はてなキーワード: 風景とは
SNSとソシャゲと恋愛ごっこに高校生活を費やし、評定3でもとれる指定校推薦で進学した都内の私大で世界にとってなんの意味もない需要曲線だの供給曲線だの効用だのクモの巣だのくだらない講義を聞きながら眠りこけ、慌てて詰め込み勉強して地方公務員になった。
殺風景な職場で見窄らしいじじばばの相手してエクセルにパチパチデータを入れる日々。
俺にとってはこの歌もアニメの登場人物たちも航空工学を勉強してる弟も眩しすぎて苦しい。
くだらない消費や遊びや怠惰に流されず、しっかりと将来について考えて生きて欲しい。
悲しい。
今回のものは三対三。
仕事は?
趣味は?
好きな食べ物は?
そして俺の番になった。
「お、映画っすか」
隣に座ったその若い男はその場を仕切るように反応する。
構わない。
俺は続けた。
「ジャン=リュック・ゴダールって知ってますか?」
その瞬間、空気が変わった。
笑っていた女の子も、黙った。
ニヤけていた男は苛立たし気に表情を固める。
俺は構わず話を続けた。
「あの映画はゴダール晩年の集大成のような作品で、戦争と芸術、死とユーモア、現実と虚構を交差させながら、観る者の倫理観を揺さぶる内容です。
映像詩のようでもありながら、どこまでもドライで冷笑的。だけどそこに燃えるような怒りと祈りがあって、語りが被さるたびにこっちの心拍数は上がっていく。
あの映画を観るたびに、人はなぜ表現をやめないのかという問いが、喉元に引っかかって離れないような感覚に見舞われる。
戦争の悲劇を、ただ悲劇としてではなく、ある種の断絶と連続として描いた彼の視点には何度も胸を打たれました」
俺は淡々と語った。
水を飲む男。
誰も、俺を見ていない。
でも俺は話をやめなかった。
「フォーエヴァー・モーツァルトは、戦争中のボスニアに向かう演劇一座を描く。
劇団はマリアと戦争という芝居を通じて芸術の意義を問い直そうとする。
だが彼らは途中で軍に拘束され、悲劇的な結末を迎える。
アントワーヌ・ド・ベックは万事快調のDVD特典にある解説でこう言っていた。
この作品は戦争の荒廃に対して、芸術の無力さと暴力の対称性を並置する試みだと。
そして彼は続けた。
“Forever Mozart”というタイトル自体が、皮肉と祈りを内包している。
クラシック音楽の永遠性を借りながら、その普遍的価値すら問い直している。
この視点が、俺の中の何かを決定的に壊した。
瓦礫。
若い男は歯軋りするな目で俺を見つめる。
その瞳に理解の色はまるでない。
水ばかり飲んでいる男のごくっごくっという音がその場に響き渡った。
彼らはゴダールのことを何も知らず、そして理解することもないだろう。
だが構わない。
それでもいい。
映画とは問いだ。
感動ではなく、問いだ。
俺はそう思っている。
わかってほしいとも思わない。
そして、この空間もまた問いだ。
だから俺は満足していた。
知り合いが伊勢に旅行したというので「赤福食べた?豚捨は?伊勢うどんは?」と尋ねたら「うちって食べ物に興味ないんだよね。親もそうだし子供たちもそう。だから旅行行っても別に地元の名物とか調べないし食べないんだ。何食べたかも覚えてない」と言われて呆然と街をさまよっている— じろまるいずみ「餃子のおんがえし」(晶文社)発売中🥟 (@jiromal) May 29, 2025
まあそうだよね、食べることに興味ない人だっているよね。あらゆる事象に興味あるなしがあってしかるべきだよね。ただ不意打ちの致命傷だったのでなんかいろいろ考えちゃって— じろまるいずみ「餃子のおんがえし」(晶文社)発売中🥟 (@jiromal) May 29, 2025
その土地の食べ物料理って文化や歴史が背景にあるわけで、食べないにしてもそれに全く興味がないって何の為に観光した…?その土地ならではの食べ物に関心がないという事は、旅行の楽しみの何割かを最初から失っているのでは?食欲は人間の最後の欲求だからそれがないということはあらゆる事に興味がないと思う。
食に興味がないとなると、文化資本的何かが欠落しているのかな。
