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マット・アルト「日本のポップカルチャーについて:日本はキミらのことなんかク○ほども気にしない」(2025年5月17日)

「アメリカのポップカルチャーは衰退しつつある」説をとるとしよう.では,どうして今,日本はアメリカと真逆の経験をしているんだろう? どうして日本はポップカルチャー大盛況の時期を迎えているんだろう?

それこそ,日本のポップカルチャーが世界中で成功している秘訣だ

スペンサー・コーンハーバが『アトランティック』に寄稿したエッセイ「アメリカ・ポップカルチャー史上最悪の時代が到来か?」が公開されてから,2週間で大きな反響がうまれている.友人のW・デイヴィッド・マークスノア・スミス〔当サイトでの翻訳はこちら〕をはじめとして,多くの人たちがこれに触発されて議論に参加してきた――「アメリカは本当に『文化の暗黒時代』に入ったのか?」「もしそうだとしたら,理由は?」 そこで展開されている主張は,こう続く.「アメリカのテレビ・映画・音楽は後ろ向きになっている.昔から続いていてもう味がしないシリーズを繰り返したり,ヒット作の前日譚を出してみたり,リブートをやってみたり,「インターポレーション」をやったり,派生作品をつくったりするばかりだ.一方,オンラインでは,インフルエンサー志望者が形になってないコンテンツを大量に世の中に送り出して,AI 粗悪コンテンツ工場を相手に勝ち筋のない戦いを繰り広げている.伝統的にみんなが楽しむファンタジーを導いてきた音楽家・作家・芸術家といったクリエイティブ階級は,広く実力を認められても生計をえる方法がほぼなくなっている.」

しばし反論は脇に置いて,「アメリカのポップカルチャーは衰退しつつある」説をとるとしよう.では,どうして今,日本はアメリカと真逆の経験をしているんだろう? どうして日本はポップカルチャー大盛況の時期を迎えているんだろう?

コーンハーバのエッセイでは,主にアメリカの音楽シーンに関心をしぼっている.だから,ここでは日本でそれに相当する芸術形式に関心をしぼるのが理にかなっているはずだ.それが,漫画だ.こう言うと,「いや,音楽と漫画の比較なんて,リンゴとオレンジを比べるようなものじゃないか」と思うかもしれない.アメリカでは,長らく音楽こそがカウンターカルチャーにおける文字どおりのビートとリズムだった.フォークでも,プロテストロックでも,ヒップホップでも,その点は変わりない.他方で,日本では,音楽ではなく,絵に描かれた形式の娯楽がその役割を果たしてきた.「日本のポップカルチャー」と人々が口にするときに主に指しているものといえば,アニメの双子とも言える漫画だ.だから,アメリカ音楽と日本漫画を比べるのは適切な気がする.

批評家・評論家たちは,アメリカの創造力が衰退している理由をあれこれとたくさん指摘している:アルゴリズムによる意思決定で運営される企業プラットフォーム,コンテンツに注意を向けられる時間があまりに短い消費者たち,クリエイター・顧客の双方が陥っている孤立と孤独感,カウンターカルチャーが崩壊して大衆文化と区別がつかなくなったこと,絶え間なくコンテンツを送り出さなくてはならない切迫感,終わりの見えない社会政治的な混乱からの安全な避難所を求める若い世代の保守化.なるほど,どれももっともだ.

いま挙げた要因の実質的に全部が日本にも当てはまる.漫画も,データ本位のメディアだ:大手出版社は,自分たちの漫画の読者層をしょっちゅう調査しては,成績のかんばしくない連載を残酷にも打ち切っている.漫画読者たちの注意スパンも短い:いろんな研究によれば,読者が漫画1コマに費やす時間はほんの一瞬でしかない.多くの日本人は社会的に漂流しているような感覚を覚えている.2021年には政府が孤独・孤立対策担当の特命大臣をつくったほどだ.漫画家たちは,容赦ないスケジュールで漫画制作を強いられている.多くのアメリカ音楽ジャンルと同じように,漫画もカウンターカルチャーから主流ポップに移行した.前にも書いたように,若い日本人も保守化しつつある.視野を広くとって社会のありようを見れば,日本ほどアメリカに近い例を見つけるのは難しいだろう.

