はてなキーワード: マーティンとは
日曜の深夜に始まったLAZARUSを見て以来、毎日、何回もBoo RadleysのLazarusを聞いている。正確に言えばYouTubeでバンドのPVを見ている。
COWBOY BEBOPで有名なアニメ作家の新作アニメがLAZARUS(読みはラザロ)で、タイトルはBoo Radleysの30年以上前の曲からの引用でED曲にも使われると知り、急に興味がわいたのが金曜の夕方だったからギリギリ間に合ったのだ。
アニメには本当に疎いので、作品の出来の良しあしはわからないが途中のパルクールシーンの劇伴がかっこよかったので継続しようかなと思えた。
劇伴とOP曲はKamasi Washingtonなので、この監督のファン層であろうサブカルに敏いクラスター的にはそっちに注目してるようだが、僕としてはどうしてもED曲のLazarusのほうに注目してしまう。
EDの動画もYouTubeにアップされ、そこそこ見られてるようだが、本家のBoo RadleysのPVが数か月前に見たときの倍くらいまで再生数を稼ぎ出していて、コメントもこの数日から一か月くらいで新規がついてるのを見るとちょっとうれしくなった。
僕が90年代後半のBrit Popブームの中で、ほぼ唯一好きになりにいったバンドがBoo Radleysだった。
他にも好きだったバンドはいっぱいある。それこそBlur、Oasisの二大巨頭はもちろん来日公演を見に行っていたし、Kula Shaker、Dodgy、The Verve、Radiohead(当時はまだCREEPがヒットしたバンドみたいな扱いだった)、Supergrass、Mansun、Bluetones、etc...個々の曲で好きな曲は山ほどあった。ちょっと遡って、Stone RosesやHappy Mondays(どちらかと言えば好きだったのはBlack Grapeだったが)、James、Soup Dragonsあたりも好きだった。
そうしたバンドはだいたいが、何度か聞いたら普通にファンになっていったのだが、Boo Radleysはちょっと違って、このバンドはよくわからなくても何度も聞いて自分から好きになりにいったバンドだった。
Boo Radleysを知ったきっかけはちょうど30年前の今くらいの時期に吉祥寺のレコファンで聞いたWake Up Boo!だった。そう、Boo Radleysといえば、Wake Up Boo!なのだ。「史上もっとも気分が良くなる曲」に認定されたというあの陽気なホーンのイントロとさわやかなメロディの。
しかし、僕が聞いたWake Up Boo!はちょっと違った。曲が終わったとたん長くダビィなトリップホップのような展開が延々と続くバージョンだった。あとで購入した盤でWake Up Boo!: Music For Astronautsというバージョンだと知った。
とにかく陽気なのに突然薄暗くシリアスな面を見せてくるこのバンドは何かが変だ、これは聞いてみないとと思ってアルバムWAKE UPを買って聞いてみた。CREATIONというレーベルなのでそういうバンドだとは想像していたが思った以上に陽気でメロディアスな曲は多くなく、全体に違和感を感じるくらいに当時のBRIT POPにありがちな軽薄さが全然ない、むしろ、Wake Up Boo!は無理やり作ったんじゃないかと思えるくらいの根の暗さを無理やり押し隠したようなアルバムだった。(実際、Wake Up Boo!は録音時にギターのマーティン・カーの技量的にまだ厳しくて、通しでは弾ききれなかったらしい)
当時は大学生なりたてて、浪人時代を少し引きずっていて鬱屈気味なのに無理やり明るくなろうとしていたこともあったのか、なんとなくこのバンドのことをちゃんと知りたいと思うようになった。当時はまだ大学生の半数くらいが浪人だった時代でマジョリティまでいかなくても同級生の半分くらいは浪人を経験してきているので、そんなにコンプレックスを感じることもなかったのだが、それでも1年間の浪人経験は入学後もしばらく自分の人格に影響を与えていたのは否めない。
そうした自分にとってこのバンドは何か心に刺さるものを届けてくるように思えた。好きなバンドとは言い切れないが、でも何度となく聞き続けてファンになる必要があると思った。そういう意味でこのバンドは最初から好きだったわけではなく好きになりにいったバンドだったと思う。
アルバムのライナーノーツや音楽雑誌の批評を読みながらアルバムを聴いていたが、どの批評でも前作のGiant Stepsと収録曲のLazarusについて触れているのを目にして、それらも聞かないとならないと思い、たまたま大学の近くのディスクユニオンで見つけたGiant Stepsを購入して聞くことができたのはほどなくしてだった。全然わからなかった。正確に言えば、なんで1993年のベストアルバムとしてこのアルバムがあげられるのかわからなかった。当時の自分にいわゆるシューゲイザーバンドへの素養がなかったのもある。マイブラやRideがわからなかったのと同じだと思う。このアルバムを一聴で好きになるにはその素養が必要とされた。でも、何度も何度も聞き続けるうちにものすごく面白いアルバムではないかと思うようになっていた。
そしてLazarusが耳からこびりついてしばらく離れなくなった。突然始まる轟音ギターに重なるトランペットのフレーズの美しさ、メリハリをつけるように静かになった中でほとんど1フレーズのメロディが歌われ、ふたたびサビのようにトランペットが流れる。なぜか今でも思い出すこのころの大学周辺の天気は曇り空なのだが、そこのBGMとしてLazarusはぴったりだった。
まあ、とはいえLazarusやそのほかのBoo Radleysの曲ばかり聞いていたわけでもないし、むしろ他のバンドのほうがいっぱい聞いていたように思うが、なんとなく自分の大学時代の音楽と言われるとBoo Radleysが真っ先に思い出されるし、今でも聞くとちょっと内臓の奥の方がぎゅっとされる感じはある。
そんな僕も大学を卒業して就職し、たまたま出会った女性と結婚して、子供が生まれた。聞いてる音楽はBrit Popからトリップホップを経て、クラブミュージックに移行してロック方面はあまり詳しくなくなるうちにいつの間にかBoo Radleysも解散していた。
息子は僕にはなかった音楽の才能がそれなりにあったようで、ピアノをずっと習いつつ家ではボカロ曲なんかと弾いたりするような子になった。とはいえ、自己顕示欲がはなはだ薄いのでネットにアップするようなことはしなかったが。
そんな息子は高校に入り吹奏楽部に入った。サックスを吹くようになり、そこそこはまった彼は家でもYouTubeでいろいろな演奏動画を見るようになった。僕がクラブ文脈で好きだったロシュフォールの恋人たちのキャラバンの到着や、ルパンのテーマ、Sing Sing Singあたりを好んで聞いてるのはちょっと嬉しかった。息子にあれこれと教えたりもした。そうした中に息子が自分で動画あさりをしていく中で見つけた曲にCOWBOY BEBOPのTank!もあった。僕も聞いてなるほどこれはいい曲だと思った。
