第4話 小学部を見学

 予科の合唱練習を見学させてもらうことにした。小学生ばかりのクラス。ぼくもこの小学校で学んでいたからその様子はわかっているつもりだけれど、時代や考え方、子どもたちの性質や傾向は変わっていくものなのかもしれなくて、ぼくの頃の感覚とは違うものがあるかも。現在の姿を知っておきたい。それを、今の自分の指導に生かせれば。

 ぼくの受け持つ隊のメンバー数人もこの小学校から上がってきている。どんな環境から来たのかを知るのは悪くないと思う。

 ぼくは初任者だし、純粋に、単純に、他の教師のやり方を見て勉強させてもらいたい、という好奇心も。


 指示された小学生の練習部屋に行くと、元気のいい子ども達の声が聞こえる。活気があってすごくいい。

 いかにも小学生向きの、子どもの扱いに慣れたような女性教師が今日は本科の先生が見学に来ています、いいところを見せましょう、元気な歌声を聴かせてあげましょう、と言う。すると子どもたちは素直に返事をする。

 かわいいな。元気でものすごく素直だ。ぼくの生徒も素直でかわいいけれど、年齢が違うとこうも雰囲気が違うものなのか。ぼくが指導する隊とは雰囲気がまるで違う。やはり人は年齢が進むごとに落ち着いてくるものなのかな。小学生は元気でかわいくて落ち着きがない。その上、くだらないおしゃべりが多くてうるさい。元気の良さは体にも表れるらしく、あちこち動き回る。

 この状況。ぼくならどうするだろう…。この子達のこの集団。収集がついていない。

 そう思って見ているとしかし、この女性教師は一人で子どもたち全員をまとめて並ばせる。そして補助教員のピアノに合わせて皆歌う。子どもの扱いがお見事だ。

 小学生の歌声はぼくが見ている子たちとは違う。体の大きさや発声方法が違うから、というのもあるのかもしれないけれど、精神的な特徴も反映しているのかな。とにかく元気がある。勢いがある分まとまりもない。

 でも、この子たちをこうして並ばせて歌わせている時点で十分なのだろう。ぼくにはそういうことができないのかもしれないから。

 この元気のいい小学生達の歌を見ながら思う。ぼくは死ぬほど音楽理論を頭に叩き込んできた。けれど、ここでのぼくの仕事に必要なのは音楽理論でもなく、根性でもない。歌を歌うのはぼくではない。子どもたちなのだ。子どもたちを楽しく意欲的に歌わせるにはどうすれば良いのか。


 いろんなことを考えながら子どもたちを眺めていたら一人の子から話しかけられる。

「ねえねえ」

「うん?」

「先生は、向こうのギムナジウムから来たの?」

「そうだよ。ぼくは本科のカペルマイスター。さあ、君の声も聞きたいから、みんなと歌って」

「あのさ」

「うん?」

「おしっこしたい…」

「あ、おしっこしたい? ええと…」

「アンナに言ってくれる?」

「ぼくが言うの?」

「うん」

「自分で言えない?」

「先生が言って…。お願い…はやく!」

「ああ…急がないとね…。わかったよ。ええと…」

 仕方なく指導中の彼女に、この子がトイレに行きたいと言っている、と伝えるとみんな笑い出してまた全体がばらつく。彼女は小さく首をかしげて苛立ったような口調で余裕がなさそうな彼に言う。

「またなの、オスカー。みんなの練習を中断しないで、とこの前約束したはずよね? あと十分待てない?」

 子どもに、しかもこの状態で十分も待たせるのは過酷だと思う。とぼくは内心思うのだけれど、今までのことをぼくは何も知らないから口を挟むべきではない、のかな…。

 とりあえず早く許可してあげないと、と見ているこちらの方がはらはらするのだけれど、女性教師のヒステリーには声を掛けられない。この子がそんな悪いことをするようには見えないけれど日々の積み重ねがあるのかもしれない。

 そういえばぼくが子どもの頃にもこういう光景はあった。

 トイレに行ってもいいですか。だめです。

 そんなやり取りを見たことがある。それは生徒の日頃の行いに対しての制限なのだろう。

 しかし、生徒は今この瞬間困っている。現在の切迫した状況に対して、教師の感情で今までの行いの報復をするのは酷ではないのか。

 この少年はずっと文句を言われ続けている。女性教師は今までの彼の悪行を蒸し返しながら怒っている。

「もういいのでは。そろそろ…」と、ぼくが言おうかどうしようかおろおろしていたところで、その子の表情と体の動かし方でようやく女性教師もその必要を認めた様子。ようやく許可が出る。

 ぼくはただひたすら、ねちねち文句を言われて元気をなくし悲しそうにうつむくこの子がかわいそうだな、と思って見ていた。結構陰湿な感じで責め続けられていた。

 子どもにそんな言い方をしなくてもいいのでは、なんて、ぼくは今日の、この瞬間しか見ていないからそう思う。

 あまり見たくないものを見てしまったな…。そんな気分。



「さあ、行こう。先生、いいって言ってくれたよ。トイレに行くんだよね?」

「うん…」

「ぼくも一緒に行ってあげる」

 許可ももらえたのだから。この子の手を引いて部屋を出る。廊下を二人で並んで歩きながら聞いてみる。

「ねえ、あの先生はいつもあんな感じなの?」

「うん…」

「そうか…。大変だね…」

「ぼくが、悪い子だから…」

「そんなことないよ。今日はちゃんとできていたし、君は悪い子なんかじゃないよ」

「先生…」

「うん?」

「おしっこが…」

「ああ、ごめん。余裕ないよね。走る?」

 ぼくがそう言ったところでもう遅かったらしい。余裕がないどころではなく、もうここで…服からあふれた水が静かに床に広がっていく。

「あ…。間に合わなかったか…。ええと…」

 少年の目に涙が…。

「あ、ええと…大丈夫。泣くことないよ…」

「……」

「大丈夫。君はちゃんとぼくにトイレに行きたいことを教えてくれたのに、君の先生がすぐにそれを許してくれなかったからだよね。君が悪いわけではないよ」

「ぼくはいつもうるさくするから…。途中でトイレに行ったらだめなの…」

「そんなことはないでしょう? 今日はうるさくなかったよ。それにだって、本当にトイレに行きたかったんだよね? ギムナジウムの子たちだって、練習の途中でトイレに行くことはあるんだよ」

