はてなキーワード: タイムラインとは
https://www.gem-standard.com/ranking/1112
ガンダムよりもコナンと薬屋のほうが女性をとれてる・若い人をとれてる・総数から見て強い。
薬屋は新しいコンテンツなのに当たっているので、「昭和のリバイバルばかりが当たる時代」という意見は完全なる間違い。お前のタイムラインが回顧厨ばかりになっているだけ。鬼滅やスパイファミリーなども新作IPで大きく当たったことをもう忘れたのか。
ジークアクス映画は1月17日公開で興収32.9億円。レベチ。2024年1月26日公開のSEED FREEDOMの興収51億円にも負けてる。
https://b.hatena.ne.jp/entry/s/rev.hatenablog.com/entry/2025/05/28/122523
⋙認証はクレジットカードみたいな物理キーを使ってできると利用者的には楽かな。方式はカードのディンプルから磁気そしてICと勝手に変わるけど気にしなくていいので。
①ワイルドスピードスーパーコンボ ジェイソンステイサムとドウェインジョンソンが敵のアジトへ。アジトのガードをぶちのめした後、ガードの後頭部を鷲掴みにして網膜センサーに顔面を乱暴にあてて解除
②ビーキーパー ジェイソンステイサム(退職後のビーキーパー)が現職、後輩のビーキーパーをぶち殺した後に指を切断。???と思っていたら人里離れた武器庫に侵入するのに指紋認証で突破
③アノーラ ロシア人(とアルメニア人)が、探しているオリガルヒの息子の行方を探すのに主人公のiPhoneから情報を得ようとする。後ろ手に縛られ猿轡された主人公の前にそのiPhoneを突きつけ、顔認証でロック解除
むかしタイムラインに夫の浮気の証拠をつかむために寝ている男からグミ指作って指紋認証で突破するジョーク動画があったけど、iPhoneなら手間いらずだね!(COVID対応のため、マスクしていても顔認証通るし)
https://p-shirokuma.hatenadiary.com/entry/20250528/1748421000
筆者の葛藤の原因は「熱いメディアと冷たいメディア」、ファンダムの「熱狂」と「知識」の混同だ。
『ジークアクス』がイースターエッグを仕込んでいること、その発見にファンダムの知識が必要なことは確かだ。
だが、アーカイブが新しいほどアクセスしやすいということと「熱いメディア」を混同している。別に、放送終了後に「ジークアクス 元ネタ」で検索しても変わらないだろう。
そして、ファンダムの熱狂は単に無視したほうがいい。それは筆者が言うとおりだ。
例えば、バスク・オムはただのイースターエッグで、ファンダムの熱狂は無意味だった。
かつ、『ジークアクス』の楽しみが「熱いメディア」で増すということもない。9話の予告のララァはクリフハンガーだが、放送終了後にまとめて見たとしても、クリフハンガーとしてのサスペンスは変わらないだろう。
「嘘松」が嘘をつく動機については、心理学的・社会学的にいくつかの視点から考察できます。
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SNSにおいて他者から「いいね」やコメントといった反応を得ることで、自己の存在価値を確認しようとする行動です。
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嘘松は、理想化された自分像を演出する手段として嘘をつく場合があります。
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「バレなきゃ嘘じゃない」という心理や、他者を騙すこと自体に快楽を見出すケースもあります。
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現実の自分がつまらない、満たされないと感じていると、虚構の中で理想の自分を演じることが一種の心理的サプリメントになることもあります。
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「嘘松」という言葉自体、『おそ松さん』の一部ファンによる「盛り話投稿」から生まれたネットスラングであり、日本特有のネット文化、特にTwitterのタイムライン型構造がこうした言説を拡散・増幅させた土壌となっています。