ルパン三世、というか、それが参考にしていたラロシフリンやエンニオモリコーネ、アルマンドトロバヨーリといった古き良き探偵、スパイ映画のような素晴らしくスリリングなテーマソング。アニメに熱狂的なファンがいるのもうなづけると思った。
あわせて息子は中学の終わりくらいから深夜のアニメを見始めるようになり、時折、リビングのテレビでも見るようになっていった。特にジャンプラ系のマンガ原作のアニメは僕がジャンプラを読んでることもあり、一緒に見ることが多かった。次第に息子の興味はこてこてのアニソンよりも、米津やKing Gnu、髭dan、ミセスあたりを経由してJ-POP方面になっていった。そして今度は息子の好きな音楽を通じて僕も最近のJ-POPがちょっとわかるようになったし、ちょっと好きになってきた。ちなみに今、息子が一番好きなのはサカナクションだったりする(もちろん、チ。経由)
そうした中でLAZARUSが始まった。息子はあまり体系的にアニメを見る方でもないこともありCOWBOY BEBOPも見ていないので、初回は見たのかわからない。僕はリビングで一人で見ていた。
僕は半信半疑でEDを待っていた。そして、EDが始まった。あの轟音ギターとトランペットがリビングに鳴り響いた。いや響くというほどの音量でもないが。正直、共感性羞恥のようなものが若干発動したが嬉しかった。死体のようになった登場人物を次々に画面に出すまるでワンカットのような映像、あまりにもはまっていた。僕が大学の始まりの年に感じていた微妙な心象風景のような映像だった。自分は生きているのだが周りは生きているのかわからないような。
すごく良かった。この映像がきっかけでBoo RadleysのLazarusが話題を集めたら面白いと思った。
そして、ちょうど大学生になった、つまり僕がBoo Radleysを好きになりに行った時と同じステータスになった息子とLAZARUSを見て感想を言い合いたいと思った。
「ギブアンドテイクがわからない」と思うなら、フェリックス・マーティンの『21世紀の貨幣論』って本を読むといいかも。
本書は、貨幣の歴史やその本質を通じて、信用と負債の関係がどのように社会の基盤を形成しているかを詳しく解説している。
なんでお金の話かっていうと、お金ってただの交換手段じゃなくて、「信用」と「負債」のシステムとも捉えることもできる。つまり、「今はもらう側だけど、後でちゃんと返すよ」という広義の「ギブアンドテイク」の上に成り立っている。
昔の社会では、贈与や貸し借りが経済の基本だったし、現代の銀行システムも結局は「信用」で回ってる。実際お金の歴史をたどると、ギブアンドテイクってただの道徳じゃなくて、社会全体を動かす仕組みだとわかる。
つまり、増田が感じる「過去の行動が次に影響しない」といった独立事象の考えに対し、実は社会全体が「お金」を通じて信用や負債というギブアンドテイクのネットワークの上に成り立っているという視点を提供してくれる本なんよ。
この本を読めば、ギブアンドテイクという概念が単なる「記憶された善意」ではなく、むしろ社会的信用のネットワークとしてどのように働いているのか、そしてそれが増田の感じる「独立事象」とは異なる側面を持つことに気づけるかもしれない。
1. アメリカン・ゴッズ(American Gods)
作者: ニール・ゲイマン
概要: 古代の神々が現代の新しい神々と対峙する物語。主人公シャドウ・ムーンは、刑務所から出所直前に妻の死を知らされ、オーディンを名乗る謎の男と出会い、神々の戦いに巻き込まれていきます。
2. アースシーの魔法使い(A Wizard of Earthsea)
作者: アーシュラ・K・ル=グウィン
概要: 魔法学校に通う少年ゲドが、誤って暗黒の力を解き放ってしまい、その結果を修正するための冒険に出る物語。政治やフェミニズムのテーマを背景に、ファンタジーの枠を超えた深い物語が展開されます。
3. ファーシーアの物語(The Farseer Trilogy)
作者: ロビン・ホブ
概要: 王子の私生児であるフィッツが、暗殺者として育てられ、六公国を舞台にした冒険と陰謀に巻き込まれる物語。魔法や政治的陰謀、ゾンビの呪いなどが絡み合う壮大なファンタジーです。
4. ジョナサン・ストレンジとミスター・ノレル(Jonathan Strange & Mr Norrell)
作者: スザンナ・クラーク
概要: 19世紀のイギリスを舞台に、魔法が復活し、2人の魔法使いがその力を振るう物語。ナポレオン戦争の時代背景を持ち、優雅でウィットに富んだ歴史的ファンタジーとして高く評価されています。
概要: 外宇宙を舞台にした外交的な陰謀と詩的な形式が絡み合う物語。小さな宇宙ステーションの大使であるマヒト・ズマレが、巨大な帝国ティクスカランに赴き、前任者の死の謎を解き明かす過程が描かれます。
注:steamにも1つ前のバージョン4のやつならある。そのうち5もsteamに出てくるはず。フランスのeversimという会社のゲーム。
https://store.steampowered.com/app/2392520/Power__Revolution_2023_Edition/
超面白いのに、日本で知名度なさすぎて、開発終わらないか心配になったので、ここで宣伝してみる。ちなみに、NATOの教材として使われているらしい。確かにリアルだからね。公式の訳が地政学シミュレータなので、そう書いたが、経済シミュレータと言った方が良いかもね。後、Civとの違いは、本当に存在する現代国家を経営できるってところかな。アメリカや日本としてプレイできる。エチオピアやらコンゴ、北朝鮮も、その他殆どの国がプレイ可能。不謹慎かもだけど、ウクライナの戦争だってプレイ開始時点で起こってるから、ウクライナを援助して勝たせることだってできる。最新の5なら、AppleやGoogle、Microsoftやトヨタ、ロッキードマーティン社等の様々な企業もプレイ可能だ。後バグだらけなのは確かだけど、全くゲームにならないほどではないし、大抵はバグの息吹を感じれば回避できるようになるから、そんなに支障はないよ!慣れたら滅多にバグのせいでゲーム続けられなくなったりしない。まあロシアとウクライナの戦争が終わった途端にロシアのGDPが30倍以上になったバグはかなりビビったけど。まあ領土の変更無しの形で終わらせれば回避できたしね。
ちなみに複数国、複数企業同時プレイできるから、ある国で他の自分が操作している国を助ける事もできる。
まあ簡単に言えば、経済シミュレーションにHOIをくっつけて現代版にした感じ。軍事ユニットを指揮して戦争を指導する事もできるよ!まあ戦争関連は特にバグ多いから戦争はおすすめしないけど。でも、HOIをやってて、経済要素があればもっと面白いのに!とか、工場を立てまくる事が好きだった人には絶対ハマると思う。ちなみに第二次世界大戦のゲームでなく、この現代の、2024年を舞台にしたゲームだ!
