はてなキーワード: 悪事とは
パクリだとかそういうことを言いたいわけじゃない
◯◯の面白さが詰まってるな、と感じた
主人公の幼馴染の鉄男が超能力に目覚め東京を破壊し尽くす漫画/アニメ。
主人公の金田は幼い頃から弟分の鉄男を守っていたが、鉄男はそれに対し劣等感を抱いていて、こんなやり取りがある。
金田「俺ァまた心配しちまったぜ? またベソかいて泣いてんじゃねェかと思ってよ」
鉄雄「金田、おめぇが目障りだったんだよ……。ガキの頃から何をするのもお前が指図しやがる。いつも子供扱いだ……どこにでも出てきてボス面しやがる!!」
鉄雄「金田ァァァ!」
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第5話『ニャアンはキラキラを知らない』のマチュとニャアンの関係が金田と鉄男だなと思った。
友達がいない主人公、車椅子の弟、いじめられっ子で母親死去父親無職の同級生(男)、生まれつき髪が白髪でクラスで浮いてる同級生(女)が図書館でみつけた魔法の本で現実世界を剣と魔法のファンタジーの世界へと変えてしまうストーリーのゲーム。
魔法の本によって変えられた異世界では主人公には仲間ができ、弟は歩けるようになり、同級生(男)の母親は復活、父親は裁判官に、同級生(女)は髪がピンクになり、みんな幸せになる。
しかし主人公だけは「こんなのニセモノだ」と疑問に抱き、異世界を維持しているクリスタルを破壊しようと試み、周りから「余計なことするな」と全力で止められる。異世界の住民からも世界の破壊者として敵視される。
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GQuuuuuuXのホンモノ・ニセモノ論はこれを連想した。
主人公が仲間と一緒に旅をしていたらその途中で巨大な大穴を発見、穴の中には広大な大陸(下の世界)が広がっていた、というストーリーのゲーム。
下の世界は上の世界のパラレルワールドになっていて、下の世界のもうひとりの自分はぜんぜん違う人生を歩んでいた。
物語の終盤になると、実はもといた世界が夢の世界であり、主人公は現実世界の自分が夢見た「こうなりたかった自分」だったのだと発覚する。
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GQuuuuuuXのシャアはファーストのシャアが妄想した「こうなりたかった自分」だろう。
文学が好きな男子中学生の主人公が、同級生A(女)の体操着を盗んでしまったのを同級生B(女)に目撃され、同級生Bに脅されて悪事に手を染めていく漫画。
退屈な日常から脱出したい主人公を同級生Bが半分脅迫半分誘惑でそそのかし、ジェットコースターのような非日常を味わうようになる。
物語の中盤で主人公は大きめのやらかしをして警察のお世話になり、親に泣かれ、逃げるように転校し、親戚からも半ば絶縁される。
退屈な日常をぶっ壊したら楽しい日々がやって来るなんてことはなく、過去の犯罪歴がばれてまた引っ越ししなきゃならなくなるんじゃないかと怯えながら暮らす日々が待っていた、というお話。
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第7話『マチュのリベリオン』を観て惡の華を連想したんだけど、先日公式Xが公開した元気なマチュの画像を観て惡の華路線はないなと思った。
妹から何年か前に、小学生の姪に買ってやったばかりのiPhoneを盗まれたと聞いた。
友達と公園で遊んでいて、スマホを自転車の前カゴにカバンごと入れて遊んでいたら、カバンの中に入れたiPhoneだけ持って行かれてしまったと。
警察に届けたが芳しい反応は見られなかった。「まず帰ってこないと思ってください」と、まるでやる気のない対応だったと。
その時私は「子供のものに手をつけるなんて浅ましい。貧しい世の中になったものだ」と憤ったのを覚えている。
なんとなく、日頃から日常的に窃盗や転売に手を染めていて、組織的に悪事をしているような悪党の姿を連想していたことも記憶にある。
いくら高額なスマホとはいえ、なにしろiPhoneにはロックがかかっている。紛失位置の追跡だってできる。素人が盗んだところで簡単にそのままそれを使えるものではないだろう。ロックを外せなければ他所で買い取ってもらうことだってできやしないだろう。
だからそうした盗品のロックを外して売りさばくスキルに長じたプロの犯罪者(?)の犯行に違いないと思っていた。
だが、この一連の「iPhoneを持っていなければいじめられる」バズを見て「犯人は大人ではなかったのかもしれない」「あるいは人の親だったのかもしれない」という考えに思い至り、薄ら寒い思いを抱いている。
子供でも素人でもちょっとネットの暗いところを検索すれば、他人のスマホのロックを解除して自分が乗っ取るようなことが可能だろうか。
盗んだはいいものの結局自分で使えないし売れもしないことがわかって川にでも投げ捨てられたろうか。
