はてなキーワード: 木々とは
運転免許証の住所変更に行ってきたら、警察署内で犯罪被害者遺族・交通事故被害者遺族の手記展みたいな小さなお手製の展示をやっていて、その赤裸々な中身と内容の生々しさに息が詰まった。
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中でも、小学生2年生の娘を下校中の事故で亡くした女性の方の手記の
「まだ手繋ぎ登校が終わった時期だったので、登下校を祖母と玄関で待っていた日だった」
「中々帰って来ないと祖母と2人で心配になる中、いつも曲がる交差点へと救急車が走っていった時の不安と、交差点に辿り着いた時に見えてしまった血塗れの救急車、顔の左半分がタイヤ痕の内出血で変色してしまった娘の姿がいまだに忘れられない」
「事故から何年経った今でも午後2時になると、扉の開く音と、ただいまと言う声が聞こえる気がして、気持ちが重くなってしまう」
「私達にはずっともう何もありません。生き地獄です。」
というくだりがあまりにもやるせなくて、胸が引き裂きれるような気持ちになった。
また他にも交通事故遺族の
「父を返して」「犯罪者ではなく人殺しそのものと感じています」「私たちから勝手に奪ったものを、勝手に同じように奪おうとして、何が悪いんですか?」
という深い憎悪と怨嗟に満ちた文章も展示されており、そこまでやるのかと食らってしまった
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展示にあたって、署内の人々や関係する人々のコメントも展示されていてそれも凄まじかった。
○自然災害の事故を担当した刑事の方の「ああ!あそこに!あそこにいます!みつけました!」と何もない木々を見て叫ぶ遺族の方に寄り添うことしかできなかったコメント
○遺族の救済として唯一できることは犯罪加害者を逮捕するとしかないと先輩刑事に説かれたエピソードを書いている刑事のコメント
などが掲載されていた。
また、その署の副署長の「遺族救済は一歩下がって二歩だけやっと進めるというようなことばかりだが、少しでも前に進むことが我々の抱えられた使命であり、意義そのものである。我々は下を向いてはいけない」といった力強い内容のコメントが書かれていた。
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「nasvaをもっと早く知れていれば……」というコメントが複数あり、自動車事故被害者遺族の救済などを目的とした独立行政法人 自動車事故対策支援機構という団体が存在することを初めて知った。
遺族支援だけでなく、自身の運転にも心配のある方への適性検査実施など、加害者をなくすためのドライバー側への支援制度も多く行われているようだった。
罪のない命を奪うことのないよう、時間のある時に利用してみたいと思った。
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自分も、(詳細は省くが)少年期にある事件を体験し、重いPTSDを患い、10数年かけて今ではそれがある程度寛解し社会生活が送れるようになった身だ。
展示の最後には、「犯罪被害に遭われた方や被害者遺族の皆様へ」というコーナーがあった。
テクノロジーや通信技術が発達した現在ではさまざまな手段での救済方法がいくつかあることを知った。
20年前にもこういうものがあればな……と悔しくもなりつつ、今こうして時代の進歩によって救われる人々がいるということを尊く感じた。
はい、どーも。
大型連休も終わり、気温も上がって、めだかの産卵が始まってしまいました。
取り急ぎ、令和7年度の飼育プランについてまとめていこうかと思います。
昨年は、シーズンの途中で自動給水装置の接続部に不具合が出て、8月の半ばからやる気がなくなってしまいました。破損したほうの養魚スペースを確認すると放置したわりにめだかが生きのこっていました。とりあえず回収完了です。
めだかの水替え排水を水耕栽培やプランターの水やりに活用できないものかと設備を改良中です。ただ水を撒くだけでなく、めだかで利用した水をその汚れ成分と合わせて活用したいです。
1 給水は2年前に作った自動給水システムの配管を変更して利用し、めだかのタライに給水し、その排水をプランターに流す。
2 タライの排水管は、底面まで伸ばし、底面の汚れやごみを排水できるようにタライを加工する。36L以上のタライに加工を行う。排水用の塩ビパイプは破損した給水用の塩ビパイプを再利用する。
今までは給水に関しては、設備をしてきましたが、排水についてはあまり関心がありませんでした。排水もエレガントに設備して水替えの負担を減らしていきたいところです。排水管の終端部には、簡易濾過装置をつけます。
昨年は棚にタライを4段載せて、水量の増加を図ったのでしたが、一部タライの上に小さな容器を載せたところがあり、水替えが疎かになってしまいました。これを防ぐために本年はタライonタライは避けていきたいところです。
有効幅111cmの棚を新造します。有効幅111cm。この寸法は各種タライを設置するのにあたり、最大公約数的な寸法です。NV-boxの#22を横に2つ置いたり、36cm幅のタライを3つ置いたりできます。90cmで不便だった点を改良していきます。また、タライonタライを避けるため、奥行きをゆったりとした45cmとして、それぞれのタライや容器の水面を確保します。
棚の構成の変更します。最下段をプランター系の小容器にして、水替え時の負担を軽減させます。
NV-box#13
NV-box#13
タライ36L
タライ80L
↓
NV-box#13
タライ80L
プランター
柿の木が枯れたりと庭の木々が作り出す日陰が少なくなってしまいました。仕方がないので人工的な日陰作れるようにめだか棚の工作と同時に日陰が作れるようにします。棚の規模ではなく、屋根付きの通路みたいになりそう。雨天時の作業もしやすくなりそうです。
最近休日になるとふらっと遠出することが多い。ぷち一人旅みたいな感じ。
今日も何となく思い立って、バックパックひとつでふらっと山に行ってきた。
別に登山がしたかったわけじゃない。休日ぐらいは人の少ないところを歩きたかっただけ。
しばらく山道を歩いていたら、ひょっこりと現れる蕎麦屋の看板。
えっ…こんなところに?と思わず声に出そうになる
せっかくだし、寄ってみることにした。
木立の間を抜けると…本当にあった。
ガラガラと引き戸を開けると、鈴が軽く鳴った。中は静かで、木の匂いと出汁の香りが混ざり合ってる。
いらっしゃいませ、と奥から出てきたのは年配の女。にこやかに挨拶してくれた。
メニューは一つだけ。なのでそれを注文。
ふぅと席に腰を下ろすと他に客は無し。でも居心地は悪くない。
箸を取る。一口すすると……うまっ。
カリッと音を立てそうな表面で、箸でひとかけらを割った瞬間、揚げたての香ばしさがふっと立った。
鼻の奥がざわついた。
さくりとひと口。口の中でパリパリという衣の崩れる音が広がり、直後に玉ねぎの甘さと海老の香りがじゅわっとあふれ出る。
たまらんかった。
どれもが一級品。
……やばいなこれ。腹が減っていたこともあるだろう。マジで箸が止まらんかった。
食後の蕎麦湯、しみるように優しかった。何もかもがちょうどいい。
静かで、落ち着く。
そして思い出した。
午後の光が山肌に柔らかく差していた。
たぶん…というか、絶対また来るわ。
そうつぶやいて、そのときのつぶやきを思い出しながら、これを書く。
もうしばらくは、嵌りそうだ。
大阪市民、夢洲まで電車で往復1000円以内で行けるので通期パスを買ってみた。
これまで2回万博にパビリオン予約なしで行って(なんせ前日に行くのを決めてるから)場内をあてもなく歩いたり空いてるパビリオンに行ったりが楽しい。
例えばフランスパビリオンは回転早いので20分くらい並んだら入れたので予約しなくても色々見ることができる。
通期パスのいいところは今日これ以上並びたくないから次回でいいやができること。次回でいいやが気軽にできるのがとにかくありがたく、私は夜までいるつもりが寒くなったからというだけで帰った。
歩いてたらかっこよすぎる建物があったりパビリオンの前で突然舞踊が始まったりきれいな木々があったり家の近所を散歩してると見ることのない景色で歩くだけでも楽しい。あとベンチがたくさんある。ありがたい。近所の散歩だと疲れたーって思っても座れる場所そんなにないし。
次の週末も行くし、イベントの予約もした!友だちとも行く。夜の風景がきれいで仕事後にも気軽に行きたい。
ちなみに通期パスは上限3回迄入場チケットを予約できて1回分消化したらまた1回予約できる感じ。あらかじめ行く予定を決めてパビリオン事前予約分に1〜2回分、突然行きたくなった時用に1回分で運用していこうかと思ってる。
朝から霧が出とった。白い靄が山の斜面を這うように流れとって、空気はぴんと張りつめとる。ゴミーも今日はやけに静かで、ワイの肩に乗ったまま、羽一枚動かさへん。そんな中、昨日見つけたスカーフの道筋をたどって、さらに山奥へ踏み込んでいった。
そして――見つけたんや。
谷を見下ろす崖の縁で、木々の間に開けた小さな空き地。その中央に、ぽつんと立ってた。フェミちゃんが。
叫んで駆け寄ろうとしたけど、足が止まった。
何か、おかしい。
姿形は間違いなくフェミちゃんなんやけど、背筋がぴんと伸びすぎてる。まるで糸で吊られてるみたいに、無駄のない姿勢。風が吹いても、髪一本も揺れん。ワイが近づいても、振り返らへん。ただ前を向いたまま、じっと谷の向こうを見とる。