君はパラドックス社のHOI2をやった事があるか?あるならきっとこのゲームで棍棒外交をするのにハマるだろう。
君はパラドックス社のVictoriaシリーズをやった事があるか?あるならば、きっとこのゲームで国を経済成長させるのにハマるだろう。
君は、現代国家を舞台にしたシミュレーションゲームが中々無いと嘆いた事はあるか?あるならば、きっとこのゲームは君のために作られたものだ。
さて、何故このゲームが素晴らしいのかについて語ってみよう。ちなみにパラドックス社のゲームではない。フランスのeversimという会社のゲームだ。
このゲームの素晴らしさ、それは自由度の高さ、そして経済シミュレーション部分のリアリティだ。
プレイヤーは、現実に存在する国家の首脳となり、その国の行動を操ることができる。
プレイヤーは、例えば、中央銀行の金利を操作することができる。また、所得税、社会保険料、炭素税、環境税、ポルノ税、森林伐採税、etc。。。色んな種類の税金の税率をあげたり下げたりすることができる。(最も、民主主義国家だと、議会の賛成をある必要がある。)また、色んな産業に補助金を出す事も、各省庁の予算を増やして、治安を良くしたり、違法労働を減らしたり、教育に力を入れる事も可能だ。公務員の数を増減させる事だって自由自在である。他国にサイバー攻撃を仕掛ける事も、科学研究にお金を注いで技術的優位に立つ事だってできる。一つのテーマとして、地球温暖化の阻止の要素もあって、火力発電所を減らして原発とか太陽光発電所を建ててCO2排出量を減らせば、支持率が上がったりもする。
そして、ユーザーのアクションは、当然経済に影響を与える。金利を下げれば景気は良くなるし、自国通貨は安くなる。最低賃金を上げれば、失業率が上がるし、輸入額も増える。法人税を下げれば税収は減るが、景気は良くなるし、上げれば悪くなり、失業率も増える。およそ基本的な経済の仕組みはちゃんとシミュレートされている。
そして、バグだらけだが、最新のGeopolitical Simulator5では、何と企業まで操作できるようになった!国家と企業を両方操作できるので、企業として人を雇ったりして景気を良くしつつ、国の福祉を充実させるなんて事もできてしまう。企業は、他の企業の株を買って買収したり、株主にどのくらい利益を還元するか決定したり、工場を作って生産量を増やす事もできる。
このゲームの魅力は、とてもこのスマホでは書ききれないが、一つだけ確かな事は、このゲームは、パラドックス社とかのシミュレーションゲームが好きな人にとっては、確実に買いという事だ。バグだらけなのは残念だが、それを差し引いてもあまりある面白さ!きっとバグも、ユーザーが増えれば解消されるだろう。
経済の勉強にもなるし、最新の5はまだ日本語版がないが、そのうち対応されるはずなので、皆、とりあえず英語版を買ってみてはどうだろうか?多分日本語版も出てくれば無料で日本語版に切り替えられるはず。今までのシリーズはそうだし。
最近最新のGeopolitical Simulator5は、以下のリンクから買えます。バグだらけだが、絶対この最新版を買った方が良い。企業が使えるし。ちなみに、普通に日本から検索してサイトに行くと、langue=enの部分がjaとかになって、まだリリースされていない日本語版へのリンクに行って買えないので、このリンクから進んだ方が良い。アフィとかじゃないよ。
https://www.geo-political-simulator-5.com/buy_selling_point.php?langue=en
2021年1月、はてなブックマークで以下の記事が多少話題になった。
日本語版ウィキペディアで「歴史修正主義」が広がる理由と解決策 - 佐藤由美子の音楽療法日記
佐藤氏が気にかけていたのは、あくまでも日本語版Wikipediaの日本の歴史認識問題についてのみだったようだが、私は当時から、いわゆるホロコーストに関しても、歴史修正主義者のWikipedia上での活発な活動を知っていた。奴らは、ちょこちょこちょこちょこ、関連記事を編集していたのを目撃していた(実際にはネットで知り合った人から教えてもらったw)。その時から、私の奴らとの孤独な戦いが始まった。本当に孤独で、誰か他におらんのか?と思うほどである。
そんな戦いをしているのは私(と他に何人かはいるかもしれんがよく知らない)くらいかもしれないが、とにかく日本語版でのホロコースト否定派に属するであろう歴史修正主義者はWikipediaで暗躍し続けている。
例えば、ニュルンベルク裁判の記事では、「被告に対する暴行や弁護団への不法行為」という項目で、ヴェルナー・マーザーというドイツ人歴史学者による著書『ニュルンベルク裁判 ナチス戦犯はいかにして裁かれたか』だけを使って、ニュルンベルク裁判で被告らが暴行・拷問を受けるなど不当な行為が行われたと書かれている。少し調べると、ヴェルナー・マーザーは歴史修正主義者と見做されており、ドイツ語版のWikipediaにあるヴェルナー・マーザーの解説には次のように書かれている。
しかし1977年以降、マーザーは歴史修正主義者に分類されるようになった。特に『ニュルンベルク:勝者の法廷』(1977年)、『言葉の破れ』(1994年)、『ヒトラーとスターリンに関する改竄、虚構、そして真実』(2004年)といった著作のせいである。ヒトラーと国家社会主義に関する彼の全体的なテーゼは、ナチスの研究によって否定された[4]。