そんなことを考えている。
BY CHATGPT
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/www3.nhk.or.jp/news/html/20250518/k10014809031000.html
✅ ゼノフォビア的(外国人・特定国籍・民族に対する偏見・敵意・排除的態度が見られる)
fhvbwx 「外国籍……余罪を調べるべきでは?」 国籍と犯罪を関連づけている
m7g6s 「埼玉はもう駄目だな害人に乗っ取られた」 「害人」は侮蔑語で、外国人排斥を示唆
kanata0120 「免許センターに中国人向け教習所広告」 中国人へのあからさまな嫌悪・敵視はないが皮肉的
pj_lim 「外人に優しい国ニッポン」 外国人に対する優遇を批判、排他的
DropOutSurf_JOY 「同じことを日本人が中国で行ったらどうなるか」 日中の対応差に不満を述べつつ、外国人を問題視
narwhal 「また中国人の悪事か」 中国人全体への否定的一般化
lshdagfljhsadfl 「川口周辺は子連れで行くべきじゃない。治安が悪化」 川口と外国人の関係を示唆しつつ否定的
lb501 「なんで中国人は国籍出さないの?ベトナム人は出すのに?」 特定国籍に対して報道の違いを批判
m_yanagisawa 「日本人にだけ厳しいのは当局のダブスタ」 日本人と外国人の扱いの違いに不満を表明
mouseion 「川口ナンバー印象最悪。クルドに中国か、川口は魔窟か」 クルド人・中国人を含む地域全体を否定的に描写
全体のコメント数:44件
割合:約22.7%
🔎 備考
コメントによっては皮肉や報道批判を装って、実質的に外国人排斥や嫌悪をにじませているものもあります。
明確な敵意や差別語がなくても、外国籍と犯罪を結びつけている発言は、ゼノフォビア的傾向と判断しました。
必要であれば、該当コメントだけをCSV形式で出力したり、非ゼノフォビア的コメントを別分類することも可能です。ご希望があればお申し付けください。
「神に敬虔な者が、神に祈り、正しい行いをするように、まわりの人に強く誘いかけないのはどうしてですか?」
ラビは聞き返した。
「しかし、私たちはいつも良いことを行うように、正しく生きるように、人びとにすすめているではありませんか」
「しかし、悪者が人びとを悪事に誘うほうがずっと強い力を持っていますし、また、人を悪いことに誘い入れて仲間を増やそうとするときに、私たちよりももっと熱心にやっています」
「正しいことを行っている者は、一人で歩むことを恐れない。しかし、悪いことをしている者は、一人で歩むことを恐れるからです」
タルムードの中でも、人間の行動、衝動、そして善悪に関する多くの議論があります。
タルムード(ブライタ:ベラホット 61b)はこう述べています:
イェツェル・ハラは、外へと誘い出す衝動を持ち、他人をも巻き込もうとします。
つまり、自己の悪を正当化するためには仲間を必要とする。これはまさに弟子の観察と一致します。
これらはラビの「一人で歩むことを恐れない者」の話と共鳴しています。
義人は、たとえ孤独でも、真理と善に基づいて歩む力を持っている、というのが聖書的な視点です。
このタルムードの話は、善は静かに、確かに歩むが、悪は仲間を求めて騒がしくなるという心理的真理を教えてくれます。
ラビの答えは、本当に強い者とは一人でも正しい道を歩ける人間である、というユダヤ的倫理観を表現しています。
「善き人に付き従え。悪しき者から離れよ。」(アヴォット 1:7)
「そっちは人間がハッキリ酷いやん。若い人が自殺したのに素知らぬ顔で部署回ってて、うちわの飲み会になった途端事件の話題で同僚たちがニヤニヤ笑って盛り上がる腐った感じがありありと想像出来る」
みたいなこと言ったら思いっきり怒鳴りつけられた
どうも亡くなった方を悼む複雑な感情からくる反応では決してない感じが伺えて息子ながら引いてしまい、それ以後ずっと仲悪いまま
家族と息子にいい生活させてやるために悪事を見て見ぬフリして周りに合わせながら昇進してきたのに息子に否定されたわけだからな
お前ら騙されるな!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
この女は申し訳ないとこれだけ長文をダラダラと綴りながら、結局のところクソな目に遭わせた彼氏(ほぼ通り魔の被害者だよな)にガチ謝罪文送るなり土下座謝罪するなりそういう「自分には痛みを伴うが相手に筋を通す類の贖罪」を一切していないぞ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
やってることといえば自分語り&自己否定だけ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
この女は自己愛の表出をトリッキーな形でやっているに過ぎないのだ!!!!!!!!!!!!!!!!!!!
