「セーヌのほとりで邂逅した男と女。「月が綺麗ですね」からの残酷にして滑稽なる幕切れ。」白夜(1971) じゃいさんの映画レビュー(感想・評価)
セーヌのほとりで邂逅した男と女。「月が綺麗ですね」からの残酷にして滑稽なる幕切れ。
ロベール・ブレッソン監督の映画が、ここ数年で何本も4Kレストアのうえ、リヴァイヴァル上映されている。
僕が最初に映画.com に(Yahoo!映画から移ってきて)感想を書いたのが、実は『バルタザールどこへ行く』で、その後、『少女ムシェット』『田舎司祭の日記』『やさしい女』『たぶん悪魔が』『湖のランスロ』『ブローニュの森の貴婦人たち』の計7本を映画館で観たことになる。これで8本目。
実際に観て面白かったかどうか、という話でいうと、最初の『バルタザールどこへ行く』と『少女ムシェット』はそこそこ楽しめたが、残りの映画は世評ほどには感銘を受けなかったというのが正直な感想で、自分はそこまで良いブレッソンの観客ではないと思う。
彼独特の禁欲的な「シネマトグラフ」の手法とショットへのこだわりについては、いちおう興味深くは観られるものの、ストーリー的に引き込まれる類の映画群ではないうえに、たいてい登場人物の言動にほとんど共感することができず、主要キャラとの心理的な距離感は結構大きい。
もともと、ブレッソンの提唱するシネマトグラフという手法自体、客観性と他者性の強い「型」を重視した方式であり、キャラクターたちはあたかも「人形」か「バレエ」のように、監督によって「振り付けられる」。
観客は、登場人物に共感するのではなく、「観察」することを強いられる。
生々しいリアリティをはぎ取られて、能の型のように所作とセリフの「概念」を視覚化していく素人俳優たち。
すべての夾雑物をそぎ落とされた末、映画に刻印されているのは、ロベール・ブレッソンの脳内ですでに完成していたコレオグラフの再現――視線の交錯と、手の動きと、立ち位置と、カメラのアングルによって構成される「純化(記号化)された映画のイデア」に他ならない。
数多の制限のなかでこそ輝く意味性の累積と、映画ならではの刺激的なショットとモンタージュの実験は、たしかに観客を静謐な潜心と知的な興奮へと導いてくれる。
メカニカルに「仕組まれている」と同時に、眩暈を起こすような、先験的で抒情的な詩情が映像にあふれているのも、ロベール・ブレッソン作品の特徴だ。
『白夜』もまた、その文脈においては、実にポエティックで、かつ映画的な示唆に富んだ作品だといえる。
― ― ― ―
ただ、お話に共感できるかといわれると、これはなかなかに難しい。
まず個人的に、僕は「一目惚れ」という現象を信用していない。
妻とも、2年学内サークルで同じ時間を過ごしたあと交際し、さらに6年付き合ってから結婚した。爾来、25年間、一度の浮気もなく仲良くやっている。
見た目で好きになる、という経験が自分には一切ないので、一瞬で恋に落ちる主人公を見ると「ほんまかいな」という想いがつい先に立ってしまう。
まあもともと、主人公のジャックはア・プリオリに監督によって「恋に恋する男」として規定された存在だ。
まだ見ぬ愛する人に宛てて、声のメッセージを録音しつづける画家。彼は絵を描きながら、自分の吹き込んだ声を再生して聴き直す(純粋にやってることがキモすぎるよww)。
彼にとっては、自分のそういう想いや、行動や、あり方それ自体が掛け値なしに「尊い」のであって、ここではその夢の対象(恋人のイデア)として、自殺志願者でよるべない存在のマルトが、ぴたっと「はまった」だけである。別段、この男はマルトの本質が好きなわけでもなんでもない。
ジャックはマルトに言う。「僕はすぐに恋に落ちる――夢に描いた理想の女性に」
彼自身が、そういう内向きに完結した自分を「自認」し、「容認」しているわけだ。
対するマルトにしても、「帰ってこない男を待つ」という物語的行為自体に「淫して」いる存在だとしか言いようがない。
彼女もまた、相手の男が本当に愛しいわけでは、おそらくないのではないか。
だいたい、マルトと下宿人のふたりは、1年後に再会する約束を交わすまで、ほとんど顔すら合わせていないのである。
