第35話 その色はとても苦い。

「…大丈夫、PK戦は私が出るから」



 宮本先輩は前の試合で頭を打って失神してしまい、今日の試合はドクターストップが出ている筈だった。

「先輩……?出れるんですか?」

「ハセガー、私ね、この大会で引退するんだ」

 高校サッカーの大きな大会は、夏のインターハイ、冬の選手権と2回の全国大会があって、その前の初夏と秋に全国各地で予選がある。

 普通、運動部の3年生は、夏の大会で引退するが、涼たちの高校では、3年生は夏で引退しても構わないし、秋の予選まで残りたい人は残っても構わないことになっている。

「大学受験するからさ、この大会で引退するんだ。今日、もう試合に出れないって聞いて、前の試合が自分の高校最後の試合になるかもしれないって、ちょっと覚悟してた」

 宮本先輩の手を取って、ゆっくりと立ち上がった。

「PK戦もハセガーに任せるしかないのかな、って思ってたけど、ハセガーがこの試合、凄く頑張っているのを見てて、やっぱり自分が出たかったって思っちゃったんだ」

 宮本先輩は続ける。

「だから、このまま引退になっちゃうのがどうしても嫌で、大久保先生に無理に頼んでPKだけは出してもらうことにした。本当は駄目かもね」

 宮本先輩はわたしの顔を見上げて、ちょんちょんと前髪の辺りをつついた。

「よく頑張ったね。後は、任せて」

「……っぁい」

 はいと、もう返事できなかった。胸から喉に熱いものが込み上げる。

 宮本先輩のけがは心配だった。だけど、もう、ゴールを守らなくていいんだ、という安心感が一気に膨れ上がってしまい、そのせいで泣けてしまった。小さな子のように宮本先輩に手を引かれて、泣きながらベンチに戻った。

