第4話 心がほどけていく

 屋上の風は、いつだって特別に優しい。


 冬の日だというのに、決して刺すような冷たさではなく、誰かがそっと耳元で囁いているような、そんな静けさをまとって吹いてくる。私はひとりでベンチに座り、その風が髪を揺らし、思考を遠くへ運んでいくのを感じていた。


 あの日以来、私はこの想いを心の奥に押し込んで、うまく隠すことに慣れるつもりだった。いつものように、少しだけ上手く、少しだけ完璧に演じていれば、誰にも気づかれずに済むと思っていた。


 でも、今日は違った。


 私は、彼女の前で泣いてしまった。ぐちゃぐちゃで、見せられたものじゃない顔で――それでも、あまりにも本物の涙だった。


 だけど、今日はひとりじゃなかった。


 隣には、佐藤遥がいた。


 何も言わず、何も問いたださず、ただ黙って、私のそばにいてくれた。


 だけど、私はわかっていた。


 彼女には見えていた。私がずっと隠してきた部分――誰にも触れられたくなかった、あの完璧の裏側にある、もう限界寸前の私。


 私は、ずっと「完璧」のラベルを貼られて生きてきた。成績は良く、言葉遣いは丁寧、感情の起伏も穏やかでなければならない。ほんの一瞬でも乱れたら、それは「失敗」とされ、誰かの「失望」の目にさらされる。


 だから私は、強くあることを覚えた。誰にも迷惑をかけず、感情を見せず、本音を飲み込むことを学んだ。世界に見せる「神崎星奈」は、いつもきちんと整えられた、期待通りの仮面だった。


 学校では人気がある。たしかに、それは事実。でもその「人気」は、多くの場合、「私」自身ではなく、「私が演じている像」に向けられている。


 私に近づいてくる人たちは、どこかで私を見上げるような目で、または依存するような距離感で接してくる。その人たちが見ているのは、完璧に微笑み、何一つ欠けることのない私であって――私が何を好きで、何に怯えて、何を本当に言いたいのか、そんなことには関心がない。


 でも、妳は違った。


 妳は初めて、私にこう思わせてくれた人だ。


「完璧じゃなくても、いいんだよ」って。


 妳の前では、私は安心して自分でいられる。好きなものを話せるし、自分の選択を大事にできる。黙っていても、妳はそれを拒まない。


 私はもう、自分の不完全さで妳をがっかりさせることを怖れなくていい。言葉が詰まっても、答えを見失っても、妳が私から離れていくことを恐れなくていい。


 妳が見てくれたのは、「好かれるための私」じゃない。


 私そのもの。私がこれまで誰にも見せられなかったすべてを――妳は、ちゃんと見てくれた。


 作られた笑顔も、完璧な返事も、常に前を歩く「神崎星奈」も、何もいらない。


 今日、私は泣いた。


 涙は、まるで堤防が決壊したかのようにあふれ出て、人生で初めて、誰かの前で取り繕わずに崩れ落ちた。


 それでも、彼女は私を拒まなかった。


 彼女は私の弱さから逃げることなく、そっと、私を抱きしめてくれた。


 何も言わず、何も聞かずに。


 その腕は、派手さなんてなかったけれど、私が想像していたよりも、ずっとあたたかくて、本物だった。


「……ひとりで泣いてほしくなかったから」


 彼女は、そのとき、そう言ってくれた。


 たった一言なのに、それはまるで魔法のように、私の心の奥底をそっとほどいた。


 ようやく気づいた。私はずっと、待っていたんだ。


 私の本当の姿を見つけてくれる人を。


 完璧じゃない私を、それでも離れずにいてくれる人を。


 何も言わず、ただそばで静かに寄り添ってくれる人を。


 ――彼女は、まさにその人だった。


 今日だけじゃない。


 彼女がサッカー部に入ってきたあの日のこと、今でもはっきりと覚えている。いつも列の一番後ろでおどおどして、声も小さくて、笑顔さえめったに見せなかった。それでも、彼女は一度も練習を休まなかった。転んでも、歯を食いしばって立ち上がっていた。


 私は何度も、こっそり彼女を見ていた。髪を結び、真剣な目でピッチを見つめるその姿は、どんな瞬間よりもまっすぐで、強かった。彼女はきっと自分でも気づいていない。少しずつ、自分の力で輝きを放ち始めていた。あれは、誰かに与えられた光なんかじゃない。彼女自身が歩いて手に入れた光だった。


 ある日、図書室で彼女が突然話しかけてきた。


「星奈、この問題、教えてもらってもいい?」


 あの瞬間、私は少し呆然とした。いつも恥ずかしがり屋で、言葉もたどたどしかった彼女が、自分から話しかけてきたのだ。うつむいて計算式をなぞる彼女の横顔は、頬を赤らめながらも、どこか穏やかで、優しかった。その時、私は思わず笑ってしまった。それは、完璧を演じるための笑みではなく、心から湧き上がった嬉しさだった。


 それからの試合で、彼女は全力を尽くして走り、ついには決勝点を決めた。ゴールが決まったその瞬間、彼女は振り返り、スタンドにいる私を見つけた。目が合った瞬間、彼女は本当に嬉しそうに笑って――その笑顔が、あまりにも眩しくて、私の心臓は一拍、強く跳ねた。


 私は、その時初めて気づいた。


 もう、彼女を無視できないってことに。


 彼女は変わっていった。前よりもずっと自信を持って、私に近づいてくれた。そして、私も気づいてしまった。――私は、彼女に恋をしていた。


 ただの友達としての好意なんかじゃない。


 彼女がそばにいると、私は肩の力を抜ける。彼女が悲しんでいると、誰よりも真っ先に駆け寄りたくなる。彼女の手を握ったなら、もう二度と離したくなんてない。


 そんな想いが心に浮かんだ時、私は少しも怖くなかった。ただ思ったのだ――もし、その相手が彼女であるなら。


 私の弱さを見て、逃げるどころか、歩み寄って、抱きしめてくれた人。それが彼女なら、私はもう一度、信じてみてもいいかもしれない。


 もしかしたら、彼女も――少しだけでも、私のことを想ってくれているのかもしれない。


 ……たとえ、そうじゃなかったとしても。たとえ、彼女がまだ気づいていなかったとしても、それでもいい。


 彼女がどう思っていようと、私はもう隠したくない。


 少なくとも、彼女の前では、本当の私でいたい。


 不完全なままでも、怖くても、傷つくことがあっても。


 それでも、彼女が私の手を握り返してくれる限り、私は信じてみたいと思えるんだ。


 ――私は、きっと、ひとりぼっちじゃない。


 だから、遥。


 次に私の覚悟ができた時は、ちゃんとこの言葉を伝えたい。


「もう決めたの。これからは、飾らない自分でいたい。そして、私が本当に近づきたいと思ったのは――あなただよ。」

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