「今日は本当だったけど…ぼくは…嘘ついたこともあったから…」

「そうなの?」

「うん…」

「そうか…。じゃあ、あの先生はそれで…」

「うん…。ぼくは嘘つきだから…」

「でも、今度からはもう、嘘は言わないよね?」

「言わない…」

「そしたら大丈夫。あとで君の先生に言っておいてあげる」

「言うの…?」

「あ、心配いらないよ。このアクシデントのことを言うわけじゃない。君はもう嘘をついたりはしない。これからはちゃんとできる。だからもしこの先、君がレッスン中にトイレに行きたいと言ったら行かせてあげてね、と言うだけ」

「うん…。ありがとう…」

「君は本当はすごくいい子で、元気に歌えるんだよね?」

「うん…」

「それなら、大丈夫だから」

「……」

「とりあえず…これを片付けようかな。掃除道具がどこかにあるかな…。知ってる?」

「向こうのロッカー…」

「そしたら、ちょっと待っていて」

 とりあえず廊下の失敗の痕跡をとにかく消しておこう。こんなものを他の人に見られたらかわいそう。


 それにしても。

 掃除をしながら、ぼくはここに一体何をしに来たのか、と思う。子どものトイレに付き添おうとしたらその子が間に合わずに粗相をしてしまってその後始末、とか…。

 ぼくはカペルマイスターで、子どもの指導を学びたくてその一環で予科がどんな感じなのかを見学に来た、そのはずなのに…なぜこんなことを…。

 でも、子どもの指導というのはこういうことなのかもしれない。

 掃除をしながら何となく思う。何に気が付いたのか、自分でもその実態が朧げでよくわからないのだけど、子どもの相手をする、ということをぼくは今まで全然意識していなかったのかもしれない。

 先輩が言っていた。

 子どもには子ども向けの指導方法がある。

 たしかにそうなのかもしれない。

 ぼくはカペルマイスターをすることや子どもに歌の指導をするということがどういうことなのか全然分かっていなかったし思い違いをしていたのかもしれない。

 ぼくが担当して教えるのは音楽だけれど、実はそれはもしかしたら…そこからかなりかけ離れたものを継ぎ接ぎしていくものなのではないだろうか。

 ぼくの今までの相手は大人だった。彼らは自分で練習してきて、準備したものをぼくと一緒に本番に向けて作っていく。

 だけど、ここでの相手は子ども。トイレのことにも気を遣い、彼らを集中させるために教師はテンションを上げて威勢のいい声を出す。子どもは気が向かないと歌えない。

 ここに来て良かったのかもしれない。何か、ヒントを見つけたような気がする。


「先生…」

「うん?」

「ごめんね…」

「大丈夫。こんなの全然気にすることないよ」

「でも…ごめんなさい…」

「大丈夫。こういうことは誰にでもあるんだから。ぼくも子どもの頃は同じ失敗をしたことがあるよ」

「そうなの?」

「うん。だから大丈夫。でも…。どうしようか…。着替えなんかは持っているのかな?」

「ない…」

「そうだよね…」

「でも、事務室に行くと貸してもらえる…」

「そうなの? そしたら、行こうか」

「先生…」

「うん?」

「先生は、本当にギムナジウムの先生?」

「そうだよ。向こうで本科生の歌を見てる」

「カペルマイスターなの?」

「そうだよ。そう見えない?」

「うん…」

「そうか…。見えない、か…。本当なんだけどな…。とりあえず着替えを貸してもらいに行こう」


 二人で着替えを貸してくれるという事務室を訪ねると本当に必要なものを全て貸してもらえた。

 着替えを済ませて教室に戻る。かわいらしい歌声が聞こえる。さっきは女性教師が嫌な感じで少年を追い詰めるところを見てしまって気分が滅入るようだったけれど、勢いのあるこの元気な歌声。小学生のこの活気はすごくいい。

 もう終わりの時刻か。ここからもう一息続けたらさらに良くなりそうだけれど、子どもの集中力はそういうものでもないのかな。

 時刻になって女性教師が終了の声を掛けると子どもたちは一斉に去っていく。

 帰り際、オスカーがぼくの手をつかんで小声で「ありがとう」と言ってぼくをいじらしい笑顔で見上げた。

「先生、さっきのこと…。ありがとう…。またぼくたちのことを見に来てくれる?」

「ああ、また見に来るよ。君はすごくいい子だよね。君の歌をまた聞きに来るから、たくさん練習してもっと上手くなっておいてね」

「わかった。ぼく、いい子にして先生がまた来てくれるのを待ってる」

「えらいな。そしたら約束ね」


 子どもは、大人の予想もつかない行動をするけれど、大人はそれを理解できずに叱ってしまったりするけれど、そうではないのだろう。子どもの行動には理由があって、子どもは何も悪くない。

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