残念ながら、マーザーの著述を批判するほどの知見は私にはないので、Wikipediaの記述を修正することは今の所無理だが、同ドイツ語版ページには上の引用の直前にこうも書かれている。
メーザーの文書館での作業、資料や二次文献の知識、同時代の証人や専門家との接触、調査方法は、初期の著作では歴史学的基準を満たしていたため、ナチスの歴史に関するこれまで知られていなかった詳細を文書で発見したことは、研究衝動として認められた。例えば、マーティン・ニッセンは、事実をつなぎ合わせることに関しては、メーザーが多くの専門的な歴史家よりもはるかに優れていると見ていた。
しかし、多くの専門家たちは、彼のこうした事実の扱いを批判した:例えば、カール・ディートリッヒ・ブラッハー、ロバート・G・L・ウェイト、ジークフリート・シュヴァルツは、ナチス時代に関する著書の中で、彼が他の著作からバラバラの詳細を集め、歪曲したやり方でそれらをつなぎ合わせ、本質的な事実とそうでない事実の区別をつけなかったと非難した。
ドイツの歴史研究界隈で物議を醸す歴史家だったことは確かなようではあるが、マーザー自身はホロコーストを否定していないようではあるが、ニュルンベルク裁判で被告に拷問をしていたと記述していた点は、どうも日本人の歴史修正主義者にはかなりのお気に入りのようではある。
そして、「被告に対する暴行や弁護団への不法行為」より下の項目を読んでいくと、もはや修正主義者の独演会になっている。例えば「不起訴になったカティンの森事件」という項目があるが、カティンの森事件は修正主義者・ホロコースト否定派の大のお気に入りで、何故かといえば、ソ連のゴルバチョフ書記長時代に実施された情報公開政策「グラスノスチ」により、カティンの森事件がソ連の犯行であることが、ソ連自身によって文書証拠付きで示され、ソ連がそれまでナチスドイツの仕業だ!と言っていた、そのソ連の主張が嘘であることが確定したからである。
ホロコーストに関しては、ユダヤ人絶滅のほとんどが、ソ連地域や第二次大戦で結果的に終戦まてにソ連が占領した地域で起きたとされていることから、否定派はホロコーストはソ連の捏造だ!と主張してきたので、カティンの森事件がソ連による嘘だと確定したことには大喜びなのだ。つまり、修正主義者たちは「ほらみろ!ソ連は嘘つきだと判明したじゃないか!ホロコーストだってソ連の嘘に違いない」と言いたいのである。
だからこそ、ニュルンベルク裁判の内容にはほとんど関係のない、カティンの森事件についてまで記述されているとしか考えようがない、だいいち記事中に書かれている通り、ニュルンベルク裁判では審議の対象にすらなっていないのだから、ほとんど書くべき内容はないはずである。事実、英語版ウィキペディアのニュルンベルク裁判の記事では、たった一文「西側の検事たちは、審理全体に疑念を投げかけることを恐れてカティンの罪を公に否定することはなかったものの、懐疑的であった[160]」と書いてあるだけで、日本語版のように項目にすらなっていない。
続く項目は、カティンの森事件以上にホロコースト否定派が大好きな「発見されなかったヒトラーのユダヤ人絶滅命令や計画書」だ。ホロコースト否定派はヒトラーのユダヤ人絶滅の命令書は存在しない!というテーゼを抱えて絶対に離さない。個人的には、もしホロコーストが連合国やユダヤ人による捏造なら、それこそヒトラーの命令書が捏造されていないことは、極めて不自然(ペラ一枚捏造するくらい造作もないだろw実際、文書資料として残されているT4作戦のヒトラーの命令書(承認書)は簡素なものだった)だと思うのだけど、ホロコースト否定派はそんなコマケェ話は気にも留めない。命令書が存在していないのだから、ナチスドイツのユダヤ人絶滅など作り話に違いない!、という鬼の首なのである。
しかし、そこには書いてないが(何故それを書かないのかわからないが)、歴史家のほとんどは「ヒトラーによる命令は口頭でなされたのであろう」と考えている。詳しくはここでは書かないが、それなりに間接的な証拠がいくつか存在するからだ。ヒトラー自身が強烈な反ユダヤ主義者だったことを否定する研究者は存在しない。それは修正主義者ですら認めている(アホなネット否定派の中には認めない人もいるが)。ナチ党自身が反ユダヤ主義者の集まりであった。「ユダヤ人を殺す」とする趣旨の記述を持つ当時のドイツ文書は腐るほどあるのである。例えば、リトアニアでユダヤ人を殺しまくっていた親衛隊将校によるイェーガー報告書という文書を読んでみるといい。そこには「ユダヤ人を全員殺したかった」とさえ書いてある(全員はその地域の労働力の保存の意味で殺せなかったから不満を言っているのである)。それら諸々の記録などを調べていたら、ヒトラーの命令がなかったことは非常に考え難いのだ。
ともかく、日本語Wikipediaのニュルンベルク裁判に関する以降の記述項目もほぼ全て、ホロコースト否定派・修正主義者による記述だと断定していいだろう。ニュルンベルク裁判についての解説として、まともなのは記事の前半くらいなのだ。それが、履歴を多少確認する限り、かなり以前から放置されてきたようなのだ。日本人はニュルンベルク裁判などほとんど関心がないからだろうか?
