はてなキーワード: ロシア語とは
ロシアによるウクライナ侵略後、ウクライナの地名をなるべくウクライナ語で書こうという流れが強まり(これ自体はとても良いことだ)、「キエフ」が「キーウ」、「ハリコフ」が「ハルキウ」と書かれるようになった。そして「オデッサ」も「オデーサ」と書かれるようになっている。
もちろん「オデーサ」でも構わないのだが、別に「オデッサ」でも良いのではと思うようになってきた。以下に説明する。
まず、ロシア語だとどう綴るのかを確認しておこう。ロシア語ではОдесса(Odessa)と綴る(左がキリル文字で、右はそれをローマ字に直したもの。以下同じ)。これを「オデッサ」と表記してきたわけだ。
しかし実際のロシア語の発音とはほど遠い。というのもロシア語は綴りと発音の乖離が著しい言語であり(アクセントの置かれないoがaと読まれるというのは有名な話である)、したがって「アジェサ」のように発音するわけだが、ロシア語業界の常識としてロシア語は発音ではなく綴りに基づいて日本語表記するという慣例があるので、綴りを素直に読んで「オデッサ」と呼んできたのである。
いっぽうでウクライナ語ではОдеса(Odesa)と綴る。ロシア語との差異はsが1つか2つかである。……えっと、この綴りって「オデッサ」って書いても許される範囲じゃない?
というのは、日本語では、これまで綴りや発音からは「ッ」が入らない語であっても「ッ」を入れて表記することがあったからだ。たとえば、スラブ系の-vich/-vić/-vičという苗字はしばしば「~ビッチ」と書かれてきた(「ストイコビッチ」とか「ミロシェビッチ」とか)。だが冷静に考えてほしい、この綴りのどこに「ッ」を入れる要素があるのだろうか。文字の重なりもないし、実際に詰まって発音されるわけでもない。
それでも「~ビッチ」って綴りが使われてきたんだから、「オデッサ」って書いても「は? これはウクライナ語Odesaの日本語表記だが?」って言い逃れできるじゃん? わざわざ慣れ親しんだ表記を変えなくてもよいのではないか。
もちろん「オデーサ」の方が正確ではあるので、たとえば余計な「ッ」を入れずに「ミロシェヴィチ」と書く派の人なら一貫性を重視して「オデサ」か「オデーサ」と書くべきだろう。でも「オデッサ」と書く人がいたとしても、その人が「ミロシェビッチ」と書いているのなら、それは間違いとか不適切とは言い切れない。日本の新聞はずっと「ミロシェビッチ」と書いてきたんだから、別に「オデッサ」でもいいだろう。
ところで、南木義隆『蝶と帝国』という百合作品はオデッサが舞台になっているのだが、作中ではずっと「オデーサ」と呼ばれる。へえ、地名表記はウクライナ語で通すことにしたんだ、と何気なく読んでいたら、終盤、街を占領した赤軍兵士が「オデッサ」と呼び始め、それに傍点がつけられて強調されていたので喫驚したし落胆した。なぜかといえばオデッサは現在でも市民の大多数がロシア語を母語とする圧倒的な「ロシア語の街」であり、しかもヒロインは都市部のお嬢様という設定なのだからどう考えても彼女たちはロシア語で喋っていたに決まっているわけで(帝政期の都市部ではロシア語が支配的であり、ウクライナ語は「農民の言語」だったというのはロシア帝国史の常識)、さらにいえばそのような「ロシア語の街」に民族自決イデオロギーを掲げた共産党が乗り込んできて「都市部でもウクライナ語を使え」キャンペーンを張った(1920年代のコレニザーツィヤ政策)というのが史実なのだから、著者の認識は二重三重におかしい。だってこの作品、黒人のキャラが出てきて主人公と会話したりするんですよ。ロシア帝国の都市(しかもオデッサ!)に住む外国人が話す言語なんてロシア語一択でしょ……百合作品としては出来が良かっただけに、もうちょっとウクライナ史やロシア史について勉強しようよ、と思ってしまった。いや、完全に余談なんだけれども。
✈️「ロシア語で考えるんだ!」
つい昨日までは真面目なツイートが多く流れていた(主に技術系の話が多かった)が、一夜にしてTLはおっぱいにまみれていた。
一体何が起こったのか。
おっぱいは弾性力よりも吸引力の方が優っているのは自明の理。仕方のないことだ。
たった一つの過ちでTLのおよそ半数を持って行かれた。
