藤原宮(藤原京)木簡に「周方国」・「周防国」と表記。 平城宮(平城京)木簡に「周芳国」・「周防国」... 藤原宮(藤原京)木簡に「周方国」・「周防国」と表記。 平城宮(平城京)木簡に「周芳国」・「周防国」と表記。 7世紀に周芳国として設けられ、7世紀末に周防国に改称した。『日本書紀』では、天武10年(681年)の「周芳国、赤亀を貢ず」が初見で、『続日本紀』では文武天皇元年(697年)に周防国であるが、翌年には周芳国献銅鉱となっている。しかし文武天皇4年(700年)には周防総領任官の記述[1]が有るのでどちらも使われていたと思われる。 読みは長く「すおう」、ハ行転呼が起きる前は「すはう」と言われてきた。「周芳」を「すは」と読むか、「すはう」と読むのか定説はない(日本歴史地名体系)。古代の日本語では母音が連続することはないため/supau/という読みは不自然であり、当初は諏訪と同じく「すは」と読まれていたと考えられている[要出典]。
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