私自身は、このニュルンベルク裁判を大幅に書き換えるほどの知見はまだ持ってない(細かいことなら可能ではあるが…)し、他のホロコースト関連記事で多少活動している程度である。それらの他の記事でも、実際のところホロコースト否定派と思しき奴らの記述は散見されるし、しかも奴らの記述をあまりにも大幅に書き換えたり、あるいは削除したりすると「削除しないでください!」と履歴欄でクレームをくらうことは頻繁だし、最悪な時は編集合戦と認められて、保護状態にされてしまったことすらある。Wikipediaは厄介で、敵対する相手とも共同編集せざるを得ないため、とんでもなく面倒なのである。しかも、ホロコースト否定に対抗する場合、「要出典」とならないように、可能な限り出典を明示するべきなのだけれど、日本語圏では壊滅的にホロコースト文献を得るのは至難の業なのである。どうにかこうにか、若干の日本語文献と、ネット上の文献を駆使してはいるが、とにかく図書館に行っても、適切な文献を見つけることは困難なのである。稀に洋書を見つけることはあるけれど、そもそもすらすらとは読めない…。
ところが、否定派の連中ときたら、平然とその出典部分を修正主義者のサイトから持ってくるのである。有名なのは、歴史修正主義研究会で、こちらには大量の欧米の修正主義者による論文の日本語訳が公開されていて便利なのだ。そして、もう少し知恵の働く修正主義者はこの歴史修正主義研究会のサイトを経由して、欧米の修正主義者サイトにある資料を典拠としたりする。あるいは酷い人になると、どこの誰が作ったのかもよくわからない怪しげな歴史修正主義者のサイトにある記述を出典とする人もいて、Wikipediaのガイドラインなんざガン無視していることすらある。
多分、語圏の広い英語版だと、修正主義者よりはるかにそれに反対する人たちが多いからなのだと思うけど、英語版のホロコースト関連記事ではほぼそんなことにはなってない。英語版で修正主義者の記述を見つけることはほぼ全くないと言っていい。しかし、日本では以上の有様なのだ。私はここ増田で何度も「日本にもホロコースト否定派は多い」と言ってきたと思うのだけれど、それを問題に思う人も少ないのかもしれない。実際、ホロコースト否定の日本のネット上での存在を知って、ホロコースト否定論への反論がほぼ日本語では存在していないことを知ったから、数年前から、主に海外の記事を翻訳してnoteを通じて公開してきた。
勝手に翻訳公開するのは著作権がどうのと言われたこともあるが、人力でAI翻訳しているだけとでも思って欲しい。私の翻訳がしばしばハルシネーションを起こしているのは私が生身のAIである証拠だ(笑)
誰か手伝って欲しいという気持ちは正直なところだし、ここ数年、大量のネット上の海外記事を翻訳し続けてきたし、それら記事に辿り着く人もそこそこ増えてはいるようだし、最近はもういいかなとも思い始めてはいる。結局、多数の賛同を得られないのであれば、それはそれでしょうがないかなという気もしている。ネット上の否定派たちは、私からみる限り、どこからでも湧いてくるように増殖する、ように見える。正直、キリがない。一応趣味でもあるから、完全に辞めることはないとは思うけど、ともかく、どうしてこんなにデマに弱い人が多いのか、よくわからない。
「オマエモナー」と言われるかもしれないが。
イギリスとノルウェーのすべてをレビューすることはできませんが、ロンドン(Lūndonjon / Lūndyn / Lunden)をレビューすることができます。
西暦873年にそこに立っていたであろうものの多くは欠けています。ユービーアイソフトの歴史家は、ウィキペディアからこの地図を参考にしたようだ。
https://en.wikipedia.org/wiki/File:Map_Londinium_400_AD-en.svg
しかし、その地図には、当時のロンドンの少量の建物が含まれています。このレベルの歴史研究では、ウィキペディアのような一般的な知識サイトは不十分です。
一般:
または、フォーラムの南にあるCandelwic Strætのロンドンストーン(Millarium / Praetoriumゲート)から放射する道路のパターン:
Trajectus Way:Douegæt(川までダウンゲート)からLondon Stone(Candelwic StrætのPraetoriumゲート)まで
Wæcelinga Stræt(Praetorian Way):南東からニューゲートまで
Earninga Straete (Ermyn/Ermine street a.k.a.オールドノースロード)は、Wæcelinga Stræt southwarkに同行し、南西からDouegætに入り、Cripplegateまで北上しました
ヴィシナルウェイ(フェンチャーチ通り)TrajectusからAeldgate(旧門)を通ります
フォーラムの東:
フォーラムの西:
クリップルゲート:
ルンデンウィッチ:
ゲームには一般的な「Lundenwic Abbey」が1つあります。9世紀には、ルンデンウィッチには5つまたはおそらく7つの修道院があっただろう。
他のいくつかの観察:
最近、Mr.太陽は眠りに落ち、私が外出しているとすぐに思いとどまりました。約束したのは早すぎると思ったとき、別れを告げなければなりませんでした。とても寂しいです。この国にはあんな雨は降ってほしくないですよね?
あ、岸田ちゃんかもしれない。氏岸田氏は本当に間違っていたのではないかと思うほどだ。太陽はこの国にたくさんの光をもたらすことができる。しかし、8月は雨が多かったです。岸田ベイはそこで休むのかな?いずれにせよ、このままではこの街は氷河期のように寒くなり、ミスター・マーティンと同じくらい寒くなるでしょう。太陽は私たちに光を当てるのをやめた。北海道のシロクマと沖縄のペンギン。同様に、氏が任命された国は世界で 4 か国しかありません。太有と野党の影響?
そうは言っても、太陽さんが再び退く時が来ました。
お店
そして、この行き詰まりを乗り越えるために、私たちは私たちの種の歴史から何を学ぶことができるのか?
