第21話.勝ってうぬぼれるくらいなら……ッ!

 剣道部は静かに揺れていた。

 ざわつくと、揉めてるとか、そんなレベルじゃない。


 公式戦の二週間前に大将が部活を辞める。この非常識極まる緊急事態を前に、どんな減らず口でも叩いてきた先輩方も、冷静にひょうひょうと澄まして来た先輩方も、重く口を閉ざしてばかりいた。

 しかし、その日も結局稽古だった。黒崎先輩が悠々と去っていくのを尻目に、夏野先生が道着姿で道場に現れた。「アッス」とか「オッス」と言ったあいさつが、大声で道場に響いていた。ぼくはあわてて一年生に稽古の準備をするように指示した。


「ありえねえ」


 ようやく、聞こえたのは設楽の苛立った声だった。

 彼の空気を読まないひと言は、みなの心のどす黒い部分を代表したかのようだった。


 高等部部長の掛け声とともに、準備体操が展開する。跳躍、屈伸、伸脚左右。その他もろもろの柔軟を経て素振りを三種類。着装を整えていつもの整列を行う段になって、まだぼくたちの部活動は決して終わってなかったのだといまさらのように自覚した。


「黙想」


 長い、長い沈黙。

 夏野先生が手を鳴らす。


「正面に、礼」


 神棚に一礼。


「先生、礼」

「宜しくお願い致します!」


 宜しくお願い致します! 後に続く。


 夏野先生が、おもむろに口を開いた。


「すでに知ってる人もいると思うが──」


 夏野先生は、淡々と、しかし重い空気を携えたまま、言った。


「黒崎が、辞めた。時期が時期なだけに不愉快に思う人がいるのは当然なことだが、辞めると決めた以上、恨みっこはなしだ。先生だって、できればあの悔しい新人戦県予選のときのメンバー、布陣で今度はどれだけ行けるかと考えてみたことがある。

 けど、それはそれ、いまはもっか二週間後に迫った公式戦に向かって、いまいるメンバーで中学生の試合を考えたいと思う。そこで、いまから公式戦に向けて新しくレギュラーを組み直したから、次に呼ばれるものは気を引き締めて稽古に挑むように」


 沈黙。生徒は全員、夏野先生の次の言葉をいまかいまかと待っていた。

 ようやく、口を開くまでたっぷり一分黙っていたような、そんなもどかしい静かさがぼくらを押しつぶそうとする。


「先鋒──設楽」

「はいッ」

「次鋒──三木」

「はい!」

「中堅──湯浅」

「ハイ!」

「副将──遠藤」

「はいっ」

「そして大将は、久川」

「はいッ!」


 夏野先生は生徒一同を見回した。


「補欠は窪田と中嶋」

「はいっ」

「はい!」


 中嶋が背筋を正して返事をした。図らずも隣りにいたぼくは、突如として緊張の煽りを受けて身を強張らせた。


「他のメンバーも、レギュラーじゃないからって言って気を緩めないように。以上」

「はいっ!」


 こうしてその日の稽古は始まった。

 これまでにない、激しい稽古だった。



     †



「いやあ、まさかおれが補欠選手だなんてな」


 中嶋は明るく振る舞っていたが、声の隅っこが震えていた。


 彼は決して錬成会の戦績が良い方ではない。結果としては勝率が五十パーセント前後をふらつくような感じで、よく言えば勝ちは取ってくるタイプだが、悪くいえばムラっけがあると言っていいだろう。

 そんな彼ですら、レギュラーに出ていかなければならない緊急事態。もちろん、ぼくや大木がそこに割り込めていない不甲斐なさを苦々しく噛み締めながらも、ハッキリ言って、驚きのほうが勝っていた。