「フェミちゃん……ワイや、戻ってきたで。おまえを探しに来たんや」
近くまで来てようやく、彼女がゆっくりと顔だけこちらへ向けた。その動きが、まるで機械じみていて、背筋が寒くなった。
「……ワイ?」
声も、どこか違う。響きは確かにフェミちゃんのものやけど、音の裏にうっすらと金属のような響きが重なっていた。無機質で、遠い。
フェミちゃんは数秒黙ったまま、ワイをじっと見た。そして、唐突に言うた。
「こっちの世界に、慣れすぎたのかもしれん」
それだけ言って、また前を向いた。
ゴミーが小さく「ぷぴ」と鳴いて、ワイの耳元で羽を震わせた。ワイは反射的に、スーリヤの針に手をやった。まだ確証はないけど、今目の前におるフェミちゃんは、何かが――決定的に――違う気がする。
けど、見捨てるわけにはいかん。あの谷の向こうに、何かがあるんやで。
昨日の屈辱を引きずったまま、今日も朝から山道を歩いた。ズボンは替えてきた。ゴミーは何も言わんが、あの小さな目にちょっとした哀れみの色がある気がする。けど、ええねん。今日は、昨日の続きや。フェミちゃんを追わなあかん。
朝露に濡れた獣道を進んでいくと、雑木林の中に、不自然に何かが引っかかっとるのが見えた。低木の枝に、ひらりと揺れてる――それは、見覚えのあるスカーフやった。薄い灰色に、ところどころ刺繍が入ったやつ。あれはフェミちゃんがパラダシアで買うて、ずっと大事にしてたもんや。
ワイが手に取ると、ゴミーがぴょこっと寄ってきて、スカーフの端をちょいとつついた。ふわっと鼻先に残った微かな香り――あの独特の香油の匂い。間違いなく、ここを通ったんや。しかも比較的最近。スカーフの湿り具合からして、昨晩から今朝にかけてのどこかやろう。
「ゴミー、見とるか……これは足取りの証拠や。ようやく、フェミちゃんの影を踏めた気がするわ」
ゴミーは真剣な顔をして、木々の隙間から続く道らしき獣の踏み跡を指さすように飛び上がった。ほんまに賢い生き物や。こんな小さな仲間に支えられてるのが、不思議でありがたい。
ワイはスカーフを懐に入れて、足音を殺してその先へと進んだ。山道の空気は澄んでいて、木漏れ日が斜めに差し込んでいる。けれど、その穏やかさの下に何が潜んどるかはわからん。
次の曲がり角の先に、何かがある気がするんやで。
僕が高校2年生のとき、クラスには二人のぼっちがいました。僕とエム君です。
僕は始業式の日から、エム君に仲間の匂いを感じ取ってはいましたが、話しかける勇気はなかなか出ませんでした。エム君の方もそのようでした。
そんな絶妙な距離感のまま2学期を迎えると、サッカー部のワイ君が、毎朝、僕とエム君に対して「おはよう」と挨拶をするようになりました。
人に挨拶されるなんていつぶりでしょうか。僕ら二人はそれぞれの席でちょっと驚きました。しかも、相手がワイ君です。
ワイ君は陽キャ中の陽キャ、カースト上位で正直僕らみたいなのをバカにする側にいる人だったので、僕はからかわれているのだと思い無視し続けました。エム君もそのようでした。
僕は1週間も経てば止むだろうと思っていましたが、いつになってもワイ君の挨拶は止まりませんでした。
そして木々の葉っぱが色づき始めた頃、ついにエム君が挨拶を返すようになりました。僕は「あーあ、引っかかったな。向こう1ヶ月は笑いものにされるよ、こいつ。」と思うと同時に、なにか裏切られたような気分になりました。もちろん、僕への挨拶も続きましたが、無視し続けました。
次第に、エム君はワイ君との会話が弾むようになっていきました。そのつながりで新しい友だちも出来たようでした。僕の予想、いや期待は外れたのです。
しかし、その様子を見ても、僕は挨拶を返しませんでしたし、「あれを返そうもんなら、陽キャに利用されるようになるだけだ、パシリにされるんだ。」とさえ思っていました。
結局、街がクリスマスモードになった頃には僕への挨拶は止みました。
僅かな寂しさを覚えた朝のホームルーム前、教室はあるグループの楽しそうな声で満ちていました。パーティの予定を立てているようです。その中には、エム君の声もありました。
楽しそうでした。
僕は寝たふりをしながら、ただ、それを聞いていました。
むかしむかし、北の空の片すみに、「みこち」という名のとてもふとった子どもがいました。
みこちはまるでまんまるなお月さまのように、ころころころがりながら村を歩いて、
朝も昼も夜も、あまいお菓子とふかふかのパンばかり食べていました。
そう言って、みこちは誰にも迷惑をかけず、ただ、よく笑い、よく眠る子でした。
けれどある日、夜の空から、ながくのびた鼻毛をひらひらとなびかせながら、
一つのすいせいがすーっと落ちてきました。
どこまでもうすぐらい宇宙のむこうから、においと風と静電気をまとって飛んできたのです。
「この地球には、ふとっちょの心を食べる甘いにおいがある……」
ハナゲトルネードはそう言って、まっすぐみこちの町へと落ちました。
川はあぶくをふいて止まり、
パン屋の前には、こんがりやけたクロワッサンが、鼻毛にからめとられて浮かんでいました。
みこちはびっくりして、はじめてパンを食べない朝をむかえました。
そのとき、空のすみで、すいせいがまた光りました。
すると、みこちのおなかから、ふわりとあたたかな光が立ちのぼり、
鼻毛たちはしゅるるるっとほどけて、夜空にのぼっていきました。
そして、みこちは――
少しだけやせて、でも、もっとやさしい子になっていました。
笑顔は前よりずっとすてきで、
村の人たちは、「みこちがいるだけで春みたいだ」と言うようになりました。
すこしさびしそうに、とおくとおくへ帰っていきました。
おしまい。
毎朝、5分でも静かに坐る時間を持ちましょう。ただ姿勢を正し、呼吸に意識を向けるだけで良いのです。思考が浮かんでも、それをただ「思考」と気づき、また呼吸に戻ります。
例えば、歯を磨く、茶を淹れる、掃除をする。どれも「今ここ」に意識を置く修行の機会です。その動作の感触、音、香りに意識を向けてみましょう。
歩くときに、足が地面に触れる感覚、風や空気の流れ、身体の動きに意識を向けます。スマートフォンを手放し、沈黙の中で歩く時間を日常に取り入れてみてください。
禅では、「何もしない時間」こそが最も豊かな時間です。予定と予定の間に、ただ座って呼吸する数分を入れてみましょう。忙しさの中にこそ、静けさを持ち帰る道があります。
自然は最高の禅の師です。木々のざわめき、風の流れ、雲の動きをただ感じることで、心は静まり、自己へのとらわれが薄れていきます。
食事の前に手を合わせ、「いただきます」と唱える習慣は、命のつながりに気づく禅の実践でもあります。小さなことに感謝する心が、煩悩を静めてくれます。
「すべては移ろいゆくものであり、固定した実体はない」との理解を日常に持つこと。喜びや悲しみも、雲のように現れては消えていきます。
自然は、語らずとも語る。空のひかり、木々のざわめき、川のささやき。あらゆる場所に息づいているその存在は、人の目を見つめずに、しかし人を生かしている。
空気は、木々のくれる贈りものである。目に見えぬ酸素を、当たりまえのようにわたしたちは受けとり、日々の呼吸をくりかえす。その静かな循環のなかで、気づかぬうちに自然に守られている。
一匹のハチが、ひとつの花にふれ、やがて果実が実る。そんな小さな営みにも、世界の秩序がある。虫も鳥も、森の奥のけものたちも、すべてが一つの調和をつむいでいる。
自然は、心にも語りかける。森を歩けば、思考はしずまり、海を見れば、胸の波はおさまる。木漏れ日のしたにすわり、風のうたを聞くとき、人はようやく自分の輪郭を思い出すのかもしれない。
だが、今、この美しさは音もなく失われてゆく。森はきられ、川はにごり、生きものたちは声をひそめている。人が手に入れたものと引きかえに、失いつつあるものの重みは、計り知れない。
それでも、まだ遅くはない。自然は、敵ではない。わたしたちの内にひそむ、忘れかけた原風景である。敬い、まもり、ともに生きていくことが、ほんとうの豊かさを呼びもどす。
ああ、ハンバーグよ。
鉄板の上でジュウジュウと、それはまるで小さな太陽が燃えているようだ。
その熱は、肉汁という琥珀色の雫を湧き上がらせ、あたり一面に香ばしい匂いを撒き散らす。
箸を入れると、ふっくらとしたその身は、まるで春の土のように柔らかく、じんわりと温かい。
口に運べば、粗挽きの牛肉の、力強いながらも優しい味が、舌の上で広がり、鼻腔をくすぐる。
それは、渡良瀬川の清らかな流れのようであり、那須の懐かしい木々の香りのようでもある。
デミグラスソースの、深く、そして滋味深い味わいは、まるで肥沃な大地そのものだ。
一口ごとに、大地の恵みと、作り手の真心が、じんわりと心に染み渡る。
それは、単なる肉の塊ではない。
スケジュールや撮影場所の制限の都合なのか早朝の時間帯に撮影したと思われるシーンがときどきある。
明らかに太陽の位置が低く影が長く伸びてしまっているので、日の出とともに撮影しているのだろうなというのが何となく分かる。
【追記】
皆さん反応ありがとうございます。
言葉足らずだったのですが、正確には「早朝に撮影された"劇中では明らかに早朝ではない(もしくは早朝である必然性がない)シーン"」が好きなのです。
上記の例だと、
・ストリートカフェ : 早朝から街中のカフェって徹夜明けか?それにしても開店するのが早すぎる
・地域のお祭り : 人出が増えて盛り上がり始めるのは普通は昼くらいからでは?みんな昨晩興奮して眠れなくて朝から全力で楽しんでるのかな?
