はてなキーワード: タブーとは
元増田だ
そういえばなんとはなしにトラウマという言葉を使ってしまったのだが、この言葉はそもそもがあやふやな単語だったといまでは反省している。
どういう意味合いで使ったのか、そしてこのエントリーに俺の言うところのトラウマにまみれたような奴らがすごい勢いでたかりだしているのを見ると、それなりの人々に刺さった、もしくは喧嘩を売る結果になったのだろうと勝手に思っている。
これも俺は苦しみながら書いているから多分長いし読みにくい文章になるだろう。
トラウマって言うと、例えば戦争時代のトラウマで銃声を聞いたら殺人鬼になる、みたいなクソな定義の物語はたくさんあるんだが、トラウマは俺は「なにか後押しするもの」ではなく「なにかブレーキになるもの」というものとして書いている。
もうちょっと言うなら「自分がなにか主体的なことをしようとするとトラウマに邪魔されてしまうので受動的ななにかに逃げるもの、この邪魔をするものがトラウマ」という感じで書いている。
例えばこういうシナリオだ。
「・・・でも取ったからってなにか意味あるのか?そもそも俺英語好きでもなんでもないし、好きでもなんでもないものをキャリアに活かすのって苦痛だし、大体今どき英語喋れるやつなんて腐るほどいる、そこに俺が飛び込んだところでどうせ食い物にされて終わるだろう」
というこの2つ目の理屈だ。出来る奴らはこうは考えるだろう。
誠にシンプルだと思う。増田の反応を見てればわかるけど、前者の多いこと多いこと。
そして「本当に何もしないでやめること」のバツが悪いから今度はこう考える。
「アイツラは何時間も勉強するが、俺達は何時間も動画を見る、これってつまり同じことだろ」
プライドはあるもんな?アイツラがやっていることとなにか当価値なことをやっている、と思いたいんだろ?
能動的にやっているか受動的にやっているか、で全然違うのにこうやって結局「今のままの自分でいることを正当化する」ために「あーでもないこーでもないと屁理屈をこねる」がこういう奴らの性質だ。
言っといてやるが、受動的なことなんてのは何時間でもやってられるんだよ。能動的なことをやるときが人間は辛いし、取捨選択はしても逃げるべきじゃないことなんだ。
じゃぁなんで「今のままの自分でいたいのか」もっというと「俺にのしかかる重大な問題を解決することをここまで徹底的に拒むのか」というところの根本を知る必要があるだろうということを俺はいっている。
こういうトラウマだらけの奴らがまず能動的にやらなきゃならないのは「トラウマの正体を把握してどうやって生きていくかを決断する」という点だ。
この時点で出来る奴らよりはかなり重たいハンデを背負っていることは言っておく。本当に大変だと思う。
千葉県にある鋸山なんていう誰でも登れる山を登る条件に、一旦チョモランマ制覇を条件付けられてるのがお前らだ、ってことだからな。
出来る奴らはそのまま内房線に乗って向かうところをお前らはまず世界最高峰をクリアせよと言われているんだ。
そしてお前らのスマホは「鋸山の情報ならいくらでも差し上げますよ、チョモランマに登るとかそんなのはお前にトラウマを植え付けたアイツラがやるべきことだ、お前がやることじゃない、お前は間違っていない、アイツラが悪い、お前は何もしなくていい」と甘い言葉を囁いてくるんだ。
出来る奴らにもここはわかってあげてほしいと思っている。うっとおしいことこの上ないが、彼らがトラウマを持った責任は彼らにはなく、解決の責任だけが彼らにある、ということなんだ。不条理だと思う。
はっきりいうとこれは本当に個人差があると思う。幼稚園の頃にはもうトラウマまみれになっている子供もいれば、就職してからの人もいるだろう。
ただ、一つ言えることはたとえば「俺は自分の意思を主張してはいけないのだ」と思う瞬間がどこかにあり、そこに周囲の奴らが乗っかった期間があり、結果自分の意志を主張することが本人の中でタブーとして固定される、ということだ。
例えばやんちゃな子供がいたとする、親がいたずらをかなりきつめに諌めた後で子供がやんちゃをしなくなったとする。
親としては「やっと言うことを聞き入れてくれた」と安堵するかもしれないが、このとき子供の心にあるのは「自分の意思で動くと何が起きたかわかったもんじゃない、自分の意志は全部押さえつけて周囲の人の機嫌が良くなりそうなことだけ選んでいこう」になってしまうが、親は「いい子になってくれた」としか思わなくなる。
しばらくすると何を勧めてもやらない子供、怒鳴りつければ言うことを聞く子供、となっていく。
この行動原理がトラウマなのだが、その子供は「こうやって生きていく」が自然に刻み込まれているせいでそれがトラウマだとは全く気づかない。親も気づかないし、むしろそのトラウマを持ってくれていたほうが楽なので、トラウマを活用するようになる。
これは親だけじゃなくて、いじめっ子、取引相手、仕事上の関係者、友人、知人、と言った人々が本当になんの気なしに使っていることもある。
例えば、お前らがかりに出来る奴らだったとするが、友人リストの中に「俺のお願いにYesということが前提の付き合い」のやつはいないだろうか?
