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江戸時代の「日本の教育水準」、実は「世界最高ランク」だった…!

『日本史サイエンス〈弐〉』

歴史とは、人と物が時間軸・空間軸の中をいかに運動したかを記述するものである。話題騒然の前作に続き、日本史の「未解決事件」に「科学」を武器に切り込む!

本記事は播田 安弘『日本史サイエンス〈弐〉 邪馬台国、秀吉の朝鮮出兵、日本海海戦の謎を解く 』(ブルーバックス)を抜粋・再編集したものです。
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日本の産業はなぜ急成長したのか

1868年、日本は明治維新によって、天皇を頂点とした立憲君主国家となりました。新政府は海外の各国に視察団を派遣した結果、日本の発展のためには殖産興業と富国強兵政策が必要であると判断しました。

じつは江戸幕府でも、ペリー来航により危機感をいだいた勘定奉行の小栗上野介忠順は、日本を守るためには海軍が必要であると考え、そのためにフランスの協力を仰いで、技師ヴェルニーの指導のもと横須賀に日本最初の製鉄所を建設していました。鉄を自国でつくることは、設計技術や製作技術への波及効果が大きく、国づくりに最適の産業です。また、小栗がつくった横須賀製鉄所では造船も計画され、維新後は明治新政府もそれを継承してのちに横須賀造船所、さらに20世紀に入って横須賀海軍工廠となり、多くの軍艦を製造するようになりました。

造船は流体力学などをもとにした船舶設計や工程管理ができる大人数の工員や設計者が必要で、これらを育てることで日本でも工業全体が底上げされ、のちには巨大戦艦「大和」を建造するまでになるのです。小栗自身は大政奉還のあと隠居していたところを罪なくして捕らえられ、斬首されましたが、大隈重信は「明治政府の近代化政策は、小栗忠順の模倣にすぎない」とさえ語っています。

PHOTO by iStock

また、新政府の渋沢栄一らは、日本が外貨を稼ぐには絹の輸出が最上と考えました。しかし、江戸時代以来の家内生産では品質が一定しないという問題があり、近代的な大紡績工場の設計をフランスに依頼し、技術者ブリュナの指導のもと、1872年、群馬県に富岡製糸場を完成させました。製糸業は日本の重要な輸出産業に成長し、明治の終わりには輸出額の世界第1位となりました。

200年以上も鎖国をしていた日本は、科学や技術という点では欧米と比べるまでもない後進国でした。ついこの間までちょんまげを結っていた国が、これほど急速に産業を成長させ、経済を大きく発展させることができたのはいったいなぜでしょうか。

もちろん、アジアのほかの国々のような植民地化を避けたいという強い危機感から、新政府がなりふりかまわず列強の指導を仰いで殖産興業策を進めたことが奏功したというのが第一の理由でしょう。しかし、いくら指導されても受け入れる態勢ができていなければ、無から有は生まれません。

それはやはり、ペリーが驚いたように、武士階級は藩校で、町民は寺子屋で学んでいた江戸時代の教育水準の高さがあったからでしょう。時代劇では町人たちがあたりまえのように瓦版を読んでいますが、江戸時代の識字率は世界でも最高ランクにあったと考えられ、武士は100%、一般男性は約50%、女性は約30%というデータもあるようです。

教育水準ということでいえば、江戸時代の日本人は数学の能力も高かったのではないかと推察しています。1627年に刊行された『塵劫記』(吉田光由)により和算がブームとなり、武士も商人も農民も、競って問題を解いていました。また、自身でも問題を考案して神社に「算額」として奉納していました。一般大衆が競って数学の問題を解いている国というのは、かなり珍しいのではないかと思われます。また、このことからは、難しい問題に挑戦してみたいと思う好奇心、そして一つの問題をずっと考えつづける忍耐力も日本人には世界の平均以上にそなわっていたことを窺わせます。

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