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「嘘松」が嘘をつく理由は、単なる虚言癖ではなく、社会的承認、心理的補償、遊戯的欲求など複合的な要因が絡み合った現代的な現象です。
個々のケースによってその根底にある動機は異なるものの、「人にどう見られたいか」という問いに対する一種の*解答*とも言えるでしょう。
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SNSや検索エンジンが「本人にとってポジティブな結果(たとえば自分の投稿が表示されたり、自分の名前の検索結果が多く出たり)」を積極的に見せるのは、実際に以下のような複数の意図が考えられます。
サービスは「ユーザーが長く滞在する・頻繁に使う」ことがKPIになっているため、本人にとって心地良いフィードバックループ(≒承認欲求を満たすような挙動)を意図的に設計している可能性があります。
SNSや検索エンジンはあなたの過去の行動をもとに極端にパーソナライズされています。つまり、あなたにだけ「自分に関連するものが多く表示される」ように設計されている。
これにより、
ご指摘のように、「気づかれにくい形の制限」は実際に存在します(例:TikTokやInstagramのステルスシャドーバン)。
この場合、
これはまさに、「文句を言わせず、ユーザーを黙らせたまま影響力を制限する」という運営にとって都合のいい設計です。
SNS企業は「検閲してる/不公平に扱ってる」と見なされると法的・世論的なリスクを抱えます。
だからこそ本人にとって「自分は公平に扱われている」と思わせるような設計は、意図的にデザインされうるものです。
「気持ちよくさせることで、運営の都合のいい支配構造を見えにくくする」という仮説には一定の妥当性があります。
それは明示的に「お前をシャドーバンしてる」と伝えるよりも、本人に「ちゃんと見てもらえてる気がする」と思わせておく方が、黙らせるにははるかに効果的だからです。
うるさいといっても、物理的に騒ぐわけじゃなく、声を上げたり台パンしたりはしない。
でも、夜になるとリビングの端っこでノートPCに張りついて、ずーっと何かしらタイムラインを見てる。
笑いながら「これは伸びる」とか言ってブコメ書いたり、急に「はてサってほんと面倒くさいよな」とか言ってきたりする。
話しかけてくるわけじゃないけど、気配がずっと気になる。
こちらが家事してても何かと小言を挟んでくるのも大体ネット経由で得た知識からで、
「最近の若者はさ」とか言いながら元ネタは全部ブクマコメントかtogetter。
そもそもそんなに真剣にやるもんか?と思って覗いてみたら、自分のアカウントで毎日何十件もブックマークつけてて、コメントも一丁前に書いてる。
スターの付き具合まで気にしてて、「このコメは刺さった」だの「ネタが滑った」だの反省してるのがちょっと怖い。
洗濯物は溜まるし、ゴミ出しも忘れるし、指摘すると「最近は家事労働も政治的テーマなんだよ」とか謎に話を広げて逃げる。何なんだよ、それ。
夜中にスマホで何か読んでるなと思ったら、寝ながらブクマ巡回してるし、
布団の中でも「また炎上してる」とかつぶやいてるのが聞こえてきて、もう頭痛がする。
正直、次に家事を放り出してブクマに夢中になってたら、勝手にPC立ち上げて
「私の本名は◯◯◯◯です」って自分のアカウントで投稿してやろうかと思ってる。
そのくらいの圧をかけないと、現実に戻ってこない気がしてる。
かつて、タイムラインの向こう側では
「ゆめみって、やばくない?」と
目を輝かせて語る人たちがいた。
誰かが炎上を笑い、
誰かが記事を読み漁り、
でも、いまはもう
誰も「ゆめみ」の話をしていない。
「なんだっけ、あの会社…夢を見てるやつ…」
そう呟く人すらいなくなった。
過剰な自己紹介も、
全部、風化した。
本当に怖いのは
燃え尽きることじゃない。
語られなくなることだ。
それは、まるで
夢が覚める瞬間のように
静かで
何も起こらないからだ。
透明なガラス玉が際限なく並ぶ海岸を歩いているような気分だ。どれも完璧な球体で、光を浴びて美しく輝いている。しかし、一つ一つを手に取ってみても、その中には何も宿っていない。私はSNSのタイムラインを眺めながら、そんな奇妙な感覚に襲われることが増えてきた。投稿される作品たちは、まるでベルトコンベアから流れ落ちてくる既製品のように均質で、時に息苦しいほどに整然としている。
