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◆ 白球つれづれ2018~第21回・名将・森祇晶“古巣”に帰る 7月20日のメットライフドームは試合前から、いつもと違う雰囲気に包まれていた。多くのカメラマンやテレビクルーが囲む先にいたのは、かつて西武の黄金期を率いた名将・森祇晶だ。もっとも選手たちはと見れば山川穂高や秋山翔吾らが、きょとんとしながら慌てて挨拶、それも無理はない。何せ森が西武のユニホームを脱いでから24年の歳月がたっている。森はすでに81歳である。 「このような場にお招きいただき、光栄であり感無量です」始球式に先立ち、マイクの前に立った元指揮官の声が場内に流れると「森コール」が期せずして沸き起こる。その景色は30年以上前に戻ったようだ。 とにかく強かった。1986年にヘッドコーチから監督に就任。レオ軍団は日本球界を支配した。秋山幸二、清原和博、O・デストラーデの強力クリーンアップの周りを石毛宏典、辻発彦(現監督)、伊東勤ら
プロ野球における大型左腕の伸び悩みが顕著だ。 180cmを優に超え、アマチュア時代には150km近い球速を出していた選手が、プロ入り後なぜか球速が落ちていくケースが多い。 球速ランキングを見ても上位は右投手ばかりで、左投手だと今季158kmをマークした菊池雄星(西武)くらいしか見当たらない。 ADVERTISEMENT そんな育成が難しい大型左腕の中で、なぜ菊池は着実に成長しているのか。そのヒントを、彼の取り組みから探りたい。 実は菊池の球速は、今も伸びている。2年前に157kmを計測したが、26歳になった今季、自己最速を更新した。彼が今もなお進化中であることを示す数字だ。 以前から「左と右」の感覚の違いを認識していた。 持続的な成長の陰にはピッチングコーチ・土肥義弘の存在がある。逐一菊池の投球をチェックし、ともにフォームを作り上げる。2人の共同作業がもたらした影響は計り知れない。 2人の
シリーズ「もう一度投げたかった」──森慎二(後編) 前編・投げた瞬間「あっ、右腕がとれた!」の記事を読む>> 西武ライオンズからポスティング制度でメジャーリーグのタンパベイ・デビルレイズ(現レイズ)に加入した森慎二は、2006年の春季キャンプで右肩に違和感を覚えていた。そして、オープン戦初登板となった3月20日、マウンドに上がって3球目を投じたとき、「あっ、右腕がとれた!」と思うほどの激痛に見舞われる。 右肩の脱臼──。腕が地面にポロンと落ちてしまう......そう思って、とっさに左手で支えたほどの大ケガを負った森は、メジャーリーグという夢の舞台で、いきなり大きな試練に直面することになった。 デビルレイズとマイナー契約でリハビリに努めたが、再起はならず MLBで初めてだったピッチャーの肩脱臼 ──メジャーリーグのオープン戦初登板での右肩脱臼。なぜそのような事態になってしまったのでしょうか。
シリーズ「もう一度投げたかった」──森慎二(前編) 2002年、2003年と2年連続で最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した西武ライオンズの快速リリーフ投手は、2005年オフにポスティング制度を使ってタンパベイ・デビルレイズ移籍を果たした。だが、シーズン開幕直前、投手生命を絶たれるほどの大ケガに見舞われてしまった......。右肩脱臼で全治1年──。メジャーリーグが夢と消えた瞬間、森慎二は何を思ったのか? 右肩を脱臼した直後、激痛にうずくまる森慎二 超合金ロボットの部品が壊れるみたいに...... ──2006年、森慎二さんはメジャーリーグでプレーするためにタンパベイ・デビルレイズ(現レイズ)と契約し、アメリカに渡りました。当時、31歳。日本のプロ野球で9年間の実績を残し、満を持してポスティング制度でのメジャー移籍でした。いちばん脂が乗り切った時期でしたね。 「アメリカで野球をすることについ
イチロー「いずれ誰かが超えると…」試合増で日本人最多更新想定
つくづく人生とは分からないものだ。 入団7年目、西武ライオンズの左腕・宮田和希が5月31日に初勝利を挙げた。 専門学校出身の彼がプロで勝利を挙げるなど、誰も想像していなかったに違いない。ヒーローインタビューでの「長かったです」というコメントには、実感がこもっていた。 ADVERTISEMENT 思い返すのは、宮田の福泉高時代のことだ。 '06年夏の大阪府予選。同年はPL学園にエースで4番の前田健太(現・広島)がおり、大阪桐蔭には2年生スラッガー中田翔(現・日本ハム)、そして、公立の星として注目されていたのが後にヤクルト入りする城東工のエース・山田弘喜だった。自身の投げるスライダーを「ダイナマイトスライダー」と命名し、にわかに話題になっていた。 そんな中、部員数がそう多くはなかった福泉高のエースだった宮田は、高3夏の初戦で城東工業と対戦。結果は0-7の8回コールド負け。それも、相手エースの山
