五 ぼとりと、落ちた
一
この色ですかと、彼女が聞いた。もっと澄んだ色だったと、私は言った。そうやって何度も何度も繰り返して、いつしか夏休みがやってきた。
毎日のように、学校で勉強すると言い訳のように告げて家を出た。七月の終わりはひどく暑くて、じっとりとまとわりつくような、生ぬるい空気が周囲を取り巻いている。
美術室の冷房が直ったんですよと彼女は笑っていた。でも美術室は窓が開いていて、それから冷房の温度もそれほど低くはなくて、少し暑いくらいなのは変わらない。
本当は、自習室で勉強するべきなんだろう。分かっているけれど、毎日のように私は美術室に顔を出していた。彼女は朝から夕方までずっとキャンバスに向かっている。一体いつ夏休みの宿題をやるんだろうって思っていたけれど、彼女が言うには「これが終わってからやります」ということだった。「夜に家でやってますよ」と言っているけれど、本当なんだろうか。あんまり、想像ができなかった。
数学の問題集と戦いながら、彼女の姿を見る。絵に向かっている彼女は私に背を向けていて、短い髪の毛の下から白い首筋がが見えていた。
白い。
真っ青な空に浮かんだ、入道雲みたいに。
「先輩?」
彼女が振り返って、私の方を見ている。
日に焼けた私よりも、彼女の方が白かった。ちょっと暑いせいか、絵に熱中しているからか、彼女の頬が赤く色づいている。それにどきりと心臓が跳ねて、何を考えているのと首を横に振った。
「暑いですか?」
「え? う、ううん! 大丈夫!」
彼女の向き合うキャンバスには、水があった。歪んだ水面の向こうに、空があった。きらきらと輝く光があった。
どうやったらあんな絵が描けるのか、私は見ていたはずなのに分からないまま。きっとこんな機会でもなければ、私は一生こうして絵に関わることなんてなかったんだと思う。
「プール、入りたいな……」
頭がぼうっとするのはきっと、のぼせているせいなのだ。
だから、こんな風にぼうっと、彼女のことを見てしまう。こっちを振り向かないかな、とか、そんなことを思いながら。
でも本当に、夏の暑さだけのせいなのかは分からない。秋がきて、冬がきて、それでもこのままだったなら、それは暑さのせいじゃない。
でもそれなら、これって何?
彼女の笑顔が白昼夢みたいに消えてくれない。目の前に彼女がいるわけじゃなくても、彼女のことを考えてしまうなんて。絵のことを考えているんだって思ってたのに、気付いたら絵のことじゃなくて、彼女のことを考えてた。
ひとつ年下の、美術部の子。美術部は相変わらず、他の誰もやってこない。お盆を過ぎたら、みんなそろそろ来るようになりますよって、彼女は言っていた。
つまりそれまではきっと、美術室には私と彼女のふたりきり。
窓の外、野球部の声がする。バットがボールを打って、わあって声をあげている。それから、また聞こえる、蝉の声。
「先輩? やっぱり暑いんじゃないですか?」
「えっ、ぜ、ぜんぜん!」
やっぱりぼうっとしすぎてたみたいだ。彼女が私の顔を、少し心配そうな顔をして覗き込んでいた。急に近くなった顔にびっくりしてしまって、立ち上がる。そうしたら、がたんって大きな音で椅子が鳴った。
椅子が、ごろんと床に転がってる。私、何をしてるんだろ。何をそんなに慌てて、逃げるみたいにしてるんだろう。
「あ、で、でも! 飲み物なくなっちゃったから、買ってくる! 何か飲む?」
「私は大丈夫です。まだ、お茶あるので」
「そ、そっか! じゃあ行ってくる!」
やっぱりこんなの、逃げてるみたいだ。でも他にどうしようもなくて、私は財布だけを掴んで、美術室を飛び出した。