このような問いは、歴史を通じて真剣な思想家や活動家たちを駆り立ててきた。そして今、地球温暖化に直面している私たちは、緊急に説得力のある答えを必要としている。これらはグレーバーとウェングローも問いかけていることであり、本書が人々の注目を集めた理由であることは間違いない。しかし、私たちの多くが抱く3つ目の疑問がある:
意外なことに、グレーバーとウェングローはこの問いに関心がない。第1章のタイトルは「人類の幼年期よ、さらば」である:あるいは、なぜこれは不平等の起源についての本ではないのか」と。
この本の中心的な主張のひとつは、不平等、ヒエラルキー、暴力は、あらゆる人間社会を組織する方法として常にあり得たということだ。不平等以前の時代などなかったのだ、と彼らは言う。そして、「平等」や「平等主義」という言葉を多用するが、平等は空虚な関心事であり、おとぎ話であり、「平等主義社会」について語ることは何も語らないことだと主張する。
これには奇妙な解釈がある。グレーバーとウェングローは、霊長類の祖先や初期の人類が平等であることによって見出した適応、つまり生態学的ニッチについて説明する新しい注目すべき学問を無視している。つまり、かつて人類は平等であったのだから、再びそうなる可能性があるという古典的な無政府主義者やマルクス主義者の見解も無視しているのだ。
保守派の主張は、農耕や都市生活、経済の複雑化の結果として不平等が現れてしまえば、世界を変える希望はないというものだ。グレーバーとウェングローは、農業に関するこの議論に抵抗し、明らかに変化が可能であることを望んでいる。そして明らかになるのは、彼らの敵は不平等ではなく、国家だということだ。
彼らが問うのは、権威主義的、官僚主義的、中央集権的な国家に支配されるようになったのはなぜか、ということだ。そして、植民地主義、奴隷制、階級差別、人種差別、性差別といった不平等が本書の随所に出てくるが、これらは彼らの中心的な関心事ではない。
グレーバーとウェングローが主張する政治的論点は、太古の昔から、人は常に支配と自由のどちらかを選ぶことができたということだ。彼らにとって、人々は彼らが国家支配の「小規模な」行き詰まりから逃れ、「自由な人々」になることを選ぶことができる。
彼らが否定するのは、環境的・技術的な限界によって人々が選択できること、そして選択できることである。要するに、人々は自ら選択した状況で歴史を作るのである。
この立場の見返りは、政治的な意志さえあれば、革命を起こし、コンセンサスを通じて働く民衆の集まりによって社会を運営することができると主張できることだ。どれも素晴らしく、解放的に聞こえるが、その根拠には問題がある。
グレーバーとウェングローはこの本の冒頭で、善であれ悪であれ、「元来の」人間社会が存在したという考えを否定することを目的としている。そのために彼らは、ルソーとホッブズの間で長年続いてきた議論を復活させる。
さらに重要なのは、19世紀の社会ダーウィニズムや、より最近のスターリン主義的な「歴史の段階」理論に対する、彼らの完璧なまでの嫌悪が冒頭に示されていることだ。そしてここでもまた、ジャレド・ダイアモンド、ナポレオン・シャグノン、スティーブン・ピンカーのような進化心理学の現代ホッブズ主義者に対する深い軽蔑を表明している。歴史の段階説も進化心理学も、深刻かつ重要な対象であり、私たちはその両方を共有している。
社会ダーウィニズムと歴史の段階説。ハーバート・スペンサーとルイス・ヘンリー・モーガンの19世紀の社会ダーウィニズムと、それ以降のバージョンでは、最初の人類は原始人であり、次に未開人、野蛮な園芸民と牧畜民が続き、その後に農耕の出現、古代文明の発展、中世を経て近代資本主義社会の夜明けまで続く。それぞれの段階は、道徳的・知的進歩のシグナルであると理解されている。
しかし、社会ダーウィニズムはいたるところに潜んでおり、ほとんどの主流政治思想の醜い礎石であり続けている。そしてそれは、現代の人種差別主義や新植民地主義を支え続けている。
左派を含む多くの人々にとって、グレーバーとウェングローによる段階的な歴史理論の解体は目新しいものであり、啓示と安堵の両方として体験されるだろう。そして、その理由は容易に理解できる。
そして、グレーバーとウェングローの攻撃には、さらなる特効薬がある。彼らはこの本の中で、マルクスとエンゲルスの仕事についてはほとんど何も語っていないが、歴史の段階説を否定することで、伝統的なマルクス主義者の進化論的説明も暗黙のうちに否定しているのだ。
これはフリードリヒ・エンゲルスの著書『家族の起源 私有財産と国家』において最も顕著である。エンゲルスはそこで、人間は平等の中で進化してきたが、農耕の発明によってあらゆる形態の不平等が生まれたと主張した。ここまではいい。
しかし、エンゲルスはその枠組みを、白人差別主義に彩られたスペンサーとモルガンから直接学んだのである。例えば、エンゲルスがなぜ動物の群れを持つ牧畜民が他の未開の民族よりも人種的に優位に立つと考えたのか考えてみよう。
「アーリア人とセム系民族の発達が優れているのは、牛乳と肉が豊富に供給され、特にこれらの食物が子供の成長に有益な影響を与えるからであろう。ニューメキシコのプエブロ・インディアンは、ほぼ完全な菜食主義者であるが、肉や魚を多く食べる野蛮の下層にあるインディアンよりも脳が小さいという事実がある」[1]。
エンゲルスの著書にはそのような箇所がたくさんあり、このように書いているのは決して彼だけではない。
フランツ・ボアスグレバーとウェングローが、このような反感を買うような議論を破壊したいと思うのはまったく正しい。しかし、彼らはあたかも自分たちがそうする最初の一人であるかのように自らを装っているが、これは明らかに違う。フランツ・ボアスは、太平洋北西海岸のクワキウトル族に関する初期の民族誌で、グレーバーとウェングローはこれを大いに参考にしている。
フランツ・ボースは、ユダヤ人フェミニストで、1848年にヴェストファーレンのミンデンという町で起きたドイツ革命の指導者の一人であったソフィー・メイヤーの息子である。1851年までに、彼女の読書グループはマルクスとエンゲルスの『共産党宣言』を読んでいた。
ボースは人類学者になった。カナダではバフィン島のイヌイット族やバンクーバー島のクワキウトル族を現地調査し、最終的にはニューヨークのコロンビア大学の教授となった[2]。
1913年、彼は段階説の人種差別主義を打ち破り、近代人類学の基礎を築いた。ボースは『原始人の心』の中で、「原始人」は誰よりも賢く、賢く、創造的であると主張した。1913年当時、ボースは母親の政治を否定していたわけではなく、ユダヤ人として、またアメリカ先住民の党派として、人種差別を憎んでいた。