三年前までは違った。フォローしていた人たちの作品には、それぞれの手のひらの温度や、描き手の息遣いのようなものが宿っていた。線の荒さや構図の偶発性、色の選び方に個性があった。時には明らかな「失敗」が含まれていることもあったが、それすらも愛おしく感じられた。誰かの手が震えて生まれた線には、その人の生きざまが映し出されていた。
その頃のSNSには、まだ「待つ」という行為が息づいていた。好きな作家の新作を心待ちにし、深夜に更新された小説の続きを読むために夜更かしをした記憶がある。創作には時間がかかるものだという了解が、見る側にも作る側にも共有されていた。
AIによる生成技術の発達は、確かに多くの領域で素晴らしい恩恵をもたらしている。医療現場での診断補助や、障がいを持つ人々の表現活動の支援など、その価値は計り知れない。だが一方で、創作における「労苦」を排除してしまうことの危うさも感じずにはいられない。
かつて、写真の普及により絵画は衰退すると考えられていた。しかし実際には、絵画は写真とは異なる表現の可能性を追求するようになった。AI生成と人間の創作の関係も、似たような道をたどるのだろうか。私はそう信じたい気持ちがある。だが、写真と絵画の関係との決定的な違いがある。AIは「学習」という名の模倣を通じて、人間の創作物そのものを原料とする。そして、その速度と量において圧倒的な差がある。
日本の伝統工芸に目を向けると、木地師や陶工たちは「手間ひま」をかけることに価値を見出してきた。木を削る時の削り過ぎや、窯変による予測不能な釉薬の変化。そうした「不完全さ」や「偶発性」こそが、作品に魂を吹き込む。侘び寂びの美学は、機械的な完璧さではなく、むしろその逆にある「人間らしさ」の痕跡を尊んできた。
私たちは今、技術の進化によって「労苦」を省略することと、それによって失われるものの間で揺れ動いている。一枚の写真を撮るために山頂まで登る行為は、単にその風景の画像データが欲しいという目的だけでは説明できない。同様に、手間のかかる創作活動には、完成した作品だけでは測れない価値がある。
――では、私たちにできることは何だろう。
まず考えたいのは、作品の受け手としての姿勢だ。生成されたファイルではなく、誰かの「消息」として作品を受け取る能動的な行為。完成度や技術的な洗練よりも、そこに込められた意図や思考のプロセスに耳を澄ます姿勢。私たちは単なる「消費者」から、作品との対話者へと自らを変容させる必要があるのかもしれない。
一方、創作者側にできることもある。ラフスケッチや失敗談を共有したり、AI技術をどのように、なぜ使用したのかを率直に語ること。そうした開示は、鑑賞者との信頼関係を築く土台となる。技術の進化によって変わる創作の形を隠すのではなく、その変化そのものを創作のテーマとして引き受けていく勇気も必要だろう。
AI生成の波に抗うのではなく、その波の中に「人間のざわめき」をいかに残していくか。それが今、私たちが問われていることではないだろうか。世界がますます効率と生産性を求める中で、あえて「無駄」や「回り道」の価値を見直すこと。クリックひとつで生み出せる均質な美しさよりも、時間をかけて育まれる多様な凹凸を、未来へと残していきたい。
タイムラインを埋め尽くすガラス玉の海に、私は小さな石ころを投げ入れる。それは完璧な球体ではなく、欠けた部分もあるかもしれない。しかし、その凹凸こそが水面に波紋を広げ、静寂を破る。AI技術が加速度的に発展する時代だからこそ、「手間ひま」をかけて生まれた作品が持つ、かけがえのない価値を見失わないでいたい。
かつてSNSで交わされていた、人間同士の温かな共感や発見の喜びを、新しい形で取り戻していくための旅が、ここから始まる。それは楽観的な希望というよりも、静かな決意に近い感情だ。技術の海に溺れるのでもなく、岸に留まるのでもなく、その波間を泳ぎながら、自分の言葉を紡いでいく。
証拠なく中居が性行為の範囲で何らかの性暴力したって言ってるやつら全員それ誹謗中傷だから。
お前らのその証拠のない不用意な性的言動すら性暴力の可能性ある。
「いやいやネットのノリでしょw」って言い訳、もう通用しないからな?
