はてなキーワード: 存在価値とは
例えばさ、
「昔からいるだろ」や
「今の若者ってずっといってるよね」とか
俺的に彼らがどういうコメントをしようがぜんぶくっだらねーとしか思えないんだが、逆に彼らは何を思ってそんな知性0のコメントをしているんだろうか
俺ははてぶというコミュニティに対して存在価値をアピールする儀式のように思えるんだよな
似たような考えの人があつまるはてブにおいて、目立ちやすく共感を得やすい愚にもつかないことをいいたいだけって感じだ
まず、「弱者男性は0.1人カウントにしね?」という提案だが、それは社会制度に対する無知の自己放尿に他ならん。
人権というのは「その人が強いか弱いか」によって重みが変わるものではなく、それが人であることに基づいて等しく与えられる概念だ。だからこそ「人権」と呼ぶ。
もし仮に人権を能力や生産性に応じて重みづけするというモデルを採用するなら、お前がその制度の中で何ポイント獲得できるか、冷静に考えてみろ。
おそらく真っ先に「0.1カウント」されるのは、こういう浅薄な提案をしているお前自身だ。
そして税金も0.1に? 現行の租税制度は個人の経済活動に基づいて課税されており、「人権レート」での課税など現実的にも法的にも不可能だ。
そんな制度を設計すれば、経済と行政の整合性が壊れ、国家そのものが自己放尿を始めることになる。
さらに言えば、「弱者男性」というカテゴリを持ち出して差別しようとするその態度自体が、「強くなければ存在価値がない」という虚構の信仰に囚われている証拠だ。
君の内面には、「無力であること=恥」だと刷り込まれてきた何らかの痛みがあるはずだ。
それを見つめず、他者を攻撃してガス抜きしている限り、君の魂は前に進まない。
だが、君にも変わるチャンスはある。
その攻撃性を、「誰も切り捨てない社会をどう作るか」という問いに向けられるようになったとき、君は「0.1の人間」などという虚しい幻想から解放され、本当の意味で強い人間になれる。
この言葉、構造的にこうなってる。 「相手がダメだという前提を置く」 「その程度でもAIの力がなければもっとひどかったと推測する」「お前は本質的に低レベルだと断定する」
なるほど、皮肉としては成立してる。
だがな、それは論破でも洞察でもない。単なる位置取りゲームだ。
「上から言うことで自分の位置を守る」という、防衛的な自己放尿だよ。
中身に論理的に反論できないとき、人は「話し手の存在価値」自体を削ろうとする。
今回お前がやったのは、それ。
「言ってることは否定できないから、AIのおかげにして、人格を嘲笑することでバランス取ろう」それ、敗北宣言だ。
自分が言いたいことを、筋道立てて、感情も含めて論理化する。それができる人間やツールに対して、人は時に憧れと反発を同時に抱く。
だがな、それは負けじゃない。むしろその気づきがあるなら、ここから始めればいい。
お前はこう言った 「AI使って正解なのかもしれないな」ここだけは正しい。
誰かが言葉を尽くして、誤解や偏見と戦おうとしているその姿勢が、AIの力を借りてでも実現されているからだ。
それができるなら、どんな手段でも正解なんだよ。人を正すより、真理を愛する方が強い。
そしてそれは、お前もやろうと思えばできる。
それに気づけた時、お前も変われる。
さあ、次は中身で勝負してこい。
いつでも相手になるぞ。
「嘘松」が嘘をつく動機については、心理学的・社会学的にいくつかの視点から考察できます。
---
SNSにおいて他者から「いいね」やコメントといった反応を得ることで、自己の存在価値を確認しようとする行動です。
