第30話 「蝶のように舞うでブス」

 いつもと変わらずどんよりとした最低の空模様に憎しみのこもった怒号が響き渡りました。


 何をやっているのですか。早くそこから飛び立つのですよ!


 屋上の金網の内側から鎮太郎くんが柳に向かって喚き散らしています。

 柳は遥か下の地面をちらりと見ると、振り返り、鎮太郎くんの方を見ました。

「ふへ、あの。こんな高いところから飛んだら、し、死んじゃうよ」

「何だね、それは。我々に海老になることを手伝わせておきながら、それを途中で放棄した挙句、次はこの仕打ち、ということですか」

「ふへ、あの、ここから私が跳ぶのと、蝶になるのには、一体・・、どういう・・」

 鎮太郎くんは伸宏くんと顔を見合わせ、二人は互いに呆れたように肩を竦めて溜息を吐きました。

「そう、蝶だ。だから海老をやめて蝶になりたいのだろう?貴様は」

「あの、ぶへへ。・・はい。もう、海老は大丈夫なので」

「だからこうして心の広い我々はまたそれを手伝ってやると言っておるのだ!その厚意すら無碍にする気か、馬鹿!」


 蝶、それはいつか柳が蟲専門TV番組【蟲ワアルド】で見た天使のような蝶のことでした。

 番組の中で、激しく動き待っていた醜い芋虫は動かない海老になり、やがて海老の背中が割れると中から大きな翼を広げた蝶が自由な青い空に飛び立つ様子が特集されていました。

 その映像は柳の心にしっかりと焼きつき、忘れられないものとなっていました。

 柳にとって、蝶とは何にも囚われない自由の象徴なのです。


「なるほど、大変よく判りました。では尚更ですよ」


 鎮太郎くんの隣で伸宏くんが金網を両手でガシャガシャと揺らしました。

「慈悲深い我々がお前に真の自由を与えてやろうと言っているのだ!蝶になるのだ柳!飛べ、跳べぇ!あっはっはっ!」

 柳の心を伸宏くんの声がすーっと通り過ぎていきます。

 無視しようとしている訳ではありません。しかし何故か伸宏くんの声は柳の耳によく聞こえないのです。

 柳は体が半分透けて見える伸宏くんから視線を外して鎮太郎くんの方を上目遣いで見ました。

 鎮太郎くんは優しい声で、「大丈夫、死なないさ。君は蝶になるのだから、さあ一度だけで良いから試しに跳んでみなさい」と言って微笑みました。

 柳は目の奥にある心が震えて、そこから涙が溢れ出るのを感じました。


 死んでくれと素直に言ってくれたら私は頑張って死ぬのに、何で鎮太郎くんは嘘をつこうとするんだろう。


「イヒヒ、こいつ一丁前に泣いてやがるよ、鎮太郎氏!」

 柳は涙を拭いてくるりと向きを変えると、遥か下の地面を覗き込みました。

 多くの妙な生徒達が行き交っています。柳はその生徒達の隙間に、自分の死体が転がっているのを想像しました。

(こわい、こわいよ。でも良いんだ。昨日はたくさん鎮太郎くんに抱っこしたから)

 心残りなのは最後の最後まで「好き」と伝えられなかったことです。とてもじゃありませんが、これから死ぬ人間に告白されても鎮太郎くんの心の負担になるだけです。柳は涙をボロボロと流しながらそれを諦めました。

「じゃ、じゃあ、ふへ、私、蝶になりますので、見ていてください」

 柳は後ろ姿のまま鎮太郎くんに言いました。涙でぐちゃぐちゃだったので恥ずかしかったのです。


「待ちなさいませ」


「え?」

 鎮太郎くんの声がして、柳は一つになった目に僅かに光を宿して振り向きました。

「靴を脱ぎなさい。そして、キチンとそこに揃えなさい。蝶になろうとする為の儀式のようなものです」


 屋上にキノコがぽこんぽこんと生えました。


 柳はそれが自分の身投げを自殺に見せかけようとする企てだということが直ぐに分かりました。

 脱いだ靴を揃えながら、柳は悲しい気持ちがもっと悲しい気持ちになり、心が空っぽのすかすかになる心地がしました。


 柳は立ち上がると一つになった目でもう一度鎮太郎くんを見ました。

「ばいばい、げんきでね」

「何故そんなことを言うんだい。蝶になるだけさ。直ぐにひらひら翔んでこっちに戻ってくればいいさ」

「・・ばいばい」

 柳はぴょんと屋上から飛び降り、鎮太郎くんと伸宏くんの視界から消えました。


「や、やったぁーっ!」


「遂にやりましたな、鎮太郎氏!」

「ああ、こんな幸せなことってあるかしら」

 二人は両目を涙で潤ませて力強く抱き合いました。そしてそのまま腕を組み合うと、その場でスキップしながらメリーゴーランドのような夢心地でくるくると回転しだしました。

 これで、今度こそこれで柳から僕は解放された。後はこの馬鹿な男を何とかすればホームズの完全犯罪は完成するのだ。鎮太郎くんはそんなことを考えながら伸宏くんの阿呆面を横目で見ました。


「きゃー!!」

「うわー!!」


 地上から生徒達の絶叫が木霊してきました。

 二人は頬っぺたをピンクに色付かせると、耳に手を当てて下から響いてくる生徒達の叫び声を味わうようにして聞いています。

「おや、何があったんだろうね!よし、見に行こうよ、ホームズ鎮太郎」

「フフ、おい。こんな時にだけそんな呼び方をして、調子が良いぞワトスン」

 二人は腕を組んでスキップをしながら屋上出入り口の扉を開けて階段を降りて行きました。


 さびしい、さびしい、さびしい。

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