みつつも全体としてみれば国民の所得も上昇するグローバル化の時代にあって、異例の賃金下落が継続しているのもまた日本です。そして他に類を見ない異常なデフレ国家でもある日本こそ、グローバル化時代に取り残されたガラパゴスと見るべきであるように思われます。グローバル化の結果ではなく、グローバル化を脅しに使ってガラパゴス化を進めた結果として日本で働く人々の苦境はあるのではないでしょうか。

 家族を大事にすることを許さない、会社を優先させることが当たり前だと思われている、こんな企業文化は滅ぼされた方が良いような気がします。ならばグローバル化で日本企業が多国籍企業に打ち負かされ、取って代わられるならそれは日本人にとっては本当は歓迎すべきことなのかも知れません。果たして日本の企業と外国から進出してきた企業、どちらが働く人を大事にしてくれるでしょうか? 郷に入りては何とやら、本国では従業員を大切にしている企業も労働者保護の弱い日本に来ては横暴に振る舞うかも知れませんが、それでも日本の企業に比べれば希望が持てそうなものです(少なくとも今より悪くはならないでしょう!)。大日本帝国がアメリカに打ち負かされてようやく日本が民主化されたように、昨今の日本経済もまたどこか他の国に打ち負かされなければ変わることができないとしたら、我々が待望すべきは日本よりも労働者の扱いがマシな国の企業によって日本企業が滅ぼされることに思えてきます。

 

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