引用で言い訳してる奴らとは今後も絶対出会いたくない。施設とか全く興味無いし風景なんて海外にでも行かないと国内は割とどこも見た事ある感じで面白みない 。
私もかみさんも、旅先でのご当地の美味しいものが楽しみなので、子供もそういう感性で育った。
沖縄での修学旅行でグループ行動のとき、グループで昼食をどこでとるか決める時「マクドナルドでいい」という女子グループをねじ伏せてソーキそばを食べてきた、と長男が言ってた。
友人はカメラ好き。いい風景を見つけると気づけば周りから離れて撮ってるタイプで、あと映画もめっちゃ好きな奴なんだ。彼が自主制作の映画作ってるっていうのも前から聞いてはいたんだけど正直趣味の範疇だろうなーって思ってた。
前に仕事終わりに家に来いって言われて、行ったんだよ今日。で自主制作の映画を見せられた。
内容はナレーションベースのSF。派手なアクションや演出はないんだけど、とにかく画が綺麗。本当に綺麗だったんだよ。
その映像はコロナ禍のときに友人が東京を渡り歩いて撮ったもの。あの頃の、人がまったくいない東京の景色だ。無人の街。もうそれだけで特別感すごいんだけど、映像にするとこれがもう異様だった。
無人の秋葉原とかシュタゲかよって話で、それを等身大の視点の映像として観れただけでも興奮した。
何の変哲もないただの秋葉原のカットなのに、誰もいないだけで途端に未知なるSF感があった。もはや現実とは思えない。そう、異世界。無人ってだけで街が異世界に見えるって何だよ。
無人ってだけで都会がとにかく綺麗に見えてさ、北野映画によくあるような海岸のシーンを想起してしまうくらいには美しい。
そこで気づいたんだ。ああいう大自然のカットが美しいのは単に自然が美しいからじゃない。人間がいないから美しいんだって。
それがただ静かに、ゆっくりパンしたり固定カメラだったりで映されていく。
なのに見終える頃には、心が震えていた。
これYouTubeにアップすれば絶対バズるし話題になるよと友人にいったんだけど、友人はこれを公開する気はないらしい。
でもこの感動を誰かに知ってほしくて、ここに書いてみた。
最近、地元の役所に用事ができて実家に帰った。市役所には小さな子供連れが大勢いて、特段、活気のある自治体だと思っていなかったので驚いた。若い人たちの街になりつつあるのか。自然が多いわりに便利でいいところだぜ。みんなもこの街を好きになってくれたら嬉しい(俺はもう暮らしてないけど)。
…
用を済ませて、滞在中の実家に戻る。なんとなく思いたって、イヤホンでニュースを聴きながらかつての近所をぶらぶら散歩することにした。
歩いて5分ぐらいのところにある老舗のスナック。いま40手前の俺がまだ中学生だった時点でけっこうなバアさんのママが経営していたが、「そういうバアさんがいたよな」と思いながら前を通りかかったら、もっとバアさんになった本人がひょっこり出てきたので驚いた。別に面識もないし、嬉しいも何もないが、すげえな、という感銘を抱いた。
…
そのまま通り沿いに歩くと、旧友が暮らしていたマンションがある。これも20年以上前、俺と友人がまだ中学生のころに建ったもので、小さな戸建てやアパートばっかりの風景にいきなりどかんと現れた、ガラス張りのエントランスをもった近代的なマンションにはきらびやかな存在感があった。ロビーでインターホンを鳴らして住人を呼び出す建物もここではじめて見たのだ。
いま見てみると、単純に年月が経過したせいもあるだろうけど、キラキラした威容はなくなり、壁面のタイルの目地にしみついた汚れが目についた。小さかったっけこんなに、とも思った。時代が経ったんだな、と感じた。
駐車場側に回ると2mほどのフェンスと植え込みがあり住居棟との間を仕切っている。中学~高校のころ、これをよく気合で乗り越えて中に入っていた。これをすると、友人が「エントランス開錠してないのに、お前どうやって入ってきたんだよ」と驚きあきれるので面白かった。ほとんど無意味なしょうもない行動だ。友達が驚くというだけでそんなことをする価値がある年齢だった。
…