ねぇ聞いて?今、私の地元が超激アツ展開なの……!
治安がアレな界隈ってさ、基本、犯罪者が犯罪者でつるんで、かばい合って、「自分たちが正義」みたいな顔してんのよ。でさ、そういう連中って、ちゃんとモラルある人のことを「空気読めないヤツ」って扱いして、村八分にしてくるの。
逆じゃん!?!?っていつも思ってた。まさに"不正義 is デフォルト"な街だったんだけど――
でね、うちの通り、住人の8割が前科持ちっていうジャンルなの。今までドヤ顔で肩で風切ってた人たちが、ここ最近めっちゃ焦ってるの。「今まで何も言われなかったのに!酷い!」って被害者ヅラしてんの、ほんと草。
いや、君たちが今までおかしかっただけだから!正義がやっと本気出しただけなんで!
しかも、ずっとグレーゾーンで生きてきた人たちって、急にまともな振る舞いなんてできるわけないじゃん?結果、じわじわと社会的に詰んでいってるのがもう……業が深いよね……(でも正直スッキリ)
前まで治安終わってて、犯罪者同士が馴れ合って、お互い庇い合って、「俺らがルールだ」みたいなノリでイキってたのに、外からの締め付け入って、今さらまともに取り締まり始めたっぽい。
で、その結果どうなったかっていうと、今までイキってたやつらがめちゃくちゃダサい。
「今まで黙認されてたのに急に取り締まるとかマジ横暴!」
ちなみにうちの近所、住民の8割が前科持ちか現役でヤバいんだけど、そういう連中が軒並み焦ってて草。
まあ、今まで好き勝手やってたやつが、急に「真面目です!」とかやったって無理あるわなw
逆に、悪事に関わらなかった少数派の人たちは、何も変わらず普通に暮らしてる。不思議だね〜(棒
このまま街全体が正常化していったら、ようやくまともな地元になりそう。
てか、そうなってくれマジで。
日本人の月見という習慣はそういう美意識がどっかで湧いたってわけじゃなくて「典故」と「信仰」の二つのルートがあるのですのだ。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/togetter.com/li/2531074
典故ってのは何かにつけて漢籍(漢文の本)を引用したりなぞらえること。特に風物表現で多いのが漢詩。
例えば「四季」ってのは漢詩で季節を表現するのに擬えて和歌を詠んで散文にも応用されて行ったもんだし、日本文化独自性が高い俳句でも多い。
また例えば芭蕉は「象潟や雨に西施がねぶの花」って俳句を詠んでるけど、西施ってのは中国四大美女の一人で、悲劇の死を遂げた女性。んでさ、この人が溺死させられたって伝説があるので西湖と名付けられた湖があるんだけど、ここって今は内陸の湖なんだが昔は潟湖(ラグーン)だったのよ。で、芭蕉が訪れた時代の象潟もラグーンで、松島のような多島海でとても美しかった。でもそこで「きれい」って言っちゃうとあたまのわるいひとイラストみたいになっちゃうってんで、悲劇の美女西施→潟湖の西湖の風景という諧謔というか教養連想ゲームをやってるわけです。
やべぇ例示だけなのに長くなってしまったな。因みにこの象潟は芭蕉の後に地震があって、輪島の海岸みたいに隆起して芭蕉が感嘆した景色は無くなってしまった。今は田んぼの中に丘が点在する風景になってる。
こんな風に昔の日本は漢籍を引用するのが教養だったんで、そういう知識は最早常識だったんやな。
んで、月見の方も平安時代に貴族がやり始めたんだけど、やっぱり漢籍の記述で中国で古代からやってるという中秋節を真似たんや。旧暦8/15(太陽暦では9or10月)に月餅やら何やらを並べて宴をする。貴族の間でもっと多かったのが船を出して、水面にゆらゆらと写る月を眺めて宴をしてうたを詠んだりしてた。こういうのを観月という。
んで、これが段々と庶民にも伝播して行ったらしいんだけど、正直江戸時代までの間の庶民の動向って言うのはよー判らんのや。何故なら庶民文化が栄えたのって江戸時代で、それまでは庶民間の事柄を紙に記すって事が殆どなかったから。