戻らぬ愛しい男を待つという、関係性と距離感。そのロマン性(文学性)と悲劇性に酔いながら、彼女は死を想い、生を想う。
それは、ある種の舞台症患者のようなものかもしれない。
マルトも、ジャックとは別の形で「恋に恋して」、そんな自分の想念の操り人形として生きている。
ふたりは出逢って、四回の夜をともに過ごす。
だが、彼らは本当に相手を観ているわけではない。
お互いが夢想する「悲恋のイデア」に、
相手の存在が、ただ「嚙み合った」だけだ。
ふたりは、相手の何かを愛したかったわけではない。
相手を恋する「物語」にあこがれていたのだ。
だから、あった瞬間から、ふたりのあいだには「物語」が生まれる。
そうでないと、あった瞬間から恋など生まれない。
本作の原題が『Quatre nuits d'un rêveur』(夢見る者の四夜)というのは、そういうことだ。
― ― ― ―
出逢ってからのふたりの心の動きも、
僕には共感しかねることばかりだ。
身体性を持った女が現れたのに、レコーダーに痛語を録音し続ける男。
待っている人がいるのに、近づいてきた男にわざと「隙」を見せる女。
マルト「私たち、いつまでも一緒よ」
ジャック「君を愛しているんだ」
定時に会って川べりをうろうろ散歩しているだけで、ひたすら盛り上がっていくふたりにドン引きしながら、「俺は、いま何を見させられているのだろう?」という疑念にとまどっていたら、比較的唐突に、あの衝撃的なラス前のシーンがやってくる。
「月を見上げてごらん」(欧米に夏目漱石はいないから、「月が綺麗ですね」=「愛しています」のロジックは通用しないと思うけどw)からの、あの素っ頓狂で、ぎょっとするような変心のラスト・ラン!
ああ、監督はこのえげつない瞬間が撮りたくて、この映画を作ったのか。
そう思わせるくらい、残酷で、滑稽なシーンだ。
なんか、ちょっといきなりすぎて、笑えちゃうんだよね。
それまで、たいして知りもしない女に迫って、口説いて、愛を語り続けてきた、気持ちの悪い夢想男の在り方自体に、盛大に冷や水を浴びせるようなどんでん返し。
同時に、ふたりへの想いを両天秤にかけながら、今の閉塞した生活から連れ出してくれる存在をただひたすら希求していた女の、あまりの判断の早さと即決ぶりに、笑ってしまう。
この嗅覚! この俊敏性! すげえわ。
NTR返しの華麗さ。手のひらくるくるの柔軟性。
このシーンだけは、本当に面白かった。
ブレッソンにしてはロマンティックな抒情をたたえた映画だし、よるべなく孤独で内向きなふたりの語らいからは親密な気配も感じられるのだが、結局のところ、ブレッソンはちっともこの二人に共感なんかしていなかったんだな、と思わざるを得ない酷なエンディング。
演者によりそわない監督の冷徹で厳格な眼差しは、「恋」を口にして「物語」にのめりこむ若いふたりの愚かしさと醜さを鮮やかに描き出して、映画を締めて見せる。
考えてみれば、ブレッソンは『田舎司祭の日記』においても、ある程度自分の分身のようなキャラクターを出してきて、じっくりその陰鬱な精神と独りよがりな思考法を客に見せつけて、存分にうんざりさせてから、ラストでそのキャラクターをあっさり切って捨てて、さくっと「自己否定」してみせるという作劇を仕掛けてきた人だ。
本作のジャックは、まさに若き日のブレッソンの分身のようなものだ。なにせブレッソン自身が若い頃、画家を目指して研鑽を積んでいたのだから。
『ブローニュの森の貴婦人たち』『湖のランスロ』『やさしい女』『たぶん悪魔が』……彼の恋愛要素のあるメロドラマ系の映画を振り返ったとき、女は常に浮気性で病的で執着心が強く、男は常に多情で自分勝手な性格であることに気づく。若い身空で希死念慮をもてあそび、思い込みを前提に濃密な愛憎劇を繰り広げる彼らの恋愛模様は、本質的に「ディスコミュニケーション」の物語でもある。
その意味で、ブレッソンの『白夜』は、まさにブレッソンらしい映画といっていいだろう。
― ― ― ―
その他、寸感。
●冒頭のでんぐり返しは、ロッセリーニの『神の道化師、フランチェスコ』(50)と、パゾリーニの『大きな鳥と小さな鳥』(66)および『テオレマ』(68)を想起させる。「愚者」のメタファーか?