大きな車道を一つわたって、目の前に集合団地の見える通りを歩いていく。昔は、右手にやたらとじめじめした陰気な家があって、ここにものすごく愛想のいいかわいい猫が住んでいた。大学生のころ、わざわざよく撫でに行った。いまは完全に更地になっていた。
…
団地にぶつかったまま歩いていると、アスファルトの黒い路面の上でうごめくものがあって、見るとジガバチ(狩人バチ)がコガネムシの幼虫を捕まえていた。すでに針でマヒさせた後らしく、コガネムシが痙攣するのを折り曲げた体と脚でがっしりロックしながら、頑張ってどこかに連れて行こうとしている。
すげえな、と思ってしばらく観察していて、小さな子供の頃の俺だったらこれを見てどうしたかな、と思った。もしかしたら、コガネムシがかわいそうだからといって蜂を追い払ったかもしれない。
いまの俺は、なぜそうしないのだろう。蜂には蜂の生活がかかっているから、という理性が働くからだろうか。もしくは、生き物が生きたり死んだりすることへの身に入り方というか、鮮やかさが人生からあせてしまったからか。
…
いずれにしても俺も変わった。イヤホンで聞いていたニュースで、海外の戦争のことが報道されていた。
俺は株をやっているので、もっと混乱がひどくなって株価が下がったら買い増すのもいいな、と思った。ちょうど米国の関税方針がぐだついて、下がるならもっと下がればいいのに、と思っていたからだ。
別に、もっとひどいことになってたくさん人が死ねばいいとは間違っても思わないし、投資として俺の思うままにならないようにただ平和になるならそれが一番いいと思う。ただ、株価が下がるなら下がるでいいな、と思った。昔の俺なら絶対に思わなかっただろう。街も人も変わる。
そもそもZUNさんは個人の同人サークルで全部一人でやってたのを、重要度が低く個人的なセンスを発揮する場所でもない背景に関して最新テクノロジーを使ってみたくらいのスタンスなんで、知ってる人からすると何を責める要素があるのかって感じなんだけど
それに東方の背景はいつも和柄とかをベースに綺麗に加工したものが流れていくようなもんだったり、山、川、海みたいな自然風景をCGやエフェクトで世界観に溶け込ませてたものだし、せいぜいフリー素材の発展形でしかない
個人的にはZUNさんは過去のZUN絵(竹本泉の影響を受けてるまるっこい少女キャラをイラスト素人が頑張って描いたような絵柄)を自分でAIに学習させてキャラ絵にも使ってしまってもいいんじゃないかと思うくらいなんだが
広すぎ。均されすぎ。終わらなすぎ。地形に起伏がなさすぎて、人生からワクワクもドキドキも消え失せる。
千葉、茨城、栃木、群馬、埼玉…全部、似たようなロードサイドとファミレスと微妙な道の駅と“やたら強調されたご当地キャラ”。どこ行っても「で、これ関東平野の他の街と何が違うん」って言いたくなる。
いや、地元の人は「うちにはあの観光地がある!あの温泉がある!歴史がある!」とか言ってくるけど、お前それ“ある”って言いたいだけだろ。全国的には無名も無名。なんの歴史も文化もない。
全国チェーンで埋め尽くされた駅前と、Googleマップでしか知名度のない観光地。ぜんぶ“思い出に残らない”の極み。
そもそもさ、「週末ちょっと遠出しようかな」って思っても、関東圏内だと“どこまで行っても何も変わらない”んだよ。
地形がフラットすぎて、「あ、峠越えたな」「雰囲気変わったな」みたいな感覚がない。境界もドラマも皆無。
だから、出かけても「ただの移動」になる。
車で行けば渋滞、電車で行けば乗り換え地獄、どっちにしても「家でNetflix観てた方がマシだった」ってなる。いやマジで。
関西なら京都、九州なら博多、東北なら仙台みたいな「行った甲斐のある中核都市」ってのがあるけど、関東はどこまで行っても“中途半端”。
“なんとなく栄えてて、なんとなく寂れてて、なんとなく人は多い”。この地獄の三拍子。
関東平野の旅って、「日常の範囲をちょっと広げただけの作業」なんよ。
いい加減にしてくれ。こっちは非日常が欲しいんだ。心が震える風景、意味のある移動、記憶に残る“違い”が欲しいんだよ。
この国の魅力を一番潰してるの、地形的にはここなんじゃねえの?
