不良の不良たる所以は、大人たちに強制された規範や序列を自明のものとして受けいれることなく、自分た... 不良の不良たる所以は、大人たちに強制された規範や序列を自明のものとして受けいれることなく、自分たちの生活の様相を自分たちの手で決しようとする点にある。行儀よく教室の序列に従うことが優良なる学生の要件であるなら、そこからの逸脱として不良が成立するのである。不良たちが自身の腕力を競い、支配と服従の関係を自発的に成立させてゆくことは、言わば私闘による自決を意味する。そして優勝劣敗の原則のもとに階層化された人間関係が、不良たちの群像を描く劇映画のひとつの軸となってゆく。つまり不良は不良でも、それはただちに無秩序や混乱を意味するのではない。教師と生徒、あるいは学年という既存の枠組をいったん離れて、別個の枠組を新たに組み上げることで映画の不良の人間関係は形成されてゆくのである。 今世紀の最も早い不良映画の傑作のひとつに、『青い春』(02)がある。九條(松田龍平)や青木(新井浩文)の属する集団でその頂点
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