ボースは生涯社会主義者だった。母親の影響は、ルース・ベネディクト、マーガレット・ミード、ゾラ・ニール・ハーストンなど、多くの女性人類学者の世代を育てたことにも表れている。ボアスと彼の教え子たちは、人種差別的な段階という問題を、人類の文化の進化について話すのをやめるという単純な決定によって解決した。
しかし、私たちはもはや1913年の時代ではない。1982年、エリック・ウルフの皮肉なタイトルの『ヨーロッパと歴史なき人々』は、反帝国主義、反人種主義、そして歴史を真摯に受け止める人類学の波を起こした。
人類学者は長い間、単純と複雑、野蛮と文明、後進と先進、先進と後退、先進と未開発、高位と低位、世俗と宗教、伝統と現代といった二項対立から滴り落ちる人種差別に敏感に反応してきた。しかし悲劇的なことに、こうした二項対立は、アメリカ先住民の大量虐殺、アフリカの奴隷貿易、白人帝国による植民地支配、そして今日の対イスラム戦争を正当化するために展開され続けている。
人類学者や考古学者たちは、現在、人類の不平等の起源について、まったく妥当な説明を構築している。ケント・フラナリー、ジョイス・マーカス、ジェームズ・C・スコットがその中心人物である。
残念なことに、グレーバーとウェングローは、人類の進化に関する膨大な数の新しい学問に取り組んでいない。これらの新しい研究を無視することで、グレーバーとウェングローは、霊長類の比較進化とヒトの適応に関する、注意深く、そして現在では極めて十分に文書化された議論に逆らうことになる。彼らの問題は、この資料が「オリジナルの」人類社会は存在しないという彼らの主張を覆し、選択についての彼らの議論をむしろ愚かにしてしまうことである。
グレーバーとウェングローは、かつて人類が狩猟採集によって生活していたことを否定はしない。しかし、彼らは環境や人間存在の物質的基盤には深い関心がない。そして、これらの社会が必然的に平等であったことを否定している。
彼らの主張の第一歩は、人類の進化はすべて過去のことであり、当時何が起こったかを知ることはできない、というものだ。すべては推測にすぎない。しかし、これは単純に真実ではない。
過去40年間、科学革命は目覚ましく、人類進化の分野では膨大な研究が花開いた。今では、人間以外の霊長類や霊長類の行動に関する驚くべき新しい研究、初期人類に関する新しい考古学、近現代の狩猟採集民に関する新しい民族誌が数多くある。
化学的微量分析、DNAサンプリング、放射性炭素年代測定、質素な家庭での忍耐強い考古学のおかげで、私たちは先階級社会、そして初期階級社会に住んでいた人々について多くのことを学んだ。私たちのヒーローの中には、読み応えのあるクリストファー・ボーム、フランズ・デ・ワール、R・ブライアン・ファーガソン、サラ・フルディ、マーティン・ジョーンズ、ローラ・ライヴァルの広範な出版物がある。
このような研究は、人類の進化と人類史の研究を一変させつつある。その出発点は意外なものだった。私たちは平等になることで人間になったのだ。これは驚くべき貴重な洞察である。しかし、それはグレバーとウェングローの説明の根幹を突く洞察である。
現在、さまざまな類人猿やサルを対象とした何十回もの長期野外調査プロジェクトによって、それぞれの種について、特定の複雑な適応が、特定の環境で生き残ることを可能にしていることが明らかになっている。その適応には、主食、悪い時の代替食、脳、手、足、胃、歯、生殖器、うなり声、歌、支配関係、共有関係、子育て、攻撃性、愛情、毛づくろい、群れの構造がどのように組み合わされているかが詳細に含まれている。[これが基本であり、人類の進化を理解するための私たちの方法でもある。
時を経て、新しい適応のいくつかの部分が組み合わさって、現代人が誕生した。要するに、初期の人類はちっぽけな霊長類だったということだ。生き延びるためには、肉や野菜を共有し、育児を共有し、性的な喜びを共有することを学ばなければならなかった。そのためには、いじめっ子を懲らしめ、霊長類の祖先が持っていた支配階層を超越しなければならなかった。そして少なくとも20万年もの間、彼らは男女も平等である平等主義的な社会で生きてきた。
某事務所タレントがドアップで叫んだり大根役者がボソボソ喋るブロッコリー映画では世界の覇権はほぼ絶対到底ムリ!
侍が生きた時代の旧き日本の原風景+いぶし銀の時代劇役者にしか出せない雰囲気。
とにかくチャンバラシーンをCGフル活用してアニメ顔負けの演出とかにしてド派手にする(お姉ちゃんは出さなくていい)。
定番フォーマットの勧善懲悪から一捻りして陰のありつつも憎めない業を背負う悪役を出す(鬼滅のパクりね)。
主人公はもちろん転生したことにする。転生元はカリフォルニアのヴィーガン。山火事で焼け死んだと思ったが目を開けたら江戸の町娘に看病されている。
海外でウケるために禅の思想みたいのをそこかしこに取り入れる(公式ヨガマット発売)。
どや!
(追記)
やっぱ握りてーよな。覇権!。
ラストサムライやゴーストオブツシマみたいに海外制作のほうがってブコメがあるけど、いやいやそれハリウッド映画やん!!
ハリウッド映画が圧倒的なスタッフ層と莫大な予算にモノをいわせればそこそこのレベルになるのは約束されてるんだからそれで勝っても当たり前ってもんでしょ。
そんなんで得た勝利じゃ、ぜんぜん握ってないよ!握ったことになんないなんない(覇権)。
まあ、そんないうてもワイが握ることになったら(メガホン📢)、NEVADAに広大なセットを組んでみたいなのはやるかもしれん。金出してくれるかな?イーロン。
主演はもう決まってんのよ。はてなーも満場一致で納得のあの俳優。まあわかると思うけど。
そう、
鈴木亮平。
まず主人公の中身はカリフォルニアのヴィーガンだから英語ペラができることは絶対条件。そして演技がバチュギュンにウメェことが絶対条件(2回目)。
ベイエリアと江戸とのギャップに揺れ動く主人公の内面を深く描き切る必要があるからね。
亮平ならワイがいちいち五月蠅くしなくてもやってくれるでしょ。まあそこは心配してない。
そして陰のありつつ深き業を背負いし憎めないライバルなんだけど、これは悩むところじゃん?
まあこれはね、普通に考えて。
山田孝之。
とか、思うやん?
ぶっぶー!ですわ!!
そこはさ、やっぱホラ、
東出昌大。
あり得そうやん?
ちょっと業が深すぎたね。
いやー悩むわ。
今度こそ本当に発表するで?
いくぞ?
小松菜奈!
うん。
そうなんだわ。
ここで女性を投入というね!
