有権者にとって不利益な候補ほど、国民に害のある政党ほど、そのマイナスに反比例するかのように支持を集める状況が続いているわけですが、この辺の解釈は永遠の謎でもあります。利害関係をともにする候補、自分にとって有利になる政策を打ち出している政党を支持するのであれば、これは分かります。財界が自民党を支持したり、貧乏人が左派政党を支持したりするなら、それは当たり前のことです。その当たり前のことが普通に出来ていれば、財界人よりも遥かに数の多い貧困層のための政治が出来上がっているはずなのですが、ところがそうはなっていません。自分の首を絞めるような選択も目立つからですね。たとえば露骨な大企業優遇、弱者切り捨ての政策を掲げる政党や候補を低賃金層が支持するなど、こうした自虐的な選択が多数派を占めているが故に、多数派である貧困層には厳しく少数派である財界人には優しい、そんな政治が続いているわけでもあります。
この辺の解釈としては色々と考えられるもので、ルサンチマンや滅私奉公のサムライ道徳、肥大化したトリアージ概念などを今まで取り扱ってきました。そしてもう一つ新たな解釈を付け加えるとしたら、見えざる宗教あるいは信仰心、この辺もあるかと。具体的な宗教のビジョンを持っていないだけで、これほどまでに宗教的な生き方の根付いている社会はなかなか見当たらないと、私などは思うわけです。
日本はこれまで、色々なものを遅れて取り入れてきました。それを取り入れる頃には既に輸出元では時代遅れになっているものを輸入してきたわけですね。昨今ではイギリス式の教育改革などがそう、サッカーなら実質5バックの3バックとか、あるいは今なお根付いている保守的な性道徳も、当時の欧米では廃れつつあった観念を維新後の日本に刷り込んだようなものでしょう。そして宗教的な考え方も、その一つなのかもしれません。
聖書の中で、神と悪魔が殺した人間の数を数えた人がいます。推定3000万人の大洪水による犠牲者を省いたのがこちら、グラフにするとこんなものです。
どう頑張ってみても「グラフで比較するとそれほど差はない」とは言えないレベルの差が付いています。ひどいものです。ところがまぁ、人類がこの両者のどちらの側に与し、崇めてきたかを考えてみましょう。人を殺した方だったでしょうか? それとも殺さなかった方でしょうか?
聖書の中の出来事ならずとも、本当に自分達を脅かしているのは何なのか、あるいは誰なのか、その辺りは往々にして見誤られるものです。自分達が敵だと信じ、自分達への脅威と思いこんでいるものは実は大した害のないもので、それに対する備えは全くの浪費である一方、自分達の「主」であると信じ、自分達を守る存在と思いこんでいるものこそが、真に人を害するものであり警戒せねばならないものである、現在の日本ではよく見られる光景ではないでしょうか。自分達を殺し罰する存在を自分達の主君と崇め、より強い権力を与えようとすること、自分達にとってさしたる害にならない存在を敵視し、その脅威を煽ることにかけては、我々の社会は見事なまでに聖書の世界観に浸りきっていると言えるのかも知れません。
自分達が何を信仰しているか、自覚がある人よりも無自覚な人の方が危険であると考えるなら、公明党支持層よりも自民党支持層の方が遥かに危険な思想の持ち主であり、カルト色が強いとも言えます。そして人に仇なす存在への信仰はさらなる迫害を望み、傷つけるが故に信仰も深まる、人を踏みにじることが正義となり、望まれてゆくのです。自民党の支持層なり橋下の支持層なり、あるいは未だ小泉改革を信じているような人は、そうでしょう? お花畑の仮想敵との戦いにばかり熱心で、現実の問題を直視しないばかりか、むしろ国民や府民に犠牲を強いるばかり、その犠牲の強要はやむを得ないものとして行われるのではなく、善行として積極的に求められる、そういうものです。
聖書に登場する最大の殺戮はもちろん悪魔の手によるものではなく、神の手によるもの、ノアの方舟と大洪水の物語です。ここではまず先に、人間達が堕落し、悪を行っているという非難があります。そして堕落した人間達の中から「神に従う無垢な人」を選別し、それに当て嵌まらない人々を虐殺したわけです。まず道徳的な非難があり、選別があり、切り捨てがあるわけですが、ポイントはそれが正しい行いとして、物語中では何ら非難されることなく描かれているところにあります。
そして現在の日本の場合です。堕落している、悪を行っている、こうした道徳的な非難はありますか? ありますね。モンスターと呼ばれる人もいます。そうした非難は少なからず共有され、この道徳的な「悪」をどうにかしなければならない、何とかして欲しい、そんな空気にも満ちています。そしてこの、信心深い国民の祈りを聞き届けるのが彼らの神です。神は信者達の願いを聞き届け、「神に従う無垢な人」を除いた人々を攻撃し、排除しようとします。かくして人々は殺されてゆくわけですが、この殺戮が大きければ大きいほど「神に従う無垢な人」はその信仰を強くするのです。
人類を何千万人も殺す輩は人類の敵だと私などは考えるわけですが、その担い手への信仰が伴うことで虐殺が正当化されてしまうこともあるのかもしれません。それが不当な侵害であり弾圧であるとは考えずに、相応しい報いであり正義の執行である、世を正す行いであると信じてしまう、そこに信仰の力があります。信心深い人々が神の罰を信じ、人々が苦しめられれば苦しめられるほど世の中が正しい方向に向かっている、世の中を正しい方向に向かわせるためにもっとそうすべきだと、そう考えているわけです。そして悪魔よりも遥かに危険な存在に権力を与え、その蛮行を讃え続けています。