「なあ星野よお」


 帰路に着く。バスの中で隣り合わせの席に座りながら、中嶋はうわの空で言った。


「おれたちは、どこに行こうとしてるんだろうな」

「なんだよ急に。壮大な風呂敷広げちゃって」

「構うなよ。おれっちは切り返しのあいだずっと宇宙のことを考えてるんだからさ」


 なぜ。


「早くおわんないかなーなんて考えてたら、ぜってえー早くおわんないじゃん。だから宇宙のことを考える。そうすりゃ、苦しい時間なんて瞬きひとつみたいなもんじゃないか」

「言ってることはもっともだが、スケールがデカすぎてわけわからんぞ」

「ははっ。試しにおまえも稽古中に宇宙のこと考えてみろってんだ」

「むりだ。設楽にもおまえにも『ボサっとするな』て怒られっぱなしだ」

「まあ、でも最近は少しマシになってるけどな」

「何様のつもりだよ」


 口を尖らせたくなる気持ちはあったが、まだ笑って過ごせた。

 思えばあの時、なんとなくで入った剣道部からもう一年が経とうとしている。最初は意地を見せるつもりで入ったはずだ。でも、今となってはそれもはるか昔のことのように感じ、剣道部なしの学校生活なんて嘘であったかのような感覚がある。


 口先では、


「早くおわんねえかなあ」


 とか、


「キッツイ稽古なんて嫌だな」


 とか、そんなことを数限りなく口にして、それでも渋々道着を着て、汗まみれになって息をぜえぜえ吐いて、おまけに筋肉が疲労の限界まで来ているような、そんなことばかりの毎日なのに、本当に辞めるなんてもってのほかだとどこかで思っていた。


 にもかかわらず──黒崎先輩は、本当に辞めてしまった。


 直前の戦績は絶好調と言って良かった。もともと大将なんてガラじゃない、なんて感じであったものの、それも順調に慣れてきて、もう少し頑張っていれば本番でも安定しそうなぐらいの調子になっていた。ように見えていた。

 そこに、よりによって公式戦の直前で辞めると言う選択をした。


 みんな黒崎先輩を悪くは言わなかった。久川先輩に至っては「あー、おれもついでに退部届出しておけばよかったのになあ」とシニカルな笑みを浮かべてすらいた。稽古はますます激しくなっていったが、それと同時に冷めていく気持ちもあった。どこか浮ついていた。せっかく積んだ積み木がまあゼロからやり直しだと思い知らされた時の、虚脱感。


 どうせ負ける、とまでは言わない。けど、ここから何をどう頑張ればいいのか──


 みな手探りだった。正解なんて持っていなかった。

 とりあえず頑張ってみた。結果がたくさん出てきたが、どの結果を見ればいいのかわからなかった。信じた結果に裏切られた。それでもとりあえずもう一回立ち上がってみた。


 そんなこと、黒崎先輩だけじゃなくて、みんな経験している。ぼくも先輩方に比べれば鼻で笑われるようなレベルだが、ここ数ヶ月の錬成会で嫌というほど思い知らされた。結果が伴わないあいだに自分を信じるなんてことがどんなに難しいことだろう。根拠のない自信なんてよほどのことがない限り生まれるわけがない。それでも、負けたくないという気持ちから、たとえ逆ギレのような暴れ方をしたって、それでも自信は捻り出さないといけない。


 ぼくは残り一週間となっていた稽古に、改めて身を入れた。振りは大きく、踏み込みはときどきかかとからやらかして痛いし、筋肉痛でからだがぎこちなくなっても、とりあえず声を出して、やれる限りやってみた。先輩方にはちっとも追いつける気がしなかった。けど、置いてかれるような心地もなかった。


 選手は選手で固まって技練をするようになり、ぼくは大木や佐伯先輩たちと組んで練習を回った。技の一個一個を丁寧にやってみると、何かがもう少しで届くような感じがした。それは結局のところ、まぼろしでしかなかったのだけれど、それでもうんと遠くまで踏み込めているのではと言う期待があった。


 練習。練習。練習。


 最後の一週間、試合練習もほどほどに、あと三日となった頃には、稽古の最後が地稽古に移り変わる。

 ぼくはあえてレギュラーメンツに稽古を挑んだ。それまでぼくはなんとなく気後れして窪田先輩や佐伯先輩ばかりに相手をお願いしていたが、今回あえて久川先輩にお願いしてみた。久川先輩は意外そうな顔をしたが、快く受けてくれた。


