文/伊勢﨑 賢治
国際社会の理解と根本的にズレてる?
日本の非常識を、これほど可視化した政権があっただろうか。それが安倍政権の最大の功績だ。
集団的自衛権。この行使を容認する閣議決定が、強烈な違憲行為であり、立憲主義への脅威として捉えられ、安倍政権を糾弾する国民運動に発展した。筆者も、その一翼を担った(http://kokumin-anpo.com)。
いまだに、「集団的自衛権の行使容認+その閣議決定=重大な違憲行為」は、9条護憲派を中心に、一部の改憲派をも巻き込んで、安倍政権打倒のロジックとなっている。
しかし、日本人の、集団的自衛権のそもそもの理解が間違っているとしたら?
安倍政権支持・反対の、論争の土俵そのものが、間違っているとしたら?
集団的自衛権に行く前の、個別的自衛権も含めて、日本人の理解が根本的に国際社会とズレているとしたら?
* * *
まず一般的な国民の理解を確認しておこう。
個別的自衛権については、一般に日本国民は「やっていい」と考えている。つまり、憲法9条も許していると考えている。敵が日本国内に攻め込んできたら、いくらなんでも反撃できるだろうと。
それに対して、集団的自衛権はダメ。憲法9条は、集団的自衛権は許さない。アメリカがやる勝手な戦争−−それも何千キロも離れたところの−−に日本が巻き込まれる、と。
つまり、個別的自衛権だったら、生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利という日本国憲法上の要件からもOK。でも、集団的自衛権は、モロ“戦争”だからダメ……そういう感じになっているのではないだろうか。
日本人の心理では、個別的自衛権と集団的自衛権の間に、非常に大きな壁が存在する。
しかし、国際社会では、以下に見るようにまったく別の形で理解されているのだ。
二つの自衛権は暫定的に許されている
「集団的自衛権」という語彙が記されている国際法は、国連憲章しかない。
国連は、地球上で起こるすべての殺傷行為を、人権というたった一つの価値観から刑事事件として扱い、裁ける世界政府には、まだなっていない。国連の実態は、中国を含む戦勝五大大国(米露英仏中)が、二度と、日本やドイツのような不埒な侵略者の出現を許さないために、地球上すべての国連加盟国の「武力の行使」を統制する、という世界統治システムである。
もし侵略者が現れたら、国連全体でぶちのめしに行く、それが国連的措置である(日本語訳では「集団安全保障」)。
ただ、その戦勝五大大国の王様クラブである国連安保理が集団安全保障を決めるには、どうしても時間がかかる。その間に暫定的に行使を許されているのが、個別的と集団的の二つの自衛権だ。
王様クラブが協議しているうちにやられちゃうと困るから、とりあえずやっていいよ、でもチョットの間だけ、と許されているのが自衛権なのだ。繰り返すが、それを許す王様クラグでは、中国がメンバーだ。
だから、侵略者を許さない王様クラブ五大大国は“侵略”しない。中国も、だ。
彼らが“侵略”するとしたら、それは彼らにとっての個別的または集団的自衛権としての要件が成り立つときのみ。もちろん、彼ら自身が、その要件を巧みにつくっちゃうことが多いのだが。(中国が、“侵略”でなく、個別的または集団的自衛権の行使として日本に「武力の行使」をする具体的なシミュレーションは、新著『新国防論 9条もアメリカも日本を守れない』を参照されたい。)
このロジックを頭に置いておく限り、日本は“侵略”される心配はない。ないと言ったら、ないのだ。誰も住んでいない尖閣ぐらいは盗られるかもしれないが。
ちなみに、中国が“侵略”する根拠として、チベット問題を挙げる扇動の向きがあるが、これは国際社会的には、民族自決の内政問題であり、人権侵害の観点から糾弾されるべき問題だ。国際法上の「武力の行使」が懸案となる“侵略”の問題ではないので、勘違いしないように。もっとも、チベットの民にとっては、なにがどうあれ、“侵略”であろうが。
「個別的自衛権とPKOはOK」という日本人の理解
集団安全保障は、70年前に国連憲章ができた時は、明確に「侵略者」に対する殲滅措置だった。それがしばらくすると、国連憲章が創稿された時には想定外のことが起きてくる。
その一つが「内戦」の時代だ。
戦争というのは、国と国が戦うものだった。ところが一国の中の“内輪揉め”で、戦争と同じような規模の人道的被害が出ようになった。
