熾し火(一)

 藤世は、二の巫祝――二映とその従者たちを伴っていた。老齢の二映は、神殿で遠い島から来た少女を見、渋る三叉を、彼女こそが嶺を救う手がかりの持ち主であると説得して、行を終えた四詩を出迎えたいと言い募る藤世とともに聖山の麓にやってきていたのである。

 麓の村に投宿した藤世は、夢で四詩が崖から落ちたのを見たとつぶやき、勝手に山々のなかに入ろうとした。二映と従者たちはそれを追いかけ、谷底の雪にまみれた四詩を見つけた。

 従者たちがてきぱきと準備をし、谷の浅い箇所から綱を下ろして四詩を背負い、救出した。藤世は終始泣いていて、平静な様子の四詩が谷から上がってきたときには、彼女に抱きついて二映たちを驚かせた。巫祝は民から敬意をもって距離を置かれるため、他人に触れられることはほとんどないのだ。


 麓の村に戻り、村長の家で薬師でもある二映が四詩の状態を診ると、足は骨折ではなく捻挫で、数日安静にすれば歩けるようになるだろう、とのことだった。

「……よかった……」

 ぐずぐずと鼻を啜る藤世が、湿布と当て木をされた四詩の足を撫でる。

「二映さま」

 四詩は藤世の肩に手を置き、暖炉を挟んで向かい合って座る老人に言った。

「一矢さまが、まもなくこの村に戻られるはずです」

「そうだな」

「とても傷ついておられるはずです。ご自分では、けしてお認めにはならないでしょうが」

「……なにか、あったのか」

 四詩は、触れていた藤世の肩を、すこし力を込めて握った。

 藤世が四詩を見る。

「……四詩?」

 四詩はきびしいまなざしを藤世に向け、それから二映に移した。

「詳しいことはなにも申し上げられませんが、行の途中で、一矢さまはわたしにある要求をして、畏れ多くもわたしはそれを拒みました」

「……」

 二映は、まだらに黒いものが残る刈り上げた髪をぞりぞりとこすり、じっと四詩を見返した。

「……一矢さまは、それを受け入れたのか?」

 四詩は目を伏せた。

「……わかりませぬ。わたしの願いは、一矢さまがこれ以上苦しむことがないようにしたい、ということです」

「それはそなたには無理だ」

 二映は皺の奥の目をするどくした。

「拒んだことには、つよい理由があるのだろう?」

「……はい」

「ならば、その決断のみによって行動せよ。そなたが一矢さまにこれ以上心配を悟られぬようにせよ。そなたが余計なことをすれば、それによって一矢さまは更に泥濘に身を沈めることになる」

「……」

 四詩は顔を歪めた。

「さきに神殿に戻ることにせよ。一矢さまにはしばらく会ってはならぬ。わしは残って一矢さまを迎える」

 二の巫祝は淡々と告げた。

「とはいえ、足の怪我があるからのう……」

 老人は目元を和らげた。

「谷をひとつ越えたところに、出で湯がある。藤世殿と浸かって、からだを癒せ」

「温泉ですか?」

 藤世はにこにこと訊いた。

「然り。暖かい島から来て、こちらはさぞ寒かろう。湯に浸かれば、芯から温まるぞ」

「嬉しいです! 臨泉都でも入りましたが、温泉は大好きです!」

 藤世は四詩に頬を寄せると、微笑みかけた。

「四詩、一緒にいられるわね。すごく楽しみ」

 四詩はそっと藤世の手を両手で包むと、藤世の頬に口づけした。

「……うん」

 こわばった四詩の顔を、藤世はやわらかく撫でた。



 四詩は屈強な神殿兵に背負われて、藤世とともに湯の湧く岩室に向かった。そばに聖山を巡る者の疲れを癒す目的で、石積みのちいさな家が建てられていて、二映の指示で炊事などの世話をするため、村長の老母が毎日来る手筈になった。藤世は暖房の方法や竈の使い方を熱心に彼女に訊いた。