「そんなやつはいない、俺は誰がNoと言っても普通に聞き入れる」と思うかもしれないが、Noとい言われたらそのままじゃぁいいや、となる人と、微妙に食い下がりたくなる人がいないだろうか?そいつらがトラウマで生きている奴らだと思っていいだろう。
お前らも実はこういうトラウマを持った奴らをうっすら差別している、ってことには気づいてほしいと思っている。なんでこいつがNoって言うと食い下がりたくなるんだろう、なんでこいつがNoって言うと結構ムカついて引きずるんだろう、って考えてみろ。
トラウマまみれのお前ら、思い出を掘り返してみろ、「あぁ、自分は自分の考えを持っちゃだめなんだな」と思った瞬間はないか?その瞬間はすごく大事だと思う、そこを起点に誰かにほってもらうとものすごい勢いで出てくると思うぞ。
お前はYesとNoの両方をすんなり使えるか?これが出来るとできないとで人生の重さは格段に変わるぞ。
辛いし苦しいし、何なら適当なやつに攻撃したくなるかもしれないから本当にしんどいのだがやって見る価値はあると思う。
だけどな、セミナーとかスピとかだけは頼るな、これはお願いだ、お前らの精神がボロボロになる。
これは残念なことだが、俺はないと思っている。外科手術が必要な傷跡は一生消えないようなものだ。だが、トラウマがはっきりと見えてば「トラウマを持って生きていく」という方法は身につくだろう。
見えないままに生きていると、いたずらに気分に振り回されてしまい、人生がグダグダした単なる惰性になってしまうが、自分はトラウマのせいでこう考えてしまうのだ、ということが把握できれば「その考えに従うか否か」を選択する余地が生まれる。
こここそが重要だ。
「自分はこういう人間だから仕方がない」と思っているのか「自分はこう考えがちだがトラウマのせいでそう思うのだから従うかどうかは選択して良い」と思っているのかだけでも出来るやつほどじゃないが、だいぶ軽くなることは間違いがない。
ただ、ここには「助力を得ながらでもいいから自分でたどり着く必要がある」ということが重要だ。だからカウンセリングを受けたほうがいいと言った。
あぁ辛い苦しい、という気持ちを持ちながら書いたのだから、もし自分がトラウマに苦しめられていると感じているなら、一歩踏み出すことを考えてもいいと思う。
ちなみにこの「一歩」が「まずチョモランマを制覇せよ」っていうくらいに辛いことだ、っていうのは周囲の人もわかってあげてほしい。
女性のAED問題や、札幌の介抱わいせつ逮捕事件、草津町長冤罪事件、乳腺外科医冤罪事件、東京科学大の女子枠など、それはおかしいだろってニュースが多く、それをChatGPTに放り込んでいったら、論文を書いてくれたので、残しておきます。
こんな文章、自分のSNSでさえ好評を憚られるので(白饅頭さん、小山(狂)さん、YSさん、めるめるさんなど、こっそりいいねをつけることはありますが)、匿名で置いておきます。
近年、ジェンダー平等が公共政策や教育、メディアにおいて繰り返し謳われている。しかしその内実は、多くの場合「女性の支援」に集中し、男性の負担構造は温存されたままである。とりわけ、社会的に弱い立場に置かれた男性にとって、日本社会はますます生きづらい空間となっている。本論文では、このような「名ばかりの平等」が構造的男性差別として作用している実態と、それに対していかにして制度的・倫理的な修復が可能かを考察する。
現代日本のジェンダー政策には、以下のような非対称性が存在する:
これらの構造は、男性を常に“責任主体”とし、女性を“支援対象”とする社会通念と制度に支えられている。
この非対称性に異議を唱えると、「女性蔑視」「ミソジニー」「差別主義者」として社会的に制裁を受けることが多い。特にアカデミアやメディアにおいては、フェミニズム的価値観が事実上の「検閲装置」として機能し、構造的男性差別の指摘自体が“語ってはならないタブー”と化している。言論の自由が奪われたとき、制度の歪みは修正される術を失う。
日本学術会議をはじめとする学術機関は、本来ならば中立的・客観的な知見から社会に提言を行うべき立場にある。しかし実際には、特定の思想(反防衛・反資本・フェミニズム)への傾倒、公費による活動にもかかわらず説明責任の欠如、政策的実効性に乏しい提言と、過去の誤りに対する訂正や謝罪の欠如といった問題が指摘される。アカデミアが公的影響力を持ちつつも責任を取らない構造は、制度腐敗の典型例である。