・戦隊・ライダー : 都心から離れた場所で戦うことが多いんだから午後イチくらいのアポの方が都合が良いのでは?それとも真夏だと熱中症対策で早朝なのかな?(スタッフや演者ではなく、戦隊・ライダー・怪人が、です)
みたいな感じで劇中の状況と実際の状況がかみ合っておらずチグハグでツッコミどころがある(と私は思っている)のがジワジワくるので好き、という感じです。
そういう意味だとブラタモリは、前日入り→翌日早朝から一日ロして当日中に帰京する、と考えれば不自然なスケジュールではないので番組自体は好きですが上記の好きには該当しません。
仮面ライダー龍騎といえば、映画(EPISODE FINAL)では「劇中は真冬だが撮影は春~初夏」という事情により、演者はニットやダウンなどで防寒完璧なのに背景の木々は青々とした葉が茂っていてクソ暑そうである、という状況がチグハグなので同様に好きです。
初めて北京旅行に行ったら必ず訪れるであろう天安門広場と故宮。もちろん今回の旅のメインである。どちらも人数制限あり、前日までの予約必須ということで、行き当たりばったりの計画では中に入ることができない。基本的に北京の観光地は中国人向けであり、外国人にとって予約の難易度が高くなっていると思う。そりゃ、10億人以上も国民がいるので国内需要だけでものすごいわけですよ。
ガイドブック等を見ても、個人での予約は難しい。現地ツアーか代理店に頼むべし、みたいなことが書いてあることが多いが、増田は事前準備を進める中で、個人でも大丈夫だな、と判断し代理店等は使わずに予約完了できた。3月中旬は旅行の閑散期だったから出来た話かもしれないが、個人で対応するのが好きな方は参考にしてもらえれば。
・観光地
・食事
・四季民福
・鳳臨閣(大同市)
・東来順
・很久以前羊肉串
・京兆尹
まずは予約編。他の観光施設と同じようにWeChatのミニプログラムから天安門広場を検索、起動して予約する。天安門広場の入場は無料だが、時間帯別(日の出、午前、午後、日没〜夜間の4つ)があり、それぞれでチケット枚数の上限があり、前日までに予約が必要。また、1回の予約は大人4名(6歳未満を含めた場合7名)までしかできない。そして1台のスマホで同じ日時の重複予約はできない仕様。今回の増田一行は7名なので、増田夫婦で4名+3名でそれぞれ予約しないといけなかった。天安門広場は毎日、日の出と国旗掲揚をして、日没で降旗する儀式をやっているので、それを見たい人向けの予約時間帯がある。増田は午前枠で予約したが興味があれば試してみて。
天安門広場や故宮周辺はタクシーの乗降が制限されているエリアで、DiDiを使ってもここまで来れないので、地下鉄を使うのが一般的。天安門広場の入口は4箇所あり、増田一行は地下鉄1号線の天安門東駅から入場した。9時ぐらいの到着だったが、地下鉄駅からすでにすごい人だかりができている。天安門広場へ向かう人のほか、故宮へ直接行く人、天安門広場横の国家博物館へ行く人で溢れている。列を間違えないように天安門広場へ入るセキュリティチェックのゲートへ並ぶが、ここでトラブルが発生。WeChatのミニプログラムを開くと、増田が手続きした4名分の予約がごっそりと消えていた。予約完了後にスクリーンショットを取ってあったので、予約したのは間違いないのだが、消えた原因はさっぱりわからない。また、増田妻が予約した3名分は問題なかった。セキュリティチェック前の入場券確認でやっぱり引っかかり、スクリーンショットを見せてもやはり通してもらえず、英語で一生懸命説明するが、係員も英語できないので5分ほどここで停滞。老人がいて7名中3名のチケットはあるので最後には、しょうがねーなー、という感じで通してもらった。係員さん、ありがとう。
天安門広場は南北に広い広場になっている。北側に国旗、真ん中に人民英雄紀念碑、南側に毛主席記念堂がある。道路を挟んで北側に、毛沢東の肖像画が飾られた天安門が見える。その広さに圧倒されるとともに、どうしても天安門事件を考えてしまい、当時の学生デモの状況や戦車による鎮圧などテレビで見た風景が脳裏に蘇ってくる。広場自体は見学するところも特にないので、記念撮影などをそこそこにして北側にある故宮へ向かう。
北京観光のメインディッシュ。これまたとてつもなく広いので、ずっと歩き回らないいけない。今回は春で天気も良かったので過ごしやすかったが、真夏、真冬は大変だろうなと思う。事前に映画「ラストエンペラー」とか日本でも放映されている中国の宮廷ドラマなどを見て予習すると更に楽しめると思う。
まずは予約編。ガイドブックでは中国の電話番号がないと予約できないとか、予約可能枠は瞬殺で無くなるので、個人での予約は難しいようなことが書いてあり、当初はVeltraなどのツアーサイトから予約しようと思っていたが、準備編に書いたように中国の電話番号を手に入れて、WeChatの故宮のミニプログラムで予約の仕組みや連日の予約状況を調べて行くにつれて、これは個人予約でも大丈夫そうだなと判断した。7日前から予約可能で、午前・午後枠を選ぶ。午前枠でも出る時間は午後でも構わないが、12時までに入場しないといけないので注意。午後枠は11時から入場できる。入場料は一般20元、老人(60歳以上)10元、幼児枠はあるが未成年の割引はなかった。その他オプションで鐘表館、珍宝館の入場券(それぞれ10元、老人半額)が選択できる。機会損失の無いよう買っておいたが、鐘表館は入らなくてもいいかなと思う。珍宝館のチケットは、九龍壁など通常券では見れないエリアがあるので買う価値があると思う。
1回の予約で5人分までしか予約できないが、複数購入ができるので2回に分けて購入した。予約にはもちろん全員分のパスポート情報が必要で、最後に電話番号の入力がある。ここで日本の携帯電話番号を入れると弾かれて購入できない。増田は中国の電話番号を取得済みなので、無事に予約完了となった。ただ、SMS受信をしてアクティベーションするわけでもなさそうなので、中国の電話番号の法則を調べてダミーの電話番号を入れて購入する裏技があるみたいな情報も見かけた。(何があるか分からないのでおすすめはしない)
さて、いよいよ入場であるが、天安門広場から地下を通って天安門城楼をくぐって故宮の入口まで歩くのだが、入口につくまでが長い。感覚としては7〜800mぐらい歩く感じだ。そして入場の列に並ぶのだが、これまた長蛇の列になっていて、並んでから入場まで20分ぐらいはかかったと思う。大同古城編でも書いたが、清朝の着物のコスプレサービスを提供する店が多数あり、故宮見学の人の中にも多数の皇帝、皇后の衣装をまとった人たちがいた。日本語を話しているコスプレの人もいたので、興味があれば調べてチャレンジして欲しい。いつものようにセキュリティチェックとパスポート読み取りをしてようやく入場。隣の列にいた西洋人カップルは女性の方だけがパスポートチェックが通らずに止められていた。こういう場合どうなるんだろう?と心配になった。
そして故宮の中も広い!広い!広い!入場までにも天安門、端門、午門と3つの大きな門を抜けているが、さらに太和門を抜けて、ようやく皇帝の執務室?である太和殿に着く。でもこれまでは前半部分でしかなく、後宮である居室はもっと奥にある。太和殿の左右のエリアにも、それぞれ見どころはあるのだが、全部見るには体力がものすごく要るので、今回はメインどころしか見ていない。旅行前にドラマや映画で予習をしておけば、もっとこだわりの見学ができるかもしれない。
太和殿を過ぎたあたりでお昼の時間になり、疲れてきたところでもあるので昼食を探す。故宮内にはいくつか故宮餐庁と呼ばれるレストランがある。日本だったらこのような観光地のレストランは1〜2時間待ちになりそうなものだが、中国人は食事を持ってきているのか、行列はできているが、ちょっと待てば入れそうな雰囲気だった。増田一行はベンチが確保できて休んでいたのでレストランには行かずに売店でホットドック(爆汁熱狗棒)4本とサンドイッチ(かなり本格的で美味しかった)3セットを買って食べた。合計170元、観光地価格ではあるが、十分な量があり満足した。
