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生きてる限り『邪魔』は憑きモノです。 ここでいう『邪魔』とは、「生きていく上で現れるマイナス要素全般のこと」を指します。 なので、『邪魔』といっても色々あります。 眼に見える形のある物から眼に見えないエネルギー的なモノまで様々です。 とはいえ眼に見えるものも眼に見えないモノも別々にあるわけではなく、絡み合い関わり合いながら存在しています。 心と身体が互いに関係しているようにね… 例えば会社や学校では虐めや嫌がらせをされるってことがあります。 それと関連して、ネガティブな想念エネルギーをガンガン送られるってこともあるかも知れません。 それら二つは別々の事柄ではなくコインの裏表のように繋がっているのです。 そういった『邪魔』と全く無縁でいられる人は何処にもいません。 『順風満帆』が一生続くようなことはないってことです。 大なり小なり逆風が吹くのが人生です。 倦まず弛まず鍋物の灰汁を掬うように『
目の前に100人の人がいれば100通りの「正しい!」が存在します。 みんな自分が正しいと思っているからです。 もしその100人の中の1人が自分の「正しい!」を何処までも妥協なく押し通そうとすれば最終的に何らかのチカラを行使して相手を捩じ伏せるしかなくなります。 万人が心から納得する「正しい!」なんて何処にもないからです。 知力・暴力・権力…如何なるチカラであれ、それを行使し続けるなら波動的に荒々しく尖っていきます。 つまり、『正しいの比べっこ』というものをやればやるほど必然として荒々しい波動に染まっていくということです。 自分の「正しい!」を他者に押し付ければ心の許容量は必然的に減少します。 単純に考えてみてください。 「自分が正しい! 自分が正しい!」と何時も考え続けているような人間が他人に対して寛容でいられるかどうかを。 今のご時世、ニュース等をほんの少し見るだけで、この『正しいの比べ
森羅万象すべてのモノには波動があります。 波動があるというのは常に動いているということです。 動き続ければブレやらズレやらユガミやらが必然的に現れます。 そのブレやらズレやらユガミやらを毎日コツコツ修正する作業が『生きる』ということなんじゃないでしょうか? 『生きる』ということは生が終わる地点まで自分の命を運ぶということでしょう。 命を運ぶのが運命なら、運ぶためのチカラが常に動いているエネルギーの波なのです。 逆にいえば常に動くことでエネルギーは生まれています。 そのエネルギーがなければ、生き物は生きてはいけません。 だから、生きてる限りエネルギーの波に乗り続けるしかないのです。 上手いこと波に乗れるか乗り損なうかが運命の分かれ目になります。 波動ってのは相対的なものです。 つまり、世の中のモノは相対的に出来ているってことを意味します。 で、この波動ってのは、すべてが一個人の範疇に収まりき
コインには表と裏があります。 裏だけを削り取ったら、その時点ですでにコインではなくなります。 表だけ削り取ってもそれは同じです。 夜が明けたら朝になる 雨が上がって晴れになる 光があれば闇がある 片翼だけの飛行機はどうやったって飛べないのです。 大抵のことにはポジティブな要素があればネガティヴな要素もあるものです。 なのに、世の中にはネガティヴをことさら忌み嫌い、まともに見ることさえ拒否しようとする人たちが居ます。 でも、「ネガティヴな要素なんて本当はないんだ」とか思えば思うほど心は無防備になってしまいます。 そうすれば否応なく危険性は増すでしょう。 交通事故の危険性を知らずにクルマを運転しているようなものだからです。 ゴールドカード以外の場合免許の更新時は交通事故が如何に悲惨な状況を招くかのビデオを見せられます。 あれを見て「こんなモノを見せるから余計事故しやすくなるんじゃないか!」と怒
以前「絶対外れないようになってるリバーシブルな予言」って話をしたことがあります。 それはこんな感じ。 先ず「近いうちに未曾有の天変地異が日本に襲いかかります!」とか予言めいたことを語ります。 「ただし、大きな祈りが実践され、神にその祈りがしっかりと届けば、その天変地異は回避されるでしょう!」と但し書きをつけるのです。 ここにすでにリバーシブルな伏線が張ってあります。 表: まず予言めいたことを意味深に語る → 該当するようなことが起これば「残念ながら言っていた通りになってしまいました!」と深刻ぶったドヤ顔でいう 裏 : まず予言めいたことを意味深に語る → 該当するようなことが起こらなければ「たくさんの人の祈りが大いなる神に届いたので、最悪の事態は回避されました!」とキメ顔でいう つまり、言ったことが起ころうと起こるまいとどちらでも構わないようになっているのです。 どちらにしても当たったこ