草津町長冤罪事件は、「被害者の声は信じるべきだ」という道徳的スローガンが、誤った断罪と社会的抹殺を生む構造になりうることを示した。虚偽申告によって一人の町長の名誉が踏みにじられたにもかかわらず、その加担者(著名フェミニスト・支援団体)は誰も責任を取らず、謝罪もしていない。このような「信じることによる加害」は、責任の不在という最も危険な社会病理である。
多くの若い男性が、「いくら論じても無駄だ」「一度、社会が壊れるしかない」と口にする。これは厭世的感情ではない。むしろそれは、真剣に向き合い続けてきた者の“最後の倫理的選択”である。責任を負わない者が公的空間を占拠し、声を上げた者が沈黙を強いられる社会において、崩壊は“沈黙の報復”であるとも言える。
本稿は、制度的男性差別の構造とその背後にある言論の抑圧を記録し、たとえ社会が崩れても、理性が語っていた証拠を残すために書かれた。今、構造を変える意志を持つ者がいなくても、いつかこの記録が再建の素材となることを願う。
本来日本でもぼっち飯はタブーだった。学校で一人で食べてると担任に頼まれた学級長から声かけられたものだ。便所飯なんて闇の文化もあるのだが・・・それは別の話
どうも孤独のグルメとかいうのが流行って一人飯が許容されてしまったんだよな。コロナの影響もある?少子化に歯止めがかからない原因の一つでもある。
ずっとこの話を誰かにしたかった!圧倒的に青山景「よい子の黙示録」(全2巻)
作者の自死により強制連載終了。最終第2巻は書き溜め&構想資料の収録になってる。
クラスメイトを教祖に祭り上げて新興宗教を興そうとする小学生と彼の謀略に翻弄される新米教師が主人公。
女教師×小学生のサービスショットがありつつも安定した画力と練り上げられたプロットで刊行当時(2012年)には暗黙のタブーであったろう「宗教」というテーマに、編集部もよくぞゴーを出したと唸らされる渾身作。
安部首相の件以降宗教が必ずしもアンタッチャブルな話題とは言えなくなったここ数年に連載が始まっていれば確実に話題になっていたはず。
10年先を行っていたとはこのことかと、この先どんな展開が32歳当時の作者の頭の中にあったのかと想像すると何回読み返しても感慨深くなる。
あの絵で続きが読みたかった。
本当に創造的な人間は、社会の空気や常識に無批判に従うことをしない。
むしろその空気に対して一定の距離を保ち、必要であれば逆らうことすら厭わない。
それは反抗心ではなく、より高い原理に従って行動しているからである。
その原理とは「倫理」である。倫理とは、時代や文化に依存しない普遍的な規範であり、人間として守るべき本質的な価値基準だ。
創造的な人は、この倫理に照らして物事を判断し、行動を選択する。
一方で、「空気を読む」という行為は、集団における同調圧力に屈することと紙一重である。
空気はしばしば、その場の和を乱さないために理性や正義を犠牲にすることを求める。
しかし、創造とは常に「いまここにないものを形にする」行為であり、現状維持や既存の枠組みからの逸脱を伴う。つまり、創造性と空気読みは本質的に相容れない。
例えば、ガリレオは当時の教会の「空気」を読まず、地動説を主張した。
エリザベス・ブラックウェルは、女性が医学を学ぶことがタブーとされた時代に、その空気を無視して医学の道を切り開いた。
これらの人物は、倫理的に誠実であろうとしつつ、空気に従うことを拒んだことで歴史を動かした。彼らが空気を読んでいたら、その先の世界は閉ざされたままだっただろう。
重要なのは、彼らが「わがまま」だったのではないということだ。彼らは私的な欲望ではなく、公益、真理、正義といった倫理的価値を軸に行動していた。
つまり、空気を読まないからといって社会不適合者ではない。むしろ、倫理を最上位に置いているからこそ、空気を超えて行動できるのである。
現代社会においても、イノベーションを起こす人々は、時に「変人」扱いされる。しかし、その行動には一貫した倫理が通底している。
目先の評価や常識への迎合ではなく、人間として正しいことを貫こうとする強い意志がある。その軸があるからこそ、空気に飲まれずに独自の発想を貫き、結果として社会に新たな価値をもたらすのだ。
真にクリエイティブな人間は、倫理を重んじながら空気に従わない。それは、内面に強固なコンパスを持ち、集団心理や空気の圧力に流されることなく、自らの思考と信念に基づいて世界を再構築しようとする姿勢に他ならない。
女をあてがってもらえなくて苦しんでる弱男とか、性欲がなくなればある程度その苦しみも楽になるんでしょ?