昼食後にオプションの鐘表館と珍宝館を見学する。鐘表館は清朝時代の時計が展示されており、前半はフランスやイギリスから献上?されたものが展示され、後半は中国国内で制作されたものがあった。10分も見れば十分かなあと思うので、特別な思い入れがなければパスしても構わないと思う。珍宝館は太和殿から見て東側のエリアにある。その名の通り、中国の秘宝を展示しているのだが、貴重なもの(翠玉白菜とか)は蒋介石が台湾に持っていってしまったので、そんなに有名なものはないと思う。(増田が知らないだけかもだが)ただ、このエリアには九龍壁などがあるので展示物は見なくてもオプション料金払う価値はあると思う。ご参考まで。
東側の珍宝館エリアから後宮方面に移動するが、この時点がかなり歩き疲れている。後宮エリアは中央に皇帝の居室である乾清宮があり、その東西に東六宮、西六宮と呼ばれる后たちの館がある。「宮廷の諍い女」などの中国宮廷ドラマを見ている人であれば、きっと楽しめる要素がふんだんにあるのだと思うが、増田一行はドラマを見ていないのと足の疲れがピークに達してきたので、東西六宮は完全に無視して中央部のみを見学しながら出口に向かった。皇后の寝殿である坤寧宮を越えると今までは見ることのなかった木々が多数生えているエリアに入り、最後に延和門をくぐって出口を出る。中国人はどこでもタバコを吸うが、故宮の内部は禁煙なので出口の広場でタバコを吸い出す人が多く、もくもくしている。
故宮の北側には景山公園という築山があり、ここに登れば故宮を見渡すことができるようだが、思ったよりも高く、疲れた足に鞭打って登る気にはならず、またこの後にホテルの移動があるので、そのままDiDiに乗ってホテルへ戻ることにした。ただし、故宮出口付近はタクシー乗降の禁止エリアになっていてDiDiの配車も出来ないので、禁止エリアを出るために500mぐらい歩くことになった。故宮出口の北側の道路は、北京の他の観光地に向かうシャトルバスの乗り場があり、中国人はバスに乗って移動しているようだったが、仕組みが分からないので手を出していない。DiDiでホテルに戻り今日の観光は完了。今日もたくさん歩いた。義母の歩数計によると15,000歩だったそう。
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座禅に「目的を持ってはいけない」と言われるのは、執着や欲望を手放すためです。しかし、「目的がなければ座禅をしないのでは?」という問いもまた、真理の探求者として自然な考えでしょう。
ここで考えてみましょう。もし座禅を「何かを得るための手段」としてしまうと、それは取引のようになってしまいます。「悟りを得たい」「心を落ち着けたい」「ストレスを減らしたい」といった目的は、一見よいもののように見えますが、これらに執着すると、それが達成されないときに苦しみになります。仏教では、こうした執着こそが「苦(dukkha)」の原因であると説きます。
しかし、だからといって「座禅をする動機が不要」というわけではありません。最初は「心を静めたい」「悟りを開きたい」という動機で始めてもよいのです。しかし、座禅を続けていく中で、そのような「目的」への執着が自然と手放され、ただ「坐ること」がそのまま完全な行為となる境地へと導かれます。
たとえば、風が吹いて木の葉が揺れるとき、その木の葉は「揺れよう」と考えているわけではありません。ただ、風に身を任せています。同じように、座禅も「目的があるから座る」のではなく、「ただ座る」という行為そのものが、そのままで完全なのです。
矛盾があるように思えるのは、「目的を持たなければ行動できない」という考えが強いからでしょう。しかし、座禅の真髄は、「ただこの瞬間にあること」です。それに気づいたとき、座禅は「何かを得る手段」ではなく、「ただ坐ること」そのものが十分であることに気づくでしょう。
まずは、どのような動機であれ、坐ってみてください。そして、その動機さえも手放し、ただ「今ここにある」ことを味わってみましょう。
「ただ座ること」を目的にするならば、それもまた一つの目的ではないか?という問いは、座禅の本質を深く考えさせるものです。
ここで、「目的」とは何かを考えてみましょう。一般的に「目的」とは、未来のある目標を達成するための意図や動機を指します。しかし、座禅の本質は、「今ここ」に完全にあることです。それは未来の何かを求める行為ではなく、ただ「今、この瞬間」にあることに気づくことなのです。
もし「ただ座ること」が「何かを達成するための目的」になっているならば、それはまだ何かを求める心が残っています。しかし、本当に深く坐ると、「座ること」はもはや手段でも目的でもなくなります。ただ、坐る。そこには「何かを得よう」とする意図も、「座ることで何かになろう」とする期待もありません。ただ、風が吹けば木々が揺れるように、心が静かになれば、ただ座るのです。
この問いは理論ではなく、実践の中でしか答えが見つかりません。ですから、「目的があるのでは?」と考えながらも、まずは座り、そしてその問いすら手放してみるのです。そのとき、言葉では表せない「ただある」という感覚に気づくでしょう。
合掌 🙏
昔、まだ世界が言葉のない静けさに包まれていた頃、人々の心はひとつの大きな森のように広がっていた。
風は囁き、木々はうなずき、すべてが静かな調和の中に生きていた。だが、ある日、ひとしずくの疑念が空に浮かぶと、それはまるで星が落ちたかのように、すべてを震わせ始めた。
人々はそのひとしずくを見つけ、疑いの霧に包まれてしまった。誰かが言う、あの者は不安定だ、怪しげだ、遠くの山の陰に隠された何かがあるかもしれないと。
しかし、あれほど澄んだ月の光が照らし出すように、真実はすぐそばにあり、すぐには見えないだけだと知る者は少なかった。
そして、神々は静かに語り始めた。
もしも疑うことができるのなら、信じる力も持っているはずだと。
闇に包まれた世界の中で、ただひとすじの光を信じる者は、最も強い力を持つのだと。
それを聞いた者たちは、疑いの声を止め、そっと心の中で言った。
「もしも、この者が本当に闇に隠れているのなら、私はその光を待ち続ける」
信じること、それはただの行動ではなく、希望の火を灯すこと。
エルダは、ナッキが死んだ瞬間を今でも忘れられない。あの闘技場の血塗られた砂の上で、彼の命があっさりと奪われた。首を切られた瞬間、ナッキは一言も発せずに倒れ、視界から消えていった。その時の冷徹な感覚、そして自分の中に湧き上がった怒りと無力感は、今も消えずにエルダの心を締め付けている。
あれから数日後、エルダはナッキの代わりに新たな相棒を選ぶことに決めた。その相棒こそが、ジョー・ガラだった。女性剣闘士として珍しい存在であり、さらに彼女がナッキを倒した戦士であるという事実は、エルダにとって複雑な感情を呼び起こした。
だが、戦場ではそれが全てだ。過去を引きずっていても何も変わらない。エルダは覚悟を決めて、ジョーに声をかけた。
「来週の魔獣狩り、一緒に行くか?」
ジョーは短く、無表情で答える。
「勝てばいいんだろ。」
その言葉には、冷徹で無駄のない意志が宿っていた。だが、それだけではなかった。エルダは感じ取っていた、彼女の内側に隠された痛みを。ジョーの冷徹さは、戦場での自分を守るためだけではない。誰にも頼らず、決して心を開かないようにしている自分を守るためだった。
二人は次第に戦闘の準備を進めた。魔獣狩りの舞台は、都市の外れにある古代の森の中だった。このイベントは単なる狩りではない。観客が集い、興行として扱われる。まるで見世物のように、魔獣を仕留めるために選ばれた闘士たちが、その腕前を披露する場となるのだ。街の賑やかな市場で、観客たちは期待と興奮を抱えて集まり、金銭を投じて席を確保する。高価な席に座る者たちは、豪華な服を身にまとい、野次を飛ばすためにやって来る。