 夕方老女が村に帰って、ふたりは暖かい部屋にふたりきりになった。長椅子に寄り添って腰掛け、おおきな薬罐にたっぷり作り置かれたバター茶を飲む。

 四詩は藤世のようすを伺う。彼女はすっかり嶺の服を着こなしていた。神殿で与えられたという、毛皮を裏地にした、羊毛を幾何学模様に織り込んだ上着、縞模様の前掛け。豊かな黒髪は嶺の女たちと同様に、三つ編みにしてぐるぐるとひとつにまとめ、絹布で飾られている。

「どこかおかしい? 神殿の織り子さんたちに、着付けの方法は習ったんだけど、実はまだよくわからなくて」

 臨泉都を出て、三ヶ月以上。藤世は都で知り合った女官に路銀を与えられて、隊商や巡礼のひとびとに加わりながら、一心に神殿を目指したという。途中で高熱を出したりしながらも、おおきな遅れもなく、神殿に着き、そこで四の巫祝に面会を願い出るも、彼女が回嶺行に出ていると知って仰天した。代わりに出てきた二映と三叉に、雪嵐を止める鍵が四詩にある、と言って、聖山まで迎えにいくことを許可された。

 四詩は微笑むと首を振った。

「ううん。藤世はすごくきれい」

 夢で見た彼女とは異なり、藤世の頬はあかぎれに傷ついている。

 四詩は卓に茶碗を置き、茶碗を持っている藤世の両手を包む。夢で触れた彼女の手とは、やはり違う。自分と同じく、乾燥と寒さにさらされて、ざらざらしている。

「……ほんとう?」

 自分を見つめ返す、きらきらとした彼女の目。どんな天上の甘露よりも甘い、彼女の声。

「うん。逢えて、すごく嬉しい」

 ふふ、と藤世は笑う。

「わたしもよ。四詩、――四詩」

 ことばじりが震え、藤世は次の瞬間にはほろほろと涙をこぼしていた。

「四詩、あなたが大好き。逢えるなんて、夢みたいだわ」

 四詩は思わず笑った。

「そうだね、だってわたしたちは夢で初めて逢ったんだもの」

 藤世は目を見ひらいた。

「……そういえばそうね!」

 涙を流しながら、彼女はまた笑った。

 藤世も茶碗を卓に置き、四詩の肩に両手を置く。ゆっくりと顔を近づけ、四詩の顎に唇を寄せ、そっと舌を出して、すこしずつ四詩がいつのまにか流している涙の滴を受け取る。

 四詩はたまらなくなって、藤世の背に腕を回し、思い切り抱き締めた。藤世の首筋に鼻を寄せて、彼女のにおいを嗅ぐ。

「……藤世のにおいだ」

「えっ」

「すごくいいにおい。藤世はどうしてそんなにいいにおいがするの?」

「えっ、旅のあいだじゅう、お風呂なんか入ってないのよ……」

 藤世はうろたえてもじもじする。

「嶺の人間は夏以外はほとんど風呂に入らないよ」

「そうなの?! ちょっとそんな気がしてたけど!」

「うん。汚れていたほうが、肌が傷つかない」

「……そうなのね……」

 四詩は藤世の襟元に鼻を潜りこませ、思い切り吸う。

「……四詩! あんまり嗅がないで!」

 四詩は笑った。

「藤世はかわいい」

 藤世は顔を真っ赤にして、悲鳴を上げた。

「四詩!」

 そうして、その晩は笑ったり泣いたりしながら、遅くまで語り合って過ごした。藤世が急に思いついて四詩を背負い、岩室のなかに連れていって、互いに服を脱がせ合って湯に浸かった。なんども口づけを交わしているうちに、すっかり湯あたりしてしまい、下着を羽織っただけの格好で寄り添ってぼんやりとすごした。

 箱型の寝台に入り、藤世は四詩の包帯を巻き直す。

 服を脱いで、互いに触れ合いながら、相手を緩い快楽へ導く。四詩はからだもこころも温まり、藤世に自分をおおきくひらいて、彼女を奥深くまで受け入れた。

 眠気とだるさにからだを乗っ取られるのが惜しく、けれど藤世と一緒にいられるだけで幸福を感じて、彼女と同じ瞬間に眠りに意識を譲り渡した。



 翌朝、四詩は、藤世をこのいつくしの嶺に導いた、白銀の短剣を見た。 

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