【球界ここだけの話】 4月10日、ソフトバンクに3-13で大敗した試合後のこと。 私の「1年に何回かはこういう試合はあると思いますが…」という不用意な質問に西武・伊原春樹監督(当時)は「こんな試合が何度もあったら困るんだよ! だいたい何だ、あの記事は!!」と特大の雷を落とした。あの記事とは私が書いた「レオの意地! 元エース完全攻略に伊原監督『涌井はあんなもん』」と見出しのついた記事についてだった。 4月1日のロッテ戦。開幕3連敗スタートの西武は、FAで移籍した涌井に黒星をつけ、今季初勝利。しかし六回途中まで3点を奪うも、5安打(4四球、1死球)しか打てなかった。「打ち崩せなかった感じか」という質問に伊原さんは「いや~、涌井はあんなもんでしょう」と第一声。そして「ここ2年間ぐらいのライオンズでのピッチングは、四、五回ぐらいでちょっとキレがなくなって、やられてたんだけど。今日はよく持ったんじゃ
飯田氏が語る秋山監督の現役時代 今季限りでの退任を表明していたソフトバンクの秋山幸二監督。苦しいシーズンを乗り越え、クライマックスシリーズで日本ハムを破り、そして日本シリーズでは阪神を4勝1敗で下して、3年ぶりの日本一に輝いた。有終の美という言葉がこれほど当てはまる幕引きもないだろう。 スポーツコメンテーターの飯田哲也氏は現役時代、その秋山監督と熱気溢れる日本シリーズの戦いを2年連続で経験した。そう、1992年、1993年に行われたヤクルトスワローズと西武ライオンズの対戦だ。飯田氏に当時の印象を振り返ってもらった。 「僕らは92年、93年に西武と日本シリーズで当たっていますが、あの当時の西武は本当に凄かったです。こんなスーパースター軍団と戦えるのかって、そんな印象でしたね。 野村監督は、楽しめ、というようなことは言っていました。相手は王者だし、胸を借りるつもりで。“4連敗だけはしないように
堂々と打席に向かい、豪快に打球を飛ばす。その立ち振る舞いには、とても19歳とは思えない貫禄が漂っている。 森友哉はそのパフォーマンスで、瞬く間に西武ファンの心を鷲掴みにした。 プロデビューとなった7月30日のオリックス戦で、いきなり初打席に初安打をマークすると、8月14日のオリックス戦ではプロ初アーチを逆方向のレフトスタンドへ流し込み、技術の高さを印象付けた。 ADVERTISEMENT ここまでなら、過去にいくらでも前例がある。森が周囲の度肝を抜いたのは、むしろその後のパフォーマンスだった。 翌日の15日の日本ハム戦ではライトへ強烈な一発を放ち、さらに翌日にはセンターバックスクリーンへ叩き込んだ。史上2人目となる高卒新人による初本塁打からの3試合連続本塁打。1年目からアーチを量産した清原和博や松井秀喜ですら辿りつけなかった領域に、森はわずか9試合で到達したのだ。 ここまで18試合に出場し
3戦連発の驚異ルーキー森友哉が秘める可能性 「10年、20年とプレーできる能力を持った選手」 インタビュー 2014.08.20 2020.11.09 プロの目から見る森の活躍の要因 8月16日、西武ライオンズ対日本ハムファイターズの10回裏、西武ベンチは代打に高卒ルーキーの森友哉を送った。試合はシーソーゲームとなり、10回表に日本ハムが陽岱鋼の本塁打で勝ち越し、西武は7-8とリードされ、崖っぷちの状況だった。 代打に送られた森は、前日まで2試合連続本塁打を放っており、ファンにとってはたまらない場面。日本ハムのマウンドには、150キロを超える速球を武器とするセットアッパー・増井浩俊が上がっていた。1ボールからの2球目、真ん中高め、見逃せばボールかと思われる151キロの速球を森が振り抜くと、打球はセンターバックスクリーンに飛び込んでいった。 試合を振り出しに戻す森の代打同点本塁打は、高卒ルー
吉田高校在学中、1983年夏の選手権大会に出場。1回戦で吉井理人・山下徳人を擁する箕島高校と対戦するが、延長13回サヨナラ負けを喫した。 大学進学を表明していたが1984年のドラフト2位で指名され、西武ライオンズに入団。背番号は51[2]。当時は西武黄金時代の始まりで、周囲の選手の体格やプレーを見てプロでやっていけるか強い不安を感じたという[3]。 二軍時代は二軍監督の日野茂や二軍コーチの広瀬宰から厳しく鍛えられ、昼の試合後に特守を行って夕食後も夜間練習をするほどだった[3]。1985年はイースタン・リーグで多くの出場機会を得て打率3割を記録し、秋にはアリゾナでの教育リーグに派遣された。 1986年は1Aにあたるカリフォルニアリーグのサンノゼ・ビーズでトップバッターとしてプレー。140試合に出場し.306の高打率で[4]、1Aオールスターゲームにも出場した[5]。ここでは破れたスパイクを使
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