第8話 バスルームの怪(3)
部屋の中には、三人が鎮座していた。
男はタオルを頭からかぶっているが、身体の方には御札が数枚貼り付けられている。正座したままで動けないのか、少しもぞもぞとしただけでその場からは動かなかった。
氷華はといえば、夏樹の後ろに貼り付いていた。警戒心マックスで男をのぞき見る。
だが、異形の存在への警戒というよりは、完全に不法侵入の不審者を見る目だ。
「先生、いったい何なんですかこの人?」
「人間じゃないことは確かやな」
顔の方は普通の人間に戻っているが、足先はひとつで、爪が一本だけ生えている。中途半端なところで封印を施されたからだ。
「足の一本爪、長い舌、風呂場に現れる――お前、もしかして『あかなめ』か?」
夏樹が聞くと、男はぎくりとしたように顔をあげた。
「そ、そうです……」
腕を動かそうとしたが、わずかに上下しただけだった。
「アカナメって、なんです?」
氷華は言われてもぴんとこない。肩越しに目を瞬かせる。
「あかなめってのは読んで字のごとく、垢を舐める妖怪や。風呂場や風呂桶に溜まった垢を舐め取るっていうな」
「そんな妖怪がいるんですか?」
氷華はジト目で夏樹を見る。まさか担いでるんじゃないだろうなと言いたげに。
「詳しく聞きたきゃ後で説明したるけど。……で、その妖怪がこんなとこで何しとんねん」
「垢を舐めに来たんですよ! 当然でしょう!」
人生で一度たりとも聞かないような台詞。
「いまは人間に紛れて生活してますけど、定期的に垢を舐めないとダメなんですよ。習性というか、ビタミンみたいなものだと思ってください」
「ビタミン……」
思わず反芻してしまう氷華。
「――それで、マンション内の風呂場に出没しとったんか」
「人のいない時間を狙ってましたよ。だけど今日はかち合ってしまって」
「でも、人のいない時間って……そんなに自由がきくものなんですか?」
「僕、Webデザイナーやってるんで、基本テレワークなんですよ」
「そ、そうですか」
妖怪から一度たりとも聞かないような台詞。
「僕のこの習性は、人間がいなければ成り立ちません。だから、人に紛れて……、Webデザイナーになったのも、自宅で仕事が出来るようになったからです。現代の発達した中では垢を舐めるのも一苦労なんです。綺麗好きな人は増えてますし、掃除もだんだん簡になってきてますからね。だけど、これは僕の妖怪としての習性なんです。欠かせられないものです。この現代において生きていくために必要な事です」
「なるほど……」
そう考えると、少し同情できる部分はある。
「それでこのマンションを根城にしていたんですね」
「はい。定期的に場所を変わって、垢の溜まっていそうな所を転々としていたんです。すぐに変わっても仕事はできますし、不自然に思う人はいません。僕みたいな妖怪が見える人とかち合ったのは申し訳ないですけど」
氷華は頷いた。
人に紛れて人間として生きる妖怪の大変さは理解できる。しかも何らかの縛りを持っているなら尚更だ。
「……わかりました。先生、どうしますか。これ以上害意は無いようですが……」
夏樹は氷華をまじまじと見た。
「……本気で言うとる?」
「えっ。でも、習性ならどうしようもないものですし、不幸な事故が重なっただけでは?」
「いや、その……。氷華がぜんぜん気付いてへんみたいやからオレが言うけど……」
「はい?」
氷華が首を傾げると、夏樹は恐る恐るというように口を開く。
「そもそもこの部屋って、一ヶ月くらい前に出てった部屋やろ?」
「ええ。そうですね」
「ちゃんと清掃も入って、これまで誰も入っとらん。ということは……」
「……つまり、なんです?」
「だから、その。もしもお前が本当に入居しとったとしても、まだ垢も溜まってない風呂に、わざわざタイミングを見計らって入ったってことやろ」
「え」
「しかも、そのー、なんだ。風呂に入るために全裸になりそうな時を、狙って……」
「……」
沈黙。
氷華の視線が後藤を見ると、青ざめた顔で目を逸らした。
沈黙。
瞬間、氷華から一気に冷気が立ち上った。
「ひいっ!?」と後藤。
「おわーっ!」と夏樹。
「ストップ! ストップ、氷華! ステイ! ステーイ!」
氷華の肩を掴み、わたわたとそれ以上近づかせないようにする。
「ただの覗きじゃないですか!」
冷気を押さえつけるかのように、焔が舞う。互いにぶつかり合ってバチバチと音を立てていた。
「すいません! 悪気は無かったんです! ただ、これまで人間からそうそう見えることはなかったんで!」
「常習犯じゃないですか!」
冷気が立ち上る。
「だ、だからちょっと落ち着けって!」
まだ冷気を纏っているが、次第に小さくなっていく。
「先生、こんな人早く通報してください!」
「警察は勘弁してください!」
「バカ言え、普通に通報案件やぞ」
「そ、そうだ! 警察にいったいなんて言うつもりなんですか? きっと信じてはくれませんよ」後藤は思いついたようにまくし立てる。「だからここは穏便に見逃し――」
「お前……」
呆れた夏樹の目の色が赤く染まった。
「通報するのは退魔師協会に決まっとるやろ」
「ひっ……」
今度こそ、男の顔が青ざめた。