菜奈の演技力、スタイル、眼力、どこをどう見ても陰のありつつ深き業を背負いし憎めない美しく悲しき業を深く背負った剣豪の魂を宿すにふさわしい器だと確信したね(会ったこと無いけど)。
約600万人ってのが信じられなくてさ
でも昔の資料はまともなのに最近の資料ほど分かんなくなるんだよね
タブーなんだろうねもう、日本での南京事件を100倍繊細にしたような話題
wikipedia見ると
マーティン・ギルバートはドイツのホロコーストによって、730万のユダヤ人のうち570万(人口の78%)が犠牲になったとしている。他に、490万から600万にいたる推算がある
人口の8割を逃さず1人ずつちゃんと処理していくみたいな作業を600万人分はきついよと
戦地に送って死んだとかならまだわかるんだけどね
600万人は途方もない作業だ
調べるとわかるのはアウシュビッツの犠牲者が誇張されてるのと、アウシュビッツの収容者が全部ユダヤ人だったかどうかみたいな話
発表したのは当時のソ連だそうで
まあ多くて100万人台じゃね、という声がそこそこ見つかる
まあでも現代人的にはポリコレ配慮して600万人!!って言うんだろうね、少なかったとか言うとネオナチか!?歴史修正主義だ!って言われるから
気持ち悪い
事前に Philip が明確に署名したこの予測修正は、商品のディスインフレに関する Powell のコメントによるものではありません (ただし、1 月の米国中古車価格の 1 月の 2.5% 急上昇は、ある業界の指標であることに注意してください)。むしろ、FRB議長が現在の米国の労働市場のダイナミクスは「景気循環的というよりも構造的だと感じている」と述べたためであり、彼の最大の懸念は、住宅を除くコアサービスのインフレと、新たな外因性ショックの可能性です。
「構造」。市場にとって扱いにくい言葉があります。彼らは、「誰も予見できなかった外生的な出来事」のために厄介な循環的ショックがあったという考えに対処することができます。しかし、経済に恒久的な変化が起こる可能性があるため、金利を高く維持しなければならないという考えは、誰も考えていません。連邦準備制度を含む。インフレ率が 2024 年までに 2% まで低下し、同時に失業率がわずかに上昇するだけであると、彼らは他にどのように予測していますか? 内因性および外因性の面での構造変化は、18 か月で同時に解決しますか? どうやって?
関連して、寡占の専門家 @matthewstoller は次のようにツイートしています。自動車業界の巨人は、高い利幅に慣れており、需要を満たすために生産を増やしていません。」その見方は彼だけではありません。
2022 年 5 月、ボストン連銀は次のように結論付けました。チェーンの混乱と労働市場の逼迫。」2022 年 4 月、経済政策研究所は、「企業の利益が不釣り合いにインフレに寄与している。政策立案者はどのように対応すべきですか?1979年から2019年までの米国企業部門の単価上昇への貢献は、企業利益(11.4%)、非労働投入費用(26.8%)、および人件費であることを示すことにより、利上げではなく超過利益税を求めてロビー活動を行っています。 (61.8%) 対 2020 年第 4 四半期 – 2021 年第 4 四半期の企業利益 (53.9%)、非労働投入コスト (38.3%)、および人件費 (7.9%)。言い換えれば、集中した企業部門における供給ショックと「コストプラス」の価格上昇が、米国の価格を上昇させた(緩やかな財政政策の後)。今、構造的に逼迫した労働市場が上にあるかもしれません!
これは、バイデン大統領が一般教書演説で、「誰も置き去りにされない」「ブルーカラーのアメリカ」を構築していると述べると伝えられている通りです。(ChatGPTに簡単に取って代わられるホワイトカラー労働者は別として?) 賃金のプレッシャーは大きい!一方、FCC でのバイデンのリナ・カーンの任命は、企業の集中度をこれほどまでに高めたボルキアン革命のゆっくりと、痛烈な逆転を目の当たりにしている。 3年連続の「ブルーカラー」ホワイトハウス。
さらに、中国が国防総省から気球についての電話を受けることを拒否し、サウジアラビアが通貨が固定されているにもかかわらず、米ドル以外の債務を発行し、ベラルーシの大統領が自慢して、「世界はすぐに新しいものを見るだろう」という内生的な問題があります。新しい準備通貨を備えた強力な通貨同盟。」(繰り返しになりますが、これらの試みが機能したり、世界の平和や安定を提供したりするとは思いませんが、それは彼らが試みないという意味ではなく、西側の中央銀行の政策操作の余地を制限していません。)
たとえば、RBA の 25bps 利上げが予想どおり 3.35% に引き上げられた昨日の中央銀行の行動では、今後数か月でさらなる利上げが必要になるという声明が付随していました。言い換えれば、金利が 4% に近づくことはないだろうと言う地元の住宅に夢中になっているアナリストは間違っていました。
逸話的ではありますが、オーストラリアの一部で展開されているのは、住宅ローン金利が上昇しているのに、投資用賃貸物件を保有している人々は保有を売却していないということです。代わりに、彼らは家賃を上げて、痛みを感じないようにしています。そして、住宅不足があり、金利が上昇するにつれて建設される家が少なくなることを考えると、賃借人は支払うか、路上で生活する必要があります.
それは、より多くのお金が社会の底辺から、家賃を払っている社会層から資産階級の手に流れ込むにつれて、需要のデフレ崩壊を意味するかもしれません - これは新封建的な政治経済の資産ベースの政策が論理的に収束することです. (そして、マーティン・ウルフが最近フィナンシャル・タイムズで主張したように、地価税に関するヘンリー・ジョージの考えが論理的である理由.非常にタイトな労働市場で、彼らは得ることができます。
もちろんこれは予測ではありません。しかし、政治経済の構造を理解していなければ、経済を「ただ」正確に予測することはできないことを強調しています。これは、国際収支の危機とバランス オブパワーの危機に関して英国とユーロ圏に対して行ったばかりの地政学的モデリングの演習で行ったのと同じ議論です。
文字通り、経済サイエンス フィクションと現在の経済科学の事実、つまり Fed Funds は 5.5% に向かっており、6% のピークのリスクがあるものとを区別できるようにしたい場合は、より適切に議論 を構成してください。
https://www.zerohedge.com/markets/irony-if-higher-rates-mean-higher-wage-growth-and-higher-inflation