ここで疑問に戻る:「どうしてアメリカのポップカルチャーは衰退しつつあるのに,日本のポップカルチャーはこんなに絶好調なんだろう?」


「消費者はどんな製品が可能か知らない」――自伝『MADE IN JAPAN』でそう述べたのは,ソニー会長の盛田昭夫だ.「我々は知っている.だから,市場調査をやたらにやるのではなくて,製品とその使い方についての考えを他でもなく我々が磨くのだ.そして,その製品の市場をつくりだそうと試みる.」

これぞ最良というものを世間にかわって一方的に億万長者が判断するなんて,いまどきあまり聞こえはよくない.それに,盛田の記憶はいいところどりをしている.ソニーも,ときにフォーカスグループの助けを借りていた(たとえば,ウォークマンのデザインとマーケティングで).

それでも,盛田は正しかった:自分がのぞむものを,私たちはわかっていない.自分たちがつくりだしてテクノロジーによって,みんなはかつてないほどつながりあうようになって,その挙げ句,かつてないほど孤独感を深めている.アクセスできるコンテンツ・ライブラリはますます増えていく一方で,どんどんオンデマンドで好きに利用できるようになっている.それなのに,そのことに不満をつのらせ,不信感を抱いている.なにに値打ちがあるかという自分じしんの感覚を手放して,かわりに視聴人数や「いいね」数や再生数といったかたちで値打ちがあるものの認識を企業に外注している.さらには,自分みずからをも外注しだしている.つまり,才能や努力いらずで「アート」をつくってくれるAIモデルに任せたり,自力で考えたり生身の存在とやりとりしたりする必要から解放してくれるチャットボットに委ねたりしている.種としての私たちは,選択肢を与えられると,だいたい安全で楽ちんで既知のなじみがある方を選びがちだ.私たち人間は,自分で家をつくった部屋飼いの猫なんだ.べつに,どれか一つの世代や集団をあげつらってるわけじゃない.というか,いまこの時代の人間にかぎってさえいない.安楽を求める欲求は,人間の条件に備え付けなんだ.

このことは,生産側にも当てはまる.しがない Substackユーザーだろうと,顔のないメディア帝国であろうと,フィードバックを求めてやまないものだ.自分がつくって世に送り出したモノが他人に注目されているという兆しがほしくてたまらない.そうした客たちが生成するデータ全部に,生産側は目を向ける――顔のないメディア帝国であれば,きっとぞっとするほど詳細な大量データを得ているだろう.

さて,アメリカのコンテンツ生産・流通システムが客たちに注意を払いすぎていることが問題だとしたら,どうだろう?

これは直観に反して聞こえる.というか,本末転倒にすら思える.「物理的な製品でも,メディア製品でも,消費のためにつくられているわけだよね.だったら,生産側は,自分たちの製品をつくるときに消費者たちの欲求を考慮するのが当然じゃないの?」 まさしくそれが,さっきの問題の核心に迫っているんだよ――「アメリカのクリエイターたちが世界的な勢いを失っているなかで,どうして日本のクリエイターたちは逆に世界的な勢いを強めているんだろう?」

一例として,最近の『ブルームバーグ』記事をとりあげよう.スマホゲーム『原神』のクリエイターたちが,この記事で取り上げられている.『原神』は中国系のゲームだけど,その運営はシリコンバレー方式そのものだ.開発元の HoYoverse は,任天堂風のゲームプレイ感覚と洗練された「アニメ・スタイル」の映像を組み合わせて大もうけした(この注意喚起のカギ括弧は完全に意図的).『原神』立ちあげから5年で,プレイヤー達のゲーム内購入から HoYoverse がかき集めた金額は,実に50億アメリカドルを超えている.その後,HoYoverse は新規タイトルも2つ続けて出して,さらに20億アメリカドルをものにした.HoYoverse の成功の大半は,顧客たちから収穫した大量のデータによるものだ.「彼らは,プレイヤーの行動をすっかり把握している.もはや,プレイヤーがいつ何を欲しがるのかを正確に知っているほどだ」――『ブルームバーグ』記事では,専門家のこんな発言が引用されている.「HoYoverse は,経済学者と心理学者がビデオゲームを作っているようなものだ.」