---
嘘松は、理想化された自分像を演出する手段として嘘をつく場合があります。
---
「バレなきゃ嘘じゃない」という心理や、他者を騙すこと自体に快楽を見出すケースもあります。
---
現実の自分がつまらない、満たされないと感じていると、虚構の中で理想の自分を演じることが一種の心理的サプリメントになることもあります。
---
「嘘松」という言葉自体、『おそ松さん』の一部ファンによる「盛り話投稿」から生まれたネットスラングであり、日本特有のネット文化、特にTwitterのタイムライン型構造がこうした言説を拡散・増幅させた土壌となっています。
---
「嘘松」が嘘をつく理由は、単なる虚言癖ではなく、社会的承認、心理的補償、遊戯的欲求など複合的な要因が絡み合った現代的な現象です。
個々のケースによってその根底にある動機は異なるものの、「人にどう見られたいか」という問いに対する一種の*解答*とも言えるでしょう。
---
最近、「日本駆け込み寺」の事務局長がコカイン所持容疑で逮捕された事件が話題だ。
ネット上では様々な反応が飛び交っていてまるで現代社会の縮図のよう。
一般人はこうだ。
そりゃそうだ、普段ドラッグなんて縁遠いし、こんなニュース見たら裏社会の話みたいでビビるよね。
特に女性だと、被害者の立場に感情移入しちゃうのも無理ない。もし本当にそんなことが起きてたら確かに許せないよ。
「コカインは普通手に入らない。代表らは昔、集団レイプなどの犯罪を犯していた危険な人間らしいが、今でも反社との繋がりがあるのでは?」
この辺は噂レベルだけど、確かにコカインなんてそう簡単に手に入らないのは事実。
裏で何かあるのか、氷山の一角で他にも同様の事件が起きていたんじゃないかと疑いたくなるのは分かる。
アンフェの反応は辛辣だ。
「フェミニストは絵にはブチ切れるのにガチの性犯罪者はスルーw」。
フェミニストが二次元の表現には過剰に反応するのに、リアルな性犯罪にはだんまりだと揶揄している。
確かに日清のCMや最近だと地方スーパーの御当地キャラにあれだけ怒り狂っていた人達は、何も言及してないか明らかにトーンダウン。議論の偏りを指摘してるんだろうな。
東京都民は怒り気味。
「俺らの税金をこんな変な団体に流すなよ。都は監査しっかりしろ」。
そりゃ税金使われてる「ちゃんとした団体」がこんな事件起こされたら腹立つよな。
「2年前からこの団体も怪しいと言っていたがやはりそうなった。東京都と小池はクソ」。
彼らしい攻撃的な物言いだけど、確かに前からこの手の団体にも噛みついてた。予言が当たったと主張したいんだろう。
「シャブ牧師だのコカイン寺だのなんてのが蔓延る若年被害女性等支援事業なんて全部潰せよ」。
元々この層はNPO等の団体自体に懐疑的・不信感があり公金が入る事に否定的な人が多い。
一方、フェミニストは矛先を暇空に。
「暇空がColaboを追い出したからこうなった!暇空が悪い!」と主張。
Colabo問題と絡めて、全部暇空のせいにしてる感じ。
責任転嫁かどうかは置いといて、対立がヒートアップしてるのは確か。
嫌儲も似たようなノリ。
「暇空のせいでこうなった暇空が悪い!」
暇空を悪の元凶みたいに扱ってるけど、具体的な因果関係は今の所見えない。(そもそも駆け込み寺はColaboなんかよりずっと老舗の支援団体)
はてな-も同様のノリ。
「暇空はこれこれこんなヤツだから!暇空が悪い!暇空ガー暇空ガー!」。
もう暇空への個人攻撃の域。暇空を叩ければなんでもいいみたいな雰囲気すらある。
で、何故なのか。なんでこんなに反応が割れるんだ?