人生は絶え間ない出会いと選択の連続によって成り立っています。 出会いと選択があればそこには自ずから吉凶禍福が糾える縄の如く現れてきます。 それを人は運といいます。 つまり、運とは人・モノ・場所との出会いとその際における選択から生まれるのです。 そうやって生まれた『運』が巨大なジグソーパズルのピースのように繋がっていきます。 一見繋がって無いようなピースも人生の何処かで繋がって一つの絵になるのです。 それが所謂『運命』っていうやつなんじゃないでしょうか。 しかもそのパズルは一人の人間だけで完結するものではありません。 人の一生という小さなパズルはもっとずっと巨大な『世界』というパズルのささやかなワンピースに過ぎないからです。 もっと言えば古今東西世界で起こった出来事の全ても途轍もなく巨大なジグソーパズルの一欠片として存在しているってことです。 一人の人間の運というのもまた、同じジグソーパズル
人間というのは本質的に無知な生き物です。 でも、知らない部分は何かで補わなきゃなりません。 その何かとは簡単にいえば『想像力』です。 ここでいう『想像力』とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きのことです。 『想像力』こそが『人間らしさ』の根っこです。 ここでいう『人間らしさ』とは他者に対する思慮を持っているということです。 で、ここでいう思慮とは、他者の痛みや苦しみまた喜びや希望などに対する感受性のことを指します。 他者に対する感受性が低いというのは、心の視野が狭いということを意味します。 人間心の視野が狭くなるほど周りのことなんて見えなくなるものです。 見えてるのは『自分』から見て半径3メートルくらいのマイワールドです。 そして、そのマイワールドこそ『世界』そのものだと勘違いしてたりします。 視野の狭い人は思い込みが激しいです。 想像力とは正反対の意味
生きてる限り肉体と魂は互いに深く結び付いています。 そして、肉体と魂が結び付いたところに心が生まれます。 肉体を得た魂が歳を経てこの世に馴染むと心を得るのです。 魂→肉体→心という順番に人間という者は出来上がっていきます。 所謂人間らしい心ってのは成長していく過程で生成されていくのです。 肉体と心と魂の繋がりってのは、結局「最初に魂ありき」であり、最後もまた魂ありきです。 でも、この「魂から始まり、魂で終わる」ってことについて、本当に分かっている人というのは多くありません。 それはなぜかというと、ひとつには魂ってモノを虚構あるいは寓話のようなモノとして捉える唯物論的思考が世の中の主流になっているからです。 そういう考え方からすれば、心も脳みその起こす電気的な信号の表現みたいなモノに過ぎないのでしょう。 もう一つの理由は、肉体にココロが過分に引っ張られているからです。 もっと簡単にいうと「肉
例えば大地震や火山の大噴火みたいな天変地異があれば人々は色めき立ちます。 しかし、そういう天変地異も実は場のエネルギーの日々の小さな変化の積み重ねの果てに起こっていたりもするものです。 場のエネルギーの変化が、人間が生きていくための環境にも少なからぬ影響を与えているってことです。 その土地にはそれぞれ長年かけて出来上がった『場の波動』というモノがあります。 『場の波動』はその土地の地形によって起こるエネルギーの流れやそこで過去に起こった出来事に由来するエネルギーなどが複合的に絡み合って出来上がっています。 だから、街なら街で各々雰囲気が違っているのです。 古い街ほどその街独特の雰囲気が強く濃く出来上がっています。 その雰囲気は『場の波動』によって生まれてくるモノです。 また都会であるほど当然ながら人間の数が多いです。 人の数が多いとその分想念エネルギーも種々雑多に渦巻いて、余計に街の波動は
森羅万象すべてのモノには波動があります。 波動があるというのは、あらゆるモノが常に動いているということです。 動き続ければブレやらズレやらユガミやらが必ず現れます。 そして、動き続けることでそのブレやらズレやらユガミやらは大きくなっていくのです。 だから、毎日コツコツとブレやらズレやらユガミを修正する必要が出てきます。 その修正する作業を、ここでは「心のバランスを取る」と表現します。 人間は生きている限りこの「心のバランスを取る」という行為を継続しなくちゃなりません。 「バランスを取ること」をやめれば、拡大するブレやらズレやらユガミによって、心は必ずバランスを失うからです。 バランスを失えば、心は遅かれ早かれ迷妄の闇に堕ちていくでしょう… で、波動にはレベルというものがあります。 波動のレベルの高いモノはフワッと軽くてスカッと明るく、波動のレベルの低いモノはドヨヨ~ンと重くてジトッと暗いの