その空気は重く、ひんやりとした霧に包まれており、時折木々の間から魔獣の低い唸り声が響いてきた。エルダは装備を整えながら、ジョーに問いかけた。
「アレ、どう思った?」
「勝ててよかった。それだけだ。」
エルダはその言葉に何かを感じた。冷徹であろうとする彼女の背後に、誰にも言えない過去の傷があることを。エルダは無理にその話題を深く追うことはなかったが、ふと、ジョーが自分と似ていることに気づく。自分の過去を切り離して生きることが、どれほど難しいことか、彼女もよく分かっているはずだ。
その夜、二人は森へ向けて出発した。闇が深まり、薄明かりの中で魔獣の息づかいが間近に感じられた。エルダは無言で歩きながら、自分に問う。
『何を探しているんだ?』
戦いの中で勝ち続けること、それだけが自分の存在証明だった。だが、この先、どれだけ勝ち続けても、ナッキの死は消えない。
森に足を踏み入れると、冷たい霧の中に巨大な影がちらつく。魔獣の気配が増す中、エルダは剣を抜き、前方を睨みつけた。ジョーも同様に、矢を構え、静かに息を潜める。二人の呼吸が一致し、まるで一体となったかのように動き出す。
観客たちが遠くでざわめいているのが聞こえる。彼らの目は、次に登場する魔獣と、それを迎え撃つ闘士たちに注がれていた。賭けが行われ、金銭がやり取りされ、観客たちの期待は高まっていた。魔獣の命は、ただの娯楽となり、命のやり取りがゲームとなってしまう。エルダはそのことを承知の上で、ただ無駄に死なないように戦うしかないと自分に言い聞かせていた。
突然、巨大な獣が霧の中から現れた。鋭い爪と牙が光を反射し、まるで幽霊のように不気味に迫ってくる。その目は赤く輝き、怒りに満ちていた。
「来たか。」
エルダは冷静に言った。その言葉には、今までの戦いのすべてが詰まっている。
魔獣は唸り声を上げて襲いかかってきた。その瞬間、エルダとジョーは一緒に動き出した。エルダは前に飛び込むように剣を振るい、魔獣の爪をかわしながらその腹部に一撃を加えた。ジョーは素早く後ろから矢を放ち、魔獣の首元を狙った。
魔獣は痛みにうめきながらも猛然と反撃してきた。その鋭い爪がエルダの鎧に引っかかり、わずかな隙間から血が流れ落ちる。エルダは歯を食いしばりながら、その隙間に剣を突き立てた。ジョーの矢が再び魔獣の目を貫く。魔獣は大きく身を震わせ、地面に倒れ込んだ。
「やったな。」
エルダは息をつきながらジョーを見た。
ジョーは無言で矢を抜き、もう一度振り返る。その目には、ほんの一瞬、安堵の色が浮かんだが、すぐに冷徹な表情に戻る。
「次も勝つだけだ。」
エルダは少しだけその目を見つめた後、静かに頷いた。戦いが終わった後も、二人にはそれぞれの闇がついて回る。それでも、戦場ではそれを背負っていかなければならない。それが、彼らの運命だからだ。
むかしむかし、遥か東の海に浮かぶと伝えられる幻の島、蓬莱。そこには、神々が人々に授けたとされる不老不死の秘宝――「玉の枝」が存在すると語り継がれていました。幾多の冒険者や賢者たちが、その実を求めて数々の困難に立ち向かい、永遠の命への夢を追い求めたというのです。
現代のとある小さな町に暮らす青年、拓海もまた、幼い頃に祖母から聞いたこの伝説に心を奪われていました。日々の忙しさに流されながらも、彼はふとした瞬間に「本当の宝」とは何かを考え、誰もが見逃しがちな小さな奇跡に気付くことの大切さを夢見ていたのです。
ある晴れた日のこと、拓海は都会の喧騒を離れ、静かな田舎の風景を求めて足を運びました。目的は、偶然にも祖母の話に出てきた古い果樹園。そこには、伝説の一端を垣間見るかのような、どこか神秘的な輝きを放つ木々が立ち並んでいました。風に揺れる枝先に、まるで宝石のような実がたわわに実っているのを見たとき、拓海の心は高鳴りました。
手に取ったのは、みずみずしい緑色に輝く房。包み込むような甘い香りと、口に含んだ瞬間に広がる優しい甘味。その正体は、他ならぬ―シャインマスカットでした。驚きとともに、拓海は悟りました。何世紀にもわたって語り継がれた「蓬莱の玉の枝」とは、決して遥かなる神話の産物ではなく、私たちの日常に息づく、自然が織りなす小さな奇跡だったのです。
この発見は、拓海に大切な真実を教えてくれました。人は永遠や不老不死という幻想を追い求めるあまり、目の前にあるかすかな輝きを見失いがちです。しかし、実際のところ、日々の暮らしの中にこそ、本当の宝は隠されているのです。シャインマスカットのひと房に込められた瑞々しさと甘美な味わいは、まるで「今ここに生きる」ことの尊さを物語っているかのようでした。
こうして、拓海は故郷へと戻り、かつての伝説が持つ本来の意味――日常の中の美しさや小さな喜びを大切にすること――を胸に刻むようになりました。人々は皆、遠い夢や大いなる奇跡を追い求めるものですが、もしかすると、最も輝く宝は、私たちのすぐそばに、シャインマスカットのように静かに実っているのかもしれません。
https://anond.hatelabo.jp/20250128103158
続き
最初は「可愛い子犬が来た」と喜んでいた母は、家具を噛られ続けた末に「餌だけあげておくわ」と距離を置くようになった。
兄の撤退は早かった。飼い始めてわずか10日、お気に入りの革靴を噛み千切られたのを最後に、二度とかみつきに近寄ることはなかった。たまに実家に帰省しても、「あいつまだ噛むの?」と遠巻きに見るだけだった。獣医も「こんなに噛みつく事に必死なのはよくわからない、何故・・・」と太鼓判でした。
結局、世話を続けたのは飼おうと言い出した私と、なぜか最後まで諦めなかった父だけ。
父は「こんなに一生懸命な犬も珍しい」と、どこか感心したように言っていた。確かに、何かに打ち込み続けるその姿勢は、父の気質に似ていたのかもしれない。
噛み跡だらけの壁、噛み跡の刻まれた塀、かじられた木々、傷だらけの家具、噛み痕の走るドア。
散歩道も噛み跡だらけだ。バス停、ガードレール、カーブミラー、電柱・・・。
誰からも愛でられることなく、ただひたすら噛み続けた彼は、確かにこの世界に自分の存在を刻み込んでいった。
まるで、「私はここにいた」と言い残すように。
最近、英語教室に通ってるのだけどイギリス人の先生から会話に主語が抜けていることを何度も指摘され、後で気になってChatGPTに壁打ちしたら面白い文章が導けた。
先生はきっちりしたイギリス英語を教えてくれる人で来日当時に日本人が頻繁に主語を省いて話すのですごく困ったそう。
授業中にその理由について先生と雑談レベルで考察していて、自分は日本語では名指しをすることがどこか失礼に感じてしまう、またはアミニズムの影響があるのでは?と何となく伝えたんだけどChatGPTが自分が思ってたようなことをうまく言語化してきたのでそのやりとりをここに放流します。
日本語は「文脈依存性」が非常に高い言語です。会話の中では、誰が話しているのか、何について話しているのかが文脈や状況から自然に理解されるため、主語を省略しても意味が通じやすいです。たとえば、「食べました」とだけ言っても、「誰が食べたのか」は話し手や状況次第で分かります。
日本文化では、明確に言い切るよりも、あいまいさや相手に察してもらうことが重視されることがあります。このため、主語をはっきり言わない方が柔らかく、礼儀正しい印象を与える場合もあります。
日本語には敬語があり、相手を尊重する表現が重要です。このため、自分を主語にした「私が~」という言い方を控え、相手や行為そのものに焦点を当てる傾向があります。
日本語では、主語がなくても動詞だけで文が成り立ちます。例えば「行きます」と言えば「誰が行くのか」が文脈から判断できるため、主語を必ずしも明示する必要がありません。
英語は文法的に「主語+動詞」の構造が基本で、文脈だけでは意味が通じない場合が多いため、主語を省略することができません。たとえば、「I ate」と言わなければ、誰が食べたのかが伝わりません。
主語を省略する日本語と、省略できない英語。この違いを意識して英語を学ぶと、日本語とは異なる言語の構造に慣れる助けになるかもしれませんね!
