血液型本ヒットの裏にB型の存在--4人に3人が「血液型と性格は関係あり」 (マイコミジャーナル)
『B型自分の説明書』といった"血液型本"がヒットする中、ブロガー向け情報サイト「ブロッチ」などネットマーケティングを展開するアイシェアはこのほど、「血液型に関する意識調査」実施した。B型の4人に3人が「血液型と性格は関係していると思う」と高い関心度を示し、調査結果にもそれぞれの血液型の“性格”が表れた。
同調査は血液型による分析や占いがどれだけ浸透しているか、5月22日~5月24日の期間に20~40代を対象に男女別、血液型別で行い506人の回答を得た。
家族、友人、恋人……と人間同士の付き合いの間で、つい血液型が話題に上ることも多い。実際に、「血液型と性格に関係があると思うか」との問い対して、12.5%が「大いに関係があると思う」、56.5%が「多少は関係があると思う」と答え、合わせると全体の7割が「関係あり」とする。
さて、果てしなく微妙な調査ですが、全体の7割が「血液型と性格に関係があると思う」と回答したそうです。ふむ、例えば日本のように国民の誰もが国歌を歌える国もあれば、「国歌の歌詞なんて知らない、歌えと言われても無理」という人が大勢を占める国もあります。同様に誰でも自分の血液型を知っている文化圏もあれば、「血液型?何のこと?」という文化圏もあるわけです(というより、後者の方が圧倒的に多いはずです)。日本の常識が世界の常識と思ったら大間違い、他所の国の人に血液型の話題でも振ろうものなら、「は? 血液型? 何でそんな話になるの? 怪しいカルトの人? 怪しい健康食品でも売りつける気?」とか、そんな風に警戒されそうです。
血液型と性格の関係云々が何の根拠もない思いこみに過ぎないことは、とりあえずここの読者の間では自明のことだと思います。問題はこの血液型云々のように何の根拠もない風説であっても、全体(まぁネット調査ですから極めて疑わしいものですが)の7割の信用を獲得していることです。何の証拠もない疑惑、単なるデマであっても、7割ぐらいの人を信じさせることが出来る、そういう事例として考えてみましょう。
いったいどういう条件の下で、それは信頼されるのでしょうか? 人が何かを「真実だ」「本当のことだ」と信じるに至るには、何が鍵なのでしょうか? 血液型の事例を見るに、必要なのは科学的根拠や統計資料ではなさそうです。それは例えばある種の健康食品や美容品の効能と同じで、信頼できるデータ、第三者が測定しても同じ結果が得られるような基準に拠っているわけではありません。それでも信頼されるのはなぜか?
結局のところ、必須の条件は確固たる裏付けではなく「信じたい」という気持ちにありそうです。いかに矛盾に満ちたトンデモであろうとも、この「信じたい」という気持ちさえある限り、その人の心の中では動かしがたい事実なのです。証拠など後から付け加えればよい、と。
例えば歴史修正主義者を考えてみてください、彼らは諸々のことを「なかった」ことにしてしまいます。彼らの矛盾に満ちた歴史認識には何度となく、実際に起こったことがどうであるのか、それを示す資料や論拠が突きつけられるわけですが、だからと言って彼らが考えを変えることはありません。もし彼らの歴史認識が何らかの根拠に基づいているのなら、その根拠が覆されることで考えは改まるはずです。しかし、そうならないのはなぜ? それは彼らの依拠しているのが資料ではなく、自らの「信じたい」気持ちだからです。いかに事実を突きつけられようとも、彼らの「信じたい」という気持ちが変わらない限り、彼らの歴史認識も変わりません。
さて、せと弘幸、通称「ゼリ幸」という右派の泡沫候補がいます。このゼリ幸さん、自称政治活動の傍らナノテク食品なる代物の販売も手がけているのですが、この健康・美容食品販売を告知したところ、支持者からボロクソに言われました。内容の電波ぶりは日頃の政治主張と同レベルなのですが、同じ電波でありながら評価が180度違ったわけです。ゼリ幸さんからすれば「どんな根拠のない代物でも、自分の言葉なら支持者は理解してくれる、信じてくれる」ものと思っていたのかも知れません。そこはそれ、日頃のゼリ幸さんの支持者が「信じたい」と思っていたのはゼリ幸さんの政治的主張の方であって、それとはかけ離れた健康食品販売に「信じたい」という気持ちを抱くことはなかったわけです。そして「信じたい」という気持ちがなければ、そのいかがわしさは誰の目にも明白、ボロクソに叩かれる結果となりました。めでたしめだたし?
いかがわしい主張に対して科学的根拠なり歴史資料なり、そういうものを使って説明努力を重ねている人の努力には頭が下がりますし、もちろんそれは必要なことです。とは言え、それが今一つ効果を上げていないことも認めないわけにはいきません。相手が拠って立つのは何なのか、それが「信じたい」という気持ちに軸足を置いているのなら、その「信じたい」という気持ちをどうしたらいいのか、そこを考えてみる必要もありそうです。