知障の男もさ、性犯罪起こしても自分で責任が取れないんだから、女性に迷惑かける前に性欲は薬で減退させてもいいんじゃないの?本人たちはそれで苦しむわけでもないんでしょう。
それ以外にも、政治家とか、バリキャリとか、性欲は邪魔だけど働きたいって人たちはたくさんいるんじゃないの?
なぜ性欲を減退させる薬の話だけは毎回タブーのように扱われるのか、全く理解できない。男社会だから性欲を減らすなんてとんでもないという共通認識でもあるのかな。
男で性欲で苦しんでる人がいて、男の性欲に苦しめられている女性たちがいる以上は、薬の利用の是非について語るのは悪いことではないし、積極的に進めてもいいと思ってる。
熱心なワールドエキスポファンとして、これまで世界中を渡り歩いてきた。
🇨🇳 上海2010の都市のド派手さ、🇰🇷 麗水2012の海の魅力、🇮🇹 ミラノ2015の活気ある文化融合(🇦🇪 ドバイ2020はコロナでパス)。
2025年大阪万博は、日本の技術力とホスピタリティが光る最高峰のイベントになるはずだった。
𝕏で何ヶ月も盛り上げ、1年前にチケットをゲットして、心の準備は完璧だった。
だが、結果は失望の極み。可能性を無駄にした、ガッカリな万博だった。
今回は、その全てを正直に語らせてもらう。
4つも別々にインストールさせられた挙句、どれもバグだらけ、動きは鈍くて、使い勝手は最悪。
メインアプリは、ただの劣化版ウェブサイトのようで、「戻る」ボタンすら正常に機能しない。これはUX設計最大のタブーでしょう?
これが新幹線を走らせる国、世界に誇るIT技術を持つ日本の仕事かと思うと、ショックだった。
俺は、旅の計画を立てるのが好きだ。
行きたいところ、見るべきもの、全部きっちりスケジュールに落とし込むタイプだ。
これまでの万博なら、それが楽しかった。でも大阪では、スタート地点から躓いた。
公式サイトは、あれもこれも詰め込みすぎて、何が重要なのかさっぱり分からない。
必要な情報にたどり着くだけでも一苦労。これじゃ計画なんて立てられない。
仕方なく現地でアドリブ勝負に切り替えたけど、それが大間違いだった。
他の万博みたいに、並んだらすごいパビリオンに入れる――なんて甘いもんじゃなかった。
大阪は、「チケット購入→日付指定→さらに個別抽選」という三段階地獄が待っていた。
しかも、抽選がまたキツい。「予約可能」と表示されてるのに、タップした瞬間に消える詐欺まがいの仕様。
何度アプリをリロードしても、人気パビリオンの枠は幻みたいなもの。
夢洲の人工島、テーマは「未来社会のデザイン」とかでワクワクしたのに、実際は雑多な企業展示会。
レイアウトはグチャグチャ、案内表示は不足、人の流れはボトルネックだらけ。
ブース内も、パワーポイントと流行語を並べただけのやっつけ展示ばかりで、文化的な深みは一切存在しなかった。
食事も高額な割に感動ゼロだった。予約なしで入れるフードコートでは、小さなピザセットに2,000円も払わされた。
日本は、新幹線、ジブリ、寿司ロボットといった世界が憧れるイノベーションを生み出してきた国だ。
本来なら、これらを世界に見せつける最高の舞台になったはずだった。
上海2010は壮大なビジョンを見せ、麗水2012は海の未来を描き、ミラノ2015は食と文化の躍動を体現していた。
だが、大阪2025は、それらの失敗要素だけを寄せ集め、「魔法」を完全に忘れたかのようだった。
しかし、最悪なデジタル体験、ストレスフルな予約地獄、心を動かさない展示。
断言する。「行かなくていい」。
本当の大阪のスター「ユニバーサル・スタジオ・ジャパン」に行った方が絶対にいい。
@K_JINKEN
2時間
徐浩予との対談動画見たけど、徐氏は帰化人ということがあからさまだから、有権者は判断できるので、かなり良心的ではないですか。はるかに闇深いのは、立憲民主党の福山哲郎でしょう。帰化は公知の事実なのに、その事実を公言することがほとんどタブーになっていて、Wikipediaさえ自己検閲されている。