その通りだと思います。
アニミズムの影響を考えるのは非常に興味深い視点です!確かに、アニミズム(万物に霊魂が宿るという考え)は日本の文化や言語に深く根付いており、主語の省略や曖昧さに影響を与えている可能性があります。
人間中心でない視点 アニミズム的な世界観では、自然や物体、現象すべてが生命や意志を持つと考えます。そのため、日本語の表現でも「人間中心」の主語を明示しない傾向があります。たとえば、「雨が降る」という表現には、雨そのものが主語となり、「自然が自律的に動いている」という感覚が含まれます。
一方で、英語では「It is raining」という表現が使われ、「it」という形式主語を明示します。これには、英語が明確な主語を必要とするという文法ルールが関わっていますが、日本語にはこうした「形式主語」の必要性が薄いのです。
行為そのものへの焦点 アニミズム的な考え方では、「誰が行ったか」よりも「何が起こったか」や「どういう状況か」が重要です。たとえば、「花が咲いた」や「風が吹いた」という表現では、主語は自然現象や物であり、人間ではありません。このように、行為そのものに焦点を当てる傾向が、主語の曖昧さや省略を可能にしているとも考えられます。
暗黙の了解を重視する文化 アニミズムの影響を受けた文化では、「言わずとも伝わる」という感覚が重要視されます。すべてがつながり合い、調和の中に存在しているという意識が、あえて主語を強調しない日本語のスタイルに影響を与えているかもしれません。
日本語にはアニミズム的な考え方が反映された表現がいくつもあります。
自然現象を主語にする:「月がきれいだ」「山が泣いている(霧が出ている)」など。
人間以外を主体にする:「扉が閉まる」「橋が崩れる」など、人が関与せずとも「物」が自律的に行動するように表現される。
アニミズムの影響は、日本語だけでなく日本の文化全般に見られる深い特徴です。この視点を意識することで、日本語の主語の曖昧さが単なる言語構造ではなく、世界観に根ざしていると理解でき、さらに面白さが増しますね!
アニミズム的な考え方が反映された表現で自然現象を主語に、人間以外を主語にする、とありますが、英語でこのような表現はあまりしないということでしょうか?
はい、その通りです。英語では、日本語に比べて自然現象や人間以外のものを主語にする表現が少ない傾向があります。これは、英語が主語を必ず明確にする必要がある言語であること、そして西洋文化において人間中心主義(anthropocentrism)が強調されてきた影響が関係しています。
英語では、自然現象を表すときに「it」という形式主語が用いられることが多いです。これにより、自然現象が自律的に起こるというニュアンスは薄れ、人間視点で状況を説明しているように感じられます。
日本語の例:
ここでは「雨」「風」「雷」そのものが主体ではなく、「状況」を伝えるための形式的な主語が使われています。
日本語では、人間以外のもの(物や自然)が主体として動作を行う表現が多く見られます。一方、英語ではこのような表現が少なく、人間が意図的に何かを操作しているかのようなニュアンスが含まれることが一般的です。
日本語の例:
"The door opens."(文法的には正しいが、通常は "Someone opened the door." のように人間の行為を明示することが多い)
"Flowers bloom."(自然に起こることを表すが、日本語ほど主体性が強調されない)
"The tree is swaying."(こちらも状況を説明する形)
英語では、西洋文化における理性や科学的視点が強く、自然現象や物には魂や意志が宿っているという考え方があまり言語表現に反映されていません。そのため、以下のような日本語特有の表現は英語に訳しにくい場合があります。
日本語の例:
英語に訳すと、どうしても説明的になったり、「詩的」だと感じられたりすることが多いです。
もちろん、英語にも詩的な表現や文学的な場面では自然や物に意志を持たせることがあります。このような手法は「擬人法(personification)」と呼ばれます。
しかし、これらはあくまで特別な表現であり、日常会話では使われないことがほとんどです。
日本語はアニミズム的な影響から、自然や物が主体として動作する表現が多い一方で、英語は人間中心的で、主語を明確にしつつ状況を説明することが一般的です。この違いを理解することで、英語と日本語の間の文化的・思想的な違いをより深く学べますね!
「負けヒロインが多すぎる!」というライトノベル及び、それを原作としたアニメをご存知だろうか?
2024年の夏季アニメにて上位の人気を誇り、その知名度を大きく上げたことで、その名前を見たことがあるのではないだろうか。
そう、そうやってアニメ化したことで私の目にも届いたのである。
2024年春、夏季アニメを楽しみにしながら、Youtubeにて【TVアニメ「負けヒロインが多すぎる!」第一弾PV】をたまたま見ていた時だ。
私は原作ファンの反応が見たくてコメントを見ていたのだが、"豊橋"などという聞き覚えしかない市の名前が散見され、挙げ句の果てに"時習館"という決定的な単語を発見してしまう。
"愛知県立時習館高等学校"ーー何も見ずに書ける、私の母校の高校の名前である。
「これは、他人事ではいられないぞ」、それが私の最初に思ったことだった。
******
私はこの一大ニュースに対して興味津々であった。この件について、もっと詳しく、そして正しく知りたいと。
この時点では予告PVがあるだけで、まだアニメは始まっていない。すでに刊行されているラノベがあるだけだ。
そして私は検索の結果、「負けヒロインが多すぎる!」の小説の表紙を見た。そしてPVを全て見た。
ここまでの私の生の感想をお伝えしよう。
「リボンが4つある」キャラデザについて、一般の読者も驚いていたことと思う。私も驚いた。しかし、実際の愛知県時習館高等学校も真反対の意味でイカれているのだ。
実際の我が母校では女子も、男子と同じネクタイが採用されているのである。
そして、制服はブレザーでもセーラーでもなく、なんとも形容し難い、黒色のジャケット(冬用)とベスト(夏用)が採用されている。スカートも同じく真っ黒で、ヒダがほとんどなく真っ平である。
平たく言うと、我々生徒からは「OLの制服のようだ」と呼ばれており、さらに分かりやすく言うと"可愛くない"という意味である。
この時点では、私は予告PVに対して懐疑的だった。どうせ、高校の名前を借りただけで見た目は再現しないんだろうと。
しかし、予告PVの段階で異常なポイントが一つあった。緑の多さである。
時習館高等学校の敷地は広い。校舎は普通の大きさだが、残りの敷地がデッドスペース(森)と化しているのだ。
敷地面積は公立高校内で日本2位と言われており、約10万平方メートル超である。ちなみに、同じ愛知県にできたレゴランドは9万平方メートルほどであり、うちの生徒からは「レゴランドは時習館より小さいから大したもんじゃない」とディスられていた。
私は一年時の夏休みに、理科の課題にて「(植物名)の木を校内から探して写真を撮ってくる。それを10個」という冒険者のクエストのような課題を強制でやらされた。
フィールドワークを校内で賄えることからその広大さがお分かりいただけるだろう。
そして校内には開けた大通りが一本あり、車が通るように出来ているのだが、その通りの名前を"ハンテンボク並木"という。(口伝なので漢字は分からない…)
この道に沿って、ハンテンボクという木がずらっと植えられているのである。これがまた異常な数で、このハンテンボクの落ち葉を綺麗にするためには生徒が30人ほど掃除する必要があるのだ。しかも毎日。
我が母校が、自然に溢れすぎた素晴らしい学校だと分かってもらえただろうか?負けインのPVで木々が多めに見られるのはそれが理由である。おそらく他ではこうはならないだろう。
というわけで、私は予告PVの時点で現地リスペクトを感じとっていた。そして期待していたのである。
これは創作あるあるだが、屋上がよく舞台にされる。きっとこれはロマンである。主人公たちしかいない場所で、高くて青空に近い場所。絵面は最高である。
そして私もロマンを求めて小学校(転校したので3校)、中学校、高校とずっと屋上を確認していたのだが、全て閉ざされていた。
しかしアニメ内では八奈見さんはぬっくんと悠々と屋上を楽しんでいらっしゃる。挙げ句の果てに、八奈見さんは屋上にて、青空をバックにちくわ("ヤマサのちくわ"という豊橋の名物。スーパーに売っている)を貪り食っている。
……悔しいよ、私は!