おそらく全体におっぱいが多く溢れているのに対し、技術的な話などは割合としてそれほど多くないのだ。
インプレゾンビが複製に複製を重ねているおっぱいに対し、技術的ポストはインプレゾンビがわきにくい界隈だ。(AI系は怪しいところだが)
さらに日本語と英語しか理解できない技術の話は量が絞られるのに対して、おっぱいに言語など関係なく注目を集める。
日本語、英語、中国語、スペイン語、ヒンディー語、アラビア語、フランス語、ポルトガル語、ベンガル語、ロシア語。どれで投稿されていても等しくおっぱいなのだ。
技術ポストを沼地の接近戦のみを専門とする工兵だとするならば、敵は世界のオールラウンダーの歴戦兵だ。
兵力が圧倒的に違う。
たまに流れてくる分にはかまわないが、1クリックでおっぱい祭りにするのはやめてほしい。
俺も男だ。確かにおっぱいは好きだ。しかし、TLに欲しいものではないのだ。おっぱいがみたいならFANZAに行けばいいのだから。
またTLを正常化する為に、好きなのに「興味がない」と言う思春期の男子中学生のような態度を取らなければならないことが憂鬱だ。
ロシア人とフランス人の英語力は、日本人と比べると一般的に高い傾向があります。客観的な指標として、**EF EPI(EF英語能力指数)**を参考にすると、2023年のランキングは以下の通りです。
1. フランス人
一般的に英語教育は進んでいるが、フランス語の影響で発音や文法の違いに苦戦することが多い。
若い世代は英語に触れる機会が増え、特にビジネスや観光業では英語を話せる人が増えている。
2. ロシア人
英語教育はあるが、ロシア語と英語の言語構造の違いから習得が難しく、発音や語順のミスが多い傾向がある。
大都市(モスクワ・サンクトペテルブルク)では英語が通じるが、地方では英語力が低め。
3. 日本人
文法理解は比較的得意だが、発音や会話の実践経験が不足しがち。
客観的な指標では、フランス人 > ロシア人 > 日本人の順で英語力が高いといえます。ただし、個人差が大きく、特に都市部や教育環境によっても変わります。
芸術家が自分の特徴となる独特のスタイルを発展させると、そのスタイルが最も凝縮され洗練された形に達する点に到達することがよくあります。
この集大成の時点は、しばしば創造的な転換点となり、その後彼らの作品は新しい方向性を取るようになります。
押井守の「イノセンス」(2004年)は、彼の初期作品から発展してきた哲学的アニメ作品の美学の頂点を表しています。
現在、前作「GHOST IN THE SHELL / 攻殻機動隊」と共に4Kリマスター版の劇場公開で20周年を迎えた「イノセンス」は、
—人間と機械の境界、意識の本質、そして技術的な世界における魂—
を最も凝縮された形で蒸留している点です。
映画の美しくも疎外感を与える視覚効果や濃密な哲学的参照は、同じフレームワークの中ではこれ以上進化できないところまで彼の特徴的なスタイルを押し進めました。
「スプートニクの恋人」(1999年)も同様に、村上の主題的関心を最も結晶化した形で表現しています。
小説は馴染み深い村上のテンプレートに従っています:男性の語り手(「僕」)、彼の片思いの女性、そして現実と自己についての疑問へと導く謎の『失踪』。
この小説には村上の典型的な要素—孤独、謎めいた失踪、片思い、そして現実の曖昧化—が全て、ほとんど自己参照的とも言えるほど凝縮された形で描かれています。
タイトル自体が村上の孤独への関心を反映しています;「スプートニク」はロシア語で「旅の同伴者」を意味しますが、衛星は一人で旅をします。
それはまさに彼の登場人物たちが、互いに隣り合いながらも分離されて人生を進んでいくようです。
「機動戦士Vガンダム」(1993-1994)は、クリエイターが確立したスタイルを限界点まで押し進めた最も劇的な例を表しているかもしれません。
当初は子供向けの「楽しいロボットアニメ」として構想されたこのシリーズは、代わりにガンダムシリーズの中で最も暗い作品の一つとなりました。
スポンサーからのプレッシャーと強制的な変更に直面した富野は、観客の期待を完全に打ち破るよう設計されたかのような、非常に暗く妥協のない作品を作ることで応じました。