退魔師協会の仕事は、怪異を退けるだけではない。
中には人間に害を為さない――むしろ人に紛れて生きる者たちもいる。化け狸や化け狐、妖怪なども顕著な存在だ。昔からそうしたものは居た。現在では彼らのことを『カクレ』と呼び、発見次第、監視や保護を行うことがある。
「まさか……、退魔師!?」
「……逆になんやと思っとったんや」
夏樹はスマホを取り出すと、見慣れた番号へと電話をかける。
「あ、もしもし。お疲れ様ですー。日向です。あー、実はですね、ちょいと人間相手に悪さしとる『カクレ』がおって。とりあえず照合してもらえます?」
「ぼ、僕はどうなるんだ? 消されるのか?」
後藤は思わずというように氷華に聞いた。
氷華は面倒な目をしながらも、ちらりと見返す。
「おそらく、あなたの存在と現在の身元は確実に把握されるでしょうね」
役所ではないが、手続きは似たようなものだ。
協会によれば、脅威ではない妖怪――つまり隠れ住む者たちへの支援という形で、人間社会での困りごとや悩みに対応する、という理屈をつけている。
だが、実際のところは首輪をつけられているに等しいと、少なくとも氷華はそう思っている。
協会にとってはいつ脅威と変じるかわからない『もの』を把握しておくことが重要なのだ。
「あなたの場合は常習犯ですからわかりませんけど、このあたりのお寺か神社の所属退魔師が保護観察として付くことになるでしょうね」
「……それじゃ、僕の仕事は?」
「それは今後の協会の処理次第でしょう。というかそれならなおさら覗きなんてしないでもらえます!?」
「あっ、すいません……」
後藤は黙り込む。
静かな部屋に夏樹の電話の声だけが響く。
「……なあ、それって、あんたも……」
後藤がすべて言い終わる前に、夏樹が電話を切った。
「三十分ほどで来てくれるとさ。それまで待機や」
「そうですか。帰るまでベランダに隠れてていいですか」
「ええけど、まだ三十分あるぞ!?」
「退魔師は嫌いなので」
氷華はベランダを開けながら言った。カーテンが無いのが惜しまれる。
「……オレも退魔師やけど」
氷華は返事をしなかった。
ちらっと夏樹を見てから、ぴしゃんとベランダの扉を閉める。できるだけ端っこの方へ行ってから、戻ってベランダの扉を開ける。さっきと同じ姿勢の夏樹がいた。
「……こっちの方だと見えてないですよね」
「あー、はいはい。そっちやったら見えんから」
そしてもう一度、ベランダの扉を閉めた。
*
「では、今回の報告書です」
生徒会室のソファで、氷華はファイルを渡した。
あいも変わらず手書きの報告書だったが、夏樹は文句も言わずに受け取った。ちらりと目を通す。
テーブルには二人分のマグカップと、先日の残りのクッキーが置いてある。
「……お前、自分のとこだけは見事に隠し通してあるな……」
「当然です。毎回そうじゃないですか」
「それもそうやけど……」
報告書を横に置いた夏樹は、そのままクッキーに手を伸ばす。
「そういえば、結局、侵入者がいたということになったんですね」
「まあな。覗き目的で侵入を繰り返しとった住人を、警察に引き渡したってことになっとる」
クッキーを咀嚼しつつ、夏樹は頷く。
「なにも間違ったことは無いですね」
警察に引き渡したこと以外は。
実際のところ、やってきたのは警察ではない。
「それであの覗き魔……というか後藤さんはどうなったんです?」
「まだ正式に決まったわけじゃねぇけど」
夏樹は前置きしてから続ける。
「今回は物理的な危害じゃねぇが、危害には変わらんし、能力の悪用ってこともある。封印施して、しばらくは支部で拘束。そのあとは保護観察専門の坊さんとかに引き渡しやな。ま、自営業やし仕事は続けられると思うぞ、多分」
紅茶を一口すする。
「表向きの処理としては罰金刑と、マンションからの退去。あとは被害者が損賠賠償請求するかどうかや。結局、三人も引っ越しとるわけやし」
「そういえば、西浜先輩も似たようなことを言っていましたね」
それに、直接的な被害者は偶然居合わせた――つまり氷華ということになっている。
「せや、あの西浜って奴……、……西浜先輩はどうした?」
途中でじろりと睨まれた夏樹は言い直す。
「一応、ご納得いただけたようでした。幽霊ではなく人間だった、というところにおいても。犯人の身体が意外に柔軟だったのでたしかに化け物に見えても仕方ない、ということも強調しておきましたので」
「妥当なとこやな」
労うように、軽く片手をひらひらと振る。
「天井に居た、ということはさすがに誤魔化しきれませんからね。マンションで覗き騒動があったというのは伝わっているでしょうし」
「せやな。ま、後は協会に丸投げしとけばええ」
そう言うと、夏樹は紅茶を飲み干す。
静かになると、どこかゆったりとした時間が流れる。
氷華は静かに頷いた。
「今回もお疲れ様でした、先生」
「……おう」
部屋に響いた柔らかな声に、夏樹は視線を外して残った紅茶を飲む振りをした。
本当は、とっくに飲み終わっていたというのに。
雪花火奇譚 冬野ゆな @unknown_winter
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