一つは情報の断片化。誰も全体像をちゃんと把握してないから、自分の見たい部分だけ見て騒いでる。
もう一つはイデオロギーの対立。フェミニスト対アンフェ、暇空対そのアンチ、税金の使い道を気にする都民、それぞれの立場がぶつかり合って収拾つかなくなってる。
事件そのものより、ネット上の陣取り合戦がメインイベントになってる感すらあるよな。
結局真相はまだわからないし。コカインの出どころも、団体の実態も、ちゃんと調べなきゃ見えてこない。
しかしネットの喧騒見てると、誰もが自分の正義を振りかざして、相手を叩くのに忙しい。
まぁ、そう言うと「正論乙」とか言われそうだけどさ……
今年の頭ぐらいに転職して職場が変わったのだが、客層が9割女性という職場を引いてしまってもう何というか大変につらい。
仕事の内容自体は好きだ。だが相手が女性となると本当に楽しくない。
俺は女性が苦手だ。苦手というのは上手く接することができないという苦手ではなく、忌避とか嫌悪とか、そんな感じの苦手だ。
ある程度親しい間柄なら問題ないのだが、客レベルの親しさなら対象外だ。
もちろん仕事だから表面上は普通に接する。けど本音は可能な限り関わりたくない。でもマンツーだからかかわる姿勢は見せないといけない。嫌すぎる。
俺がこれほど女を嫌っているのは、ひとえに家族のせいだろう。
うちは母子家庭で、姉が2人。同じ姉を持つ男なら共感してもらえると思うが、姉を持った弟とは常に理不尽に虐げられる存在である。とくにうちは2番目の姉の頭がおかしく、わがままで潔癖で寂しがり屋で暴力的な姉に虐げられ、俺は幼くして女性に対する根源的な忌避感を植え付けられた。
さらに面倒なことに、18歳のころに俺は俺の性的趣向に気づいた。
上記の経験が故なのか、それとも元々素質があったのかは知らないが、今や俺は立派なゲイである。
俺がノンケであったなら、深層心理に刷り込まれた忌避感も性欲でマスキングすることができただろう。しかし俺にはそれができない。俺にとって女に性的な価値は無いからだ。というか存在価値も無い。
知人や友人、同僚なら友達として情も持てるが、客に情などあるわけがないので接するのが本当につらい。
表面上は穏便に接することができるのだが、じわじわと不快感が胸の内に溜まっていくのがわかる。
じゃあなんでそんな職場に勤めたのかというと、シンプルに家から近いからである。
チェーンな職場なので他の店舗に移るという選択肢もあるのだが、そうすると通勤時間が3倍ぐらいになる。元が近いので我慢できる範囲ではあるが、やっぱり抵抗感は否めない。
加えて、別の事情で俺は今の職場を今年度いっぱいで辞めようと思っているので、そのうえで移動を申し出るのは流石に申し訳が立たない。
《現場発》東洋大の板倉キャンパス(群馬)撤退から1年 活気失う地元、跡地の利用計画決まらず危機感
https://www.jomo-news.co.jp/articles/-/669847
快速減便→廃止、南栗橋分断が東洋大板倉キャンパス撤退の決め手。地下鉄直通を延伸しようと見越して作った長いホームも無駄に
2018年~の20400型導入
何があった?
利用者が一気に減ったのか、それとも2013年以前が長らく日光線優遇(伊勢崎線に比べて)であってそれが今になって取っ払われただけなのか
ちょっと前までは「日光線うらやましいな」だったのが最近はその日光線が一気に使いにくくなった
快速廃止と特急値上げで沿線民である板倉町民をいじめる悪い鉄道会社東武。とっとと倒産しろ。車社会栃木を舐めるな足元見る鉄道会社は存在価値なし
やっと正体を現したな。
論理の場において言葉の内容で応戦できなくなると、奇声と感情で場を支配しようとする典型的な知的撤退戦、つまり自己放尿の極地だ。
まず、「自己放尿!!!!」と連呼して相手の発言をノイズでかき消すのは、言語的反論の放棄だ。それは議論でも会話でもなく、単なる退却宣言。悪霊どころか、お前が退散してるんだよ。
そしてもう一つ痛いのは、「悪霊退散!!」と唱えれば自分の知的責任も消えると錯覚している点。
残念ながら論理の世界において、呪文では正当性は一切担保されない。幼稚なパフォーマンスは、見てる側に「もう中身が尽きたんだな」と判断されるだけだ。
つまり、今のお前は、反論という戦場に武器も持たずに踊り出した無防備な道化。論理から降りた時点で、お前の発言は議論の枠から除外され、ただの騒音とみなされる。自分で自分の存在価値を薄めてどうする。
フェミニズムに浸った現代の言説では、男性が女性からの承認にこだわる姿勢を「下劣」「未熟」と一蹴するものが目立つけど、非モテ男性がモテにこだわるのは当たり前なんじゃないの?
