ワタリウム美術館, WATARI-UM, @watarium いよいよ、今晩、タモリ倶楽部放映!2/8(金)24:20〜24:50 普段は見られないワタリウムの事務所の中で浅野さんが、タモリさんに作品を紹介。 展示に出ていない作品もでますよ! twitter.com/asano_tadanobu…
ゴッホの複製画を描くことに人生を捧げる男を追ったドキュメンタリー映画。複製画の制作で世界の半分以上のシェアを誇る油絵の街、中国・大芬(ダーフェン)。出稼ぎでこの街にやって来たジャオ・シャオヨンは独学で油絵を学び、20年もの間ゴッホの複製画を描き続けている。誰よりもゴッホの絵を知り尽くし、ゴッホと共に生きるジャオだったが、実は本物のゴッホの絵を観たことがない。どうしても本物のゴッホの絵を観たいという夢は日増しに募り、夢を叶えるためにアムステルダムを訪れるのだが…。 大芬の油画村では、複製画を描く人々を画家ではなく、画工と呼びます。有名画の写真を見ながら手際よく複製画を描いていく画工たち。一枚の絵を、複数の画工で分業して描くこともあるといいます。彼らは芸術家ではなく、あくまで職人なのです。実態を知った多くの人々は、そんなものはアートではなく大量生産。単なる模倣であって創造性のない作業だと思われ
1914年当時 ダヴィト・ダヴィドヴィチ・ブルリューク(Дави́д Дави́дович Бурлю́к、1882年7月21日 - 1967年1月15日)は、ロシア未来派[1]の画家。ロシア未来派の中心人物の1人で、「ロシア未来派の父」と呼ばれることもある。 彼は、ロシア帝国のハリコフ県に生まれた。1898年から1904年にかけてカザンとオデッサの美術学校に通い、ミュンヘンの王立アカデミー、パリのエコール・デ・ボザールに遊学し、絵画を学んだ[2]。 1910年代は、モスクワを中心に活躍。1910年にウラジーミル・マヤコフスキーらと出会い、未来派としての活動開始[2]。弟のウラジーミル・ブルリュークと共に青騎士に参加。ダイヤのジャックやギレヤにも加わる。1912年には、未来派文集『社会の趣味への平手打ち』発表に参加。1918年には、マヤコフスキー、ヴァシーリー・カメンスキーとともに「未来派
デペイズマンの概念を説明する際には、しばしば19世紀の詩人ロートレアモン伯爵の『マルドロールの歌(仏: Chants de Maldoror)』(1869年)の次の一節が引かれる[3]。 Il est beau [...] comme la rencontre fortuite sur une table de dissection d'une machine à coudre et d'un parapluie ! (解剖台の上でのミシンとこうもりがさの不意の出会いのように美しい) — ロートレアモン伯爵、マルドロールの歌 ルネ・マグリットやジョルジョ・デ・キリコなどの作品における、次のようなものが典型である。 場所のデペイズマン - 本来の語源的意味。物をそれが本来あるはずがない場所に置くこと。 「秘密の遊技者」(ルネ・マグリット) - 野球をする人たちの上に黒いオサガメが浮かんでいる
江戸時代の浮世絵師 喜多川歌麿の版画「ポッピンを吹く娘」のうち、これまで海外にしか現存していないとされていた初期に刷られた作品が、国内にも残されていることがわかりました。 「ポッピンを吹く娘」は東京国立博物館が所蔵するものなど、数点が現存する版画で、美人画を得意とする喜多川歌麿の代表作の1つです。 先月から東京国立博物館で始まった特別展に、「ポッピンを吹く娘」が展示されているのを知った都内の美術商から、同じ作品があるという連絡が博物館に寄せられ、調査したところ本物だとわかったということです。 作品の題名部分には、東京国立博物館が所蔵する「婦女人相十品」ではなく、「婦人相学十躰」と書かれていることから、より古い初期に刷られたものだと判断したということです。 初期に刷られた作品は、ほかにハワイのホノルル美術館が所蔵するものがあります。 今回の作品は、40年余り前にフランスでオークションに出品さ
月岡芳年『英名二十八衆句』の内「稲田九蔵新助」図 無残絵(むざんえ)は、江戸時代末期から明治時代にかけて描かれた浮世絵の様式のひとつである。『英名二十八衆句』『東錦浮世稿談』『魁題百撰相』の3つが代表的作例。その多くは、芝居の中の殺しの現場などをテーマとしており、画中に血液、血痕などを殊更に色鮮やかに描いているため、「血みどろ絵」、「残酷絵」、また「無惨絵」とも表記される。 無残絵は、幕末から明治初年にかけて、当該時期における不穏な時代世相を背景に制作された。作品数は多くないが、何れも歌川国芳門下の落合芳幾と、その弟弟子の月岡芳年によって制作されている。最も刊行の早い作品は、慶応2年(1866年)から慶応3年(1867年)に版行された「英名二十八衆句」であり、これは全28枚の揃物で、芳幾、芳年が各14枚ずつ担当した競作である。この作品は国芳による「鏗鏘手練鍛の名刃(さえたてのうちきたえのわ
