2025年2月に読んだ本とか 今月のようす 1年以上前に買ったものの、むずかしく感じて積んでいた『世界文学をケアで読み解く』。最近目次をなにげなくめくったら、読み終わったばかりの『少年が来る』や『菜食主義者』が扱われていたので、読んでみたらめちゃくちゃおもしろく読めた。これだから…
以前、よくほのめかしと言われた。まあ、なんで?という感じがしたけど、今思うと、このくらいわかれよ、みたいな思いがあったからかな。 最近は特にない。 わからない人は、縁無き衆生、面々の御はからひなりといったところ(という出典もわからん人はそれはそれで)。 というか、わかる人にはわかればいいし、わかれとほのめかされるような書き方をすれば、むっとされる人もいるだろうかくらいかな。 わかると面白いんじゃないという話題は、ちょこっとピックしているくらいかな。 あと、わかるわからかない、というのは、知識の多寡の問題ではない部分もあるんですよ。 人生の成功とかでもない。 ある経験をすると、ああ、それはわかる、という部分があるというだけで、それがわかってなんの得にもなりませんよ。
容疑者は「両親が相談に乗ってくれなかった」などと供述した。33歳にもなって理解に苦しむ弁解と映るが、最近は親子関係のきしみから生まれる事件が相次ぐ。愛知県のバスジャック事件で逮捕された少年も、自分をしかった両親に仕返ししたかったと自供した。家庭環境が変化したせいか、親子間の依存と自立をめぐる考え方も変わり、総じて幼稚化している傾向がうかがえる。親は子を守る姿勢を、従来より鮮明に示すべきなのかもしれない。 執筆子は人の親ではないかな。まあ、普通の社会人だったらそういうことが多いかな。だとすると、こういう問題を考えるときは、戦前のような馬鹿げた大言壮語するんじゃなければ、まず自分というものが顧みられるべきだろうというか、対幻想の問題だよ。つまるところ恋愛の問題だし、はてな村的にいえば非モテの問題でもあるかな。 自分を省みて、親子のことなんて誰も偉そうに言えないし、偉そうに言えたら嘘でしょ。親子
⇒私は何故ネット上に何かを書くのだろう? ひとりごと/ウェブリブログ 最近、この「なぜネット上に何かを書くのか」という理由が無くなりつつあるような感じがする。意識しなくなってきたというか。当たり前の事になってきている。理由が無くなるというのもおかしな言い方かな……理由を「意識する事」が無くなってきたというべきだろうか。 書く事自体楽しいんだけれど、それをネット上に書いておきたい。誰かの目に留まるかもしれないから。それで何か思った人と話せるかもしれないから。それは10年やっている中で、実際にそうなってきているから、益々そうしておきたい。そしてそれは日々続けているので、当たり前の事になってきた。そして反応があるか無いかについてもあまり気にならなくなってきた。 共感するのだけど、最近、通じないことや悪意の対象になりそうなテンプレは書かなくてもいいやと思うようになった。そうすることで何か大切なこと
⇒お知らせ ⇒はてなブックマーク - お知らせ 上演台本について(つかこうへい事務所オフィシャルホームページ) これはあれなんだよ。 ⇒「 娘に語る祖国―『満州駅伝』‐従軍慰安婦編: 本: つか こうへい」 作家は、人間の、あるいは世の中に希望を見いだすのが仕事です。 人間は本来素晴らしいものだ、という性善説をとり続けなければならないとパパは思います。そして、その時代に生きている人がぶつかる問題に一緒に立ち向かわなければなりません。 作品に取り上げる素材やテーマの中に、たとえそれがどんなに辛いことであっても、それがどれほど悲惨なことであっても、どこか一か所でも希望を見つけないと書いてはいけないのです。
