第8話

 翌日――。



「昨日は本当にごめん!」


 私は両手を合わせて夏鈴にお辞儀をした。夏鈴はぽかーんとした表情で私のことを見つめている。


 彼女に「言いたいことがあるのならぶつけ合おう』と言ったのは私だったのに、私は彼女から逃げた。


 そのことを昨晩、家で深く反省した。


「昨日、どうしたの?」

「ごめん。夏鈴に嫉妬した」

「嫉妬ー?」

「私、頑張って頑張って……やっと水嶋先輩に認めてもらったのに、夏鈴は初日で向いてるパートとかも任されてていいなって。それで酷い態度取るなんて間違えてた。本当にごめん」


 腰を曲げ、誠心誠意彼女に謝罪するとクスっと笑い声が聞こえてくる。


「私は満遍なくこなせるだけだよ」

「それがすごいんだよ!」


 昨日は自分の中に夏鈴に対して黒い感情が芽生えていたが、今は彼女を尊敬する気持ちの方が強い。

 人前で歌うことすら緊張するのに、すぐに練習に馴染んで、水嶋先輩と仲良くなれるなんて本当にすごいと思う。


 夏鈴は窓の外を眺め、少し切なそうな表情をしていた。


「私からしたら結楽の方がすごいと思うよ」

「どうして?」

「私はなんとなくなんでもできる人間だったけどさ、これって言える好きなものがなくて……。自分って普通じゃないのかなって思ったりすることもあった。だから、合唱が好きって言えて、真っ直ぐに先輩を追いかける結楽のこと見て、嫉妬してたんだよ?」

「私に?」

「うん。好きなものがあって羨ましいなって」


 落ち着きがあるけれど、込められた感情を抑えるような声だった。

 きっと、感じる感情は違うのかもしれないけれど、夏鈴もまた、私に対して羨ましいと思える部分があったのだろう。


「それなら、これから一緒に好きなもの見つけて行こうよ!」


 私がそう伝えると、目の前の少女は柔らかく微笑み、目が細くなっていた。


「いいね、その考え。結楽らしくて好き」

「なんか、お互いの良いところが羨ましくて、嫉妬しちゃうって、私たち仲良しじゃない?」

「たしかにね」


 夏鈴はふふっと嬉しそうに笑っていた。

 彼女の表情を見て、私も笑みがこぼれる。


 ちょっと険悪な雰囲気になってしまったけれど、ちゃんと彼女と話せてよかった。


「今日も一日頑張ろうね」

「うん! 夏鈴、いつもありがとう!」


 夏鈴と話し合っていると、ホームルームが始まる少し前の時間に校内放送が鳴った。


『一年B組の永野結楽。至急、職員室の上村先生の所まで来なさい』


 ピンポンパンポーンと音が鳴り終わると、校内の生徒たちが奏でる生活音が流れ始める。


 なんだろう……と急に不安が押し寄せた。


「結楽、大丈夫? 一緒について行こうか?」

「ううん。大丈夫!」


 私は駆け足で職員室まで向かった。

 

 上村先生は全く関わりのない先生だ。なぜ、そんな先生に呼ばれるのかよく分からない。入るだけでも緊張する職員室に入って、自分の名前を名乗る。

 座席表を見て、上村先生の所まで歩いた。


 上村先生はかなりガタイのいい男の先生だった。彼は私に気がついて、ふっと振り返ると、眉間に皺を寄せたまま口を開き始める。


「永野結楽……合唱部の勧誘行動の一切を禁止にする」

「なんでですか!?」


 職員室に響き渡る声量で先生に問いかける。

 一気に先生たちの視線が集まったので、体を縮こめた。


「合唱部は今年で廃部が決まっている。もう、部員を集める必要はないだろう」

「学校の規則の必要人数集めます! たしか六人ですよね!」

「そういう問題じゃない。あと、五月の定期演奏会に勝手にエントリーしてたが、それもなしだ」

「なんでですか!?」


 全然納得いかない。

 なぜ、この先生に全部決められなければいけないのだろう。


 反論を考えるが、村上先生は私に言い返す暇も与えず言葉を投げてくる。


「私は合唱部の顧問だ。私がだめと言ったらだめだ」

「なんで……」

「わかったら、教室に戻りなさい」


 肩を無理やり押され、職員室を追い出された。


 部活の練習に一度も来たことがない彼に、なぜ、私たちの選択肢は奪われたのだろう。


 どうしたら……。


 とぼとぼと歩いて教室まで向かうと、夏鈴が心配そうに私の顔を覗き込んできた。


「結楽どうした?」

「もう、合唱部の勧誘とかやめろって言われた。あと、五月の定期演奏会も合唱部は参加させられないって」

「えっ!?」


 夏鈴が珍しく大きい声を出していたので、目を見開いて彼女を見つめた。どうやら、彼女も納得できていない様子だ。


 私もさっき同じような気持ちになった。

 全然理解できない。

 