で、もう一つのルートが月待講ってやつ。江戸時代には庶民が比較的裕福というか生活に余裕ができ、色んな民間信仰が現れた。そしてそれらが紙に残った。
例えば山講。山ってのは霊的なもので、それに登るって事が霊的体験とされていた。山は女人禁制で「○○山講」という幟をもって山伏みたいな格好で延々と歩いて行って登山を敢行する。信仰の場だったのだな。
富士山が世界遺産に登録されたのは、別に日本人に愛されてるからとかじゃなくて、こういう信仰があって今の登山がそれと連続的って事ですのよ。
例えば庚申講。道教とか神道、民間医療なんかがごちゃ混ぜになった信仰で人間の体には三尸(さんし)の虫っていうのが住んでて60日ごとの庚申の日に寝てる間に閻魔大王に悪事をチクるから徹夜で宴会してチクるのを止めさせようぜという、今となってはなんだそれな信仰だ。
都電に「新庚申塚」って電停がある様に、日本中あちこちに庚申塔が建てられてその近くの家で飲み食いされていた。今はこんな風に放置されてる。
https://maps.app.goo.gl/FM8d8fD19SAK3Ubc7
こういう「講」(信仰の寄合)の一つに月待講というのがあった。お月様信仰やな。
月には月齢があって、新月、三日月、満月、半月と形が代わるけど、その各々に別個の信仰があった。んで、この信仰は別にお月様だけに影響を受けてるんじゃなくて、土着の信仰が仏教と結びついていた。
仏教では色んな観音様や菩薩が居るけど、月齢ごとに別の本尊を崇めていた。この辺はカトリックの職業別聖人信仰に似ているね。
月齢ごとに信仰があると言っても、今みたいに電車と車で好きな場所に行ける訳じゃないから、この村は○○夜、あの街は○○夜と分かれていた。
で、その中で非常に多かったのが二十三夜、十九夜、十五夜だったってワケよ。
二十三夜は特に多くて、日本中に地名として残ってる。こんな風に
https://maps.app.goo.gl/KDXw6ZBhwiyA4bYZ7
また、「三夜」と省略されて地名になっている所も多い、三夜様とかね。
もう一つ特別なのが十九夜で、これは如意輪観音が本尊。右膝立てて右ひじ突いてる観音様だ。
これは「安産講」として特別で、女の人以外は参加禁止の集まりだった。
これも十九塔があちこちに残っているが、地名としては「子安」というのが残ってる場合が多い。
「子安寺」が子安の由来の場合も多いが、そもそも昔の寺には色んな神様も祀られていた神仏習合だったんで、当然十九夜待が行われて居た寺もあって、それで子安寺になったケースもあるのだな。
十五夜はいうまでもなく満月待やね。本尊は大日如来、阿弥陀、薬師、観音様、地蔵、虚空蔵と、オールキャストだ。
で、庚申講もそうなんだが、段々信仰がどうこうっていうのはいい加減になって行って、単なる寄り合い、宴会、食事会の言い訳になって行っちゃうわけよ。十九夜とかも「観音様、どうか子宝と安産を」と願うっていうよりただの女子会になってまう。「観音様が持ってる宝珠ってチンタマーニって言うんだって」「うちの亭主も二つ持ってるワイよギャハハ」とかなっちゃうってワケ。
それで段々都市化が進むと寄合なんてジジババくせえとか軽視されて廃れて行っちゃった。でも場所によっては昭和40年代まではやってたらしい。
月見でお団子お供えして食べるっていうのは完全にこっちの月待講が由来なんね。
一方、ススキ飾るのは、旧暦8/15(太陽暦9or10月)の中秋節由来やね。
だから二つがごっちゃに混ざってるってこと。
新月の次の日:既朔
十四夜:小望月、待宵
十六夜:既望
十七夜:立待
十八夜:居待
十九夜:寝待
廿夜:更待
これも漢籍典故による特別視から月待などの各月齢ごとの神聖視へと変化していくにあたって生まれた表現と考えられるのだ。