「宜しくお願い致します」


 帯刀。三歩進んで、ソンキョ。


 上がる。打つ。鍔迫り合い──


「いいね、いいね」


 久川先輩は基本、ごきげんだ。一緒になっていてもいつも楽しそうな空気をだいじにして、人を褒めるのがとても上手い。あの偏屈な実力主義者の設楽ですら、久川先輩にはメロメロなのだから、その人徳の高さはいま思うと聖人クラスに匹敵する。ふざけたような感じと、その反面、とても面倒見の良い優しさが同居している。

 すぐキレ散らかす三木先輩や、度がすぎるとちゃんと叱る窪田先輩、機嫌が悪いと尖る佐伯先輩や、基本無口な遠藤先輩、そんな中にいて久川先輩の気分の安定感は凄かった。とは言ってもいつもイケイケドンドンな、熱血漢なのではなく、「サボれるならサボろうぜ」のスタンスで、そっと味方になるところが、なるほど確かにかっちょええと頷けるものがあった。


 今日のぼくも、面を打って、小手面を連打して、鍔迫り合いからゆっくり元の間合いに戻って、さらに技を打ってとやっていくうちに、「これがいいね」「あれがいいね」と優しく、的確なコメントをもらって嬉しくなっていた。技練をいくつかこなし、やがて、擬似的な試合モードになると、今度は容赦なく久川先輩が攻勢に躍り出る。

 褒める時は褒める。でも、試合となると負けず嫌いのスイッチが入る。


 ぼくは足を動かしながら、最初に打たれた面を取り返そうとせっせと打った。ところが読まれたように出鼻の小手を打たれておしまい。「すみません。もう一回お願いします」「いいよ」。今日のぼくはなぜか食い下がった。怒りのようなものがあった。

 誰に対するわけでもない、ただ純粋に昇華したい怒りが──


 剣尖が、ぼくの竹刀と久川先輩の竹刀がギリギリのところで重なりあって、互いに中心線を奪い合う。右に押せば左に逃げて、左に押せば右へと滑り込む。久川先輩の剣道は、普段のひょうひょうとした性格がそのまま現れたような剣道だった。

 対するぼくは、まだ教科書通りにしか動けていない。堅苦しいし、中心だって正しく取れているかもわからない。けど、教科書を読んで読んで読みまくったクソがつく真面目さだけが取り柄だった。逆にいえば、教科書だけが武器だった。


 たまたま、振りかぶったぼくの竹刀が、自由落下の法則に従うかのように、すとんと前に落ちた。踏み込む。だん、と大きな音を立てて、きれいに久川先輩の面を捉えた。


「面」


 ぼくはこの時、初めて久川先輩から正しく一本を取ったように感じた。大きな声でそれを裏付けた。やった。と言う気持ちが見え隠れした。

 道場の端まで抜けて、振り返る。ところがそこに久川先輩の俊足が駆け込んだ。すかさず面。殺されるかと思うような一瞬が、横を通り抜けた。


「えっ」


 いま一瞬でもうぬぼれた自分が、恥ずかしかった。

 久川先輩は、またいつものような笑顔で戻ってきていた。


「どんまい。でも、いまの面、とても良かったよ」


 ぽん、と小手でぼくの胴を叩いた。剣道部員が、親しみを込めてするボディランゲージのようなものだが、この時初めてぼくが何に足を踏み入れたかを思い知った。


「ありがとうございます」

「詰めが甘かったから、もっと。もっとがんばれな」


 久川先輩の目は、笑ってなかった。

 その目はまるでこう言っていた。


「勝ってうぬぼれるぐらいなら、負けて死ねよ」


 そう、そうなのだ。ぼくは初めて、意味のある負け方をしたのだ。全力を、持てる力を正しく引き出したものだけが直面する、意味のある負け方──


「負けて、徹底的に死ね」


 別にそんなことを言われたわけではないが、まるでそう言われたかのように背筋がぴんと張った。

 


 この直感は、いつまでもいつまでも、尾を引いてぼくの心にこびりついていた。


 二〇〇九年の春──こうしてぼくらは、戦いの前日を終えたのだった。

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