このシリーズは前例のないレベルのキャラクターの死と深く悲観的な世界観を特徴とし、富野自身も後に「Vでガンダムを本当に破壊したかった」と認めています。
この意図的な極端さは富野の一つの創造的段階の終わりを示し、その後の作品では新しいアプローチが必要となりました。
「千と千尋の神隠し」(2001年)は、「となりのトトロ」「魔女の宅急便」「もののけ姫」などを通じて発展してきた宮崎のテーマ的・視覚的な物語の集大成を表しています。
その細部まで行き届いた精神世界、成長物語、環境テーマ、そして強い女性主人公を持つこの作品は、観客が「宮崎映画」に期待するようになったすべてを統合しています。
日本で最も興行収入の高い映画となり、アカデミー賞を受賞するという前例のない成功は、実際、宮崎にとってジレンマを生み出しました。
彼のそれまでの傑作の複雑な世界構築とは異なる物語の語り方を受け入れました。
これらのクリエイターを結びつけるのは、彼らが集大成の地点に達したというだけでなく、この集大成が創造的な再生を必要としたという点です。
「イノセンス」の後、押井は「スカイ・クロラ」のような作品に移り、依然として哲学的でありながらも、異なる視覚的・物語的アプローチを取りました。
宮崎の「ポニョ」は、それまでの作品よりも意図的に単純で、より子供らしい美学を取り入れました。
富野の「Vガンダム」以降の作品は、トーンとアプローチの顕著な変化を示しました。
このパターンは創造的進化について深遠なことを明らかにしています—芸術家は時に、本当に新境地を開く前に、一つのスタイルの可能性を使い果たす必要があるということです。
彼らの特徴的なアプローチを論理的な極限まで押し進めることで、これらのクリエイターは本質的に、別の創造的章を開く前に一つの創造的章を閉じたのです。
アーティストの「特徴的なスタイル」を構成するものについての我々の認識は、避けられなくその作品に出会った時期によって形作られます。
これらのクリエイターをスタイルの転換点の後に発見した人々は、何が「押井的」または「宮崎的」な作品を構成するかについて、全く異なる概念を持つかもしれません。
この時間的な視点は、芸術的アイデンティティが静的ではなく進化するものであり、特定の作品がその進化における重要な変曲点として機能していることを思い出させます。
ここで説明された現象は普遍的ではありません—すべてのクリエイターがそのような劇的な集大成の地点やその後の転換を経験するわけではありません。
それにもかかわらず、これらの例は創造的発展における興味深いパターンを示しています。そこでは芸術家が真に新たな始まりを迎える前に、確立されたスタイルをその究極の結論まで持っていく必要があることがあります。
ハンガリーへ仕事で行った時に知ったんだが、ハンガリーは旧共産圏なので物価が安い国で、今でもロシア語がけっこう通じるような国だ。
今はEUなので簡単にオーストリアのウィーンに行けるが、ウィーンとハンガリーのブダペストでは物価に2~3倍ぐらいの差がある。
ハンガリーはとても良い国だが、金銭的にはEUの中で屈辱的な立場にある。
しかしそのハンガリーに、大勢のウクライナ人が出稼ぎに来ていた。これは戦争よりずっと前かららしい。
ハンガリーが元共産圏で、多少なりともロシア語が通じるのがメリットなんだろうと思う。
しかしそれでも、ハンガリーに出稼ぎに来た方が、ウクライナで働くよりずっと稼げる。
このひどい経済格差を前提として知っておかないと、この戦争の本質を見誤ると思う。
ロシアに依存していても経済状態が改善するめどが立たないので、ウクライナは西側にすり寄ろうとした。それをロシアが攻撃した。
ロシアが負けて、海のないモスクワ国という小さな内陸国になるのが理想ですね
シベリアは各共和国に独立して、ウラジオストックはアメリカが所有すれば北鮮と中国に対する威嚇になるよね
そんな結末になるといいですね
ウクライナにロシア派政治家を増やしたことでたいがいイジられてきてるしロシアの敗北は予定されている
このあたりか
迂闊にゼレンスキーのいうとおり英語圏になるのも危険だと思うし戦争続けて死ぬのもアホだろと思うが
2023-03-25
https://anond.hatelabo.jp/20230325231918
あの頃はまだみんな威勢が良かった