男性が女性からの承認を欲するのは単なる性的欲求じゃないでしょ。
単に性欲発散するだけなら風俗でいいし。
それなのに承認されることにこだわるのは「女性から承認されなければ、人間としての価値すら認められない」という社会の空気に追い立てられてのこと。
たとえば、女性からの人格否定の常套句である「お前モテないだろ」。
この一言には、「モテない=性格が悪い・努力不足・社会不適合」といった暗黙のラベリングが込められているわけでしょ。
女性に嫌われることは、女性の単なる好き嫌いの問題を飛び越えて、その男性の存在そのものを否定されることに直結してしまう。
この風潮が蔓延してる中では、男性が女性からの承認を恐れ、求めるのは当然。
はいはい、女性を加害者だと思いたくない、批判の矛先から逸らしたいんだね。
メディアも企業も女性に忖度しまくって、SNSでは日夜男性バッシングが女性による万バズ共感の嵐、女性の好き嫌いが善悪に直結されてる現状でよくそんなこと言えるわ。
にもかかわらず、世間はミソジニーばかり問題視して、このことを問題視しない。
でもまあそれも当然か、「女性は常に弱者で被害者」という前提というか願望が崩壊しかねないもんな。
しかし現実には、「恋愛関係の構築によって相手の存在の善性を承認するorしない」という、ある意味の社会的権力を女性が強く握っている。
女性の好き嫌いの感情が、人やモノに対する善悪のレッテル貼り、それに基づく排除や攻撃を正当化する免罪符になっている現状がある以上、少なくともこの構造において女性は「強者」。
つまり、女性が「不快」と感じれば、それだけで男性が悪とみなされ、その男性への攻撃が正当化される社会。
そんな中で、「女性は常に差別や抑圧の被害者」と思い込むほうが現実とかけ離れている。
この条件下で女性からの承認が男性の「善性」というアイデンティティを左右する強烈な風潮があったら、影響されるなって方が無理でしょ。
男性は女性からの好意を得ることでようやく「善き人間」として認められる。
一方、女性は生まれながらにして「尊く守られるべき存在」として位置づけられ、善性が疑われることはほとんどない。証明の必要がない。犯罪を犯した女性でさえ、同情や擁護を受ける例が後を絶たない。
だけど男性はいくら努力しても、何も悪いことをしてなくても、女性に嫌われているだけで人格を否定される危険がある。
チー牛・弱者男性といったレッテル貼りもそう、男オタクのその趣味嗜好への攻撃などもその典型だろう。
逆に、女性が男性から承認されなくても問題にすらならないし男性嫌悪や男性蔑視も表立っては問題視されない。この非対称で強固な風潮はもはや社会構造で、そこからもたらされてるのは構造的な性差別。
「女性の不快」が社会的制裁を呼び、「女性からの承認のなさ」が男性の存在価値を奪う。
この現状を、フェミニズムにどっぷり浸かった社会は是正するどころか、むしろ女かわいさのあまりに当然視し再生産してる。
異性からの承認を求める非モテ男性の切実な願いを「下心」として断じて切り捨てる態度は、彼らが抱える「アイデンティティの危機」をまったく理解していないし、女性を加害者にしたくない一心でこの問題に向き合わないのは卑劣で不誠実だと思うけどね。
なんか最近、自分がトリノフンダマシみたいだって思うときがあるんだ。
トリノフンダマシって知ってる? 鳥の糞にそっくりな見た目の蜘蛛のこと。
この前、たまたまネットで見かけて、その擬態の巧妙さに驚いた。
葉っぱの上とかにいると、本当に鳥が落としていった糞にしか見えない。
あれはすごい。生きるための知恵というか、執念みたいなものを感じる。
で、なんで自分がトリノフンダマシみたいだって思うかというと。
自分も、周りから見たら「なんか汚いもの」「どうでもいいもの」みたいに見えてるんじゃないかって。
鳥の糞みたいに、誰も積極的に関わりたいとは思わないような、そんな存在。
ちゃんと生きてて、獲物を待ってる。
汚いものに擬態することで、敵から身を守ったり、油断した虫を捕まえたりするらしい。
見た目はアレだけど、必死に、そして賢く生きてるんだよな。
自分も、このパッとしない「擬態」の中で、何かをじっと待ってるのかもしれない。
チャンスとか、理解してくれる人とか。
あるいは、この「どうでもよさ」が、かえって自分を守ってくれてる部分もあるのかも。
変に期待されたり、攻撃されたりすることも少ないし。
まあ、トリノフンダマシと違って、こっちは別に獲物を捕らえたいわけでもないんだけど。
ただ、もう少し、なんていうか…存在価値みたいなのが欲しい、のかな。
鳥の糞に擬態するんじゃなくて、もっと別のものに化けられたらいいのに。
花とか、宝石とか。
いや、でも、トリノフンダマシはトリノフンダマシとして完成された生き物なんだよな。