第13話 姿形の無い敵
今日の部活はまともに練習ができなかった。
というのも、ちょっとしたいざこざがあったからだ。
休憩中に柔道場前の窓ガラスが割れて、それを
倉石さんも言い返したが、相手は五人ということもあって多勢に無勢だった。私も加勢したが、大きな声とまくしたてるような早口に圧倒され萎縮してしまった。
そんな私とは違い、倉石さんは五人の先輩相手にも怯むことなく自分の無実を主張し続けた。ガラスの割れる音を聞きつけた先生が駆けつけると、そのバレーボール部の先輩と倉石さんが事情聴取のために職員室に連れて行かれてしまった。
「
部活が終わって片付けをしていると、
「そのカバン、チャックのところほつれてるよ? カバンってずっと使うものだから、高いやつのほうがいいんだって。私のはデパートで買って、一万円くらいしたんだけど、ほつれたこと一回もないんだ」
その会話の意味が分からなかったが、今はそんなことよりも倉石さんだ。先生に連れていかれて、どうなっちゃったんだろう。
バレーボール部の先輩たちと揉めてたとき、私もちゃんと言えばよかった。倉石さんは割ってないですって、言い切ってしまえば、倉石さんを助けてあげられたかもしれない。
倉石さんは以前、佳代子さんにクリアファイルを取られそうになってる私を助けてくれた。あのときのお返しをするチャンスだったのに、私は先輩たちの勢いに負けて押し黙ってしまった。
「もう! 聞いてるの? 白亜ちゃん! また明日ね!」
「あ、はい。また明日」
佳代子さんが私の前でわざとらしく頬を膨らませていたので、そこから目を背けるように会釈した。
第二音楽室からどんどんと人が出て行く中、窓際に倉石さんのリュックが置いてあるのが見えた。横には楽譜も置いてある。倉石さんの楽譜はメモがびっしり書いてあることが部内でも有名で、その楽譜も例に漏れず文字で譜面が埋まっていた。顧問の坂井先生に注意されたところ、意識するように言われたことがビッシリと書いてある。歌詞見えるのかな、とも思ったが、とっくに覚えたのだろう。暇さえあれば楽譜を眺めていた倉石さんの姿を思い出す。
誰も気付いていないようだったので、私はリュックと楽譜を持って第二音楽室を出た。
時計を見ると、すでに六時を回っていた。しかし、第二音楽室の前で待っていてもなかなか倉石さんは帰ってこない。仕方ないので職員室に行くことにした。
廊下から中を覗くも先生の姿しか見えなかったが、生徒指導室からは倉石さんの声が聞こえた。倉石さんの声だとすぐに分かった。倉石さんは部活ではソプラノパートを担当しているが、地声は低く、若干舌を巻いたような喋り方をする。
これは時間かかるだろうなと思い、私は第二音楽室の方へと戻った。
六時半になると、先生たちも帰宅しはじめる。
沙希さんにはメッセージで事情を話したが、私もそろそろ帰ったほうがいいかもしれない。しかしこのカバンはどうしようと、困っていたところで倉石さんが向こうからやってくるのが見えた。
暗闇ではあったが、倉石さんが私を見て驚いているのが見えた。倉石さんは少し早足になってこちらへ駆け寄ってきた。
「どうしたの?」
「あの、荷物。置いてあったから」
「そっか。ありがとう」
楽譜とカバンを受け取ると、倉石さんが踵を返す。私も後を付いていく形で玄関へと向かった。
「倉石さん、ごめんね。私、全然力になれなかった」
「いいって。ああいう奴らは人目があるところでは絶対に非は認めないから」
「そういうもの?」
「そう。あいつらは、見えない敵とばっか戦ってる」
靴を履き替えようとしたが、つまずいてしまった。倉石さんの背中に激突して、顔をあげる。
「生徒指導室で問い詰めたら、簡単に吐いてくれたよ。最初はゴネてたけどね」
「その割には、時間かかったね?」
「机に足乗せるなって、全然関係ないことで怒られてた」
「生徒指導室で机に足乗せたらそりゃ怒られるよ」
「あたし椅子に座るの苦手なんだ。腰痛いし」
なんか文句あんの? とでも言いたげな顔に、私は思わず笑ってしまいそうになった。
「倉石さんって、無敵だね」
「敵がいないわけじゃない。ただ、見える敵としか戦わないだけ。
「私?」
「用があるんだと思った。まさか荷物を届けるためだけに待ってた?」
校舎の外に出ると、すでに先生の車が駐車場からなくなっていた。校門にはロープがかけられていて、出るときにはあれをくぐるかまたぐかしなければならなそうだ。
私は玄関を出たところにある花壇の近くに腰を下ろした。倉石さんは座らずに、私の正面に立ってこちらを見下ろす。
荷物を届けたかったのは本当だし、この前助けてもらったお返しをしたかったのも嘘じゃない。だが、私はずっと今朝のことが頭から離れなかった。
「朝にした、
「沙希さんって名前なんだ」
「うん」
誰もいない学校の玄関で、私は自分の罪を認めるかのように自白する。
「倉石さんはお父さんのこと好きなんだよね」
「そうだけど」
「それって、どういう好き?」
「人間として、尊敬してる。常に探究心を持って行動してるし、歳を取っても感性が衰えていない。価値観は広くて懐も深い。おじさんって説教臭かったり、余計なお節介ばっかりしてくるから嫌いだけど、パパはそういうおじさんじゃないから好き」
もしかしたら、私は同族が欲しかったのかもしれない。