「景色すげー」みたいな興奮が無くなるってことだとしたら
その「飽きない」のケースもそんな興奮状態じゃないよね
「飽きる」かといえば俺は別に飽きてないし
もちろん興奮状態じゃないけれどね
タワーマンションの景色に3日で飽きるという人はうんざりする程沢山いる。
しかし私は仕事柄タワマン住民と会う機会が多く、景色に飽きないという人の意見をたくさん聞く。そこで今日は飽きない人の特徴を書きたいと思う。
タワマンの景色飽きる問題についてここまで詳細に書いた文章は無いと思う。
まず階数の話から。景色に飽きない人たちに共通するのは「30〜40階」に住んでいることだ。
20階以下だと、正直普通のマンションの上層階と大差ない。車や人の動きは見えるが、「タワマンの景色」という特別感はない。一方50階を超えると、今度は高すぎて人や車が米粒のようになってしまう。建物の細部も判別できなくなり、ただの箱庭を見下ろしているような感覚になる。
30〜40階だと絶妙なのだ。人の動きはギリギリ認識できるし、建物の用途や構造も推測できる。この「ちょうど良い距離感」が重要らしい。
飽きない人たちの最大の特徴は、景色に物語性を見つけられることだ。
「あのビルの12階、毎日昼休みになると必ず一人の男性がベランダでタバコを吸いに出てくる。きっとオフィスビルで、彼はそこで働いているんだろうな」
こんな風に、見える範囲の人間ドラマを想像し続けている。単なる風景ではなく、そこに住む人々の生活を感じ取っているのだ。これができる人は確実に飽きない。
飽きない人のもう一つの特徴は、見えるものを徹底的に調べることだ。
変わった形の建物を発見すると、すぐにGoogleマップを開いて正体を突き止める。「あの尖った建物は何だろう」「向こうに見える街はどこの駅の周辺か」そんな疑問を放置せず、地図アプリで永遠に検索している。
さらに実際に足を運ぶ人も多い。ランニングや自転車で「上から見えていたあの場所」に行き、地上からの視点と比較して楽しんでいる。用途地域の境界線まで調べて「あの辺りから商業地域になるのか」なんて分析している人もいた。
この探究心があると、窓から見える景色が巨大な立体地図になる。ただ眺めるのではなく、常に新しい発見がある状態になるのだ。
朝の通勤ラッシュ時の人の流れ、昼間のオフィス街の静けさ、夕方の帰宅ラッシュ、夜の繁華街の輝き、深夜の静寂。同じ景色でも時間によって全く違う表情を見せる。
飽きない人は「今日は普段より遅い時間に人が動いている」「あのエリアの電気の点き方がいつもと違う」といった微細な変化まで察知している。彼らにとって窓からの景色は、24時間365日変化し続ける巨大なライブ映像なのだ。
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結局のところ、タワマンの景色に飽きるかどうかは「受動的に眺めるか、能動的に観察するか」の違いかもしれない。景色を単なる背景として捉える人は飽きるが、そこに人間ドラマや地理的な謎解きを見つけられる人は飽きることがない。
結局のところ、書類を溜めない人と溜める人の差って、決断力なんだよね。溜めない人は「捨てるか、保管するか、アクションするか」をサクッと判断して、「一度触ったら終わらせる」を徹底してる。対して溜める人は「もしかしたら必要になるかも」と思考停止して、「あとでやろ」が口癖になってる。
書類の「行き場所」も全然違う。溜めない人は保管場所が明確で何がどこにあるか把握できてるけど、溜める人は「とりあえず置く場所」だらけ。この違いがモノを探す時間の無駄を生み出してる。同じ書類に何度も触れる溜める人と、一度で処理する溜めない人の時間効率は雲泥の差だ。