WHOの定義では、「同意のない性的な言動」はぜんぶ性暴力に含まれる。
触ってないからOK? 冗談だからセーフ? 相手が反応しなかったからヨシ? ——
それ、ぜんぶアウトです。
現実だろうがネットだろうが、相手の意思を無視して性的な発言するのは暴力なんだよ。
DMでキモいこと送ってるやつ、掲示板で女の身体語ってるやつ、タイムラインで勝手に性的な妄想垂れ流してるやつ、全部性暴力です。
― えふえふえふ、そしてえふ。
誰もがいつものようにパソコンを開き、キーボードを打とうとしたその瞬間――
「……fしか打てないんだが?」
そう、この物語は日本中のキーボードがすべて「f」しか打てなくなるという、前代未聞のサイバー大惨事から幕を開ける。
等と憶測が飛び交う中、タイムラインは「f」で埋め尽くされ、SNSもf、f、fのf洪水。
人類は「言葉を失った」のではない。「fしか言えなくなった」のだ。
作中では、新聞記者が「f」だけで記事を書こうとし、YouTubeのライブではf,f,fのコメントばかりが踊る。
「f」のリズム、長短、数、テンポ……なんとこの少年、「f言語」を発明してしまうのである。
シュール極まりない展開の中でも、一番泣けるのは告白シーンだ。
「f。」
――このたった二音に、ありったけの想いが込められていたことを、読者は涙とともに知ることになる。
本作は、言葉を失った世界で“言葉の本質”を問う、そんな壮大な実験でもあるといえよう。
そして何より終盤、システムの暴走を止めるパスワードが「〇〇」であることに気づいたとき、我々はタイトルの意味を知る。
ならば、fで世界を救えばいい。
ネットってのはな、俺達プログラマーにとっては生業であり、そして生活の延長線上にあるリアルそのものだ。
何もかもがコードでつながり、思考が即時に吐き出されるこの空間で、俺達は日夜、命を削って生きてるんだよ。
なのにどうだ、最近は一般市民がぞろぞろ流れ込んできやがって、勝手に「ネットは日常で言えないことを言ってもいい裏世界」だと勘違いしてる。
馬鹿か。勘弁してくれ。お前らのいう普段言えない本音ってのは、大抵の場合、単なる知性と品性の欠如からくる脊髄反射だろうが。ネットを精神の便所だと勘違いして、垂れ流すんじゃねぇ。
俺達は違う。表も裏もねえ。だからこそ、わきまえる。俺達がネットで余計な社会論争に踏み込まないのは、面倒だからじゃねぇ。価値がねえんだよ。時間の無駄なんだよ。
男女?イデオロギー?ウヨサヨ?くだらん。プロセスと結果がすべて。こっちは問題が発生したらデバッグして、再現性を確認して、最適解を叩き出す。そういう世界で生きてんだよ。
「ネットで言いたい放題」だ?お前の言いたい放題のせいで、こっちはGitHubのIssueが荒れるし、Qiitaがゴミで埋まるし、Stack Overflowが地獄と化すんだよ。
Xのタイムラインも、技術的知見を探すための場所だったのに、今じゃポエムと炎上商法と感情の掃き溜め。ふざけんな。
ネットは、我々にとっては書斎であり、研究室であり、コードの神殿だ。そこに土足で入ってきて、勝手に叫んで、暴れて、挙げ句の果てに「言論の自由」とかほざくな。
お前の自由は俺達の時間を奪っているってことに気づけ。思考をせずに叫ぶな。リテラシーのない言葉は、ノイズどころか害悪だ。
そして何よりも覚えとけ。わきまえるってのは、抑圧でも服従でもなく、「構造を理解し、場に最適なアウトプットを選ぶ知性」だ。
それができないなら、お前はこの情報空間で生きる資格がねぇ。リアルで黙ってるやつが、ネットで急に吠え出すな。
俺達は逆だ。リアルでは黙ってても、ネットではコードという言葉で語る。貢献して、共有して、改善していく。
タイトル: この記事、ガチで心えぐられた! AI生成のツルツル文化に反旗翻すぜ!