(ちなみに、アニメ本編で何度も弁当を食べている外階段も実在しない。あれも現実に欲しかった。ロマンが欲しかった。……悔しい)
******
さて、ここからはアニメ本編を視聴した上で語りたいことを言いたいと思う。
私の思う時習館像と解釈違いを起こしそうで、なかなか見る覚悟が出来なかったのだが、高校の同級生たちが見たという報告を聞き、「私も見なければならないな……」と重い腰を上げたのである。そう、それが10月のことだった。
私は解釈違いで発作を引き起こしながらも、あまりに良いアニメで2日で見切ってしまったのである!
まずもって、ラノベというのは幻想であって、現実に起きないようなことが起こるのが良いところなのだが、今回の場合、部分的にリアリティを持っているせいで私に夢を見させてくれないのである。どうも私のリアルな時習館像が私を苦しめる。
正直に言おう。私はあまり時習館高校に良いイメージを持っていないのである。母校だけど。母校だからこそ。
そして、私の高校生活とはーー恋愛など全くなかった。それが大きな相違である。
血涙を流しながら言おう、私にも青春はあった。
かけがえのない友人と、たくさん語り合った。
南栄駅(時習館高校の最寄駅)にて、リゼロについて熱く語っていたところ、他校の生徒に鼻で笑われたこともあった。今では良い思い出だ。
さてそのような私から、時習館高校について"負けイン"と同じところ、または異なる所を紹介しよう。
②うどん屋「みやこ」について。
八奈見さんとぬっくんが、何故か急にうどん屋でご飯を食べているシーンがある。これの元になったうどん屋「みやこ」は時習館の通りを挟んで向かいにあって、本当に近くに存在する小さな店だ。
一般の視聴者諸君からすれば、地域起こしのために無理やり入れられたように見えるだろう。だが、実際にこの店は時習生から人気なのだ。(※生徒のことを時習生と言う謎の呼称がある)
時習館は駅から5分で着くほど近いのだが、駅の沿線を歩いても何もなく、寂れた店と中身の分からない小さなビルしかない。
そのため飲食店は数えるほどしかなく、その結果、みやこは人気店だし、もう一つのパン屋「コンドーパン」も自動的に人気店である。どんなローカル店でも必ず繁盛する。だって他に競合がいないから。
私は現役時代に躍起になって新しい店を発掘しようとして、誰も客のいないハンバーグ屋さんに通っていたのだが(美味しかった)、卒業して2年後には潰れていた。
八奈見さんたちは何度もファミレスで話し合いをしているが、時習生がファミレスに行くのは中々に大変なのである。最寄りにはファミレスもマクドナルドなどのファストフード店もない(有ったらきっと人気になっているだろうに)。
苦肉の策で、電車通学であることを生かし、別の駅で降りてそこから徒歩20分かけてコメダ珈琲に行っていた。また、電車で学校と逆方向に行き、その駅の最寄りにあるガストに行くこともあった。
さて私が在学していた時、時習館の最寄りにタピオカ屋が新しく出来たことがあった。最初はみんな殺到して、私も夜7時の帰り頃に並びに行った。
しかし、そのタピオカ屋は私が卒業する前にもう潰れてしまったのである!なんと勿体無い!この不毛の大地、時習生は良い店をいつでも待っているというのに。
「あのタピオカ屋の場所で、何の商売をしていたら時習生が常連になったか」という話題で友達とディベートしたものだ。
(余談。みやこには「カロリーハーフ麺」というメニューが存在し、うどんの麺をこんにゃくに変更するというオプションがある。カロリーはハーフよりもっと下だろ!というメニューである。
八奈見さんが太ってしまったことを気にしていたので、私があの場にいたらカロリーハーフ麺に変えておいてあげたのに……)
③豊橋駅について。
店が全然ないという話から、「とんでもねえ田舎なんだな」と思われるかもしれないが、地味に発展はしている。しかし、車がないと厳しい程度の田舎ではある。
アニメ内でも出てきた豊橋駅とは、豊橋市の一番中心の場所であり、新幹線でも"ひかり"が停車する程度には大きい(※"のぞみ"は止まらない)。
豊橋駅の2階にはロータリーのように開けた場所があり、ストリートミュージックがよく行われている。
夜8時頃にここを通る際には、外国人から何かの勧誘を受けること請け合いである。発展している証左だろう。豊橋市の人口の6%は外国人で、中でもブラジル人が一番多く住んでいる。
文芸部のみんなが合宿していた宿泊所がある"田原"と、焼塩のおばあちゃんが住んでいる"新城"。これらは正式には田原市と新城市であり、豊橋市の近隣の別の市である。
まるでもっと遠い地域のように書かれていたが、我が時習館にも田原や新城に住んでいて通学している生徒がいる。
しかし、この新城においては、豊橋にくるためには別の路線を使わないといけない。その名を"飯田線"と言う。飯田線とはとても脆弱な電車で「(台風などの影響で)学校は休みにならなくても、飯田線は休みになる」という事態が発生する。そのため、新城の人間だけ一限に間に合わないということが稀によく起こる。
また、飯田線の駅には改札がないことがある。そのため、電車内を駅員さんが一通り歩いて、運賃を徴収しなければいけないのだ。私は個人的には、「改札を一度設置してしまえばずっと使えるだろうに、そんなに未来が無いと思われているのか?」と邪推してしまっている。
焼塩が帰る際のシーンに、電車の駅(状況的に飯田線の)が見られるが、そこに改札はなかった。
再現度100000000点加点(←そんなところ誰も気にしてない)。
④部活について。
気の回る読者諸君であれば、この私ーー筆者が、あの負けインたちが在籍する文学部に所属していたのではないか?と頭によぎったかもしれない。このような書き物をする趣味を持つ私のことだ、その性向からして入っていてもおかしくない。だがしかし、その答えに対しては否である。
しかし、私は時習館の文学部に関しては知っているし、部誌COSMOSは文化祭で購入しており今も実家に置いてある。
そして、私には時習館の文学部に「入らなかった」理由もあるのである。
部活を選ぶ理由において、積極的に「入らなかった」理由があるのは珍しいかもしれない。
時習館では、新入生歓迎会において、生徒制作のビデオを視聴することになる。このビデオは放送部が統括しており、各部活のプロモーション映像を2分ほどでまとまるように提出しなければいけないのだ。
このビデオを新入生たちに見せることで、部活選択の一助とさせてもらうのだが、やはりこのビデオにはそれぞれの部活の色が表れる。
部活には2種類ある。無難に行こうとするものと、尖ろうとするもの。そして、時習館高等学校の文芸部は後者に属する。
私は時習館の生徒として、新入生歓迎会に3回参加したことがある。そしてその3回とも、文学部のビデオでは同じ人物が登場していた。いや、正確に言うと人物ではない。
……馬だ。文学部においては、馬の被り物が代々継がれており、毎回ビデオに出演されるのだ。(馬の被り物、分かりやすく言うとポーションが作れそうな感じの)
尖っている文芸部に対して私が思ったこと。当時、入学したての私は意識が高かった。主に青春を送るという方向に。
それゆえに私は、もっと無難に、真っ当に青春が出来そうな部活を選ぼうとしていた(結局それは達成されないし、その考え自体が愚行だった)。
それが入部しなかった理由だ。
部活の話というと、私は別の部活に所属していたのだが(どこかは秘密)、一度廃部した部活に入ったので、私の代で新しく部活Tシャツを作ることになった。
その際、顧問の先生から厳しく条件を言い渡されたのである。というのも、部活Tシャツの色は黒じゃないといけないらしい。華美な色は使ってはいけないとのことで、背景が黒という縛りがある中でデザインして作った。今では良い部屋着になっている。
その部活Tシャツが黒でないといけないという理由が、「近隣の住民からクレームを言われたから」という嘘みたいな本当の話である。私としては、そんなクレームに屈してほしくなかったのだが、現実は厳しいらしく仕方ない。
是非、負けヒロイン内で部活Tシャツの話が出てくることがあったら、黒地のTシャツにしていただきたいものだ。知られざる規制について正しくお伝えできたら幸いである。
私とおそろいにしよう!!