一方では,HoYoverse のアプローチはすさまじく顧客本位に見える.彼らが保有しているユーザーに関する情報,リアルですぐに活用できる情報の量ときたら,盛田昭夫も歴史上の他のどんなプロデューサーも夢にも思わなかったほどだ.そして,HoYovese は,客がズバリのぞむものを与えている.他方,これには罠もある:HoYoverse は,壁にぶつかっている.新規タイトルは,彼らの市場シェアを拡大していない.既存の自社タイトルと客を食い合っている.ズバリ客が求めるものに立脚していることで,彼らは先に進めなくなっている.今後も成長を続けたければ,「自分たちの安逸ゾーンの向こうへ拡大していく」必要があるだろう.そうは言っても,HoYoverse が安逸ゾーンに留まっているからといって,いったい誰が非難できるだろう? 収益はだんだん下がってきているとはいえ,昨年,HoYoverse は年40億アメリカドル以上を稼いでいる.楽に下っていくなら,ひとつ私もお供させてほしい.

このパラドックスは,日本ポップカルチャーが隆盛している理由を説明する助けになる.日本のクリエイティブたちは,典型的に,外国市場にあまり注意を払わない.任天堂の伝統的な「これが気に入ったら遊んでね,イヤならやんなくていいよ」方式は盛田昭夫のトップダウン型アプローチを踏襲して,フォーカスグループやプレイヤーからのフィードバックを避けている.長い間,任天堂やソニーのような企業が海外の競合他社に市場の圧倒的シェアを譲り渡すなかで,外野はこのマインドセットを「ガラパゴス症候群」と揶揄してきた.その手の論議はだいたい,こんな風にはじまる――「日本には国内市場が十分に大きいおかげでかなりの利益を上げられた.それは祝福でもあり呪いでもあった.1990年にバブルが弾けると,日本の世界制覇の野望はしぼんでいって,その国境の内側に閉じこもるようになり,世界の趨勢から取り残された.」 ガラパゴス症候群という用語がはじめて使用されたのは,ソニーが iPhone のようなものを一向に発明できないでいる理由の説明においてだったけれど,日本のゲーム会社が Microsoft や Electronic Arts(あるいは HoYoverse)といった海外勢にこれほど多くのシェアを譲り渡してしまった理由にも当てはまるかもしれないし,日本のアニメスタジオのどれひとつとして Pixar の規模にまで成長していない理由にも当てはまるかもしれない.

とはいえ――いまの話に聞き覚えがあるという人がいたら,それは,今年 NHK の番組で同じ論点を主張していたからだ(こちらで視聴可能)――批判者たちは,肝心なところを見落としている.日本は,これまでずっと文化的なガラパゴスだった.19世紀に東洋と西洋が接触した瞬間からずっと,ガラパゴスのままだ.現代になっても,世界でヒットした日本のいろんな製品は,ウォークマンでもゲームボーイでも kawaii ファッションでもなんでも,すべて日本人によって日本人のためにつくられた.外部にいる私たちのような海外消費者は,いつも後知恵で顧客になった.「海外のみなさんにも喜んで頂けてありがたいことです」とは言うだろうけれど,海外は二の次だ.日本のクリエイティブたちは,国内でも海外でも自分を売り込むのがヘタなことで悪名高い――日本の漫画家たちの大半は,実名や顔写真を明かさずペンネームと自画像だけ表にして,隠れている.企業も,国際的にはそれと大差ない.それに,おそらく政府の実績はそれすら下回って最悪だ