ちょっと言葉がつたないが。 ブログとも限らないが、ある種の文学もそうだが、そして、パソ通時代からそうだが、書く人というのは、基本的に生きがたさ・生きにくさみたいなものを持っていて、それを書いてしまう。 お前がそうだろとか言われそうだが(ちなみにちょっと違ったりもするが、どう違うのか略)。 そして、そこを起点に世界と戦うというか、世界を代表した人々と戦う人もいる。まあ、自分もそのくちか(ちなみにちょっと違ったりもするが、どう違うのか略)。 で、でも、言うまでもなく、世界を相手にして勝てるわけもなく、そういう抵抗の語りというのはテンプレ化してくるし、そのテンプレ度が、まさにセクト化してくる温床だ。ようするに、世界と反立する正義というか価値性みたいなものだが、が、というのは、まあ、言い方はなんだが、それはそのテンプレ度がまさに救いようもなく悪魔的なものだ。 というか、そこで、あっと気がついて半歩
あと、美文というかいわゆるうまい文章というのも、けっこうどうでもいい。補足すると街中を美男子と美女とか歩いていると、ほぉって思うけど、私には関係ないし、その一般性(一般を引きつけてしまう特性)にうんざりしてしまう。誰が読んでも良い文章は、俺に関係ないよ、ってな。 では、どういう文章に惹かれるというと、私は2つだろうか。 ・ 無意識の強さが感じられる ・ 息づかいが感じられる どちらも身体性というえばそうだけど、斎藤孝が言うみたいなしょーもないものじゃなくて、もっとエロス的な何かだ。 そういえば文章というは、それ自体がエロの身体に似ているかもしれない。あっけらかんと巨部露出したようなエントリを書きまくるブロガーがいるし、そういうのに惹かれる人もいるだろうけど、つまらない。 とか書いていてすでにテンプレ化しているのでどうでもいい(ふと思ったが、私はテンプレ的なところはけっこうさくさく省略してま
楽しい本を読むときはできるだけゆっくり読む。終わってしまったら残念な気持ちみたいなのがある。 私はいわゆる速読というのはしないが、人から速いねと呆れられたことはなんどかある。たぶん、読み方の処理が違うのだろうと思うし、そのあたり、どうも私の誤字脱字脳と関連しているのかもしれない。というか、速読というのは、私について言えば、読みが粗い、というか、即座に理解スキームを組み立ててフィリングしている感じがする。ネットの情報もそうやって読む。むしろ、はてなユーザーの日記はあまり速読しない。というか、文章のうまげな人なら速読しても大丈夫だがそうでない文章は速読することで何かを読み落とすというか、他者という感覚を忘れる。 気になる本はたいてい二度読む。つづけて二度読むこともある。二度読むと理解が進む。あと解析しつつ読むこともある。 なんど読んだかわからない本もあるが、それでも読めた気はしない。ただ、そう
最初の版では、私ことfinalventの立ち位置(アルファーブロガーと言われることがある)から読まれると誤解されるだろうと懸念したことと、具体的な著作家やブロガーを指示したこともあり、私としてはそういう含意も内意はなかったのだが、ご不快に思われたかたもあったようだった。ブログは書き方を注意しないといけないものだなと反省する機会にもなった。以下、具体的な著作家やブロガーを指示しない形で、内容点だけ構成しなおしてリライトしてみた。 ----------------- ブログユーザーが現状どの程度広がっているかについては統計的には知らないが、はてなダイアリーが始まり、アルファーブロガー企画などがあった4年前から比べれば、大きな変化を遂げた。そこで原型的ともいえる4年前のブログの世界だが、さらにその先駆型となるMTなどの技術への関心の話題やfj的な技術系を引いた話題のブログがあり、それに傍系として
私は書きたくない、というのが正直なところ。 書くというのは、私にとっては、ごにょごにょ。 ブログとか日記を書くということは、私にとっては、ま、特に考えないでそうしている。 この手の物は誰かが読むというものではなく、自分という人間が書かずにはいられないお病気みたいなもので、そんなもの。でも、まったく読む人のことを考えてないわけではない。 で、生活というのは、つまり、働くということは、これは、難しいね。 具を作って人様の役に立つか、ずるこく人様の上前をはねるか、その2つだけ。 これを書くということに繋げるというのは、ある面で原則論で言うなら、好きなことで食えるということでもあるのだろうけど、ま、難しい。実現が難しいというのではなくて、それをどう考えるかが難しい。 幸運とか才能とかあるといいのでしょうけどね。 ありますかね? 努力とかで補えるものでしょうかね? ま、わかんないです。 漱石とか読ん