フィンランドのアーティスト、タピオ・ヴィルカラ(Tapio Wirkkala 1915-1985)の日本初となる大規模個展「タピオ・ヴィルカラ 世界の果て」が、東京ステーションギャラリーで開催されています。2019年の「アルヴァ・アアルト展」、「ルート・ブリュック展」につづく北欧・フィンランドのアーティストを紹介する展覧会です。 タピオ・ヴィルカラ、1980年代 © Maaria Wirkkala. Tapio Wirkkala Rut Bryk Foundation Collection / EMMA – Espoo Museum of Modern Art © KUVASTO, Helsinki & JASPAR, Tokyo, 2024 C4780 デザイナーであり彫刻家でもある、タピオ・ヴィルカラは、“自然からインスピレーションを受けて、美しくて機能的なものを作った”アーティストで
アンディ・ウォーホル展の開始を発表するオランダのベアトリックス前女王=24年10月/Patrick van Katwijk/Getty Images (CNN) ごみ箱から芸術作品を制作したことで有名なアンディ・ウォーホルだが、自作が本当にごみ捨て場行きになる可能性は想定していなかったかもしれない。 だが、オランダのある自治体の当局者は、ウォーホルのシルクスクリーンプリント1点が「粗大ごみ」と一緒に誤って廃棄され、まさにごみ捨て場行きになった可能性があると考えている。 マースホルストの自治体が24日に出した声明によると、紛失したのはオランダのベアトリックス女王をウォーホルの有名なポップアートスタイルで描いた1980年代の作品で、美術品コレクションの整理中に行方不明になったという。声明発表に先立ち、自治体は独立機関に調査を依頼した。 自治体は、作品が見つかる見込みはないと述べている。 CNN
三菱一号館美術館(丸の内)で開催中の、「異端の奇才――ビアズリー」展の会期も残すところあとわずかとなってきました。本展覧会は、25歳で世を去った画家オーブリー・ビアズリー(Aubrey Beardsley 1872-1898)の回顧展で、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館(V&A)との共同企画となっています。そんな展覧会について、普段は語る機会の少ない展示や施工デザインについての裏話をご紹介します。展覧会を楽しむヒントになれば幸いです。
【読売新聞】 消しゴム版画家でコラムニストのナンシー関さん(本名・関直美、2002年に39歳で死去)が残した消しゴムはんこ約5000点が、自然劣化で損壊の危機にさらされている。ナンシーさんの知人らが作品を1点ずつスキャンし、デジタル
柴又帝釈天、2021年 柴又帝釈天(しばまたたいしゃくてん)または、帝釈天 題経寺(たいしゃくてん だいきょうじ)は、東京都葛飾区柴又七丁目にある日蓮宗の寺院である。正式には経栄山題経寺(きょうえいざん だいきょうじ)と号する。旧本山は大本山中山法華経寺(なかやま ほけきょうじ)。親師法縁。 「帝釈天」とは本来の意味では仏教の守護神である天部の一つを指すが、地元では、題経寺の略称として用られることも多い。 江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。 近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』を始め、多くの文芸作品に登場
ビアズリー、ご存知でしたか? 美術館に行くときは、「以前から知っている画家・作家の展示があるから行こう」と思う場合もあれば、「よく知らないけど、気になったから行ってみたい」と考える場合もあるでしょう。 東京・丸の内の「三菱一号館美術館」では、2月15日から「異端の奇才――ビアズリー展」が開催中。洗練された作風で19世紀末の欧米を魅了した画家、オーブリー・ビアズリーにスポットを当てています。 本展は、ヴィクトリア・アンド・アルバート博物館との共同企画。日本でもよく知られているオスカー・ワイルド「サロメ」などの代表作や素描だけでなく、ポスターや同時代の装飾など、およそ220点でビアズリーの芸術を展覧します。 ビアズリー、ご存知でしたか? 名前は知らなくとも、白と黒の対比が美しい「サロメ」の挿絵(記事冒頭のポスターにも使われているイラスト)を見れば、「ああ、この人ね」となるかもしれません。本記事
アンリ・ミショー(Henri Michaux, 1899年5月24日 - 1984年10月19日)は、ベルギー生まれのフランスの詩人・画家。特異なイメージや内面的風景をそなえた詩によって、またアンフォルメル[1]の先駆けとなった絵によって、20世紀の文学と美術において独自の地位を占めた。長らくブランショやピンチョンと同様の「顔のない作家」だったが、晩年にはブラッサイらによるポートレイトも公開されている。 「Untitled (無題)」(1959) 1899年、ベルギー・ナミュールの裕福な家庭に生まれる。1906年から1910年までカンピーヌ地方の小都市ピュット・グラゼードの寄宿舎で幼少期を過ごす。後年この時期を惨めで辛い経験だったと振り返っている。1911年から1914年までイエズス会の私学校で学ぶ。1920年には水夫となり翌年にかけて世界中を旅した。 ベルギーに帰国後、ロートレアモン伯爵