好意的にとれば,日本第一の姿勢と呼べなくもない.あまり好意的でないとりかたをすれば,海外市場のライバルたちと向き合う意欲か能力が欠けている.ゲーム・ディレクターからオモチャメーカー,漫画家まで,これまで日本のいろんなクリエイティブたちと海外の客について何回も議論をしてきた.そういうとき,ほぼきまって,同じ主題の変奏を耳にする:「うちらは自分たちのためにコレをつくってるんです.自分たちがそうしたいからというだけじゃなく,そうせざるをえないからでもあるんですよ.海外の人たちがなにを考えているんだか,うちらにはわからんのです.」

これはアキレス腱のように思えるけれど,現代では意外な資産になっている.というか,世界が日本発のあれこれを愛好している理由は,ここにある.日本の文化製品をつくっている人たちは,海外の客をあまり気にしていない.けれども,それは反感を抱いているからでもなければ,閉鎖的な思考のせいだからでもない.むしろ,文化全域に広く見られる内向性の自然な帰結だ.その結果,日本のいろんな製品に接しても,私たちは「自分が狙い撃ちにされている」とは感じない.それでいて,「自分たちの存在が認められている」と感じる.製品を発見するのに少しばかり労力はかかる.でも,そのおかげで,製品にいっそうのガチ感が感じられる.

もちろん,アメリカにもものすごく個人的なモノをつくっているクリエイティブたちは大勢いる.ただ,彼らの頭脳の産物も,オンラインのキュレーション・アルゴリズムにからめとられてしまうことがあまりにも多い.その結果,アメリカのクリエイティブたちは「一山当てるか郷里に帰るか」で大衆受けを目指すよう促されている.なんなら,それを強いられてすらいる.ところが,みんなにウケるものをつくろうとすると,どうしても,誰にも刺さらないモノができてしまう.

これを,日本のメディアプラットフォームと対比してみよう.とくに,漫画のプラットフォームだ.主要な雑誌は,大企業によって発行されている.その意思決定にはアンケート調査が用いられている.それでも,彼らは新しい才能を発掘し,新しい人気シリーズを生み出せている.漫画雑誌も,読者がつかなかった作品は容赦なく打ち切る(ちなみに漫画家は創作者への敬意をこめて「先生」と呼ばれている).ところが,うまく読者がついたら,その漫画家は自分の個性を存分に発揮することが許される.そして,その自由によって,予想しなかった新しいものがもたらされる.彼らもデータ主導でやっているけれど,その情報は読者からもたらされると編集者によって「咀嚼」される.編集者たちには,データを活用するか軽視するかの大きな裁量がある.これも一種のアルゴリズムではあるけれど,人間中心アルゴリズムだ.そして,それによって人間中心のアートがつくりだされている.(これに関しては,いずれもっと長大な文章を出す――おたのしみに.)

だからこそ,日本のクリエイターたち,とくに漫画家たちは,自分自身を第一に置くことで,文化的な観点から見て日本にとってとてもうまく機能してきた.とりたててたしかな先見性がないものでも,なにかビジョンをもっているように感じられる.言い換えると,「経済学者と心理学者」ではなくて,クリエイターたちが主導している.漫画でもゲームでもなんでも,日本発の製品を消費していると,会話をしているような感覚を覚える.他方で,アメリカ発のコンテンツ,とくにオンラインのコンテンツを消費しているときには,まるでどこかの心理学実験室のスキナーボックスに閉じ込められでもしたかのような感覚に陥る.「日本のポップカルチャー史上最悪の時代の到来か」なんてタイトルの記事に近いうちにお目にかかりそうにない理由が,そこにある.


[Matt Alt, “Japan doesn’t give a **** about you,” Pure Invention, May 17, 2025]

【著者紹介:日本のポップカルチャー研究家。1973年、米ワシントンDC生まれ。ウィスコンシン州立大学で日本語を専攻。1993-94年慶應義塾大学に留学。米国特許商標庁に翻訳家として勤務した後、2003年に来日。『新ジャポニズム産業史 1945-2020』が邦訳出版されている。】
〔本記事は、著者マット・アルト氏の許可の元に翻訳している。著作権等全ての権利はマット・アルト氏に帰属している。〕

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