日本産ゲームのリプレイ動画とか見てると、このへんのことが海外では認識されていないので「これってなに?」みたいな英語コメントが付いているのを目にするのだ。まぁそれは当たり前だ。
大抵、西洋のルナティック=満月が人を狂わす、と日本の月を愛でる習慣、月のうさぎが合わさっているので割とハイコンテクスト。
でもそれに日本語で答えているコメントが月を愛でる習慣が信仰から来ているってことが判ってないので説明できていないっていうのを目にする。
近所の今まで気が付かなかった「○○夜」「子安」の地名を発見して訪れてみるっていうのも自文化の勉強なんですよ、草むらの中に○○夜塔が残っているのを発見するって事もあるんですのよ。
ついでに花見なんだが、これも昔からある風習だったけど、江戸幕府が奨励して盛んになったんすよ。
江戸幕府は水防工事を沢山やったんだけど、堤防って突き固めが緩いと崩れてきてしまう。でも昔は機械が無い。
そこで堤防に桜を植えて「花見やれ」と奨励したのだ。すると毎年人がどやどややってきて歩くから土が締まるって寸法だ。だから川べりには桜が多いのだね。特に古い堤防は桜の名所になっているってわけ。つまりは官製文化の面があるの。
この話
『僕なら〇〇って言うよ』発達障害と言われるADHDやダウン症との向き合い方について正直に話します【岡田斗司夫 切り抜き サイコパス アスペルガー 障碍者 】
を見て大学の中の人から一言。病気に対する不理解以外、だいたい言っていることは合っているけど、死ぬ死ぬ詐欺だけは微妙。実際に死んじゃった学生が居るので。そういう最悪の事態を避けたいのなら、早い目からの対処が必要かも知れない。ただ、我々が見ているのは最終局面だけなので、早い目に着手したとして対処が可能なのかどうかは知らない。対処せずに大学まで進学させるのは問題の先送りでしかないことだけは分かっておいてほしい。自分が知る限りで取れそうな対処法は動画で言及されていた方法も含めて以下の4つ。
中学、高校、大学の途中ぐらいまでは、試験のわんこそば状態で学業成績の優劣が決まる。ほいっ!ほいっ!と次々目の前に出されてくる問題を、さっさと解ければ優秀。賢い。頭が良い。他に多少の苦手があっても、周りの連中と上手く付き合えなくても問題無し。その調子で頑張れ。……ということになるのだが、その調子で問題が無いのは、わんこそばが続く間だけ。そこから目を逸らすと不幸になる。薄々自分のコミュニケーションスタイルが周りからは受け入れられにくいことには気付きつつも、自分は成績が優秀だから問題無い、という、現実から目を逸らしたプライドが高い人が出来上がってしまう。そして、研究活動や就職活動など、わんこそばの供給が止まったところで思いっきり躓く。それまで、周りの人よりも自分の方が出来が良くて優秀だったのに、周りの人がなんなくこなしていることが自分には出来ない、という困難に直面することになる。
「『「大学時代はバイトリーダーとして率先して頑張りました!!』という身の上話が、就活の面接でとても有利に働く……」という現状を憂う大学関係者の声は多い。大学時代の自慢は、「ちゃんと勉強したことです」と言えるようにしやがれ、と。ただ、試験の成績では計れない指標も確かにあるので、一概に否定もしづらい。それは、「バイトリーダーを任される程に素晴らしい人材」という高い品質を保証する話ではなく、「バイトリーダーを任せても良いと思えるぐらい普通の人」という「期待を下回らない」方向の保証。ただのバイトなら、マニュアルの通りに動いて同僚と挨拶も絡みもしない、みたいな態度でも通るし、そもそも、即解雇されてる可能性もある。が、バイトリーダーまで努めていれば、大丈夫だろう。もし、親類の子の中に「この人にバイトリーダーを任せるのは大丈夫か?」と思える人が居たら、早めに対処して下さい、と伏してお願いしたい次第。