ある一国の国民が他国にいじめられたら、これは「侵略」、だから、国連全体で叩こうというのが集団安全保障。ところが内戦では、その国の政府が自国民をいじめる。内政不干渉が原則の国連はどうするか。
そこで、苦肉の策として“発明”されたのが、“敵のいない軍隊”の国連平和維持活動(PKO)だ。これが、集団安全保障の中心になっていく。
歴代の自民党政権も、このPKOに目を付けた。(日本政府の恣意的なPKOの解釈と活用については、以下を参照。https://gendai.media/articles/-/47860 )
そして、この目論みは大成功し、過去、明らかに差別の対象であった自衛隊という職能集団がPKOに派遣されることを警戒する世論は、現在、無いに等しい。1992年のカンボジアPKO派遣当時は、国内で強烈な反対運動があったが、今では、もう起らない。
こうして、自衛隊のPKO参加は良いものである、個別的自衛権と同様、憲法9条は許している、という感覚が日本人に定着した。
つまり、個別的自衛権と集団安全保障(=PKO)はよし。でも集団的自衛権はダメと。日本人のマインドを図にすると、こうなる。
国際法の考え方
これに対して、国際法の考え方はどうか。実は、個別的自衛権と集団的自衛権に、それほどの違いはないのだ。
2001年の9.11同時多発テロで、アメリカは「本土攻撃」された。実行犯アルカイダを囲っていた、当時のアフガニスタンのタリバン政権に、「個別的自衛権」を根拠に報復したのが、現在も続く「テロとの戦い」の始まりである。
個別的自衛権で、何千キロも離れたところに出かけて行って、その敵を殲滅し、占領統治までできる。これが国際法でいう個別的自衛権だ。
さらに、9.11の後、同じように多くのムスリム人口を抱えているNATO(北大西洋条約機構)諸国が、「明日は我が身」ということで参戦、今に至る。
つまり「脅威の共有」での参戦が根拠とするのが集団的自衛権。脅威を、喫緊に、そして明確に共有するか否かが焦点だ。だからこそ、国連安保理が、“いやいや”だが、国連安保理の許可なしで加盟国が行使できる“固有の権利”として、個別的自衛権と共に認めているのだ。
つまり、個別的自衛権と集団的自衛権は、対立概念ではなく、一つのパッケージなのだ。そしてこのパッケージの行使が許されるのは、国連安保理が集団安全保障をやるまで。つまり、国際法の考え方は、こうである。
軍事同盟と集団的自衛権はどう違う?
これに加えて、もう一つ日本人を混乱させるものがある。集団防衛(Collective Defense)。NATOのようないわゆる軍事同盟だ。集団防衛と集団的自衛権、似ているので専門家でも混乱する。
集団防衛とは、いわば“ミニ国連”だ。PKOのような集団安全保障への参加は、国連加盟国としての“組合の義務”。それと同じような感覚で、一つの組合国に与えられた攻撃は組合全体のものとみなすという契約。これが軍事同盟である。義務といっても、組合を脱退する自由が付随する“義務”。繰り返すが、集団的自衛権は“権利”だ。
こういうふうに、国連とは別の“組合”をつくる根拠は、国連憲章第8章、「地域の取り組み」ということで奨励されている。個別的自衛権と集団的自衛権の“いやいや許可”と同じように、安保理が地球上で起こるすべて問題を一手に背負うのも無理がある、地域でミニ国連をつくってまず対処してね、ということだ。
でも、そのミニ国連が何かする時には、事前に安保理の許可が必要になる。あくまで安保理は世界の王様でいたいのだ。
この集団防衛が、いわゆる「他国防衛」である。集団的自衛権は、そうではない。すでに述べたように、共通の脅威を、喫緊に、そして明確に共有するか否かが必要条件。集団防衛は、そうでなくても、“契約”として、そう見なす。
9条が禁止しているのは、たぶん、「集団的自衛権」ではなく「集団防衛」の方である。
以上、日本人の“ズレ”がわかるだろうか。このまま放っておいてもいいものなのか?
いや、いかんと思う。日本が、国連(つまり国連憲章、国際法)に依存しない限り、「国防」の議論“さえ”できない地政学上脆弱な存在であることは、以前に本コラム(https://gendai.media/articles/-/47229 )で述べた。国際法との認識のズレは、国防上のリスクであり、一刻も早く是正されるべきだ。
「“交戦”をしない自衛」とは?