「ハセガー」

「っに、にっざ、にしざああああ」

 ベンチの前にニシザーが立っていることに気づくと、宮本先輩の手から離れて、ニシザーにぎゅっと抱き付いた。

 そして、ニシザーの首もとに顔を埋めて泣いた。悲しいわけでも嬉しいわけでもない。

 重責から解放されたことと、宮本先輩にPK戦を譲ることのありがたさと申し訳なさで、胸が一杯で泣くことしかできなくなっていた。

 そんなわたしの背番号12をニシザーはぎゅっと握り、そのまま腕に力を入れて、わたしのからだを自分に引き付けた。

「カッコ良かったよ、ハセガー」

「…ぜんぜ、そんあこ、ぁい」

「全然そんなこと、なくないよ」


 ニシザーのユニフォームは、いつもの汗と芝と雨の匂いがして安心した。




 PK戦。

 それぞれのチームから一人ずつ交替でペナルティーキックを蹴る。わたしたちは後攻だった。

 敵の最初の選手が、ゴールを決めた。宮本先輩の表情は変わらない。

 こちらの最初のキッカーはゴトゥーだった。全員で肩を組んで、ゴトゥーの後ろに並び、ゴトゥーを応援し、祈る。

 ゴトゥーが軽くステップを踏むようにボールを蹴る。敵キーパーはタイミングを読むことができず、全く動けないままゴールが決まった。これで、まず1対1。

 あと4回のPKで、点を多く取った方が勝ちだ。



 宮本先輩は敵の5本のPKのうち1本を止めることができたが、わたしたちは2本止められてしまった。

 すなわち、4ー3。


 5人目のキッカーはニシザーだった。






 わたしは、ニシザーの後ろで背番号21を見詰めていた。


 いつもどおりの背中だった。



 ばんっと音がしてボールが上がった。

 ゴールネットの左上を狙っていく。





 ガンっという音がして


 ボールはポストに当たって

 ゴールネットから離れて転がっていった









 わっと、敵のチームのメンバーがゴールキーパーを囲むように集まった。



 審判のホイッスルが鳴り、試合が終わる。

 わたしたちの高校は、決勝トーナメント準決勝で敗退することとなった。






 ニシザーが呆然と立っていた。






 3年生の先輩たちがうずくまった。呻き声は泣き声だろう。


「ニシザー!!」

 わたしはニシザーに向かって走り出した。


 ニシザーは、そこに立ったまま動かない。

 ニシザーはいつも一人で居残り練習をして、自分のキックの精度を上げている。

 百発百中とまでは言わなくても、狙ったところに蹴るという技術はチームで1、2を争う。そのため、チームではコーナーキックを任されることも多い。

 それなのに、このPK戦という最も肝心な時に、シュートが決まらなかった。


 それがサッカーだ。


 確実、というものは存在しない。不確定の上に精密さを求めるシビアなスポーツだ。

 どんなに練習を重ねても完全にはなれない。


 ましてやニシザーはまだ15歳で、雨の中、100分走った直後だ。

 ニシザーがPKを外したことは、ただの出来事の一つで、誰も責めることはない。


 当のニシザー以外は。



「ニシザー!」

 ニシザーの肩に手を置くと同時に名前を呼ぶと、びくんっとその肩が跳ね上がって、わたしの手を振り払った。

「…あ、はせが……」

 ニシザーの目がわたしの目を振り返り、焦点を合わせる。そして、その目がバッと見開かれると、ニシザーは全力で走り出した。

「ニシザー!?」

 慌ててニシザーを追うと、ニシザーはまっすぐにキーパーの宮本先輩のところに向かっていた。宮本先輩は地面に座り込んでいて、それを泣いている3年生たちが囲んでいた。ほとんどの3年生にとって最後の大会で、


 そして、今日が最後の試合になった。


「宮本先輩!」

 ニシザーが座り込んでいる宮本先輩の前に立って、崩れ落ちるように土下座をする。

「っ先輩、ごめんなさい!ごめんなさい、ごめんなさ……」

「謝らないでいいよ」

 宮本先輩が泣き笑いの顔を見せて、ニシザーの謝罪を止めさせた。

「負けたのはニシザーのせいじゃないんだから謝らなくていいよ」

 宮本先輩はゆっくりと立ち上がって、ニシザーの頭を抱く。

 その宮本先輩をキャプテンの原先輩が背中から抱き締める。それを機に3年生たちがニシザーと宮本先輩を中心に一塊になった。

 その誰もが、ニシザーがPKを外したことには触れず、予選リーグからフル出場で最後まで走り回っていたニシザーを、1年生なのによくやったと口々に称賛した。


「挨拶だよー!」

 監督の大久保先生の声がすると、3年生たちの塊はゆっくりと解け、ニシザーだけがポツンと残った。すかさずわたしは駆け寄ってニシザーの腕を取り、「挨拶行こ」と声を掛けた。立ち上がると、わたしの取った手と反対側の腕をゴトゥーが取った。ゴトゥーの鼻の頭が真っ赤で、目には涙が一杯溜まっている。

 3人で揃って走り、整列に並んだ。

 1年生も2年生もみんな泣きたいくらい、泣けるくらいに悔しい結末だった。


「「「ありがとーございましたっっ」」」


 敵も味方も横1列に並んでメインスタンドに向かって、お辞儀をした後、今度は向かい合う縦1列になり、すれ違いながら全員で握手を交わしていく。


 陽湘の黒いユニフォーム。


 わたしはかつては自分も同じ色、同じデザインのバスケ部のユニフォームを着ていたので、握手をするのが不思議な感じだった。

 敵選手の中には、わたしの顔を見て、どこかで見たような、という顔をする者もいた。わたしも見たことのある気がする顔がいくつかあった。


 いつか必ず、あの黒いユニフォームに勝つ……


 そう思いながらベンチに向かった。

 少し前をとぼとぼとニシザーが歩いてたので、その手を引いて一緒に軽く走り出した。

 手を取った時に、ニシザーは軽く顔を上げてわたしを見ると、頬を歪めるように笑い顔みたいな表情を作って、それから前に向き直り、わたしに歩調を合わせるように走り出した。


 

 前を向いて。

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