人間のフリをしているけど、実は家族に恋する怪物なんだ。絶対相容れられるはずないのに、やばいよねって。世間話みたいに自分の罪を中和したかった。
しかし、倉石さんの『好き』を聞いて、私はショックを受けていた。
「喜美のとはちょっと違うかもね」
「分かる?」
「あたしのは独占欲と、一種の自慢に近いから。喜美のは? 恋?」
「こ、い?」
ずっと避けていた言葉が、重くのしかかる。それは甘酸っぱく、青春の一ページを飾るにふさわしい人間の純粋な願いの感情だ。そのはずなのに、私のそれは、ドス黒く、そのページだけを切り取って焼却してしまいたいほど淀んでいる。
「変、だよね」
頷いたり、肯定する勇気はなかった。回り道をしながら、会話を繋ぐ。そのくせ、どうすればこの呪縛から解放されるのか、知りたくて、救いを求めてしまう。
「そうだね」
倉石さんが綺麗事で人を慰めるような人じゃないことは、もう分かっている。私は顔をあげて、倉石さんの冷たい眼差しに問いかけた。
「気持ちは伝えた?」
「まだ。伝えられないよ」
「伝えられない理由が分からない。呪いでもかけられた?」
「うん。伝えたら、呪いが解けて、怪物になっちゃう」
私は元々人間じゃない。人間と仲良くするために人間の姿をしているだけの怪物だ。
「怪物でもいいんじゃない? あたしは人間が嫌いだから、自分から怪物になった」
倉石さんの言葉の意図がくみ取れず、小首をかしげてしまう。今のはあざとかったと、自分でも思う。そんな私を見て、倉石さんが微笑んだ……気がした。
「あたしもパパに恋をしてた時期あるよ」
「そうなの!?」
ハッとして顔をあげるが、周りには誰もいなかった。
「でも伝わらなかったし、報われるとも思わなったからやめて、違う好きに変えた」
「あきらめちゃったの?」
「叶うばかりが恋じゃないでしょ。それは家族同士だろうと、女同士だろうと、変わらない」
それは、たしかにそうだ。恋焦がれて、思いを伝えて、報われないこともある。そういうときは辛いし、苦しいし、死にたくなるときだってあるかもしれない。だが、それが恋だ。
咲希さんと私の間にある関係は、この恋という儀式に関与はしない。あるのは平等な、罰と褒美だけだ。
職員玄関から出てきた教頭先生に見つかってしまい、私と倉石さんは校門を出た。
別れ際、倉石さんが私を呼び止めた。振り返ると、倉石さんはやはり、ブレザーのポケットに手を突っ込んだまま、重心のずれた、しかし凛とした立ち姿で私を見ていた。
「喜美は伝えないの?」
「私は、むりだよ」
「どうして?」
「勇気がない」
そもそも、勇気とはなんだろう。無謀とは違うのだろうか。私はいつだってリスクを考えて動くし、得られるものが多かったとしても、リスクがある以上進んで茨の道を歩くことはない。
「それに、倉石さんみたいに強くないよ」
思えば私は、小さい頃から内向的で、感情を吐露するのが苦手だった。なんとなく人の顔を眺めながら、適切な相槌を繰り返すだけで、自分から会話の舵を切ったこともない。
「ヨハネス・ブラームスは、恩師であるシューマンの妻、クララに恋をしていた」
倉石さんは指を指揮者のように振って、ブラームスの代表曲『ハンガリー舞曲第5番』を口ずさんだ。報道番組や、CMなんかでも使われている、誰でも一度は耳にしたことのある曲だ。
そういえば、入学式の日も倉石さんはこうして鼻歌を歌っていた。今思えば、あのときの鼻歌もこの曲だった気がする。
「ブラームスはきわめて実直でまじめな性格だったが、自分について語りたがらない引っ込み思案でもあった。彼の内面的な性格は有名。だけど、その寡黙な性格だからこそ、緻密な感情表現を音に載せることができたんだと思う」
ヨハネス・ブラームスはドイツの作曲家で、ベートーヴェン、バッハと並びドイツ音楽における三大Bとも称される。私が小さいころ、何度練習してもうまく弾くことのできなかったピアノソナタ第3番を作ったのもこのブラームスだ。
倉石さんの口からブラームスの名前が出たことに驚いたが、合唱をしていると、そういう知識も自然と増えるのかもしれない。
しかし、ブラームスが引っ込み思案な性格だったとは知らなかった。作曲家とは、なんだか傲慢で自信家な印象があるから意外だ。そもそも、知らなかったというよりは興味がなかったのだが。
「そんなブラームスだけど、恩師の妻に恋をするということが『禁断の恋』である自覚はあったようで、たいそう悩んだんだって」
禁断の恋。それは、絵本や童話に出てくるような、王子様と町娘の逃避行のような、遠く、だけど、どうしてかとてつもなく近く感じてしまう過ちの総称だ。
「さて問題、ブラームスは自分の気持ちをクララに伝えたでしょうか」
「もしブラームスが、倉石さんのいうとおり内向的な人なんだとしたら、伝えられないと思う。自分のことを語りたがらない人なんでしょ? しかも、恋をしたのが恩師の妻だなんて」
「伝えられなかったで、ファイナルアンサー?」
昔のテレビ番組をまとめた動画で見たことのある、決まり文句を倉石さんが言う。心なしか、表情まで似せてきている。私もそのテレビ番組よろしく「ファイナルアンサー」と答えた。
倉石さんは永遠にも近い間を置いてから、「残念」と言った。
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