そもそも、日本人が、9条が許すと思っている“個別的自衛権”は、「個別的自衛権」ではないのだ。じゃあ、なにか。それは、日本が自ら定義した「自衛権」という概念であり、「“交戦”をしない自衛」である。
国際法の個別的自衛権と集団的自衛権は、「交戦権」の行使になる。武力行使の口実が上記の3つに規定される国連憲章。それが実際に行使されるその瞬間から、国連憲章より古い慣習法や条約の集積である戦時国際法・国際人道法が規定する「交戦権」の世界になる。戦争の流儀。ロー・オブ・ウォー。
すでに述べたように、個別的自衛権でも、一度攻撃を受けたら、何千キロも隔てて敵地攻撃、占領して暫定統治までできる。ただし、併合はできない。侵略になるから。
9.11後アメリカの開戦は、合法であった。イラク戦争も、フセイン政権とアルカイダの関係と大量破壊兵器の保持は殲滅後に否定されたが、“開戦時”には残念ながら合法だったのだ。歴史的には、全く間違った戦争だが。
これが「交戦権」の世界だ。
防衛省のホームページには、こうある。
「憲法第9条第2項では、「国の交戦権は、これを認めない。」と規定していますが、ここでいう交戦権とは、戦いを交える権利という意味ではなく、交戦国が国際法上有する種々の権利の総称であって、相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能を含むものです。
一方、自衛権の行使にあたっては、わが国を防衛するため必要最小限度の実力を行使することは当然のこととして認められており、たとえば、わが国が自衛権の行使として相手国兵力の殺傷と破壊を行う場合、外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のものです。ただし、相手国の領土の占領などは、自衛のための必要最小限度を超えるものと考えられるので、認められません。」
必要最小限の反撃をするが、交戦しないって、具体的に、どういうことか。
まず、攻撃を受ける。そして反撃する。でも、敵が攻撃を止めてくれなかったら?
応戦になる。それでも止めてくれなかったら?
埒があかないから、奴らがやって来る本拠地を叩く、となるのは当然で、これが敵地攻撃。それができない。
もし、その応戦の継続の中で、自衛隊員が捕虜に取られたら?
日本は憲法上「交戦主体」になれないから、自衛隊員が捕虜に取られてもジュネーブ条約上の捕虜としての扱いをしなくてもよい、と外務大臣が国会答弁する稀な国だ(今回の安保法制の国会での岸田外務大臣)。
もし、自衛隊が応戦中に間違って敵国の民間船を沈めてしまったら?
これは、「国家」が全ての責を負うべき国際人道法違反である。こういう軍事的過失に対処する法体系を日本は持ちあわせていない。軍事法典がない。つまり、自衛隊は法的に軍事組織でないから、軍事的過失は、自衛隊員個人の過失、領海外であれば国外犯として裁くしかない。
護憲派リベラルが最も警戒すべきこと
「交戦しない自衛」を別の角度から見ると、反撃の“継続”ができないということは、逆に、その一撃で相手の追撃の意思を挫くために、そこではまだ使わない打撃力を格段に高めておこう、となる。つまり、「抑止力への渇望」が、逆に強まる。だから、広島・長崎の国にして、いまだに核武装の議論が絶えないのだ。
だからこそ、警察力という“バッファー”のない「空」を除いて、自衛隊は、戦後、一度も防衛出動したことがないのだ。現場の自衛官たちが一番わかっているのだ、このナンセンスさを。
一方、防衛出動がない、それこそ9条の“威力”だ。“ズレ”はこのままでよい、と護憲派リベラルは言いそうだ。そこで何が起こっても、自衛隊員の個人過失になるのは、好きで自衛隊“なんか”に入って、勝手に志願して行ったんだから自業自得、と溜飲を下げる“サヨク”もいるだろう。
バカな。
この“ズレ”のまま、そして、自衛隊の法的地位の問題を全く考慮せぬまま、アメリカのために、もっと“ヤレ”と言う政権が現れたのだ。
じゃあ、政権を倒せばいいのか? それだけか?
いや、“ズレ”がいつか「事故」になるリスクは、ずっと温存されることに変わりはない。そして、そういう「事故」は、故意にも起こされ、必ず、政治利用されるのだ。
自衛隊員が不幸にも殉職したとしよう。それを「9条のせい」にする。敵の極度の悪魔化が恣意的に進むなかで、それをやられたら?
国粋の雰囲気の中で9条が改憲される。これが、護憲派リベラルが最も警戒すべき状況であろう。
「安倍政権打倒」の熱狂に、うつつを抜かしているヒマはないのだ。
1957年生まれ。早稲田大学大学院理工学研究科修士課程修了。インド国立ボンベイ大学大学院に留学中、現地スラム街の住民運動に関わる。2000年3月 より、国連東チモール暫定行政機構上級民政官として、現地コバリマ県の知事を務める。2001年6月より、国連シエラレオネ派遺団の武装解除部長として、 武装勢力から武器を取り上げる。2003年2月からは、日本政府特別顧問として、アフガニスタンでの武装解除を担当。現在、東京外国語大学教授。プロのト ランペッターとしても活動中(https://www.facebook.com/kenji.isezaki.jazz/)。著書に『武装解除 紛争屋が見た世界』、『本当の戦争の話をしよう』などがある。