体感では、バイトリーダーを任せたくない人材、多くの人が求めるようなコミュニケーションを取るのが難しい学生が、100人中、2~3人ぐらいは居るように感じた。というか、そもそも、だいたいそのぐらいの割合で、医師の診断書付きで、ADHDや自閉症を原因とする要配慮申請が出ている。「当人は計画を立てて実行するのが苦手、あるいは、急な何かで動けなくなることがあるため締め切りに関しては可能な範囲で配慮すること」とか、「口頭での伝達事項は聞き漏らしが多いため、補講やレポートの締め切りなどは必ず文書で通知するように」とかあれこれ。そういう注意書き付きの人を雇おうと思って貰えるのかという話。
例えば最近は厳しくなってそういう話は聞かないが、私が学生の頃はとても雑な時代で、補講をちゃんとやらない先生とかも多かった。本来は、海外出張などで休講にした場合は、どこかでその分、補講しないといけないんだけどそれをサボる。補講をやるならこの土日に、と何日か補講日が儲けられていて、出張の申請時にいつ補講をやるのかも申し出ないとダメ、というような規定がある。そこで、書類上は補講をやることにしつつ、「皆さん、休日に出てきたくないですよね。来ても先生も居ないし出席も取らないし資料の配付もしないし、うんまあ、そういうわけです(笑)」みたいに冗談めかして笑いを取ることで「補講はしません」と伝える、みたいな悪事も横行していた。そして、それを聞かずに書類上は補講となっているのを見て補講日にちゃんと登校してきて、いつまで待っても先生も他の学生も来ないことにパニックになって学務の事務室に相談に行って、事務方に教員の悪事がバレた、みたいな話もあった。
ちゃんと補講をやれ、というのも悪いのだが、そういうコミュニケーションスタイルな学生への配慮が足りないのも悪い。伝わるように伝えるのが、伝える側の責任である。仮に、会社で働いていて部下としてそういう人が配属されたら、その人が最大限力を発揮できるように配慮して面倒を見るのが務め人たる上司としての義務である。……という前提を置いたとしても、それより前、「じゃあ、その人を雇うかどうか?」という判断をする場で、積極的に「雇う」という判断はしないだろう。その人が悪いわけではないのだが、同じような学業成績で、「ほら、あれやっといて。よしなに調べて」で動いてくれる候補者が居るなら、そっちを雇った方が楽だ。就職面接だけを乗り越えれば、あとは、人を解雇しづらい日本の法律に守って貰えるから、という戦略も戦績は良くないらしい。それっぽい受け答えの特訓をして臨んでも、企業側の百戦錬磨の面接官には見抜かれる。
その子が就職の面接に来たとして採用したいかどうか?バイトリーダーを安心して任せられそうかどうか?そういった基準で子供達を見守り、ダメそうだったらどうにかして上げて欲しい。学校の成績は良いから大丈夫、というのはどうにもならなくなるまで問題を先送りにしてしまうことでしかない。学校のほとんどの人からそっぽを向かれているが親友が1人居るから大丈夫、みたいなのも大丈夫ではない。「お前と話すのは精神的にしんどいからもう嫌だ」と面と向かって言える人は少ない。それでもどこかで限度を超えてしまって面と向かって言われてしまうかも知れない。面と向かって言わないぐらいに優しい人でも、卒業まで我慢すれば、と思っているだけかも知れない。遠くの高校・大学へ進学するからじゃあね、みたいに自然に縁を切る話は割と良く聞く。
どうしても他人との適当な関係構築が出来そうにないなら、自分たちが幸せになるためだったら倫理観なんて無視してしまえ、の精神で書いてしまうと、障害者手帳を取るというのは大きな力になる。一定数の障害者を雇うことが法律で義務づけられているため、大企業ほど、その枠をより優秀な人材で埋めたがっている。その枠を、試験問題をものともせずにさくさく解けるような人材で埋められれば万々歳だ。そのための受け入れ体制も十分にあるだろう。
