月の白妙(三)
いつくしの嶺の、冬が終わろうとしていた。
藤世は急いでいた。灰や尿で黒絹の色を薄くする。朧の織った反物も含めて、十数本の布が煮詰められ、洗われて、端を棒にくくられ、杭に張られる。
矢車と藤世の意見は一致していた。
島で行われる海晒しのわざは、赤や黄、青や茶の色もより鮮やかにし、――そして、白い反物をより白くする。そのふしぎを、海のないこの地でも叶える、その道だけが、黒絹を白くするわざだ。
矢車は水を張ってはどうか、と言ったが、藤世は矢車の見たことのないものを見ていた。
寒さに凍える臨泉都のひとびとの頭上に、いつも降っていたもの。
いつくしの嶺を覆い、すべてを真っ白に染め上げる――……
この乾燥した地で、雪は冬の終わりの一瞬にのみ降り積もる。
神殿の広い庭はいま、雪に覆われ、その上に、黒絹の反物が並べられている。
煮詰めたおかげで、布は焦げ茶から薄茶色にまで変化していた。
藤世と四詩は――否、神殿じゅうのひとびとがみな、布の変化に目を凝らした。
一日、二日と経っても、目立った変化は見られない。
二映は空を睨み上げる。雪はあと何日持つだろうか。
五日。
三叉は民の陳情を聴くわずかのあいまに、広間の窓にとりついて布の広げられた庭を見下ろした。
七日。
一矢はひとり拝所に籠もり、経典を読み上げる。
八日。
雪ではなく雨が降り、侍女たちは慌てて布を取り込む。
九日目、少なくなった雪の上に、かろうじて朧の織った布だけが広げられる。
朝、藤世は庭に佇む。
王は、布を白く染めろと言った。
――白。
それは、だれにとっての白だろうか。
いまの薄茶も、黒絹を見慣れた人間には白く思えるだろう。しかし、王は世にあふれるあらゆる染織を見ている。純白の絹も。その王を納得させる、だれが見ても明らかな白――……
絹は、日の光を当てすぎれば、黄変する。
海晒しのように、十日だけ行うのが限界だ。
十日目も、布の色は、藤世の目には薄茶色に映る。
よく晴れた夕暮れ、布のそばに立ち尽くす藤世の前に、一矢が現れた。
「……王には、またわたしからも文を織る。そなたはここまで白くしたと」
藤世の頬に、薄く笑みが浮かんだ。
「わたしの努力なんて、王さまを納得させる結果がもたらせなきゃ、なんの意味もないわ」
「王はおそらく、そなたが結果を出すことで納得するのではないだろう」
「……どういうこと?」
「嶺の意を無視して、まつりごとの力学をねじふせて、王は自分の情愛を優先したのだ。それを覆すのは、おそらく目に見える成果ではない」
「情愛……」
「兄を想い、兄の形代を手放したくないと頑なになっている」
「その気持ちを責めることはできないわ」
「目に見える物だけが、情愛を支えるのではない。珊瑚がなくとも、王は自分の兄を失わない」
「……清がいなくても、わたしは彼とともに生きている」
「そう思えるのは、なぜ……?」
十六歳になった巫祝は、藍色の瞳に夕空の星を映し、藤世を見つめた。
「自分のさだめを選び取り、自分のさだめのなかで暮らしているからだ。わたしは一の巫祝として雪獅子のために生き、その暮らしを続ける限り、自分をはぐくんだものはそのなかに生きている」
藤世の顔に、やわらかな笑みが浮かんだ。
「……そうね」
「――四詩も」
一矢は目路の向こうに佇む四詩を、静かに見た。
「わたしになにもなさなくても……わたしのなかに生きている。それがわかっていれば、わたしは、……」
少女は顔をうつむかせた。
藤世は一矢の肩に触れた。その手を、一矢はすこし握り、それから、その場を去った。
闇が下り、丸く満ちた月が上った。
四詩が藤世の腕に鼻で触れる。そばに座った四詩を、藤世は撫でた。
夜空を、布を伸べた庭を、月が灰色に照らしている。
「白くは、ならなかったわね……」
藤世は、吐息と一緒にことばを漏らした。
王が、また一矢の文をはねのけたらどうしよう。
珊瑚を送ることを、拒んだら。
ずっと、四詩のことばを聞けなかったら……――
矢車からの文を隠したように、藤世を想うあまり、四詩が藤世とすれ違うということは、また起こりえる。ことばを交わすことでそれがすべて防げるとは思わないが、事態を酷くすることがなくなるかもしれない。
四詩がひとのことばを話せなければ、藤世はずっと四詩を誤解したままにするかもしれない。
「……四詩。わたしはやっぱり、あなたの声が聴きたいわ……」
四詩の顔に身を寄せる。
すぐに彼女の熱を感じ取れると思ったのに、四詩は藤世を押しのけるように立ち上がった。
「四詩――……?」
四詩は身をたわませて伸びをすると、ふわりと身を躍らせて、雪のなかに飛び込んだ。雪片が舞い上がり、一瞬、四詩の白銀のすがたを隠す。
「四詩!」
藤世は恐れて叫ぶ。四詩のすがたが見えなくなったら、自分は不安に耐えられない。
四詩は足を踏みならし、自分がたしかにそこにいることを訴えて、藤世を安心させた。
そして、ぶるぶると身を震わせて雪を落とすと、鼻先で布を跳ね上げた。
朧の織った黒絹の布が、月の光を受けて白銀に輝く。
「あ――――」
藤世が目を見ひらく。
ゆったりと膨らんでから四詩のからだを覆った布は、四詩の毛並みと同じ色になり――……そのうちに、布をかぶった四詩は、もとの、ちいさくて華奢な輪郭になった。
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