●フロランス・ドゥレ(『ジャンヌ・ダルク裁判』)、アンヌ・ビアゼムスキー(『バルタザールどこへ行く』)、ナディーヌ・ノルティエ(『少女ムシェット』)、ドミニク・サンダ(『やさしい女』)、イザベル・ベンガルテン(本作)、ローラ・デューク(『湖のランスロ』)など、ブレッソンの選んでくる素人ヒロインには、明確な「好み」がある。強いて言えば、北方ルネサンス的というか。
●ブレッソン映画には、唐突に生気が漲る瞬間というのがある。『少女ムシェット』におけるゴーカート・シーンとか、『田舎司祭の日記』におけるバイク相乗りシーンのような。本作の場合、ブラジル音楽の路上演奏や、映画館で流れるノワール風のギャング映画のラストシーンがそれに当たるだろう。ちなみに、本作においても音楽はBGMとしては流れず、あくまで環境音の延長上で、実際にその場で鳴っている音楽として挿入される。
●やたら女々しくて気持ち悪い主人公のわりに、描いている絵画はフェルナン・レジェやモンドリアンを想起させる、三原色の目立つ明朗な抽象画だ。この色彩の調子は、川面に映るネオンサインの玉ボケや、青シャツと赤いマフラーといった服装の取り合わせとも呼応している。
― ― ― ―
川面に乱反射する、街のネオン。
玉ボケする、赤、青、黄の光。
川のたもとで出逢った、男と女。
男は画家の卵で、女には別の男がいる。
ふたりは急速に心を通じさせて……
といった映画を、なんか前にも観たことがあるな、
と思ったら、深作欣二の『道頓堀川』(81)だった(笑)。
あれは、松坂慶子が猛烈にエロくて、
小学生時代、昼日中のTVで濡れ場を観ながら、
激しく興奮したものだったけど……。
思い返すと、意外に深作はブレッソンの『白夜』を意識していたのかもしれないし、あるいはまったくしていなかったのかもしれない。
最後に、これを書く前にネットで『白夜』を検索したら、思いがけず、小林政広監督に『白夜』(09)という映画があることを知った。
ヴィスコンティにも同じ原作の映画があることは知っていたが、こちらの映画は本当に知らなかった。
吉瀬美智子とEXILEの眞木 大輔が主演の二人劇で、リヨンが舞台で、女は別の男を追いかけてきていて、男はバックパッカーで、橋のたもとでかりそめの恋に落ちて……と、明らかにドストエフスキーが原作というよりは、ロベール・ブレッソンの映画版を意識した作品のようだ。フィルマークスでほかの方の感想を読んだら、あまりの皆さんの酷評ぶりに眩暈がしてきた……(笑)。
でもレビューの一つで、監督と実際に会った方が、彼はロベール・ブレッソンの『白夜』のような映画を撮りたかったらしいと証言されていて、なるほどやっぱりね、と。
ただ、他のレビュアーの誰一人としてブレッソンの『白夜』に言及していないし、他の映画サイトや映画の宣伝記事でも、まったく触れられていない。これは一体どうしたことか。
元ネタが「素人俳優を使う」ことに大きな意味を持たせていたブレッソンだと「わかったうえで」観れば、吉瀬美智子とマキダイがどれだけ「大根」でも、観客側も観方(というか心構え)がだいぶ変わったと思うんだよね。
だって、みんなふたりの演技があまりに酷すぎると言ってボロカスに叩いてるんだけど、たぶんロベール・ブレッソンに私淑する小林監督としては、ふたりにはまさに「素人みたいに」演じてほしかったんだろうし、実際にそう演出したんだろうから、ふたりの演技が棒なのは間違いなく「故意」なわけで、そこは責めてあげたら可哀そうなんですよ。
もしかすると、ブレッソンとの「比較」のなかで観たら、随分と印象の変わる映画だったのではなかったのかな? 多分観ないけど(笑)。