その起源は、Golden Mass のような中世の典礼劇とされている。そのような典礼劇は、王室の結婚式、戴冠式、都市への勝利の入場などの祝い事で行われた。現代の銅像や石像を真似るストリートパフォーマンスにも似ているが、多人数で行われ、行列に沿って精巧な移動式舞台に載っていた[1]。 ラジオ、映画、テレビができる前、活人画は娯楽形態の1つであった。印刷における色の再現が可能となる以前、活人画は舞台上で絵画を再現するのにも使われた。素人が個人的に行うこともあったが、プロが一連の活人画を舞台上で演じることもあった。この場合、演劇につきものの様々な細かいことを排除してストーリーだけを伝えるという効果があった。このような形式に慣れることで、後のヴィクトリア朝時代やエドワード7世時代の幻灯機のショーやコミック・ストリップ(原型は1890年代に登場)が理解される下地となった。 イギリスでの舞台検閲は、舞
「Pop over」には、その場に気軽に立ち寄るという意味がある。POM展のコンセプトは、太古から移民が交り合い、新たな文化が生まれてきた武蔵野という土地に「Pop over」しながら、「Pop Culture(ポップカルチャー)」と地域文化との「Overlap(重なり合い)」が楽しめる、新たな体験を提供するというもの。 第一会場の角川武蔵野ミュージアムでは、地域の歴史的風土をテーマに、SNSで注目を集める新進気鋭のイラストレーター数十名が描く新作を公開する企画展を開催。モデルは“デレマス”の愛称で親しまれる「アイドルマスター シンデレラガールズ」のアイドル190名。武蔵野の自然や施設、人々の暮らしなど、地域の「今」を視覚的に感じるだけでなく、そこに赴きたくなるような仕掛けを施したアート作品が一堂に会する。 第二会場の所沢航空発祥記念館では、70年代の空飛ぶロボットアニメをテーマにした現代
作品の主題は、鑑賞者をまっすぐに見つめながら、牡蠣に塩を振っている少女である[3]。彼女の表情は誘惑的なもので、鑑賞者のために牡蠣に塩を振っていることを鑑賞者に伝えている[3]。彼女は、牡蠣とともに自分も差し出しているように見える[2]。 本作で、ステーンは、複雑でありながら技巧に富んだ構図を創造するために図像的枠組みを利用している[3]。画家は、少女の周囲に想像上の境界を作るためにドア枠、ベッドカーテン、テーブルの端の垂直線と水平線を用いているのである[3]。アーチ型の画面上部は、少女の頭部と左肩の曲線をなぞっている[3]。牡蠣などの事物の配置は特定の方向を向いており、鑑賞者の視線が奥の部屋にいる人物たちに向かうようにしている[3]。別の部屋にいる後景に人物を配置することは、オランダの絵画では一般的で、「doorsien」 (ドアから覗かれる眺め) と呼ばれている[4]。この技法により、
この記事には参考文献や外部リンクの一覧が含まれていますが、脚注によって参照されておらず、情報源が不明瞭です。 脚注を導入して、記事の信頼性向上にご協力ください。(2020年4月) 肉筆浮世絵(にくひつうきよえ)とは、江戸時代に成立した浮世絵のジャンルのひとつ。通常、一般的に錦絵と呼ばれる浮世絵版画と区別して、浮世絵師が自らの筆で直接絵絹や紙に描いた浮世絵を指す美術用語である。屏風絵、絵巻、画帖、掛物絵、扇絵、絵馬に分けられる。 「肉筆(画)」とは、いわゆる絵画(Painting)を指す言葉である。絵であるからには筆で描くのは当然であるが、筆の頭に「肉」をつけて「肉筆画」と呼ぶ[要出典]。「浮世絵」とは、「今現在の風俗画」と言う意味で、版画(Print)や絵画も含んだ用語であった。しかし後世、欧米での浮世絵版画の高評価が逆輸入されると、浮世絵といえば版画を指すのが一般化してしまい[要出典]、
「夜景、堀の内外」 大判3枚続の内右2図。天明末期、大英博物館など所蔵 窪 俊満(くぼ しゅんまん、宝暦7年〈1757年〉 - 文政3年9月20日〈1820年10月26日〉)とは、江戸時代の浮世絵師、戯作者、歌人。北尾重政の門人で、同門の北尾政演(山東京伝)、北尾政美(鍬形蕙斎)と並び、代表的な弟子である。 「桜下喫煙」 間判2枚続の左図。東京国立博物館所蔵 姓は窪田または窪。通称易兵衛または安兵衛。画号を窪俊満と称した。他に尚左堂(これは俊満が左利きであったことによる号)とも号す。戯作号は南陀伽紫蘭、黄山堂、狂歌号・一節千杖、俳号・塩辛坊[1]。宝暦7年に江戸に生まれる[2]。幼いとき父親を失い、伯父によって養われた。小伝馬町、亀井町、神田富松町などに居住した。初めは楫取魚彦に学び、春満と称した。安永末頃に北尾重政門に入って北尾を称す。天明2年(1782年)に楫取が亡くなると、画名を俊満
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