この世はどう転んだところで不確実性の世界です。 どこまで行っても不確かな状況の中で何とかかんとかバランスを取って生きていくしか道はないのです。 でも、不確実性というのは同時に流動性であり、それは自由の源でもあります。 安定と自由は反比例するってことです。 或いは不安定と自由は比例するとも言えます。 不安定は不安を生み、不安は恐怖を生みます。 心の弱っている人ほど不安と恐怖に対する耐性は低いのです。 だから、マインドコントロールというのは、心の弱い人をターゲットにします。 心の弱っていると判断能力が鈍るので、自己決定に自信を失って、誰かに決定を委ねたい気持ちが出てきやすくなるからです。 手口としては、心の弱っている人により不安を与えて不安定な状態を助長した上で、自分たち製の安心を示して依存させようとします。 依存が進めば、自分の都合のいい考えをガンガン植え付けて支配度を深めるのです。 一言で
コインには表と裏があります。 裏だけを削り取ったら、その時点ですでにコインではなくなります。 表だけ削り取ってもそれは同じです。 夜が明けたら朝になる 雨が上がって晴れになる 光があれば闇がある 片翼だけの飛行機はどうやったって飛べないのです。 光の中に闇を見る人は、闇の中にも光を見い出せる人です。 光だけ見て闇を見ようとしない人はマヤカシにやられて闇に取り込まれる人です。 闇の何たるか知ろうとすれば闇に近付くしかありません。 ただ、闇に近付けば近付くほど否応なく闇に触ることになります。 その闇は退廃的な甘美さみたいなモノも持ち合わせています。 何時もおぞましいばかりではないのです。 闇に近づきすぎて、その退廃的な甘美さに絡め取られてしまう人少なくありません。 「自分は何があってもそんなモノに絡め取られない! そんな弱い人間じゃない!」なんて考えてる人ほど危ういです。 闇の甘美さをナメてる
この世はどう転んだところで不確実性の世界です。 どこまで行っても不確かな状況の中で何とかかんとかバランスを取って生きていくしか道はないのです。 でも、不確実性というのは同時に流動性であり、それは自由の源でもあります。 安定と自由は反比例するってことです。 或いは不安定と自由は比例するとも言えます。 なので、安定した状態を突き詰めると最終的には『不自由』になります。 すべてが決められている(という設定の)世界には自由はありません。 ただ、あれこれ迷う必要がないので、不安もありません。 すべてが決められている(という設定の)世界というのは、宿命論の世界です。 例えばそれは「聖書には過去・現実・未来のすべての真実が記されている!」みたいなことを信じている世界です。 すべてはすでに決まっているので、迷うことのない安寧がそこには存在するのです。(その人の中では) 要は、心の安定をとことん突き詰めれば
現在の社会では「人間は本質的に競争しなくちゃ生きていけないようにできているのだ!」みたいな感じの刷り込みが子どもの頃から繰り返し行われています。 ここでいう刷り込みってのは教育という名のマインドコントロールのことです。 その教育とは、競争という概念に疑いを抱かせず、社会的な生産性をあげるための歯車としての『いわゆる社会人』を作り上げる作業です。 実際「競争原理こそがこの世界の『絶対的な基準』だ!」的な考え方が、今の人間たちの心に深く強く叩き込まれていて、疑う人の方が圧倒的に少ない気がします。 それくらい競争というモノが『当たり前の真実』のように世間的に扱われているのです。 競争を成立させるためにはスタートラインを揃えなければなりません。 どんな競争であれ、スタートが揃えられないなら競争としての公平性が担保することができないからです。 例えば公平性を表す簡単な実例として、格闘技の階級制があり