ぶくまとか見ていて、ああそういう話は以前書いたな。たいして読まれなかったなとか思うことが多くなってきた。 ので、あらためてさして書かない。 というのが循環になると、つまり、ネタがないということで。 それはそれでよいのではないかという感じがする。 あと。 その話題はもう私は関心ないというのも多い。 関心ないものに関心を持つほどのものでもないだろうと思う。 うーん、「差別」とか。 ちょっと言うと日本にいると、なんというか、それほどひどい差別はなくなりつつある。そういう言い方も通じないと思うのでどうも口ごもってしまう。 欧米人のマジな差別意識にぶつかったら、まあ、小林よしのりくらいにはなるよ。でも、そういうのを10回くらい経験して小林よしのりにならない道を探すというのが全うな考え方だと思うだが、ま、それも通じないでしょ。 というか。 別に通じなくてもよいのであって、わかる人はわかるのであって、だ
困窮した議論がさらに困窮し。 話題がハイパーリアルになりながら、しょーもない正義の連帯がネット参加の奇妙なインフレーションを誘う。 というあたりで言うと皮肉っぽいがそういう意図ではないが。 ⇒はてなブックマーク - 分裂勘違い君劇場 - 子供の「どうして勉強しなきゃいけないの?」→ 勉強することの具体的で直接的で切実なメリットを説明 まあ、なんつうか。書いている本人が思うこととブクマの数の乖離はなんだろとちと思うがまどうでもいいといえばどうでもいい。 ブログの過去エントリは読まれない、と、言われている。 どうもそうでもない。 細く静かに読まれているし、ある意味で文学みたいに細く小さくしかし強く。 そのあたりの動向が先のインフレーションからはかなり見えなくなる。 ブログの風景が変わる。 変わる要因は、基本的には忘却というかショートタームメモリー的な話題の流れだし、その背景にある個の孤独だろう
ジェイ・ルービンの「ハルキ・ムラカミと言葉の音楽」が面白かった。 村上春樹は長い海外生活のあいだ、米国の大学で自著に関する講演や質疑をかなりこなし、海外のジャーナリストからの取材もけっこう受けていて、そういう英語をソースとする内容がいろいろと盛り込まれて新鮮だったこと。きわめて網羅的研究書でありながら(514もの注がつくアメリカの学者の本らしい本)、全編が作品に対する愛情であふれていること。日本の本だとあんまり出てこない陽子夫人についての言及がかなり多いこと。「春樹と陽子は・・・」みたいに。村上春樹の小説の翻訳者である著者(ジェイ・ルービン)との間の私信やインタビューも情報ソースになっていること。各章の初めに、村上春樹の時代時代での著作が、どういう場所でどういう状況下で書かれたかが丁寧に書かれていること。この本自体の翻訳が読みやすいこと。 ハルキ・ムラカミと言葉の音楽 作者: ジェイ・ルー
ケロヤンとその愉快なお仲間たちで思い出したが。 いわゆる松永さん問題だけど、私の立場は、基本的に、オウム残党の危険性をどうするか(どう社会が向き合うか)に尽きているので、市民派言論とかブログ・ジャーナリズム論にはそれほど関心はない(そこに介在してくるオウム的なものの危険性だけが問題)。もうちょっというと、ガ島さん批判とかオーマイニュース批判には関心はない。JANJANとかAMLとかを批判しても意味ないでしょ、勝手にやったら、くらい。ただ、オーマイニュースはネタの投下という点とその偉そうなわりに著作権はどうよのアウトローぶりが面白すぎ。さらにもうちょっというとジャーナリスト佐々木俊尚さんはオウム残党の危険性というリアルな問題をブログ・ジャーナリズム論みたいな問題に概念化(フラット化とか各種の装置)してしまうわけでそれは困ったことだと思う。繰り返すが、ジャーナリズムというのは、こうしたリアルな