福山氏が帰化した1975年は官報に帰化前の本名と通名が掲載されていました。1971年より前は国籍も記載されていました。しかし、1995年からは帰化前の本名だけの掲載になりました。
誰が帰化したのか分かりにくい上、公人でさえプライバシーだからと公示されたものを公言できないなら官報の告示は意味があるのでしょうか。戸籍も今は事実上クローズになっているし、帰化一世の参政権の是非以前に、まず帰化した事実が分からないか、分かっても言えないことが問題です
立憲民主党はDEI(多様性・公平性・包摂性)政策を積極的に推進しているが、その実態は極めて思想的かつ一方向的であり、「差別をなくす」という名目のもと、日本の価値観や制度基盤を解体していると批判されても仕方ない。とりわけ、Wikipedia上での帰化情報の自己検閲に対して何ら反対の意思を示さない点に、この党の姿勢が端的に表れている。
本来、DEIを掲げるのであれば、情報の透明性や公平な判断材料の提供に尽力すべきはずだ。しかし実際には、自党にとって不都合な情報の隠蔽には沈黙を貫き、ダブルスタンダードを公然と容認している。選択的夫婦別姓の議論においても、制度改革を装いながら、根底には日本的な家族観を破壊する意図が透けて見える。
こうした態度が続けば、帰化の事実が不明瞭なまま公職に就く者が増え、国家に忠誠心を持たない者が国政に潜り込む事態を招く。これは安全保障上の重大なリスクであり、スパイ防止法があっても機能しなくなる。
福山哲郎氏が本多平直氏に対してレッテルを貼り、党内から排除した件は、立憲民主党における差別概念の恣意的運用を象徴している。問題とされているのは福山氏の出自ではなく、その行動の異常性であり、本来は正当な政治的批判の対象となるべきものである。しかし、それすら「差別」という言葉で封じようとする態度は、議論を抑圧し、政党内外の言論の自由を脅かすものである。
この構造の中で、立憲民主党が明確な政治的利益を得ている以上、これは利益相反の状態にあり、「差別」という言葉が政治的権力の獲得と批判封殺の手段として悪用されているのは明白である。
結果として、「差別される属性」を持つ者が、制度上・社会上の批判を免れながら政治権力を行使するという構造が出来上がりつつあり、その弊害はすでに顕在化している。このような状況では、**「差別属性を持つ者を政治家にすべきではない」**という厳しい指摘が現実味を帯びざるを得ない。
そもそも、このような構造の根源にあるのは、DEI(多様性・公平性・包摂性)という理念が現実の政治運用において破綻している点にある。アメリカでもDEI政策の誤りはすでに指摘されており、企業や大学ではその見直しが進められている。しかし、立憲民主党はこれを無批判に受け入れ、反差別を掲げながら実際には民主制度の根幹を破壊している。
これに加え、彼らはアメリカの政治的変化――とくにドナルド・トランプのような「反DEI」的な存在――を一方的に嘲笑し、実際の議論や反省の余地を自ら閉ざしている。こうした態度がもたらす制度的ゆがみの責任は、立憲民主党、ひいては福山哲郎氏らにあると断じざるを得ない。
論点* | 内容* | 補足・視点強化* |
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情報のタブー化と制度の空洞化 | 官報に帰化情報が掲載されているにもかかわらず、公人に対してさえ「出自の話題」が事実上タブーとされている | 1995年以降、官報では「帰化前の氏名のみ」掲載となり、誰が帰化したか識別不可能に。官報が公示として機能しておらず、制度が骨抜き |
プライバシーの過剰保護と国家の脆弱化 | 帰化者の情報が“プライバシー”の名の下に封印され、実質的に確認不可能 | スパイや潜在的工作員の混入リスクに無防備な状態を生み、明確に国益に反する |
