先週は大学入試センター試験もありまして懐かしさに涙が出てきそうになるところでしたが、まぁ近年の「学力テストの点数には一喜一憂するくせに学力軽視」の流れに則り、今後は人物重視云々とも言われているわけです。センター試験当日の報道でも、どこの大学かは覚えていませんけれど学力よりも人間性を云々と述べる大学側の担当者もいました。もちろん政府も例外ではなく、こうした流れの先頭に立ちたがっているところ、とりあえず現行の採用基準によって選別された学生に不満もあると言うことでしょうか。
こちらは、2013年度の新卒者を対象とした就職情報サイトの広告です。全員が同じ服装、同じポーズに同じような髪型と画一化された姿は流石に気持ち悪いと受け止められることも少なくありませんでした。就活を始める前まで4割ぐらいは茶髪であったろうと思われますし、生まれつき髪の色が薄い人もクラスに一人くらいはいたように記憶していますが、それが就活生ともなると全員が綺麗な黒髪で統一されるのですから凄いものです。中学や高校の生徒指導の先生は、この辺から学んだ方が良いでしょう。
そしてこちらも少しばかり話題になった記事で、日本航空の現代と1986年の入社式を写したものです。これは特定企業に限定されるものなのでしょうか、それとも日本ではよくあることなのでしょうか。Japan as №1と呼ばれた時代と現代では、明らかに現代の方が画一化が進んでいることが分かります。超・買い手市場において、一時は傾いたとはいえJALというナショナルブランドには求職者も殺到したであろうことは想像に難くありません。しかし数多の応募者の中から選りすぐられたのは、上記のように完全に規格化された人々だったわけです。
学力テストの点数によって合否を決めた場合、どんな生徒が集まるでしょうか。当たり前ですが、一定以上の点を取れる生徒が集まる、概ね学力の面では似たような学生が合格することになります。では「人物」は? それはもうランダムとしか言い様がありません。学力「だけ」で選別するのなら、保証されるのは学力のみ、学力の面では似たり寄ったりの生徒が集まる一方で、人柄に関しては選別していない以上、何が出るか分かりません。社交的な人もいれば内向的な人もいる、要領のいい人もいれば不器用な人もいて、流行を追う人もいればマニアックな人もまた出てくることでしょう。
一方で、こうした選考によって合格した学生の姿に不満足な人もいて、現状に対して「改革」を訴える人もまたいるわけです。教育再生会議の面々にもその手合いは多いですし、京都大学総長の松本紘なんかは典型的な一人と言えます。曰く「受験勉強ばかりでなく、高校時代にやっておくべきこと、例えば音楽とか、恋愛始め人間関係の葛藤とか、幅広い経験をしてきた人に入試のバリアを少し下げる」とのこと。こうすれば、従来に比べて「学力の面では多様な」人材が集まるのかも知れません。今までと違って、それほど勉強ができな人でも京大生になれる等々。
一昔前の人は、いい年をして独身では世間体が悪いとの判断から結婚を望むなんてこともあったのでしょうか。そして次世代の学生は、京都大学(に限らず)受験を有利にするために異性と付き合おうとする、みたいなケースが出てきても不思議ではありません。音楽活動みたいに「モテそうな」趣味を経験していないと、あるいは恋愛経験に乏しかったりすると、人間性の面で低い点数を付けられて、たとえ勉強ができたとしても就学機会から排除されてしまうことも「改革」が進めば十分にあり得ると言えますから。
ともあれ昨今の採用が何を重んじて行われているのか、その帰結として表れたマイナビやJALの写真を見ながら考えていただきたいのですが、端的に言えば「選別基準になった分野では画一化が進む」わけです。つまり「学力重視」で応募者を選り分けようとすれば、必然的に一定の学力を持った人の集団ができるように、「人物重視」で合否を決めようとすれば同様に似たようなタイプの人間ばかりが集まることになります。人物重視へのシフトを語る論者は、特に権限を持つ人は、その結果へのビジョンを果たして持っているのでしょうか?
容量が良かったり、あまり真面目ではない連中なんて面接くらい簡単に誤魔化せるわけです。そもそもわずか一回かせいぜい2~3回の面接や書類検査程度でその人の“人間力”とやらを知るのは不可能というか、非常に浅はかに思えます。そんなものを受験に持ち込んでしまえば、話すのが上手かったり、顔が整っていたり、“若者らしさのある”生徒が選ばれるのは当然です。反対に勉強はできるのに人付き合いが苦手であったり、ユーモアが無かったり、或いは京都大学の某教授よろしく音楽や女性との恋愛などの体験がない人など俗に言う“非リア充”の子たちはそれだけで落とされる可能性があるのです。そんなことでは大人しく内気な子や真面目で素直な性格ゆえ嘘が付けない生徒や優しく自己主張や競争を好まない生徒など正に正直者がバカを見るのではないでしょうか?
そして私が最も恐れているのは(先ほどまでの主張ともだいぶ重なりますが)面接官などが人間性の名の下に自分の気に入った生徒を合格させてしまう、逆に気に入らない生徒は落としてしまうということがほぼ確実に起こるであろうということです。“人物”重視を推し進める連中には本当にこれが学生のためになるのかもっと考えて頂きたいです。勝手な指標や奇妙な風習・価値観によって一部の人々が切り捨てられたり苦しく辛い思いをするという事態が起こりませんように。
実際のところ民間企業の選考(面接)ともなると完全に好き嫌いの世界ですからね。よほどの特殊な専門性が求められる分野ならいざ知らず、未知数の新卒採用ともなれば「友達になれそうな人」が選ばれていると言っても過言ではないように思いますし。こうした選考を、本来ならば勉強をするところであるはずの学校に持ち込むことの意味を関係者はよく考えて欲しいものです。