過ぎ去りし日の一時期、スピリチュアルな世界の暗黒面の一端に予期せず触れてしまい、見境なくノボセ上がって暴走してしまったことがあります。 とあるヒーリングの『セクシャルハラスメント』や『マインドコントロール』といったものに否応なくガッツリ関わってしまったことが切っ掛けでした。 当時他者からのマインドコントロールによる煽りや物の怪からの波動的な干渉の影響がバンバンあったのも事実です。 ただ、結局自分自身の心が無防備で、あまりに隙があり過ぎたのだと思います。 激しいショックを受けていましたし… 妄想が妄想を呼び、膨れ上がった末に「自分は世界すべてを相手に戦っているサイキックな戦士だ」くらいの精神的に『完全にイッチまった状態』になってしまったのです。 自分ではそれがすべてこの世のリアルそのものだと信じ込んでいましたが… そんなパラノイアなココロの世界から命からがら脱出できたのは、運命を分けた紙一重
人生は絶え間ない『出会い』と『選択』の連続によって成り立っています。 『出会い』と『選択』があればこそ自ずから禍福が糾える縄の如く現れてくるのです。 それが一般にいう『運』と呼ばれるモノです。 つまり、『運』とは「人・モノ・場所との出会いとその際における選択から生まれるモノ」を指します。 そうやって生まれた『運』は巨大なジグソーパズルのピースのように繋がっていきます。 一見繋がって無いようなピースも何処かで繋がって一つの途轍もなく大きな絵となるのです。 その途轍もなく大きな絵が、この世界の『運命』っていうヤツなのでしょう。 日々刻々様々な場面で『何か』を選び取ることで人の運命は進んでいきます。 「選ばないことを消極的に選ぶこと」まですべて含めてね。 世に「親は選べないからねぇ…」 って言葉があります。 所謂『この世』の視点でだけ見れば、確かにそうでしょう。 しかし、眼に見えない世界まで含め
人外のモノが人間に憑く場所というものには一定の傾向が存在します。 すべてのケースに必ず適合する法則みたいなものがあるかどうかは分かりませんが、経験からいって推測出来る傾向みたいなものはあったりします。 物の怪であるヘビは人の身体でいえば大半は上半身より下半身に付いています。 生殖器や泌尿器関連などお臍より下にいることが圧倒的に多いです。 なので、ヘビがいると腹痛を起こす場合が少なくありません。 クモは頭の付近に乗っかっていることが多いです。 頭でなくても首や背中の上の方にいたりします。 どうも人の髪を使って仕掛けを作るのが得意みたいです。 で、ヘビならヘビ、クモならクモといった種類別の傾向とは別に特定のエネルギー体が見せる憑依のクセみたいなものがあります。 個別の特徴と傾向、つまり個性のようなものがあるということです。 例えば心臓を鷲掴みにするオニというモノがいます。 それは当然左胸あたり
今のご時世「生きてる間にどれだけ良い想いをして、死というゴールまで無事逃げ切れるか?」が人生の勝ち組を目指す人々の『関心の中心』を成しているように見えます。 「どんな手を使ってでも社会的にのし上がり、地位や名声や権力などを手に入れた者の勝ち!」って発想がそこにはあるんじゃないでしょうか? そういう世俗的な成功哲学みたいなモノが全面的に良くないとは思いません。 人間霞を食って生きてはいけませんのでね。 ただ、そういう世俗的な成功を求めるようとする欲望が肥大化して行き着いた果てが、「今だけ・金だけ・自分だけ」ってヤツなんだろうとは感じるのです。 ある意味それって唯物論の極北じゃないでしょうか? 人間の欲望は大抵、物(モノ)によって表されます。 ここでいう物とは簡単にいうと手に触れられるもの、目に見えるものなどです。 この世は様々な人間の色んな欲望が具現化した世界だとも言えるでしょう。 その欲望
心霊スポットなどどこかの場所で目に見えない霊的なモノに憑かれてお持ち帰りするという話があります。 その手の怪談というのは古くから散々語られてきたので「特定の場所には何か居て憑いてくる」という話には割合みんな拒否感は少ない気がします。 それは「場所から人へエネルギー体が乗り移る」という事柄に関して違和感があまりないということです。 ただ、ここで語られる場所というのは大体が如何にも曰くありげな特別な場所です。 ありふれた日常でそういうことがあるとはあまり思われてません。 それに近い話があるとしたら「住居の引っ越し先が所謂出る所だった」というようなものですが、それも結局は「曰く付きの特別な場所に引っ越してしまった」という特殊な話です。 で、ここで何が言いたいかというと、そんなに曰く因縁に溢れたオドロオドロしい場所でなくてもみんなが目に見えないエネルギーをお持ち帰りしやすい所というのは世の中のあち
