第7話 バスルームの怪(2)

 それから次の土曜日。二人は昼過ぎに、件のマンションのある駅までやってきた。


「言われたとおり、西浜先輩から空いている部屋の鍵をお借りしてきました。水道工事の関係で、二日か三日ほど部屋を貸してほしい人がいる、ということで」

「よく空いとったな」

「一ヶ月ほど前に退去されてしまった方の部屋だそうです。その部屋のお風呂場でも幽霊が出たそうで」

「そりゃ好都合やな。何か痕跡が残っとるかもしれん」


 入り口はオートロック式だった。部屋の鍵と西浜に教えてもらったナンバーを入力する。

 エレベーターは無く、ひとつの階に五部屋。氷華が借りてきた205号室はちょうど二階の端で、階段をあがって廊下を横切った先にあった。鍵を開けて中に入ると、1LDKの空間があった。短い廊下の先のドアを開けると、キッチンがあり、その先にリビングダイニングがあった。隣には洋室があり、そこが寝室として使えるようになっている。

 ベランダからは夕暮れの光が入ってきている。


「一人部屋としては結構いいところなんじゃないですか?」

「……せやな」

「先生のご自宅と比べてどうです?」

「築六十年のボロアパートと比べんなや!」


 ギリッという音を、氷華は聞かなかったことにした。


「風呂トイレ別なとこくらいしか同じとこが無ェな!」

「じゃあ、早速ですがそのお風呂場を視てくださいよ」


 氷華は夏樹の背中を押しながら、廊下へと戻った。

 風呂場はユニットバスで、上部に点検用の扉もある。都市伝説ではこの上に人が住んでいる、なんてのがある。


「んー……」


 天井を見上げる夏樹の瞳に、赤い色が混じった。


「何も感じんな」

「それって、幽霊はこの場所にはいないってことですか?」

「上も見てみるか」


 夏樹は風呂釜に足をかけて昇ると、点検用の扉を開けた。軽くペン型の懐中電灯で照らす。埃の薄いところはあるが、これといったものは見つからない。


「どんな幽霊だったかも、もう少し詳しく聞いてみたんですが……」

「お、どんなやった?」


 扉を閉めると、降りてくる。


「最初に聞いたときとほとんど変わりませんね。男の幽霊という話でしたが、天井に張り付いていたのは共通しています。舌が長くて恐ろしい顔をしていて、爬虫類みたいに天井を這いずっていたとか。あとは長い舌で天井を舐めていたとか、目がぎょろぎょろしていて、人間じゃなかったとか」

「ふうん……?」


 夏樹の目が少し赤くなった気がしたが、すぐに戻った。

 二人は結局、がらんとした部屋に戻ってきた。

 冷たい床に、コートを置いて座る。氷華はファイルの中から紙を取り出した。


「それと、こちらが幽霊を見た方々の情報です」

「おう、貸してくれ。こっちの情報と照らし合わせるぞ」

「はい。この三人とも全員、退去理由に『風呂場で幽霊を見た』とあげています」


 差し出した紙には、三人の女性と入居していた部屋番号が書かれている。

 それに加えて、夏樹が更に書き足す。


 一人目。201号室。女性。市内の小規模出版社勤務。7年ほど在住。5ヶ月前に退去。

 二人目。104号室。女性。市内の病院勤務で、夜勤担当。2年ほど在住。2ヶ月前に退去。

 三人目。205号室。女性。市内の保険会社勤務。1年ほど在住。1ヶ月前に退去。


「こうしてみると、見事に部屋の位置も職業もバラバラですね。階が同じならまだわかるんですが……」


 これじゃ女性ということくらいしか共通点が無い。

 だがマンションの住人にはちゃんと男性も存在している。半年前にもひとり三階に入居しているが、男性だ。

 だいたい最初に出て行った女性は7年もここにいたのに、急に何かを視るなんて。


「これを見とると、時間帯も関係無さそうやな」

「時間帯?」

「夜に出るとか、深夜二時頃必ず……みたいな。ほら、夜勤の人間て、時間にもよるけど午前中や夕方になるはずやろ」

「それもそうですね」


 氷華は頷いた。

 そうなるともう、ますますわからない。


「それにしても、入居者の一覧ですか? よくそんなもの手に入れられましたね」

「ふふん、オレの調査能力を甘く見とっちゃ困る。……ま、実際は『協会』に頼んだんやけど」


 退魔師協会。

 夏樹が所属する組織である。

 そもそも退魔師というのは、協会に所属する者を総称して言う言葉だ。実際には仏僧から陰陽師、果ては牧師やエクソシストに至るまでが所属している。かつての陰陽寮にルーツを持ち、民間組織となった今もなお、幽霊から怪異、妖怪、悪魔に至るまで、人類に害をなす怪異を対象に退治やお祓いを行う組織である。呪物の蒐集や解呪、瘴気の除去を行っており、各地に散らばる登録者へ依頼として仕事が斡旋されることもある。


「どうせそんなこったろうと思いました」

「ここは管理会社がおるからな。協会に頼むのが一番早い」

「しかしこの分だと、住人の方にも話を聞いてみないといけませんね」

「ああ」


 夏樹は氷華をまじまじと見る。

「……んー。せやなぁ……」

「なんです?」

 氷華は褐色の目を瞬かせた。


 

* 

 

 

