書簡二(絵國淑哉宛)
芝蘭堂書房 第三文芸部編集部気付
絵國淑哉様
藤の花房も垂り、薫風に薄紫の鮮やかに
絵國様も、お元気でご活躍のことと存じます。堅苦しい挨拶だが、最後に無礼を働くわけにもいくまいと思って筆を執る。恐らく、この手紙が届く頃には藤も見頃だろう。正真正銘、僕が絵國に宛てる書簡はこれが最後だ。敏い君なら、濁した前口上でも察しがついたに違いない。
これは紛れもなく遺書だ。置手紙と思って読んでくれると有難い。
現住所が分らず、編集部気付で送ったことは申し訳なく思う。何せ、この手紙は私生活を開陳するようなものだろうから。秘密主義の、齢も経歴も出さない君の私生活を暴露するのは気が引ける。心配なら、担当編集者の口を塞いでおくといい。君が以前に、最も信頼できると語っていた編集者を選んだ。君の書籍が、多くの出版社から上梓されている中でもね。
絵國と再会したのは二年前のことだ。君は、サイン会に現れた僕に驚いていた。
数ケ月後、文芸誌に短編を発表しただろう。男同士の、露骨な性描写で話題を攫ったあの短篇だ。私生活を投影するとは思わなかった。濡場はホテルで過ごした時の回顧のはずだ。僕も短編を読んで思惑に気づいた。これが絵國なりの復讐に違いないとさえ思った。
或いは、君の誠実さだったのか。俺の哀願を、律儀に叶えようとしたのかもしれない。
俺は、いや僕は、あの晩君と寝るべきではなかった。サイン会の直後、僕から君をホテルに誘った。短編の中では、主人公が呼んだことになっていたけれど。君の前で、もう筆を折ると、手酷く抱いてくれと懇願した。君と寝れば、僕のあらゆる尊厳は蹂躙されると考えていた。
男としての服従だ。人間としての屈服といってもいい。
二度と筆を持ちたいなどと思わなくてもいいようにしたかった。
僕は自分を、絵國の影法師のような生物だと思ってきた。影法師だなどと、傲慢な発言かもしれない。現在では、同窓生であるほかに共通項もないのだから。昔、文芸研究会も辞して、絵國と小説の執筆に明け暮れた。誰が、そんな瑣末な事実にかかずらうと言うのだろう。
僕は、後輩である君に慕われていることが嬉しかった。
純真無垢に、親愛と期待だけを抱いていた時期すらあったのに。
絵國の成功を、最初から恨めしく思っていた訳ではない。新人賞を得て、処女作から三作を数えるまでは固唾を飲んでいた。絵國の前途を、我が事のように見守っていた。二、三作品を出して世に埋もれていく作家は多い。だが、絵國の活躍は、両目が眩むほどに鮮やかだった。
君の小説を読む度、僕の矜持が鑿で削られる心地がした。
文壇において、絵國は幻想文学と耽美小説の旗手と目されていった。
翻って、僕は作家志望の下請けの物書きだった。同窓生だ、などとは口が裂けても言いたくなかった。愚かにも、作家になるという希望を捨てきれないでいるうちは。粛々と小説を書き、公募に落ち続けて暮らす金に困った。若い頃、男相手に身売りをしていた時期もある。
手際に合点がいっただろう。あの晩、絵國には黙っていたけれど。
絵國が、あの行為に何を見出したのかは言うまい。短編を読めば、主人公に擬された君の機微にも察しがつく。ただ、僕は、君が思うほど惰弱ではなかった。性行為でさえ、僕の精神を真に敗北せしめるには至らなかった。思えば、身売りをしていたのだから当然のことだろう。
僕は、徹底的に自分の尊厳を凌辱されたいと願っていた。
君の手で、僕の尊厳を蹂躙されたい。執心も、物書きとしての矜持もすべて。
実際に、僕はそう祈りながら組み敷かれていた。情事を終えた時、僕はすべての妄執を失っているはずだとね。絵國に、「先輩」と呼ばれるまでは順調だった。あの時、君との記憶を思い出さなければよかった。親愛の情も、先輩としての優越感も蘇らなかっただろうから。
結局、僕の目論見は外れた。失意に沈まなかった、と言えば嘘になる。
その挫折も、絵國の発表した短編によって挽回された。二度目、いや三度目の挫折は、君の書き起こした小説が齎した。僕の精神を、完膚なきまでに蹂躙したのはあの短篇だ。再度、主人公である君に姦淫されたのだと思った。あの晩、絵國が意固地になって体を重ねたように。
僕は、誌面を捲りながら、身震いを止めることができなかった。
これこそが、僕の望んでいた真の敗北に違いない。
僕は、君に犯されたのだ。小説という虚構の中で凌辱されたのだと。
短編を読んで、僕はようやく屈服することを許された。絵國の才能、小説家としての手腕に額ずくことを認めた。君は、本物の「作家」に相応しい人間だ。学生時代に、君の羽化の瞬間に立ち会えた僥倖に感謝している。もっとも、出藍の誉れと誇るには驕りも甚だしいだろう。
僕の未練は、塵界には残っていない。愚かな執着も、君の栄耀の前に離散した。
生涯で、絵國だけが僕の精神に君臨し続けたと言っていい。二年前、既に筆を折ったが、辞世の仕度には時間がかかった。末尾の住所に、自筆証書遺言を残してある。僕の著作は、死後すべて君に委譲すると記しておいた。著作権を含め、絵國に財産をすべて遺贈するつもりだった。
僕の親族は、ほとんど死んでいてね。遺言執行者も君を指定させてもらった。
どのみち、僕の小説などを欲しがる者もいないけれど。
封筒に、最寄駅のコインロッカーの鍵を同封しておいた。自筆証書遺言と小説を納めたUSBメモリを残す。出来れば、七日以内に足を運んでくれると有難い。読者からの貢物と思って受け取ってほしい。絵國に贈る、最期の餞別を無碍にしないでくれというのが頼みだ。
自宅に遺書を残すが、迷惑が掛かると思ってこの手紙を送る。
死後、編集部を通して電話がいくだろう。どうか、無事に手紙が届くことを祈る。
最後になるが、絵國淑哉の書く小説を心から愛していた。草葉の蔭から、絵國の活躍を見守ることにする。絵國の作品が、多くの読者に慈しまれることを望む。君の活躍が、僕の生きた証左のようなものだ。僕は、絵國のことを、俗世の誰よりも見続けてきたのだからね。
今後も、どうか末永く、文壇でご活躍なさることをお祈り申し上げます。
ご健筆と、またご健勝を誰よりも願っています。
藤尾瑛臣
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