「差別」レッテルによる言論封殺 | 出自や帰化歴に言及することが「差別」とされ、正当な批判や議論まで封じられている | 特定属性により、批判に対して“反論”でなく“差別”のレッテルで遮断する構図が固定化 |
情報の恣意的不可視化と政党の利益構造 | Wikipediaやメディアなどで特定の公人の情報が意図的に編集・抑制され、結果的に特定政党や立場に利益が集中 | 情報の“不可視化”が、特定勢力にとっての政治的「防弾チョッキ」として機能している |
民主的判断の破壊 | 有権者が正確な出自・経歴情報を得られず、民主的選択が制度的に妨げられている | 情報の非対称性により、投票行動が歪められ、民主主義そのものが機能不全に |
スパイ防止法の無効化 | 帰化情報が曖昧なままでは、仮にスパイ防止法を制定しても監視対象の特定すら困難 | 法があっても情報がなければ効力を発揮しないという致命的なセキュリティホールが存在 |
みたいなイメージが地元で強いらしく何気に人気の伝統校だったけど。
入学1ヶ月くらいは12歳の子供らしく席が近い同級生同士がちょい他人行儀に会話したり、とりあえず一緒に帰ったりして緩く仲良くなり始めるんだけど、1ヶ月経ったくらいから明白なマウント合戦が始まる。
いとうせいこうみたいな髪型で強度近視用のメガネ掛けてる「いかにもお坊ちゃん育ちです」って見た目の連中(ていうか半分くらいそんな外見だった。入学初日にクラスのメガネ率弾き出したら8割超えてて仰天した記憶がある)でも、歳の割に体格良かったり元々の気性荒かったりする奴なら弱そうな同級生に突然馬乗りになって鼻血出るまでボコボコにしたり、「顔が暗いから笑」で前の席の奴の後ろ髪をライターで炙ったりしてた。
そんな様子を傍から見てて
「こいつらなんて恐ろしい奴なんだ……目つけられたら殺される」
と俺は震え上がってたけど、冷静に考えるとそいつらも皆お勉強頑張ってきたお金持ちの家のお坊ちゃんなんだよな。
粗暴とかけ離れたタイプにしか見えない中学1年のメガネくんが、血だの火傷だの失明リスクだのにひるまず大笑いで同級生たちを痛めつけてるのは結構異様な光景だったと思う。
あと、家が寿司屋の同級生が裏でめちゃくちゃ笑いものにされてて衝撃を受けたのも思い出した。
下の毛が生えるかどうかの歳で職業の貴賎的な概念をすでに周りは普通に備え持ってたようで、年齢相応に幼かった俺はひたすら
「人の親のことバカにするのは思いっきりタブーだろ。ていうか寿司屋で何で笑ってんの?」
と混乱してた。
一部の人間が大人になって身につける類の嫌な差別心をそんな歳でどうやって身につけてたのか未だに分からない。
野球部が圧倒的に偉かった。
野球部がカーストトップで周りがビビって何も言えないみたいな風潮は多くの学校であるあるなんだろうけど、うちの野球部員はとにかく暴れまくってた。
休み時間、虫の居所が悪ければ金属バットで教室のロッカーベッコベコにするし、鉄アレイとか周りの人間の机を砲丸投げみたいにぶん投げまくって大暴れするし。
パフォーマンス感は全然なくて、本当に突然癇癪起こして気が狂ったみたいに暴れ出してたからみんな震え上がって嵐が過ぎるのをひたすら待ってた。
でもそんな彼らがタバコだけは絶対に吸おうとしてなかったのは今でも不思議でならない。
うちの高校は卒業生の母校愛がめちゃくちゃ強くて、かくいう学生同士のカーストが下位の自分もどういうわけか大学途中くらいから
と、悪い思い出をなかったことにして気づけば母校愛が強いOBの1人にすっかりなってたけど、最近になって、なかったことにしてた思い出が急に色々脳裏に蘇ってきてモヤモヤしてたのでここに吐き出した。
あいつら何不自由のない裕福な家に生まれ育って、同世代平均を上回る知能があって……要するに恵まれてたくせに、なんであんな小さい時分から粗暴だったり差別的だったりしたんだろ。
父子2代どころか祖父、父、子3代でOBみたいな家も珍しくない学校だったけど、俺は自分の子供は絶対に入れたくない。
1億積まれても入れたくない。