「……ただの買い物じゃないですか、これ!」


 夕飯になるものを買ってきてくれ、だなんて。

 しかし、さすがに調理器具が無いので仕方がない。近くに弁当屋があったのが幸いだ。買い込んだものを持って、マンションに戻ってくる。

 入り口で、いまから仕事とおぼしき男とすれ違った。向こうは見慣れない氷華に怪訝そうな顔をしていたが、軽く頭を下げる。


「こんにちは。新しく引っ越してきた者です」

「え、あ、そうなんですか。よろしくお願いします」


 にこやかな氷華に対し、向こうは少しびっくりしたようだったが、急いでいたのか軽く頭を下げて仕事へと向かってしまった。話を聞く暇は無さそうだ。

 ――誰かちょうどよく出てきてくださるといいんですが……。

 2階まで上がると、廊下で柵に寄りかかってスマホを触っている男を発見する。


「どうも、こんにちは」


 氷華が声をかけると、相手は少しびっくりしたようにまじまじと氷華を見てきた。


「私、205号室に引っ越ししてきた者でして。あなたもこのマンションの方ですよね?」

「あ、ああ! そうなんですよ。よろしくお願いします」

「いろいろ教えていただけると助かります。実は、荷物の方もまだ後に来る予定でして……。あなたは何号室に?」

「僕は303号室の後藤といいます。すみません。見た事の無い方だな、と思って」

「はい。ところで……」と氷華は少しだけ近づいて声を潜める。「このマンション、幽霊が出るって噂があるって本当ですか?」

「……ああー。確かにそんな噂はありますね。出て行っちゃった人が幽霊を見たとか……」


 後藤は首を傾げながら言う。


「幽霊が出る、と言われている場所でもまったく見たことがなくて。あなたはどうです?」

「いやぁ、実は僕も見たことがないんです」

「そうですか。それならやっぱり、ただの噂かもしれませんね」


 軽く挨拶をして、部屋へと戻った。


「おかえり! 待っとったぞ!」


 氷華は黙って袋をひとつ手渡す。


「中身は?」

「ハンバーグ弁当とからあげ弁当です。それから焼きそばを単体。あとこちらはお茶を二本」

「ぐっ……!」


 胸をおさえる夏樹。


「どっちも選べん……!」

「……。半分あげますよ」


 天井に向かってガッツポーズをする夏樹を、氷華は白々しい目で見ていた。


「女神か……!」

「違います」


 床に座って弁当を袋から出し始める。


「ところで、ここに帰ってくる間はどうやった? 住人と会ったか?」

「二人ほどお会いしました。ご挨拶したんですが、お一人は仕事だったようで、話せずじまいです」


 氷華は少しだけ反応を探ってから続ける。


「もうお一方はそこの廊下にいらっしゃいました。303号室の方だとおっしゃってました。ただ、噂についてはちょっとわからないと」

「……よし! お前どっちがいい!?」

「……」


 氷華は再び白々しい目で見つめた。


 それからほどなくして――氷華は風呂場を覗き込んだ。

 ――勝手に使って良かったんですかね……。

 風呂桶に湯が張っているのを確認する。軽く手を入れると、温かい。ちゃんと使えてはいるようだ。清掃後なのに勿体ない。後で謝った方がいいかもしれない。

 ――まさかあの人、自分が入りたいがためにお風呂を入れたわけじゃ……?

 ちょっと疑ってしまう。とはいえ、実際にお風呂に入っている最中に幽霊を見たというのだから、何かの切っ掛けのようなものはあるかもしれない。

 天井を見る。それらしいものはいない。

 様子を確認してから、脱衣所に戻る。少し考えてから、シャツのボタンを外して床に畳んで置く。

 それからスカートに手を掛けようとして、はたと止めた。

 近い。何かが近づいている。風呂場からだ。

 氷華は脱いだ服を畳み直すふりをして、そっと着込む。

 何かが風呂場にいる。上の方だ。

 そっと立ち上がる。磨りガラス越しではよくわからないが、確実に実体を持ったものがいた。

 向こうに悟られないように、そっとドアに近づく。

 勢いよく風呂場のドアを開けた。

 視界に、赤いものが飛び込んでくる。

 何かが、天井で動いている。

 異常に長い舌が、べろりと蠢いている。

 目が合った。白目の無い黒い目。

 そして――男だ。


「――きっ」


 きゃああああ!

 氷華の悲鳴が響いた。


「氷華!」


 すぐさま夏樹が廊下を走ってくる。


「なっ、なっ、夏樹さん!」


 がばっと夏樹にしがみつく。夏樹の声で「んぐっ」と聞こえた気がした。


「天井に、が!」


 天井を指さす。

 夏樹が上を向いた時には、天井の通気口からいまにも脱出しようとしている足が見えていた。しかしその足は――指がひとつしかなかった。その先に巨大な爪が角のように生えている。明らかに人間ではない。


「逃がすか、オラァ!」


 夏樹は懐から出した白い札を投げつけた。

 白い札に燃えたような色で文字が描かれると、足に貼り付いた瞬間に焔があがった。

 うわっ、という悲鳴とともに人影が落ちてくる。


「うわっ、うわっ! うわっ!」


 湯船の中に落下して溺れかけているが、足はやはり一本爪だ。もがく。

 まさにパニック状態。辞書で「パニック」を引いたらこの男のことと書いてありそうなほど。あまりのことに、夏樹も思わず風呂の中に手を突っ込んだ。


「ち、ちょお落ち着け!」


 がしっと肩あたりをつかみ、お湯の中から引っ張り出す。


「人間!? いえ、人じゃなかったですよね!?」


 氷華が夏樹の後からのぞき見る。

 なんだか、見覚えがある。


「……あら? この人……」


 お湯でびしょ濡れだが、見覚えがある。


「この人、夕方に会った……ここの住人ですよ!」


 303号室の後藤だった。

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