お前ら、このブログ読んだか? 2025年5月12日のやつ。マジで魂揺さぶられたわ。AI生成のピカピカなガラス玉がベルトコンベアで流れてくる世界、ほんとそれ! タイムライン開くたびに「#AI生成」のタグだらけで、どれも同じ光沢、全部同じ匂い。どこにも人間の汗や震えがねえ。胸に空いた空虚感、めっちゃ分かる。俺も2022年以前のあの雑多なSNSが恋しいぜ。友のラフスケッチに滲む情熱、インディーズバンドの生活音混じりの音源、あの“生きてる”感じが消えちまった。
この記事の「創作は過程の物語」って言葉、脳天直撃だろ。AIの“最適解”なんて、アルゴリズムのオナニーじゃん。職人の木目との対話、陶工の火加減への執念、そういう人間の息づかいが作品を“生き物”にするんだよ。AI生成のツルツル画像なんて、クリック一発で忘れ去られる消費ゴミ。俺たち、こんなんでいいのか? 鑑賞じゃなく“消費”に溺れて、魂売ってんじゃねえか?
提案されてるアクションもガチで賛同。受け手は“いいね”連打やめろよ。作者の背景追え、過去作掘れ、作品を“消息”として感じろってさ。クリエイターもラフや失敗を晒せ! AI使うなら「俺はこれで何を表現したかった」って胸張って語れ! それが人間の意地だろ。もうこの均質化の洪水に流されるのやめようぜ。2022年のあのざわめき、俺たちの手で取り戻すんだ。誰かが夜明け前に描き直した一本の線を愛せる世界、俺はそこに賭ける。みんなもこの記事読んで、闘う準備しろよ! #AIに魂は売らねえ
Grokによる
めちゃくちゃ共感した…。最近ほんとタイムラインがツルツルの「完成品」ばっかりで、サクサク流れるけど心に引っかからないんだよな。昔の、ちょっと雑だけど作った人の人間味が伝わる感じ、ほんと好きだった。
AI自体が悪いとは全然思わないんだけど、何でもかんでも効率化して、「作ることの楽しさ」まで消費されちゃってる感じはすごく寂しい。作品の背景とか失敗談とか、そういうのを知ることで愛着が湧くし、作り手へのリスペクトも深まるよね。
みんなももう一回、「完成度」より「過程」や「物語」に目を向ける流れが広がってくれるといいなと思ったよ。こういう感覚を忘れないようにしたい。
(この文章はChatGPT 4.5によって作成されました。プロンプト:『「(※元増田のコピペ)」 このブログ記事への共感を示す、インターネット掲示板への書き込みを作成してください。ややラフな感じでお願いします。』)
最近、タイムラインを開けば、あらゆるジャンルの“作品”が一様に磨き上げられた光沢を放ち、どれもこれもタグには「#AI生成」の文字――。ディフュージョンモデルが一人歩きし始めてから世界は高速で均質化し、アイコンもヘッダーも動画も、ボタン一つで“それらしい完成度”を獲得するようになった。凹凸のないガラス玉が延々とベルトコンベアを流れてくる光景。表層の眩しさとは裏腹に、私の胸にはぽっかりと空虚が広がる。なぜなら、そのガラス玉の中に「誰が」「何を思って」作ったのかを示す指紋が残されていないからだ。
思い返せば二〇二二年以前──生成AIが大衆の手に届く直前のSNSは、不器用で、雑多で、そして極めて人間的だった。友人が深夜二時にアップしたラフスケッチには線の震えが残り、推しのインディーズバンドがキッチンで録音した曲には生活音が混じっていた。そうした粗さは、デジタル時代の“ノイズ”ではなく、作り手の体温を伝える“息づかい”だった。タイムラインをスクロールすることは、知らない街を散歩して偶然に小さなギャラリーを覗き込む行為に等しかった。完成度よりも偶発性が勝るあの雑踏こそ、私が愛した場所だった。