八奈見さんの髪の色は青色だ。負けるヒロインに多い髪色だから青らしい。それにしても他の色と比べても青色とはとても鮮やかな色である、眩しいほどに。とても目立ちそうな色合いだ。
時習館高校は豊橋の中では一番の進学校とされ、これよりも良い高校に行くとなると違う市にある岡崎高校に行く必要がある。そのため、地域の住民からはとても素晴らしい学校だと思われている。「あなた時習館の子なの?すごい頭良いんだねえ」と近所のおばちゃんから褒めてもらえるぞ!
しかし、その実態は「自称」進学校と揶揄される類の学校である。
校則は全然自由じゃないし、土曜補講も日曜模試も多いし、文化祭だってしょぼい。前章で述べたような"部活Tシャツの黒縛り"だって中々に酷い。
「お前らの自主性を大切にする!」と言われながら(実際に"自考自成"という校訓がある)、やることに制約がありすぎるし、良い大学に入るためには勉強をしなければいけない。
やらないといけないことが多いくせに、やれないことも多すぎる。
入学時に「高校で青春してやる!」と意気込んでいた私の夢が、打ち砕かれるのは早かった。
皆なまじ頭が良いせいで、馬鹿になるほど青春に熱狂することもなく、どこか冷めたところがある中、青春をしている感じを出そうとする。そんな我々に、魂を震わせるほどの大恋愛などしている暇はないのである。そして失恋をしている暇もない。
近所の高校の体育祭では、女子が男子にサイダーを差し入れするなどというイベントがあり(サイダーだけに「振らないで」という意味をこめて)、青春を謳歌している中。我々の体育祭では、まず本番の体育祭が終わったら即解散である。女子はすぐ強制で帰らされるのだ。男子は強制で残される。その理由とは、男共だけが残ってキャンプファイヤーのような儀式をやる必要があるからだ。帰らされる女子も可哀想だし、これのために昼休憩の度に練習させられる男子も可哀想である。みんなで後夜祭しようよ。
さて、三年間というのは長いようで短い。不意にするには長いが、人生というスパンで見れば短い。高校とは、中学と大学を繋げる通過点だ。ここで怠けたら、せっかく積み上げたものを大学へと繋げられない。そんな未来がチラついて、現在に打ち込みすぎるやつがいない。有名な言葉でいうと、「まるでレールに載せられているようだ」である。
私にとっての時習館高校とは、現在に対する絶望感が仄かに漂う高校だった。
ーー私の高校の時の趣味は、"小説家になろう"を読むことだった。
お金もないし、図書室に行く気もないし、寝っ転がっていたかったからだ。費やした時間は半端ではない。ランキング上位の50ページくらいは全部読んだことがある。だからこそリゼロが好きで、「無料で読めるよ」と友達にオススメしたこともある。
さて当時、異世界転生を馬鹿にする文脈があって、「あんなものは仕事に疲れたオッサンが読むものだぞ」という意見を見た時に、ハッと愕然としてしまった。「私はそんなに疲れているのか?」と。
たしかに、異世界転生ものと呼ばれるジャンルが、全て素晴らしく良く出来たものだとは思っていない。だが、私は読むことがやめられなかったのだ。
なぜか?休みの時間に何をするかは自分で選べる。私に必要だったのは、束の間のファンタジーに身を浸すことだった。擦り減った何かを満たすように、ファンタジーはMPを回復させてくれる。
今まで住んできた街はこんな感じ
・社会人7~9年目:港区白金・広尾・恵比寿らへん(具体的な場所でいうと、北里大学のすぐそば。) ※←この時の話
とりあえず、一回、港区に住んでみるってのはいい経験だったなぁと思う。基準ができる感じ。
一旦、高級(?)な街に住んでみることで、無駄に憧れ続けることもないし、そういう所に住むメリデメを実感を伴って理解することができるしね。
あそこに住んでいる人達はやっぱりお金持ちが多いね。多分 スーパーとか値段見ずに買ってると思う。スーパーの価格帯高すぎ。
老人が歩いてない、というかいない?
自転車に乗ってる人をあまり見かけない(坂が多いのもあると思うが)
ちなみに白金には明確なヒエラルキーがあって坂の上の民(白金台の民)か坂の下の民(渋谷川の民)かに分けられる。坂の下の民はいたって普通の人たちが結構いる(僕みたいな)。そして家賃も目が飛び出るほど高いってわけでもない。100円ローソンもある。坂の下ならね。
パンはいいお店がたくさんあった。たぶん欧米系の外国人が多いからだと思う。
高輪台「セイジアサクラ」、広尾「ブーランジェリーブルティガラ」、広尾「ベーカリー&レストラン沢村」ここらに行っておけば間違いないかな。
広尾「トリュフベーカリー」は行かなくても全然良い。悪い店じゃないけど、特に良くもない。
白金台の「ア コテ パティスリー」は正直全然良くない。高いだけのクッキー屋。同じお金を出すなら尾山台「オーボンビュータン」でクッキー買おう。
正直あまりお金なくて楽しめなかった感がある。僕だと何かの記念日でしか行かないようなお店がゴロゴロ転がってる笑
とりあえず行ったお店書いておくと、
白金「中華料理 勇」はすごく良かった。そこで食べたアワビステーキが今のところ一番のアワビステーキ。予約すると来店何回目?って聞かれるんだけど コースを予約の回数別に変えてるらしくて何回も行っても楽しめるっぽい。僕は1回しか行ってない。
白金「ラ クレリエール」は正直楽しめなかった。理由はお店ではなくて自分。僕がフレンチのコース料理がどういうものかってのを知らなかった。あとコースの選択をミスった。とりあえず高いやつ!って感じでコース選んじゃったんだけど、料理のボリュームが僕のキャパシティを遥かに超えていった。(※ラーメン二郎で初来店で大盛り頼むようなもん)
白金「RAMA」もかなり良かった。とにかくインテリアがおしゃれやね。お店の人も気さくで好感もてた。お店の外からだとガラス張りで丸見えで動物園状態なんだけど、カウンター座ると外は気にならなくなる。まぁだけど、お店の人は大変だろうなぁと思う。オープンキッチンの度が超えてて所作がすべて丸見えだし。換気がかなり考慮されてるっぽくて厨房側の臭いは全くしないもの良かったね。(オープンしたてだから綺麗だっただけ?)
白金台「八芳園」のカフェは良かったな。景色が良いし、庭を散策できるのも良い。盆栽とか並べてあって楽しい。
ご飯食べるのが好きで、お金持ってる人は、白金おすすめだと思う。全然開拓できてないけど、いいお店沢山あると思う。
恵比寿はいいお店そんなに無い笑。あそこは合コンか初めてのデートで行く街だね。ご飯を楽しみたい人が行くべきお店は全然ない。
広尾もそんなにいいお店あった感じは無いかなぁ。(これは行ってない・調べてないだけだと思うけど)
ちなみに白金らへんはファストフード店はほぼなし。普段使いできるお店がない…。吉野家もマックも全然ない、ラーメン屋も無い。恵比寿まで行けば結構いろいろとあるが…。
僕が買い物してたのは
・ドン・キホーテ(一応、日配品とお肉はある)。納豆・卵とか日配品を買う。調味料とか。
・まちの八百屋さん的なとこ。びっくり屋。比較的良心的な価格。
・肉のハナマサ。正直高い。冷食買うくらい。
魚を買う場所が全くなかったなぁー。魚を全然食べられなかったなぁ。
公園はあまり無いね。あっても小さい。正直微妙。有栖川公園はまぁまぁ大きいが、高低差があるし、木々が茂っていて日当たりがあんまり良くないし、ゆっくり過ごす場所って感じでもなかった。東京都立有栖川図書館は最高だったね。だけど本は借りられないし、高校生とかの自習スペース的な使われ方がメインだったりする。
そこら辺にある建物が結構お金掛かってそうな感じだった。ヤバそうな建物(バラック小屋みたいなの)が比較的少ないかなぁと思う笑
白金台に、庭園美術館とか、東大の医学研究系のキャンパスがあった。かと言って、別に1回くらい見学したくらいだし、そんな良いものでもなかったかな。
SBIアートオークションの下見会が代官山でやってて、かなりいい作品が無料でみれるっていうのは都会ならでは。チャリで行ってた。
白金に住んでるってドヤ顔するつもりだったのに全然白金っぽい生活できなくて白金に住んでますって言うの恥ずかしかった。
まぁでも、白金に住んでるって言うだけで笑いを取れたから、良かった笑