第32話

 今日も難なく? 部活が終わり、部員のみんなはそろそろと音楽室を出ていく。穂乃歌先輩と奏先輩も個室にいる水嶋先輩に声をかけて部室を出ていた。


 最近、水嶋先輩はずっと防音室にこもったままだ。


 無理をしすぎていると思う。


 私は第二音楽室から一番近い自販機で炭酸飲料を買って音楽室に戻ってきた。

 

 ちらりと防音室を覗くと、水嶋先輩は真剣な表情で楽譜を睨み、音符を書き続けている。時にヘッドホンを外し「はぁー」とため息をついて、数分すればまた楽譜に夢中になっている。


 そんな先輩をこっそり見るのが最近の日課になっている。もちろん無理はしてほしくないのだけれど、真剣で楽しそうな水嶋先輩を止めることはできない。


 にやにやが収まるように下を向いていると、ポコっと頭に何かが乗っかる。前を見ると、腕を組んで怪しげに私を見る先輩がいた。


「ずっと覗き見してるの知ってるからね」

「す、すみません!」

「声かけてくれればいいのに。馬鹿永野」

「すみません……」


 ぺこりとお辞儀をした後に、先ほど買った飲み物を水嶋先輩に渡した。水嶋先輩は目を丸くしてそれを見ていた。


「水嶋先輩、よくこの炭酸飲んでますよね? いつもお疲れ様です」

「永野って何も考えてなさそうなアホに見えて、ちゃんとみんなのこと見てくれてるよね」


 フリスビーをキャッチして持って帰ってきた犬を褒めるように、よしよしと私の頭を撫でてくる。


「ありがとう」

「いえいえ」

「もう、帰る?」

「まだ、帰りませんけど?」

「じゃあ、ちょっと話そう」


 水嶋先輩は私の腕を掴んで屋上まで手を引いてくれた。

 

 屋上で秋の涼しい風を感じながら水嶋先輩の隣に腰掛ける。彼女から話がしたいなんて珍しいと思う。しかし、「文化祭楽しみ?」と少し吃った声で話しかけてくるので、心配になった。


「楽しみです。でも、それよりも感慨深いなーって思ってます」

「どうして?」

「一年前の文化祭で水嶋先輩を見つけて、水嶋先輩の歌に憧れて、この学校に入学して……。今はその尊敬している人と一緒に歌ってます。夢みたいだなって」

「私はそんな大した人間じゃないよ」

「水嶋先輩はすごい人です! 私はあの時救われたんです」

 

 思わず水嶋先輩の両肩をガシッと掴んで真剣に話しかけてしまった。

 

 水嶋先輩はびっくりしていたけれど、片手を私の頬に添えて、微笑んでくれた。


「永野が嫌じゃなければ、その話詳しく聞きたいな」

「そんな、面白い話じゃないと思います」

「うん。それでも永野のこと知りたいよ」


 あの時のことを思い出すとドクドクと脈が速くなり、目の裏側にズキズキと痛みが走る。


 彼女の両肩を滑るように手がだらりと落下し、私は水嶋先輩に触れるか触れないかギリギリのとことで横に並んだ。


 水嶋先輩に聞こえないように何回も小さく深呼吸を繰り返し、呼吸を整えた。

 

 ふわりと右手に温かい体温を感じる。


 驚きすぎて、獲物に見つかった小動物みたいに体を硬直させた。


「無理はしなくていいよ?」


 ぎゅうっと手を握られて、手に体全体の汗が凝縮しているんじゃないかと思うくらいじとりと水分が滲んでいく。水嶋先輩は嫌じゃないのだろうかと逃げようとしたけれど、手は捕まって逃してはくれないようだ。


「中学三年生の時、友達と上手くいかなくて……。クラスに居場所がなくなっちゃったんです」


 中学生の頃と今の性格を比べると大差変わりないと思う。


 私は中学生の頃から、うるさくて、馬鹿で、みんなが笑顔になってくれることが嬉しくて、時には嘘の自分だって演じていた。それでも、みんなが楽しければいいなんて思っていた。


 ※※※


『結楽の性格って嘘くさいんだよね』

『偽善者って感じ』

『腹の底では何思ってるかわからないタイプだよね。実は腹黒そう』


 たまたま、教室に忘れ物を取りにきた時に仲良くしているクラスメイトの子たちが話しているのを聞いてしまった。もちろん、馬鹿を演じている時もあったけれど、ほとんどは本当の私だった。


 気にしなければいいのだけれど、クラスメイトのその言葉が私の心に刺さって抜けなくなった。

 