これを紹介してくれた、結城浩さんと稲本喜則さんに感謝! 「僕は人間に生れ、いろいろの生き方をしたが、皆いろいろの生き方をし、皆てんでんにこの世を生きたものだ。自分がこの世に生きたことは、人によって実にいろいろだが、人間には実にいい人、面白い人、面白くない人がいる。人間にはいろいろの人がいる。その内には実にいい人がいる。立派に生きた人、立派に生きられない人もいた。しかし人間は立派に生きた人もいるが、中々生きられない人もいた。人間は皆、立派に生きられるだけ生きたいものと思う。この世には立派に生きた人、立派に生きられなかった人がいる。皆立派に生きてもらいたい。皆立派に生きて、この世に立派に生きられる人は、立派に生きられるだけ生きてもらいたく思う。皆、人間らしく立派に生きてもらいたい」 「武者小路実篤、御年九十歳のときの文章」だそうだ。 これを読んだ瞬間、私は、自分がこういう文章が書きたいとずっと
言ってることが矛盾するけど、この日記を書き続けてきたことで老いたことはあると思う。言葉使いもなんか年寄り臭いなと思う。年寄りくさい文章を書いているというかそれが自然であるように馴染ませようとしている、自分の意識に対して。 私には文才はないので、今の若い人の言葉の真似はできないし、今の若い人の感性を真似ることもできない。ただ、自分の若い日の言葉と若い日の感性にはあまり変化はない。そのあたりをただそのまま表出しているのかもしれないが、意識としては、あまりそうしていない。少しずつ歳の間合いを取っている気がする。 若さというのは、しかし、若い言葉が使えることかもしれない。そして、私が若くないというのはその言葉が使えないということでもあるのだろう。言葉はたぶん現実の肉体に近いように、私の肉体は老いている分、若い人のような恋愛とかセックスとかはできない。そうしたいとも思わないが。 以上と矛盾するのだが
「ウェブ進化論」の内容に関して、住太陽(スミモトハル)さんからトラックバックをいただいた。 http://www.motoharusumi.com/jobs/clarifying_the_web/communicator_and_the_evolutionism_of_web.html 現実に本気でアドセンス、アフィリエートに取り組むと、個人でいくら稼げるかについての貴重な証言です。 ウェブに関するなにがしかの専門家であるという立場は確実に存在し、だからこそ、Adsenseであれ、アフィリエイトであれ、やってみるからにはそれなりの力を注いでいます。僕の気持ちとしては、ウェブに関するなにがしかの専門家として、やってみる限りは、それで「飯を食う」程度のことができなくて、何を偉そうなことが言えるか、という気持ちがあるわけです。もちろん、勤めに出ている人たちとは始めから環境が違います。Adsens
コレ⇒嫌韓国と嫌コーラ[その他] 真性引き篭もり/entry それが本当に滑稽なものであったかどうかは別として、少なくとも僕はそれから底しれぬ滑稽さというものを感じた。より正確に言うならば荒唐無稽さと書いた方がいいかもしれない。 その第一の理由は、彼ら、即ち嫌コーラ派の30代の女性会社員と嫌コーラ否定派のfinalventは共に「ブログに書くという事は世界を変えるという事である」と、どこかしらで信じており、それを議論の前提条件として織り込んでいるという点にある。 引き篭もりさんに馬鹿にされちゃったよグスン。 対してfinalventの主張は嫌コーラ自体が間違った行動であり、と王道の批判を行いながらも30代女性会社員に対する決定的な優位性を示すために彼が提示したのがダルフール虐殺である。 真引きさんのスキームというかこのディスコースでは、「ダルフール虐殺」は、「この世の大きな不正」パラメータ
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