第6話
若旦那が吉原へ向かった日、お内儀は気に入らないのだとすぐに見て取れた。
廓で遊んでこそ一人前であるとはいえ、母からすれば面白いことではないらしい。それは私も同じだった。あの真面目で優しい若旦那が、花魁を前に上ずった声で麗しさを褒めたたえ、手練手管に酔いしれているかと思うと心がささめく。
縁側で匂い立つ庭の木犀をぼうっと眺め、お内儀はそばに控えていた私の方を見ずにつぶやいた。
「あの子にはね、あんたみたいな娘が合うと思うんだよ」
「えっ?」
「紀一郎(きいちろう)だよ。あの子は商売のことばかりだからね、それをわかってくれる
私は呆然として返事も忘れた。ただ瞬きを繰り返すばかりの私に、お内儀はゆっくりと顔を向ける。丁寧に塗り込められた白粉が、柔らかな日差しを受けて輝く。その姿は、息子を案じる母でも大店のお内儀でもなく、女子という生き物の手本に思えた。
「わ、私など、とても――」
狼狽える私を、お内儀はただ微笑んで眺めていた。その笑みは一見優しい。
きっと、お内儀は私の秘めた恋心に気づいていて、こんなことを言うのだ。何も本気ではない。そんなはずが、ない。
これから、秋を終えれば厳しい冬が来る。
そして、冬を越せばあたたかな春が来る。
悪いことを乗り越え、良いことが待つ。
本当に、待っていてくれるだろうか。こんな私にも。
暮れ六つ、店仕舞いの頃に吉原から帰った若旦那は、女たちの心配をよそにいつもと変わりなく見えた。土間に立ち、店先に腰かける前に皆が集まってきて苦笑している。
「ただいま。土産話を期待していたのかい? 残念だけれど、初会は口も利いてもらえない。だから頼み事も何もできたものじゃなくてね。本当に顔合わせだけだよ」
大枚はたいてその程度なのだ。馴染みになるには一体いくらかかるのだか、考えるのも恐ろしい。
「引き札のことは裏を返してからだ。その時にうちの白粉を手渡すから、いくつか用意しておくれ」
花魁なら安物など使わない。しかし、引き札に載せたい品は庶民が買えないような代物では意味がない。そのためにいくつか使ってみてほしいのだろう。
でも――と、若旦那は零した。
「本当に白い、絹地のような肌だった。白粉を落としても、きっと白いのだろうね」
ざわり。胸のうちを刷毛でひと撫でされたような、得も言われぬ心地がした。
いつもと変わりない。いいや、何かが違う。
それが何か、
顔を合わせただけ。
言葉をひとつも交わしてもいないのに、白妙花魁は若旦那の心に己を刻み込んだ。白妙花魁は、口を開けばさらに若旦那を虜にするのだろうか。
❖
若旦那の考えた策は、功を奏した。
引き札が出回ると、白妙花魁が使っているとされた〈しら井屋〉の白粉は、方々で話題となった。我先にと女子たちが〈しら井屋〉の暖簾を潜り、押し合いへし合い、時には揉め事すら起こるほど店の中は鮨詰めになった。
この女子たちが吉原の奥にいる白妙花魁を目にしたことなどないだろうに、どうしてこんなに熱くなれるのか。美しいと噂に聞くだけで勝手な幻を見るのだ。男も、女も。
しかし、幻を追っているうちがいい。仕合せだ。幻ではなく、生身の人として知り合い、名を呼び合うような仲になってはいけない。
上手くいったというのに、若旦那は憂い顔だった。
「白妙花魁に一度礼を言いに行きたいのです。こんなに繁盛させてもらって知らん顔では恩知らずでしょう」
そう切り出した若旦那に、大旦那は弾む声で答えていた。
「ああ、そうしなさい」
儲けた分、相手が花魁といえども揚げ代を惜しむつもりもないようだ。
若旦那は、傾国と名高い白妙花魁に会っても変わりなく見えた。大旦那はすっかり気を抜いていた。若旦那は吉原という場に溺れることはなく、少し楽しむだけなのだと。
けれど、若旦那は変わった。傍目にはわからないほど、僅かに、それでも着実に傾いている。縁側で立ち止まり、何気なく庭先の花を眺める目が、切ない。何を思い、花を見つめるのか、それが伝わるから、切ない。
「私が引き札の話を持ちだした時、白妙は言ったんだよ。遊女にも引き札が書かれるって。遊女も品物だからって。私は惨い頼み事をしてしまった気になったけれど、白妙は受けてくれた。嬉しい半面、とても心が痛んだよ」
聞き手がいないから、通りかかった私に言うのか。まるで幽霊に憑かれたように、若旦那がこの世から離れていきそうで怖かった。
だからといって、私のような女中が会いに行くなと言えるはずもない。若旦那はまた出かけて、そして私はひたすら板敷を磨くだけだった。
お内儀は若旦那の移ろいを感じていた。このところずっと虫の居所が悪かった。
才次郎さんは、特に変わらない。
むしろ、非の打ちどころがなかった兄の廓通いを内心で
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