第28話 近づく、遠くなる

「及川めぐみ……」


 先生の口から初めて、めぐみの名前が出た。

 頬にチクチクしたものを感じて見上げると、地面に落としていた先生の視線がいつの間にか、私の顔に注がれている。


「めぐみさんは明るくて、元気で、裏表がなくて。学校の人気者でした」


 学校の人気者だったという記憶はない。考えてみれば私は、及川めぐみの性格を知らない。私が知っているのは思い出の欠片であって、めぐみの性格ではない。


「自分の母は、中学一年のときに亡くなりました。その前から入退院を繰り返していて、家にいないことが多かった。めぐみさんは、おばあちゃんが作った料理をおすそわけだと言って、持って来てくれた」

「あっ……おすそわけの人って、めぐみだったの?」

「知らなかったですか?」

「はい」


 冴木先生は私の目をじっと見た。直視してくるのは珍しい。いつもは、視線が少しずれているのに。

 先生の茶色の瞳が(本当に?)と、疑問を投げかけているような気がする。

 嘘はついていない。前世の記憶は砂のように指の間からこぼれ落ち、風に飛ばされて、どこかに行ってしまった。


 居心地の悪さに、私は髪を撫でつける動作をして目元を隠した。頭を真横に動かして、先生の視線から逃げる。

 大通りには車がひっきりなしに行き交っていて、バシャバシャと音を立てて、道路に溜まった雨水を弾き飛ばしている。


「そうですか……。雰囲気や言動が似ているので、親戚だったりするのかと……」

「違います」

「そうですよね」


 耳を突くような雨音とは違い、先生の声は静かで落ち着いている。その声色に失望が感じられるのは、気のせい?


「めぐみさんって、どういう人だったんですか?」

「めぐみさんは……僕のことを、頭がいいし協調性もあるから、都会に出ても成功すると言ってくれた。でも千葉に越して来て、勉強ができるのは村の中の話であって、特別に優れている人間ではないことを思い知った。協調性も吹き飛んだ。訛っていると笑われて、仲間はずれにされて。僕は、出版社に入って図鑑を作るのが夢だった。けれど、新しく母になった人はコントロールしたい人で、教師を目指さないなら、大学に行かせないと脅す人だった」

「ひどい! でもなんで、教師なの?」

「母は高校を中退していて、肩身が狭かった。母の親戚は教師が多くて、そこに僕を加えることで、輪に入りたかったみたいです」

「勝手すぎる! 先生の気持ちはどうなるの⁉︎ ひどいよ!!」


 先生は、困ったように笑った。曖昧な微笑。

 

 家族仲が良くないと感じたのは、当たっていた。コントロールしたい義母の下で、ぴろりんは感情を抑えて生きてきた。

 現実に打ちのめされ、嘲笑され、拒まれ、否定され、自信を失ってしまったぴろりん。

 苦しいとき、そばにいてあげられなかったことが悔しい。


「私は先生の味方です!! 尊敬しています!!」

「冴木のくせに冴えていない、擬態なのに?」

「知っていたの⁉︎」


 玉木たまき晴翔はるとという同じクラスの男子が「冴木のくせに、冴えてないじゃん。擬態じゃね?」と茶化したことが由来の、擬態というあだ名。

 まさか、本人の耳に入っていたとは。


「ふざけたあだ名ですよね! ばっかじゃないの!! 玉木こそ、冴えないカマキリ顔のくせに! 夏休みが明けたらとっちめてやります!」

「ハハッ!」

「あの、今日の先生、かっこいいです! お世辞じゃないです。真に受けてください。おでこを出したほうが素敵です。あと、明るい色の服を着ると、顔色が明るくなっていいです。前から思っていたんですけれど……学校に着てくる服、ワンサイズ下げたほうがシルエットが綺麗に見えていいと思う。って、余計なお世話ですね。すみません」

「いいえ、アドバイスありがとうございます。覚えておきます」


 冴木先生は、とことん優しい。同年代の男子にはない大人の包容力に、惹かれる。

 嬉しさが込み上げて、顔がにやけてしまう。

 生徒との境界線を守っている先生が、初めて、自分のことを話してくれた。少し、仲良くなれた気がする。しかし欲張りなことに、もっと仲良くなりたいと願ってしまうからわがままなものだ。

 先生のことをもっと知りたい。

 なにを質問しようか考えていると、先生はめぐみの名前をだした。

 

「めぐみさんも、自分の意見を言える人だった。小学生のとき。意地悪な男子に逆らえなくて、その子のランドセルを運んだことがあった。めぐみさんに見られて、僕は弱虫な自分が恥ずかしくてうつむいた。そしたら、めぐみさんはランドセルを取り上げて、意地悪な男子に投げつけた。『裕史を下僕にするな。威張るな』って怒ってくれた。懐かしいな」

「…………」

「引っ越したくなかった。あの場所にずっといたかった。って、場所ではなくて、僕がいたかったのはめぐみさんの近くだったのだけれど……。って、すみません。話しすぎました」


 めぐみのことを愛おしそうに語る、声の響き。陰気な雰囲気が払拭された、明るい表情。

 胸の奥がピリッと焼ける。

 亡くなって二十年がたとうとしているのに、先生はめぐみのことを、今でも想っている。そのことが、はっきりとわかった。

 先生がめぐみのことをどう思っているのか知りたくて、しつこく質問していたのは、私だ。

 希望が叶って、先生はめぐみのことを語ってくれた。それなのに私は喜ぶどころか、めぐみに嫉妬している。

 私の前世は及川めぐみなのに、喜べない。


 ──ずるい。


 めぐみじゃなくて、渡瀬友那を見てほしい。

 私が先生の一番になりたい。先生を独占したい。


 自分の醜さに吐き気がする。意地で笑ってみせる。

 

「先生って、やっぱり嘘つきですね」

「ん?」

「めぐみのこと、ちっとも忘れていないじゃないですか。恋愛感情がないというのも、普通の人だったというのも、嘘なんでしょう? 先生にとって、特別な人だったんでしょう?」


 否定も肯定も、いらない。それよりも、質問した私の声に元気がないことに気づいてほしい。笑っているけれど、泣きたいのを我慢していることに気がついてほしい。


 渡瀬さん、どうしたの? 


 って、渡瀬友那を気遣ってほしい。

 けれど、願いは届かない。先生は前を見据えている。雨脚が弱くなり、明るい日差しが落ちる風景に目を留めている。

 私を見ていない。

 

「そうですね。特別な人だった」


 こんなことになるとは思わなかった。

 まさか、前世の自分に嫉妬する日がくるなんて──。

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