第8話 フロイライン




噓つけ、とクラウスミレは心の中でつぶやいた。大陸にその名を轟かせている帝国陸軍の大英雄がこの程度で傷つくわけがないじゃない。ほら、今もこちを見ながらニヤニヤと笑っているじゃん。


海軍にフリードリヒ・フォン・パズ大将がいるとすれば、陸軍にはハイネ・フォン・シューマン元帥がいると言えるほど、二人は帝国の両軍で最も明るく輝いている一等星たちだった。 もう一つの共通点は、数え切れないほどの功績を残し、驚異的な勢いで進級を重ね、ついに両軍の頂点に立ったにもかかわらず、まだ30代の若さで未婚であること。


帝国…いや、大陸の社交界の中心にこの二人がいることは言うまでもないだろう。


異なる点があるとすれば、フリードリヒは地方領地の田舎貴族出身であるのに対し、ハイネは建国の功臣をご先祖としている大貴族家の子孫ってことくらいだった。


そして、どんな貴婦人や令嬢にも興味がなくて、男色家ではないかという噂さえあるハイネとは違い、フリードリヒにはクラウスミレという恋人が……


「(あ、もういないんだ。そうか… 私、もう別れたのね、フリードリヒとは。)」


「し、失礼しました。 シューマン元帥」


とりあえずクラウスミレは慌てて頭を下げた。


ハイネという人のことは、社交会で何回か遠くから見たことと、フリードリヒを通じて伝え聞いたこと(その大半が非難と酷評であったことは置いといて)ことがほとんど全てだったが、いずれにせよ、クラウスミレの方から見れば家柄も、権力も、財産も、地位も、何一つ及ばない相手であることは明らかだった。


「ああ、いいって、いいって。そんなに堅苦しくする必要はないよ、マインデイ嬢。」


「私が…… 自己紹介をしました…のかしら?」


「しましたね、それもとても大声で。将校会館のラウンジで。」


【士官たちよ、聞いてくれー

私の名前はクラウス·ミレで、マインデガの娘です!】


「ひいっ!」


二番目のひいっ。 どうやらシューマン元帥にお行儀が良いと言われるのはもうダメかもしれない。


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.

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「そんなに布団の中に首を潜り込んでいると重苦しくないですか?」


「構いませんわ。 どうせ優雅で礼儀正しい令嬢と噂されるのはもう諦めたんですから。」


「ふむ、さっきまではもう少ししっかりしていて面白いお嬢さんだったのにね、残念だな。」


クラウスミレはかっとした表情で布団を脱ぎ捨て、頭をもたげた。 自分なりには毒々しくにらみつけるつもりだったが、あいにくハイネには小さくて可愛い子犬のようにしか見えなかった。


「別にシューマン元帥を楽しませようとしたわけではないですけど? 私がどんな気持ちだったのかも知らないくせに。」


「そりゃそうだな、これは失礼。」


ハイネは肩をすくめた。たぶん、あの笑顔と身振りだけでも社交界のお嬢様の7割は倒せると思う。そんな思いをしながら、クラウスミレは周囲を見回した。


天井だけでなく、壁と床を含めてあちこちが清潔すぎだと言えるほど真っ白な、殺風景な感じの部屋だった。 そういえば、さっきここが病院って言われたよね。


「ところで、私がどうして病院に……」


「ああ、ラウンジであんなに大騒ぎをおこしてから、マインデイ嬢はそのまま気を失ってしまっただけど、覚えてない?。 ちょうどうちの副官が通りすがる途中に収拾してよかったものの、いざとしたら大変なことになるところだった。今マインデイ家に人を送ったんですから、もうすぐ連絡が来るだろうね。」


「あ、 ありがとうございました。」


ハイネに世話をかかされたことを知って、クラウスミレは身だしなみを整え、礼を述べた。その時、病室のドアをノックする音が聞こえた。


「閣下、エルトマンです。ただ今、マインデイ家からの馬車が到着いたしました。」


「…んだそうだね。もう着いたのか。」


「残念だけど」というハイネの言葉を聞き流したまま、クラウスミレはベッドから降りようとした。そこでふと自分が裸足であることに気づいた。


「ああ、シューズならここに… ちょっと失礼。」


ハイネはサイドテーブルに置いていたシューズを手に取り、慎重に身をかがめた。


「あ、あれ? 今何を……?」


軍人のものとは考えにくい長くて美しい指が、クラウスミレのかかとを包んだ。 妙齢のレイディに許しも問わず手を出す、暴挙に近い失礼。だがそれを指摘する間もなく、その動きは速くて、繊細で、断固とした。


まるで花の上に舞い降りる蝶のように柔らかく、そして優雅に、ハイネはクラウスミレの足をシューズの中に押し込んだ。 そして、割れやすいガラス細工を扱うように彼女の両足を用心深く床に下ろした。


クラウスミレが気づいた時には、もうすでに慎ましくシューズが履かれていた。


「シュ、シューマン元帥…」


当惑したクラウスミレの震える声に、ハイネは顔を上げて見つめた。


「突然ですが、マインデイ嬢…」


クラウスミレにシューズを履かせた体勢のまま、片膝をついて、ハイネは目を合わせながらこう言った。


「…いや、フロイライン。俺を、貴女の恋人として欲しい。」




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