時間の流れは単に気候の変化だけではなく、眼に見えない様々な変化を生みます。 その変化は片時も同じことはありません。 一瞬一瞬すべて違うってことです。 同じ4月でも去年と今年では当然気候の移ろいは違うし、眼に見えないエネルギーの流れもまた違います。 時間の流れによって起こるエネルギー的な変化は人間にも有形無形の影響を与えていきます。 人間は常に時の波動というエネルギーの影響を受けているってことです。 まあ、それは人間だけではなく、この世界全体が影響を受けているって意味ですけどね。 春分と秋分は、時の波動の大きな変化のポイントになっています。 そのあたりの時点が、時の波動の分岐点になることが多いです。 とはいえ春分とか秋分といっても暦の上の日付とエネルギー的な意味での変化のポイントがズレていたりすることは少なくありません。 ズレてるというか厳密にいえば別モノなのでしょう。 エネルギー的な意味で
昔ある人に付いて整体を習いました。 その人が新たに立ち上げたお店で働かせていただく前提で習ったのです。 その時は生まれて初めて『師匠』と呼べる人が出来たと喜びました。 でもねぇ、そこにある『世界』はあまりにドロドロぐちょぐちょし過ぎていて、その人を『師匠』とは呼べなくなるまではあっという間のことでした。 別に相手に聖人君子のようなメンタルを求めていたわけではないのですがね… (ー ー;) 次に習いに行くことになったヒーリングには足掛け6年余り関わっておりました。 「本当に良いものに出会った!」とその時は感じたものです。 当時そのヒーリングの主宰者の方を自分の『師匠』だと本気で考えておりました。 今から思い返すと笑ってしまいますが… そのヒーリングでは『セクシャルハラスメント』や『マインドコントロール』といったモノに直面することになりました。 自分の預かり知らぬ遠いどこかの物語としてではなく
人間というのは本質的に無知な生き物です。 でも、知らない部分は何かで補わなきゃなりません。 その何かとは簡単にいえば『想像力』です。 ここでいう『想像力』とは知らないなら知らないなりに一生懸命察したり慮ったりしようとする心の働きのことです。 『人間らしさ』の根っこには『想像力』があります。 ここでいう『人間らしさ』とは簡単に言えば「ゴリゴリの自己中ではない」ということです。 分からないなら分からないなりに察したり慮ったりしようとする心の働きが、『人間らしさ』の素となります。 『人間らしさ』は、他者の痛みや苦しみまた喜びや希望などに対する敏感さに裏打ちされているからです。 慮るチカラが弱いというのは心の視野が狭いということです。 人間心の視野が狭くなるほど周りのことなんて見えなくなります。 見えているのは『自分』から見て半径3メートルくらいのマイワールドです。 そして、そのマイワールドこそ『
今まで式神というモノについて何度も述べてまいりました。 ただ、このブログの所謂『式神』というのは本来の意味とは大分ズレたものになっております。 他に適当な言葉もなかったものですからね… なので、以下に改めてその内容を定義しておきます。 「ここでいう式神とは特定の人間や集団などが何らかの霊的・呪術的な方法を用いて意図的に使役することの出来るエネルギー体全般のことである」 当然「そんなバカバカしいことあるもんか!」と考える人もいらっしゃるでしょう。 目に見える世界ばかりに囚われているとそうとしか思えないのも理解できます。 それでも、この現代においても呪術的な方法によって何らかのエネルギー体を使役しようと試みる人々は後を絶ちません。 その手のエネルギー体に出会うことが決して稀ということもないので、そうなんじゃないかと推測するのです。 まあ、そんな話を信じるのか信じないのかはそれぞれの自由ですけど
現在の社会では「人間は本質的に競争しなくちゃ生きていけないようにできているのだ!」みたいな感じの刷り込みが子どもの頃から繰り返し行われています。 ここでいう刷り込みってのは教育という名のマインドコントロールのことです。 その教育とは、競争という概念に疑いを抱かせず、社会的な生産性をあげるための歯車としての『いわゆる社会人』を作り上げる作業です。 個人的には何事にも競争原理と自然淘汰が付いて回るという進化論的な価値観にはずっと違和感があるんです。 実は弱肉強食なんて、人類が見聞してきた『世界のカケラ』のそのまたほんの一部分に過ぎないんじゃないでしょうか? そもそも生き物を種という『単位』で見たら「みんながみんな、そんなにシャカリキに競争なんてしてますかねぇ?」って疑問が湧くのです。 例えばナマケモノみたいな種が現在も生息できているのは、人間が勝手に考える優勝劣敗なんて『ちっちゃな理屈』とはま