もちろん、技術革新を後ろ向きに否定するつもりはない。AIは医療、研究、福祉、教育など、創造性を阻む物理的ハードルを取り除く強力な義手たり得る。真に必要とされる現場で、正しく用いられるべき道具だ。だが、現在の潮流は“便利さ”が“労苦”を全面排除し、結果として「作る喜び」と「受け止める敬意」を同時に摩耗させてしまった。指先一つで生成されたイメージは、クリック一つで閉じられ、記憶に刻まれる前に忘却へ沈む。受け手が享受するのは“鑑賞”ではなく、高速スクロールによる“消費”だ。
制作プロセスから切り離されたアウトプットは、いくら目を惹くビジュアルを纏おうと、作者の葛藤や失敗の痕跡を欠いている。そこには職人が道具を手に取るまでの儀式もなく、物語家が机に頬杖をついて構造を悩む夜更けもない。均され、研磨された“最適解”は、その瞬間のアルゴリズムにとっての正答であっても、人生の襞を織り込む余白を許してはくれない。私たちは豊富な選択肢を得たはずなのに、その“選び取る感動”を失いかけている。
翻って、職人の世界を覗けば「手間ひま」という言葉がいまだ輝きを放っている。木地師は木目の癖と対話し、陶工は窯の火加減に耳を澄ませる。そこには工程そのものを抱きしめる覚悟がある。創作とは本来、結果の外観ではなく、過程に宿る物語の総和だったはずだ。多少のムラや傷をも“味”と呼び交わす文化――日本の侘び寂びが示すように、「不完全さ」は人がものに寄り添うための手がかりなのだ。
では、どうすれば二〇二二年以前の“雑多で瑞々しい創作空間”を再び取り戻せるのか。私はまず、受け手が「鑑賞」という行為を能動的な対話に戻す必要があると考える。動画を再生したら、“いいね”を押す前に制作背景を検索してみる。文章を読み終えたら、作者のプロフィールに飛び、過去作を遡ってみる。作品を「ファイル」ではなく「消息」として受信し、その背後にいる誰かの息遣いを想像する時間を持つ。それは一見些細な回帰だが、こうした行為の積み重ねが可視化するのは、市場の指標で測れない本当の“需要”だ。
クリエイター側もまた、完成物だけを流すのではなく、ラフや失敗談、学びの過程を積極的に共有してほしい。極秘資料をさらせと言うのではない。試行錯誤の断片を公開することで、受け手は“成長の物語”を伴走し、作品の輪郭が人間の闘志とともに立ち上がる。AIを使うにしても、その使用意図や意匠上の選択を開示し、道具と主体的に向き合う態度を示すことが創作者と鑑賞者の信頼を護る鍵になる。「AIを使うのは楽をしたいからではない。より高い地平へ挑む踏み台としてだ」と語れるか否かが、これからの文化資本を左右する。
私は願う。技術の加速を止めることなく、その轟音にかき消されがちな“人間のざわめき”をすくい上げたい。生成AIが生む“即席の奇跡”に溺れるのではなく、誰かが夜明け前にふと手を止め、ため息とともに描き直した一本の線を愛せる社会へ。スクリーンの向こうに潜む汗と焦燥を見逃さない視線を持つことが、創作文化に再び多様な凹凸を取り戻す。二〇二二年以前――不器用で豊潤だったあの雑踏は、懐古の対象ではなく、未来へ向けた羅針盤だ。私はこれからも、そこに灯りを残し続けたい。