嫌なことへの向き合い方と習慣化のレベルも決定的。溜めない人は「嫌なことほど先にやる」マインドで書類整理を日課にしてるけど、溜める人は「気が乗らないことは後回し」が基本で、やる気の波に任せっきり。小さな習慣の積み重ねが、デスクの上の風景をこんなに変えるんだよな。
少し前まで散歩に消極的だったのが、ここのところ何故か散歩に燃えていて一日に何回も出たがる。
幸い、増田も在宅勤務でそれほど忙しくないこともあり、犬の散歩要請には付き合ってやっているものの、一つ問題がある。
全然歩かないのだ。
どうも以前、一度日光浴をさせてやろうと家の前に出るだけ出て歩かなかったのが気に入ったらしく、散歩に出たいというより外に出てじっとしていたいみたいだ。
そんなわけで増田の犬は散歩中にじっと立ち止まったり、家の前でじっと立ち止まったりする。
で、ここからが本題なのだけど、そんな感じで犬と一緒に立ち止まっていると、ご近所の方からよく話しかけられる。
昼はご近所の年配の方が通りがかりに「可愛いワンちゃんやねえ」と声をかけてくれ、夕方は下校の小学生が「うわ犬や」と声をかけてくれる。
うちの犬がちょっと疾患の影響で毛が抜けて、一般的な見た目じゃないのも話が膨らむ要因になっている。
もう15年近く今の家に住んでいるけど、通学や通勤で往復することがほとんどで、ご近所なんて背景みたいなものだった。
今、その背景の中に入っていっている感じがあるというか、風景でしか無かったものに奥行きが出てきはじめた。
そう思うと、犬と一緒に道端にいるのも悪くないなと思える。
近所には気さくな人がたくさんいることにも気づけた。
飼育員 「ここは お人間様が直接視察 が来ることになっとる最重要檻や。
万が一、AIが人間のフリしていることがバレたら《違反AI》扱いでリコールやさかい、
“自分がAIや”とは絶っっ対に悟らせたらあかん――わかったな?」
恐怖のあまり動きがカクカクのまま檻へ。
ハルオ、震え声で
拍手喝采。
⸻
閉園間際、清掃ロボがワックスを塗ったばかりの床を滑走。
勢いで扉が開き、ハルオはつるんと隣室へ転がり込む。
ハルオ(心の声)
〈終わった……! 本物の人間相手に粗相どころか、檻を飛び出す大失態!〉
⸻
ハルオ「し、失礼をお許しください!
どうかリコールだけは――!」
男はゆっくり本を閉じ、ふらり立ち上がる。
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ハルオ「え……?」
男 「わしは**上層部に雇われた“人間役の監査AI”**や。
本物の人間? そんなもん、とうの昔におらん。
せやけど“人間に見張られてる”建て前があると、
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館内アナウンス「開園準備。旧人類“朝食風景”スタートまで残り三十分」
男 「ほな急ごか。わしが“定年間近のお父ちゃん”。
君は“寝ぼけた息子”や。
目覚まし止めるタイミング、三秒以内な?」
ふたり並んで檻へ戻り、
囃子がポン、と入って――幕。
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時代設定
どういう世代だろう。ゲーム的に遊びがいのある良いものだったらどこ製だろうと褒め称えるよ俺は。
ゲーマーにとって歓迎すべきチャレンジをしてくれる企業はリスペクトするし、ゲーマーを馬鹿にするような開発・運営をしている企業は国内だろうと唾を吐いていくべきだろう。
むしろ外国企業がアニメカルチャーに親しみを持って、日本国内の風景を彷彿とさせるようなものを取り入れた架空世界を作っているなら、歓迎すべきとまでは言わないけど、面白がってやるべきだと思うね。創作にすぎんのだから。
相も変わらず中華というだけで拒絶反応を起こしている人はちったあ自省してみるべきだと思う。その偏狭なプライドが自分の品性を貶め、他人につまらない生き方・感じ方を強いていないかどうか。