 何がかわからなくなったのだ。

 

 私のこの性格は嘘の性格で、偽善者に見えて、本当は腹黒いのかと暗示がかかってしまった。


 自分の本来の性格を見失い、あの時は真っ暗な世界を彷徨い続けているような気分だった。


 次の日から、クラスの子たちとどう接していいかわからなくなって、今度は「豹変した」と言われるようになったのだ。


 学校に行くのも苦しくて、家にいても学校に行く時のことを考えると鬱々とした気分になり、どこにいても冷たい暗闇の中にいる気分で、不登校気味になってしまった。


 そんな時、母が私の人生を変えるきっかけをくれた。


『結楽ー! 気分転換にいい所に連れて行ってあげる!』


 どんなに私が荒んでも、母だけはいつも明るく私に話しかけてくれていた。


『どこ行くの?』

『お母さんの母校の文化祭』

『どうして文化祭?』


 母はニコッと嬉しそうに笑って私の頭を撫でてくれた。


『結楽、歌うの好きでしょ?』

『うん』

『お母さん、歌は上手じゃないけど、聞くのは好きだったんだ。今はどうかわからないけど、お母さんの母校、合唱部すごかったんだよ?』

『そうなんだ』

『そんな興味なさそうにしないの。気分転換に合唱聴くのもいいんじゃない?』


 母は十五歳になった私の手を引いてくれた。

 恥ずかしかったけれど、そんなの関係ないと笑い飛ばすような明るい人だ。


『同い年の女の子でね、すごい綺麗な歌声の子がいたんだ。紫音しおんちゃんって子。 今、元気かな〜』


 母は何も話さない私に対してずっと楽しそうに話しかけていた。

 

 しかしその日、暗闇の中でもう動けないと嘆いていた私に一筋の光が差した。母に感謝しても仕切れないだろう。


 私は水嶋先輩に出会った。


 合唱を聴いたくらいで私のこの黒闇が晴れるわけがないと思っていた。


 しかし、私の心は簡単に水嶋先輩に動かされてしまった。


 たくさん傷ついて、暗黒で苦しくもがいて、胸が何度も引き裂かれそうになって、誰も信じられなかった私。


『手紙〜背景 十五の君へ〜』


 多くの人が知るポピュラーソング。

 そして、今や合唱でもよく使われる曲だ。


 私も今まで何回も耳にしていて、歌詞だって知っていたはずだ。しかし、水嶋先輩が歌う彼女の想いが乗ったその歌は、まるで私の心の叫びのようで、気がついたら目から熱い涙が何滴も流れていた。


『お母さん。私、ここの合唱部で歌いたい』

『わかった。お母さん応援するね』


 手汗が滲んでいてもお母さんは手を握ってくれていて、最後まで合唱部の声を耳に焼き付けた。


 ※※※


「あの時は苦しくて、辛くて、人生終わりだーって感じてたんですけど、『手紙』の合唱聴いて、私の心の叫びみたいな歌を聞いて、たくさんの勇気をもらいました」


 あの時のことを思い出したせいで、目にはじわっと熱すぎる液体が滲んでいた。


 水嶋先輩は心配そうに私のことを見つめている。

 

 それでも、水嶋先輩の顔をまっすぐと見つめて彼女の両手をぎゅと握った。


「水嶋先輩、ありがとうございます」


 そこまで伝えると、私の意思とは関係なしに勝手に涙がボロボロと地面に落ちていく。

 

 水嶋先輩は頬を伝う涙をそっと拭いてくれた。


「届かないと思っても、想いって届くんだね」

「……?」

 

 どういうことだろうと思って、先輩を見つめると鼻からスーと息を出し、にこやかに微笑んでいた。


「お母さんが亡くなったの中学三年生の時なんだ。あの曲を歌う時、今の自分に合った曲だなって思った。誰にその想いが伝わるわけもないのに、自分の気持ち全部乗せて歌ってた」


 水嶋先輩は私の頬から手を離して、頭を上から下にそっと撫で下ろす。焼けてしまいそうなほど真っ直ぐと私を見つめてくるので、ごくりと唾を飲んだ。


「結楽にはちゃんと伝わったんだね」


 水嶋先輩の栗色の綺麗な瞳には透明な雫が浮かんでいて、目尻が優しく下に落ちるのと同時に輝く雫が重力に従い落下していく。


 神秘的とすら言えるその光景に胸が、全身が、震えるほどの熱で満たされた。

 

 私は水嶋先輩の小さすぎる体を壊れてしまいそうなくらいぎゅっと抱きしめていた。

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