世の中のすべてのモノは原子レベルから動き続けています。 そして、動くことで必ず劣化します。 それでも、波動的なバランスが上手く取れていればその分劣化は遅くなるのです。 心も身体も魂もこの世に存在する限りバランスを取ることは必須です。 では、人がバランスを取らなくても大丈夫という価値観に支配されるとどうなるでしょう? 例えば「コレさえあれば大丈夫! 一々バランスなど取らなくても楽して生きていける!」という『魔法の道具』がどこかに有って、それを手に入れることは十分可能だという価値観にね… そういう価値観に心が染まると当然劣化は早まります。 それだけでなくバランスが崩れれば崩れるだけ、バランスを測るための平衡感覚が狂っていきます。 そうなると当然『平衡のとれた心の位置』というものを感覚として掴めなくなっていくのです。 そういう心の状態が長く続けば続くほど魂は腐っていきます。 ここでいう『腐る』と
目の前に100人の人がいれば100通りの「正しい!」が存在します。 みんな自分が正しいと思っているからです。 もしそのの中の1人が自分の「正しい!」を何処までも妥協なく押し通そうとすれば最終的に何らかのチカラを行使して相手を捩じ伏せるしかなくなります。 万人が心から納得する「正しい!」なんて何処にもないからです。 知力・暴力・権力…それが如何なるチカラであれ、チカラを年がら年中行使し続けることを是とするならば、遅かれ早かれ他者に対する『オラついた気持ち』が染み付いていくでしょう。 『正しいの比べっこ』というのは本質的に「やってやられて」の世界ですので、心は殺伐とせざるを得ません。 じゃあ、『正しいの比べっこ』というのは本質的に「やってやられて」の世界ってのはどういうことかというと正しい!って想いは自己完結しないモノであるということです。 「正しい!って想いは自己完結しないモノである」という
式神(しきがみ、しきじん、識神)とは、陰陽師が使役する鬼神のことで、人心から起こる悪行や善行を見定める役を務めるもの。式の神ともいい、文献によっては式鬼(しき)、式鬼神ともいう。 一般に式神を使っていたと言われているのは中世の陰陽師です。 ただ、現代でも魔術的な方法によって出来る何らかのエネルギー体を使役出来るという方は存在します。 少なくともそういうモノを使おうとする意志のある人々は実際にいるのです。 それは何も日本だけとは限りません。 洋の東西を問わずそういったことをしたがる人間は昔から存在してきました。 アラビアンナイトにも「所有者となった者がランプを擦ると魔神が現れ、様々な願いを叶えてくれる」という話があります。 「人外のチカラは使役出来る」という観念が先になければ成立しない話です。 改めて本ブログで申し上げるところの所謂『式神』について定義しておきます。 本来の意味とはずれますが
ここでいう所謂カミサマってのは何かと申しますと「これまで世界のどこかで人間によって崇め奉られてきた眼に見えない存在全般」を指します。 今回に限らず私がカミサマって言う時はそういうモノのことを想定しているとお考えください。 簡単にいえば「時代や地域に関わらず誰かが神さまって呼んできた眼に見えない存在はとりあえず丸ごと全部カミサマという『ジャンル』に分類しますよ」ってことです。 じゃあ何故そんな風に神を規定するのか?というと、そもそも見えない『何か』に神という名を与えたのは他ならぬ人間だからです。 「神というのはあれでそれでこれで、こういうモノなんだ!」みたいな『設定』を考えたのが人間だってことです。 この世界には眼に見えない色んな存在がたくさんいます。 ただ、そのあれこれを神だの悪魔だのと分類しているのは、人間の勝手です。 一方この世界には人間が今まで一度もカミサマと認知したことがない『眼に
ここでいうところの『呪詛』というのは「誰かに対してエネルギー的に眼に見えないカタチでネガティヴな影響を与えようとする方法または手段の全て」とお考えください。 マジナイ・ノロイ・呪術・念送りなどと呼ばれる類いのモノもすべて含みます。 世間一般でいう呪いの類いっていうのは「古くから行われていた呪術を伴うモノ」として認識されているんじゃないでしょうか? 丑の刻参りみたいな特殊でオドロオドロしい独特な儀式を伴うようなものとしてです。 ていうかそういう『儀式ありき』でしか成り立たないモノと思われている節があります。 呪詛を行う場合、技術や方法論が何より一番大事と考えられているのです。 でも、実際は呪いの方法が古来からのやり方に合ってるから呪詛なのではありません。 人を呪う心のカタチが『呪詛』なのです。 少なくともここでいう呪詛とはそういう意味合いで言っています。 世の中、非常時になればなるほど『人類
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