 ただ、水嶋先輩と歌いたいだけなのに――。


 なぜ、それすらもこの学校では許されないのだろう。


「放課後、水嶋先輩に聞いてみる」

「そうだね。私、今日予定があっていけないんだ。本当にごめんね」

「ううん。いつもありがとね」


 私は空ろな状態で夏鈴にお礼を言っていた。


 授業中も頭は上の空で、何も入ってこない。

 ただひたすらに早く授業が終わることを願った。


 授業が終わり、信じられないスピードで音楽室に駆け込む。


 急ぎすぎたのか、水嶋先輩はまだ来ていない。


 窓際には彼女がよく身につけているヘッドホンが転がっていた。


 いつも水嶋先輩が寄りかかっている壁に背を付けると、膝の力が抜けて崩れ落ちるように床にお尻を付けた。


 足を抱えるように座って、膝に顔を埋めてドクドクとうるさい心臓の音を聞くしかなかった。


 早く、水嶋先輩に会いたい――。


 ぼやぼやと水嶋先輩と話すことを考えていると、音楽室の扉が開く音がした。


 スタスタと歩く音が聞こえ、心が安らかになっていく。

 水嶋先輩の足音だ――。


 顔を上げると、いつもどおり不機嫌そうな水嶋先輩がいる。


 大して力の入らない足に力を込めて、立ち上がり、水嶋先輩に近づくと眉にぎゅっと力が入っていた。


「水嶋先輩、すみません。顧問の上村先生に合唱部の勧誘は禁止、五月の定期演奏会で合唱部の出番はなしだって言われました」

「知ってる」

「私はどうすればいいですか……?」


 水嶋先輩は私を通り過ぎ、ヘッドホンを首にかけていた。


 初めて会った日と同じ雰囲気を感じる。

 水嶋先輩からよくない言葉が返ってくるのではないかと思うと、鼓動が速くなっていき、吐き気を感じる。


「もう、合唱部ことは諦めなよ」

「水嶋先輩はそれでいいんですか!? 一緒に頑張ろうって決めたじゃないですかっ!」

「一緒に頑張るなんて言ってない。永野が勝手に言ってただけでしょ」


 その言葉につま先から頭のてっぺんまで凍りそうな勢いで体が冷えていく。


 そうか……。

 ずっと私だけだったんだ……。

 馬鹿みたいに一緒に歌いたいって言ってたのは……。


「それに永野がどんなに頑張っても、合唱部の廃部は免れないよ」

「どうしてですか……?」

「どうせ今回も穂乃歌が先生たちに『合唱部の定期演奏会はなしにしろ』とか言ったんでしょ。あと、永野にも直接指導するように手を回したんだと思う」

「なんでみんな島田先輩の言うこと聞くんですか?」

「自分が大切だからに決まってるでしょ」


 水嶋先輩は窓の外を物寂しげに見つめていた。


 どこか苦しそうなその表情に、私の胸も締め付けられていく。呼吸が浅くなり、私の思考は停止していた。


「あの時、私が間違えたから全部狂った。これ以上、誰かを巻き込みたくない」

「何があったんですか?」

「永野には関係ないことだから。もう、合唱部に関わるのはやめて。最悪、クラスでもはぶられるよ。学校人生めちゃくちゃになる……SNSで書かれているとおりに……」


 水嶋先輩は眉を顰めながら淡々と告げ、ゴミ箱に何かの書類を捨てて、音楽室を出ていってしまった。


 私は膝を地面につき、崩れるように身体から力が抜けていく。


 心にぽっかり穴が空いた気分だ。


 なぜ、この学校ではやりたいこともできないのだろう。

 なぜ、幸せな居場所も歌いたいという想いも奪われてしまうのだろう。


 水嶋先輩にも拒絶されて私……。


 悲しみに打ちひしがれ、音楽室を出ようとすると、水嶋先輩が捨てていた書類が目に入った。


 よく見ると楽譜のようだ。


 私はゴミ箱を漁り、その楽譜を広げた。


 そこには事細かにアドバイスが記されている。『永野用』『夏鈴用』と書かれた付箋が貼られていて、どちらにも違うアドバイスが手書きで書き込まれていた。


「水嶋先輩だって、馬鹿じゃないですか……」


 どうやら、暗闇の中にいる私を救い出してくれるのはいつだって水嶋先輩らしい。

 

 水嶋先輩は本当にすごい人だ。

 どんな時でもどん底にいる私を引き上げてくれる。


 もう、諦めようと思っていた。

 

 こんなに辛く苦しくなってまでやりたいことなのだろうか……と迷っていた。


 諦められるのならば、諦めた方が楽だったのかもしれない。

 

 しかし、水嶋先輩のこんな温かい楽譜を見たら、私はもう諦められない――。

 

 自分の学校人生とかどうでもいい――。


 音楽室の隅にぺたりと座り込んで、胸が熱く締め付けられるような楽譜をしばらく眺めていた。

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