動画に出てきた学歴プライドに固持する人のような問題も見かけるが、残念ながら学歴というのは出された問題を解く能力が高いという、能力のほんの一面だけの評価でも成り立ってしまう。勉強やら教養やら人付き合いやらを満遍なく学んだ人の間で比較すれば、学業成績が良い人の方が良い仕事が出来そう、という判断基準にはなりえる。が、学業成績だけでプライドを持っても役に立たない。プライドの高さもあり障害者手帳を取るのは、自分が普通じゃないと認めてしまうことだ、と嫌がる方も多い。身内はそれでも大丈夫だから、自分らしくあればいいから、と言ってくれるものだけど、残念ながらそれは身内だけでしかない。動画でも言われていたように、最後までその生き方を選ぶのであれば、ずっと支えてくれる身内が必要だ。そうでないなら、身内以外からも仕事を任せられるような自分に変わっていくか、自分らしくても誰かに雇って貰えるよう社会制度を上手く使う、つまり、障害者手帳を取るとかしかない。
今、女が浮気する創作を叩いたり冷笑する人が散見されるが、これは非常に問題である。
世の中にはインモラルや悪事を楽しむ作品が溢れている。もちろんドラマにでもだ。月並みだが、東京卍リベンジャーズなんか不良が夜な夜な集まって喧嘩を繰り広げるなんてろくなもんじゃない。法律を越えた私刑も許容されるし、なんなら「主人公一行を不快にさせた」程度のことで相手の骨を折ったりもする。
殺人、窃盗、暴力、不良、半グレ、闇バイト、銃器の所持、爆弾の製造、暗殺、創作にはインモラルが溢れている。作中でその行為に対して「本当は良くないけどね」と言う人がいない作品だって山ほどある。
更に潔癖な視点で見れば、男子高校生が複数の女子から不純異性交遊に誘われるハーレム作品なんて本当はけしからん。奴隷を購入して身の回りの世話をさせ愛妾のように扱う作品、これは言うまでもなく酷い。
では何故、女の浮気、浮気を肯定的に描いた作品は叩かれ、冷笑されて当然なのか?
創作では普段もっと酷いテーマを肯定的に扱っているじゃあないか。
だが問題視はしない。いや、正確に言えば「問題視してはいけない」と皆思ってる。「創作だからそんな風に問題視してはいけないのだ」と思っている。俺だってそう思う。
当然そういう構造に対する冷笑だって少ない。様々な意見があるのがネットだから、あるにはある。だが「いや、エンタメってそういうもんだし…」というリアクションが付きまとう。
では何故女の浮気を創作で描くと問題視され、おかしなことをしているからと冷笑され、フォローもされないのか。
創作というのは我々の考えを越えて保護され、「創作を守る」という方向に厳格な基準の元で「社会的に適切かどうか」と判断されるべきなのだ。
表現の自由を訴える人は、市民団体などに対してまさにそれを言い続けてきたのではないか。
そして、これは論理的帰結だが、「浮気」を肯定的に描いて叩いたり冷笑する理由は、「感情」以外に無い。浮気はもちろんインモラルな行為だが、創作という観点ではテーマとして扱うことは問題ではない。そもそも古来よりそんなもん山ほどある。現代の価値観には合わない。もちろんそうだ。ただし殺人だって銃器所持だって奴隷の購入だって今の価値観には合わない。キモいから批判する?感情以外の何物でもない。
つまり、女性の浮気をテーマにした作品を叩き冷笑することは、「本来保護されるべきである創作物を何も考えずに叩き萎縮させる行為」でしかないのだ。
これが問題でなければ何が問題なのか。表現の自由を嘲笑し、貶す行為は唾棄すべきことであり、それは決して多数派に紛れない。同調する者が多かろうが、「創作物は守られるべき」という考えには何の影響を及ぼさないのだ。
「そんなこと言われても俺はただのネット民。別に創作を守る義理なんて無い。好き勝手に言いたいことを言うよ」