幕間 雪女-9
「黙ってどこかにいかないでくださいね」
ある日、久保は葛西にそう言った。
「なんだそりゃ」
「人というものは簡単に死にますから」
自分のやっていることを棚に上げておいてよく言う。
喉を鳴らして葛西は笑った。
「そりゃそうだ」
「私に終わりが来たときはあなたに終わらせてほしいのです」
簡単に言うと殺してくれということだろうか。
「私はこの足です。父に潰されたとき二度と普通には歩けないと言われました。別にそれで構わないと思いましたが望んでも遠くへは行けない」
だから遠くに行くときはあなたが連れていって下さいと。
寝惚けての戯言だろうと思ったが葛西は真面目に答えていた。
「いや本当に約束はできねえよ。こんな稼業をしているんだからな」
「いえ、約束して下さい」
この日の久保は頑固だった。
面倒くさくなって葛西は答える。
「約束する。俺がお前を連れていってやるよ」
ようやく満足げに久保は言った。
「約束ですよ」
ーーー
離婚しても自分にとっては父親なのだ。たまには様子を見に行きたいと思った。
それが間違いだった。
家を覗いて背筋が凍って、覗いたことを心底後悔した。
聞いてなかった。
父はすでに新しい家庭を作っていたのだ。
その上にその家族は殺されていた。
母は正しかった。
父は人形趣味でときどきおかしいのだと。
早く離れなくちゃ。
息を殺して戸坂絵美は逃げ出した。
そこに自分の高校の教師がいることにも気づかないまま。
翌日。
久保のマンション前では数人の警官がたむろしていた。
松岡が警察に殺人犯の可能性があると匿名の通報を入れたのだ。
昨日のうちに久保の自宅へ連絡が入れられ、明日聞き取りに行くので久保にはあらかじめ自宅の部屋で待っておくように伝えられていた。
最初は数名の捜査官が事件についての話を聞くふりをして、少しでも怪しい素振りがあったら取り押さえる手筈だった。
用心して数人の刑事でチームになって、久保の部屋のチャイムを鳴らす。
返事はない。人の気配もないので誰ともなく逃げたか、と囁いた。
突入するぞ、と目で合図をして刑事は久保の部屋に押し入った。ドアを開けて数人の男たちが一般の住宅に押し入る様子は異様である。
家の中を進んでいくと人の気配はないと思っていたが一室に人影がある。警官が徐々に距離を詰めてから、一気に踏み込んだ。
「おい、いないぞ」
警官の一人が言って息をのむ。
次に辺りの様子を見て「気味悪いな」と誰かが言った。
マンションの中には最初思っていたとおりに人影はない。それも当然でそこには事実、誰もいなかったからだ。
人影と思ったのは並んだ人形たちだった。居間には所狭しと人形が並べられていた。
人形たちはまるで生きているかのように滑らかな肌をし、今にも動き出しそうな姿のまま硬直している。
警官たちは思わず顔を見合わせた。
「久保がいない?」
久保の部屋に突入したはいいが肝心の本人がいなかったとの連絡を聞いて松岡は疑惑の声をあげた。
根城にしているホテルで原稿を書きながら飲んでいた炭酸飲料の缶を机へ一旦置く。
「わかった。連絡すまねえな」とだけ手短に言って松岡は携帯の通話を切った。
逃げたということだろうか。
普通に考えればあり得ない。もう居場所や犯行も知れているし、逃げ場はないのだ。
松岡は考える。こんな局面になって久保はどこへ行ったのか。
「……もしかすると」
一つの可能性に行き当たって松岡は慌ててホテルを出る準備をする。
数十分後、久保が教師をしている高校に到着すると松岡は車を降りた。そのまま松岡は慌てて校舎に走って入る。靴を脱ぐ時間さえもどかしい。
戸坂絵美。
資料を探していて気づいたが、駒澤の娘がここに通っている。姓が違うのは離婚したからだと書いてあった。
殺された二十代の女性たち。そこから作られた人形の部品。
嫌でも悪い想像ばかりが働いてしまう。
松岡が廊下を全速力で駆けていくと、学校はちょうど放課後の時間のようで授業から解放された多くの生徒と擦れ違う。
戸坂のクラスに着くと松岡はそこらへんを歩いていた学生を捕まえて聞いた。
「おい、戸坂って生徒見なかったか」
生徒は松岡を不審そうな目で見ながらも戸坂のことを知っているようで平然と答えた。
「戸坂さんならさっき久保先生の手伝いをするので美術室に行ったけど」
松岡の頭が一瞬焦りで真っ白になる。同じ生徒に美術室の場所を急いで尋ねると周りの目も気にせず松岡は廊下をひたすらに駆けた。
間に合うことを祈るしかなかった。
「戸坂さん、手伝いをさせてしまってすみません」
いえ、と答えて戸坂は美術教師の方を振り向く。整った色の白い顔に細い線。
唯はその顔になぜか既視感を覚えていた。美術教師の顔は誰かに、というか何かに似ている気がした。
学校の美術室で美術担当教師の久保と一緒に段ボール箱に入った美術の教材を運ぶ作業をしていた。
久保は足が不自由であるためあまり重い荷物を運べないのだ。
だから、戸坂たちのような善意の生徒を募って生徒たちは自主的に手伝いをしていた。
戸坂が今日ここに来たのはあの日のことについて聞きたい事があったからだ。
あの日……、美術部の生徒が美術室の窓から転落死した日のことである。
その日、戸坂は偶然クラスメイトの美術の課題を届ける用事があって一人で美術室に行った。着いた美術室にはその生徒がいたのだが、たしかにもう一人部屋の中に人影があった気がしたのだ。
その時、捉えた視界の角に見えたのが久保と似た体形だったのを戸坂は覚えている。
もしそうなら、それは。
作業に集中しているふりをして教師の方を見ないようにしながら、何気ない風を装って戸坂は切り出す。
「……先生。この前」
するとその言葉に重ねるように久保も戸坂に言葉をかけてきた。
「今日は来てくれて、ありがとうございます。助かります」
そう言って何故かふらふらと足を引きずるように教師は壁際に歩いて行く。
「……君に見てもらいたいものがあるんです」
え、と戸坂は振り向く。
次の瞬間、教室の後ろにかかっていた暗幕を久保は一気に取り下げた。
何かが大量に並んでいる。
後ろから現れた「それ」を見て戸坂は叫び声を押し殺した。
そこにはたくさんの人形があった。女や男、大小さまざまな人形が一斉にこちらを凝視する。無気味であった。全身の毛穴が開くような恐怖を感じる。
父の家にあったのと同じ人が作った人形だとなぜか分かった。
それよりなぜこんなものがここにある。
あまりの驚きに戸坂は立ち尽くす。
「君は、知っていたんですよね」
静かな口調で教師が言う。
戸坂は我に返った。逃げなければ。
引き戸に手をかけるが開かない。
「無駄ですよ」
久保が言う。
その手には美術室の鍵があった。
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