蝉の声が聞こえる。わんわんと廊下いっぱいに鳴り響くみたいに。でもこれは、私に向かって鳴いてるわけじゃない。どこにいるとも分からない、メスの蝉に向かって鳴いている。
ねえでも、それって、好きなわけじゃないんだよね。誰かここに来てって、そうやって叫んでるだけだよね。蝉は、それで良いのかな。オスの蝉は、メスなら誰でもいいのかな。蝉に「誰でも」っていうのは、何か変な感じだけど。
メスは、オスの声を聞き分けられるのかな。誰か来てって呼んでるオスの声の中から、どうやってたったひとつを選ぶんだろう。
でも、決定権はメスにあるんだ。オスは、叫ぶしかできないから。
それでも叫べるだけ、きっと良い。メスの蝉は叫ぶこともできないから、誰かのところに自分で行くこともできないメスの蝉は、じゃあどうすれば良いんだろう。
私は。
私が叫んだら、誰か見付けてくれるのかな。私は人間で、蝉じゃなくて。でも、蝉じゃないから、男の子じゃなくても叫べるよね。叫んだって、良いよね。
すうっと息を吸い込んだ。でも、何を叫んだら良いのか分からない。分からないから、結局吸い込んだ空気はそのまま肺を膨らませただけで、また私の口から抜けてしまった。
こんなの、不出来な風船だ。空気を入れたってすぐ抜けて、ぺしゃんこになって地面に落ちてしまうだけ。
蝉が、鳴いている。
私が今ここで叫んだら、彼女は美術室から出てきてくれるんだろうか。それとも、素知らぬ顔で絵を描き続けるんだろうか。
誰かって、叫ぶなら。
そうやって私が叫ぶなら、来てくれるのは彼女が良い。私の声を聞いて、彼女がここまで来てくれたらいい。でも、もしも来てくれなかったら。他の誰かが来てしまったら。そうやって思うから、私はぺしゃんこの風船のままだ。
重い足取りのまま、自動販売機のところへ辿り着いた。他には誰もいなくって、私は自動販売機にちょうどぴったりのお金を入れて、スポーツドリンクのボタンを押す。
がこんと音を立てて、スポーツドリンクが落ちてきた。冷たいペットボトルは結露して、びっしょりと濡れている。ペットボトルにしがみついていられなかった水滴が、自動販売機の取り出し口の内側に散っていた。
「あーあ……」
どうしてだか、そんな声が口から漏れた。別に、何かに落胆しているわけじゃない。でも、何かがままならない。
蝉の声が降り注いだ。何も言えない私と違って、オスの蝉は必死で叫んでる。だってオスの蝉は、そうしないと自分がぼとりと落ちて、アスファルトの上で朽ちてしまうから。
それなら、私は。叫ぶこともできない、メスの蝉は。何を言えないまま。
メスの蝉も、誰も選ばなかったらぼとりと落ちるんだろうか。叫ぶこともできないままに落ちて、そのまま命を終えるんだろうか。それなら、そのメスの蝉が生まれてきた意味って何なんだろう。
生物って絶滅したくないから、命を繋いでいくんだ。でも、その目的を果たせなかったのなら、じゃあ生きていた意味すら失われるのかな。
ぐるぐる考えてしまって、自動販売機の前で立ち尽くす。何もかも全部遠くなったみたいに、自分ひとりだけの世界になっていく。
多分みんな、こんなことは考えない。考えてしまう私はおかしくて、だから誰にも何も言えないままになるんだろう。
私がおかしいんだって、分かってるんだよ。そう思って、空を見上げた。ぎらぎらした太陽は何もかも全部を焼くみたい。なんだったかな、あの太陽に向かって飛んだら翼を焼かれて落ちた話があった気がする。
「あ」
その青い空を横切るみたいに、蝉が一匹飛んでいた。
でも、その蝉は――太陽に焼かれたのか、飛ぶ力を失ったのか、途中でぼとりと、落ちてしまった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます