はてなキーワード: ソシュールとは
老化で衰えていく。夢のない時代。円安が地味に消費生活の貧困化に効いていると思う。株クラスタは円安ウェルカムの人多いかもだけど。「節約して一点豪華で投資するとこんなに良いものが買えた」っていう小さな消費の幸せがほぼなくなった。たとえばジャパニーズウイスキーの楽しみとか。山崎売ってない。スイーツでさえ、バニラ、チョコ、クリームすべて高騰でクラシックなレシピ通りの味を普通に買うのが困難。企業努力でそれっぽく寄せたフェイクばっかり。服も靴もハイブランド以外は中華クオリティ。チャーチの靴20万とかロロピアーナのセーター20万とか若いおしゃれさんが頑張れる額じゃない。旅先は外国人で一杯。老眼で本も読めない。30年前ラカンとかデリダとかソシュールとか読んでたよね?マックスウェーバーとかシュンペーターとか読んでたよね?コトラーとかドラッカーとか読んでたよね?ホテルも高騰。風俗はSTDが蔓延、だからみんな引きこもって猫とか犬とかと遊んでいるのかな。
※一部表現をゆるくしていますが、センシティブな内容が含まれます。
最後ずるずると付き合ってしまったのは、愛情なんかじゃなくて性欲なんじゃないかと思った。
別れた理由も、性欲に包んだ恋愛感情で素敵な彼女の若い時間を奪いたくなかったというのが大きい。
もちろん私は優しい人間でなく、悪者になりたくないだけである。
だが私は元彼女(以下元カノ)が初めての相手で、過去に遊んだことも浮気したこともない。
だから元カノへの感情が性欲だったのか、プラトニックなやつだったのか、それとも両方だったのか自信がなかった。
だから風俗に行くことにした。以前友人から聞いた情報だと本番ができるのはソープだけらしい。
ソープはお店にお金を払うとお風呂場で客と嬢が恋に落ちるという、神話もびっくりの世界らしい。
別れて翌日、思いきってお店と嬢をネットで探して、電話で予約した。
16:10から行けますと言われ、爪切りや髪のセットをして会場に向かった。
トムとジュエリーでよくあるハート型の心臓が飛びててくる演出は、どうやら人間工学に基づいているらしい。
緊張しながら、いざ来店。
人はペルソナをつければ何もにもなれると、どこかの誰かが言っていた。
キョドらず、さもコンビニに入るかのようにお店に入った。
入口で元気で明るいお兄さんに出迎えられながら、50分18000円の料金を払った。
注意点を聞いた後に待合室に入ると、そこには歴戦の猛者を感じさせるようなおじさまたちが座って待っていた。
一人だけ浮く22歳異常独身男性。
これは紛れもない自由恋愛だ。
他のおじさまがハグして向かっていくのをチラチラ見ながら、指名した嬢が来るのを待った。
しばらくして、自分の番号が呼ばれた。
インターネットの大海に揉まれながら見つけたのは、高校生の頃クラスの中で真ん中くらいの可愛さの女の子だった。
どこから仕入れた知識か忘れたが、写メ日記をちゃんと書いているとホスピタリティがあって良いらしいという情報も参考に写メ日記を見た。
お客さんとの話は一切無しで、本当にただの日記、というよりX(旧Twitter)みたいな短文だった。
………
閑話休題。
とはいえ、普通にかわいい。マッチングアプリだったらデートしたくてやり取りするくらいにかわいい。
どうして来たんですか?的なことを聞かれながら、昨日別れちゃって、、と伝えつつ会場に向かう。
戦いの場所は、簡単なベッド+ガラス張りのお風呂とシャワーといった間取りである。
言い忘れたがここは学園系ソープランドのはずだ。どこに学園があるんだ。
私もその場に紛れ込めるようにシャツで来た甲斐があるというものだ。
いざ部屋に入ると飲み物をクーラーボックスから出して渡してくれて、お茶を飲みながらお話した。
独身男性にはこれだけでも胸が熱くなる。疑似恋愛だともちろん分かっている。
詳しいことはプライバシーにも関わるので控える。
このお店の50分コースはお風呂でなくシャワーとのことだった。
「じゃあ脱いで!」
恋人同士だと脱ぐまではかなりの前戯だ。短針が1回転することもザラにある。
しかしこの場はそうでない。
洗体までは迂闊に手を出してはいけないような気がした。
ここまで私は緊張しっぱなしで、初対面の相手で大きくなれるかという男の課題にも悩まされていた。
Cちゃんが全部脱いだ頃には、緊張も寒さも不安も忘れて、自然に大きくなった。
ずっと憧れだったシンデレラなバストも初めて拝めて、さすがに緊張なんて壁はぶっ壊れる。
これは顧客が本当に必要だったものだ。そう思った。スクラム開発にも取り入れたい。
椅子に座って体を洗ってもらった。
雑談をしながら、Cちゃんが作った泡で体の正面と棒を洗ってもらった。
そしてうがい薬で口を消毒。
私がタオルで体を拭いている間、Cちゃんは自分で体を洗っていた。
普通の恋愛しかしたことない身として、ちゃんと洗い返したい気持ちがめちゃくちゃ湧いた。
だが郷に入っては郷に従えだ。安易な親切心ほど迷惑なものはない。
下手に手を出すぐらいなら、全部プロに身を任せたほうが良い。
Cちゃんも洗い終わった。
「服着たほうがいい?」
そう聞かれたので、せっかくなら着ててほしいと伝えた。
心の中で法螺貝がなる。戦闘開始の合図だ。
Cちゃんに攻めたいか攻められたいか聞かれて、攻めたいと答えた。
1人の相手と何度いたして経験を重ねても、同じことが他の人にもそのまま使えるほど、世界は甘くない。
たどたどしくも、なんとかバックハグ的なことをしながら、上を触った。
後々聞いたら上は感じない人らしい。少しくらい相手を満足させられると思った自分が甘かった。
ちゃんと事前に聞いておけ。
それから2人で横になって、下も触った。
知識では分かっていたが実際触ってみて、女性によって形が全然違うことを知った。
Cちゃんは小柄な体型ながらも太ももはしっかりしていて、そこが素晴らしいと伝えたりした。
そんな中で男がせめてできるのは女性を褒めることだ。
Cちゃんの下を触りながら、Cちゃんも手で俺の棒を上下させてくれた。
めちゃくちゃうまい。
痛くないギリギリが分かってる上に、しっかり強いグリップ感で早い。
あやうく世界が終わるところだったが、日々のトレーニングの甲斐もあって、耐えた。
しかし出そうと思えば出せるくらいに、よかった。
しばらくするとCちゃんは自然な手付きで棒にゴムを装着してくれた。
後で振り返るに、これは時間ないよの合図だったのかもしれない。
元カノの時はもっと時間をかけて前戯していたという傲慢な気持ちが邪魔をしてしまった。
もちろんそんなことに当時の私は気づく訳もない。
さて、その頃の当時の私は、下を舐めたくなってCちゃんに伝えて、下を舐めさせてもらえることになっていた。
舐められるより舐めるのが好きだと伝えると意外だと驚かれた。驚かれたことに驚いた。
Cちゃんの下はびっくりするくらい無臭で驚いた。まだ水道水の方が深い味わいがある。
これがプロの力なのかと思った。
研究室の超純水を飲むのが体に悪いように、多少の濁りがあったほうが良いと知った。
さて、下を舐めながら大きなミスに気づく。
舐めている間は会話ができない。
本当に無音だった。
相手にも気持ちよくなってもらいたいと、気持ち良いところを二択とかで触りながら聞きつつ進め、無音も避けた。
そう分かっていながら、誠実な男でありたいという欲望が隠せない。
「ピピ」
そうこうしてるうちに、アラームが鳴り響いた。
……
これは何分前のアラームなのだろうか。我が家の愛用キッチンタイマーなら残り10分の音だ。
こういう場所のタイマーは特殊な改造がされているのかもしれない。
……どちらにしても時間がないらしい。
事前に潤滑ゼリーなど入れてくれているのかもしれないが、近場にあった潤滑剤を使わずに難なくあっさり入った。
元カノと初めてをするときに、死ぬほど行為のコツの動画を漁っていたので、ここで入れてからすぐ動かしてはいけないと分かっていた。
しっかり締め付けられた。
しばらくして動かしていいか聞きつつ、動かした。
………
…………
さて、ここでふとももを思い出してほしい。
むちっとした太ももは正義だと私達人類は義務教育で教わってきた。
しかしいざ上下に動かすと、この太ももの領地に苛まれ、奥まで進まない。
いわば権利関係の複雑な土地を買収するかのような難しさである。
自分でも何を言っているのか分からないが、要するにあまり動かした感覚がないということだ。達するには刺激が弱すぎる。
「ピピピ」
聞いている間に、またアラームが耳をかすめた。
Cちゃんいわく残り5分らしい。
少し長めのカップラメーンが出来上がるまでの時間に、どうやらこの自由恋愛は破局するらしい。
さすがに焦る。
(断じてCちゃんの接客が悪いとかではなく、私が前戯したい時間を長く取ってしまっただけです。)
Cちゃんに「かわいい人に出したいから頑張ります」と伝え、棒に全神経を集中させた。
元カノと2人で頑張って何ヶ月もかけて解消してきた過去がある。
もう同じ思いはしたくない。
残り4分。
これでだめだったら、男としてどうなんだ。
これまでの人生の22年間はなんだったのか。人類はなぜ生まれたのだろうか。
こんな素敵な人がいるのに出さないというは、流石に失礼なのではないだろうか。
すべての神経を棒に寄せ集め、フィニッシュ。
正直、めっちゃ出た。
Cちゃんはなれた手付きでゴムをティッシュにくるんでもらった。
動かしている間、Cちゃんはあまり気持ち良さそうでなかったのが心残りだ。
でも下手に演技されるより、自分の力不足を感じさせてもらえるほうがありがたいと思った。
女性一人ひとりで違う快楽のポイントを、小手先のテクニックでどうにかしようとは思わない。
もっとコミュニケーション上手にとって、相手も喜ばせてあげたいと、純粋に思った。
その後またシャワーで洗ってもらって、終わった。
お互い褒め合う時間だった。
もっと感謝を伝えたかった。Cちゃんの行動の数々には尊敬しかなかった。
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まず、命題「元カノと付き合っていたのは100%性欲である」は偽であった。
後述するが好きじゃない相手との行為と元カノとの行為は別物だった。
例えて言えばインスタントコーヒーとドリップコーヒーくらい違う。
言語学者ソシュールによれば、言語の意味や単語は固定された絶対的なものではなく、差異によって構成されるらしい。
有名な話だが、ピダハンと呼ばれる少数民族には時間の概念がない。
これは彼らが熱帯という環境的な要因によりそうなったと言われている。
今日私は、恋愛感情の無い行為を行うことで、恋愛感情のある行為とのそれを別物として捉えられるようになった。
私個人の感想だが、明確に性的な行為と愛情表現としての行為は違うと感じた。
そういった意味で、元カノへの好きはプラトニックな好きもちゃんとあったんだと安心した。
そして良かった点。
ひとりあそびとはやはり違う。
本物の人間とのコミュニケーションができた。偽りであってもいい。罠でもいいんだ。
そして一番大きかったのは、異性に対する恐怖を取り除けたこと。
元カノとはかなり時間をかけて親密になったためもはや異性として話しにくいはなかった。
一方で元カノ以外の異性と話すのは相変わらず苦手だった。
今回場所は場所だが「可愛い女の子と出会って50分で最後までできたという経験」は紛れもない事実となった。
デカルトもこれを認めざるを得ない。
経験という裏打ちは何よりすごい。
このおかげで、今後異性と話す時にきちんと普通に話せそうだ。
もちろん周囲の女性と性的な関係を結ぼうなんて安易なことは考えていない。
しかしいつかチャンスが来たときに、物怖じせずに乗っかれる準備ができた気がした。
そして今回、恋愛感情がなくても、自分はその場で出会った相手と最後まで行為できることが示せた。
私は彼女と別れてから、両者合意の上で誰も傷つかなければ性的のみの関係もありだと考えるようになった。
半年前の私は、創作にすら純愛以外は認めない熱心な純愛至上主義だった。
しかし社会人になって数ヶ月、都会に来て様々な価値観の同期を見て、浄穢を知った。
性的関係だけに割り切ったパートナーに憧れを持つようになった。
真面目じゃなくても最低限の倫理感だけは持っているらしい。
だから別れた後に、性的関係だけのパートナーがほしいという感情が強く湧いてきた。
だから恋愛感情なんて無くても、ただの性欲でも最後までできると証明させてもらえたのは、すごく自信に繋がった。
さて、微妙だったのは、やはり恋人とする行為とソープは違うということ。
私はやっぱり本物が好きだ。
時間を気にせずいちゃいちゃしあう時間とか、服のままで触り合う時間とか、たくさんチューしながらつながる時間とか、そういうのが好きだった。
なにより大きな気づきは、普段の生活やデートも含めて超巨大な前戯になっていたことだ。
正直、余計分からなくなった。
また風俗に行こうとも思わない。
内容さえ理解してれば語呂合わせなんて必要ないんだぜ……って高校生の頃はかっこつけてたけど、他の事はあんまり思い出せなくても手腕だからシュワンが動物細胞、みたいなのは今でもパッと出てくるからバカに出来ないなって。
概念のパッケージ兼内容を表すラベルとして割り当てられる言葉も、それそのものは恣意的に決められるものだしそれ自体に意味はないしな。ソシュールか。
風や靴という言葉そのものには何の妥当性もないし、風車とか靴箱とかみたいな既存の無意味な言葉を組み合わせたものでない限り言葉からは何も分からない。ナポレオンという名前からも何をやった人間なのかは全く伝わってこない。年号だって出来事の流れを理解してれば時系列くらいは分かるだろうけど、そのものドンピシャは暗記するほかない。
先日知人と飲みに行ったんだが、その際「言語ってどのようなものか?」みたいなことが話題に上ったんだ。
そこで俺は「そもそも一般に使われている言葉は恣意的なもので、必然性はない」と発言した。
いやいや違うよ、もしそれを中二病と呼ぶならソシュールやロラン・バルトなんかも単なる中二病になってしまうから。
そう説明したが、知人は要領を得ない様子で首肯しない。
そこで気づいたんだ。
自分が分からないことに対して、それが少しでも曖昧で、抽象的であるとそれを「中二病」と称することで、自分の知識不足を咎めることなく、逆に「中二病」なことだから知らないほうがまともだと自分を肯定するための免罪符なのだと。
自己欺瞞だ。
未知なるもの、未開なものに対して「中二病」と名づけることで、その可能性に蓋を閉めるという行為は、大人が行うのにはあまりに幼稚すぎないか?
そして彼らはその対象に対しての適切な表現を知らないからこそ、ブラックボックスとして「中二病」という言葉を使っているのだと思う。
先日知人と飲みに行ったんだが、その際「言語ってどのようなものか?」みたいなことが話題に上ったんだ。
そこで俺は「そもそも一般に使われている言葉は恣意的なもので、必然性はない」と発言した。
いやいや違うよ、もしそれを中二病と呼ぶならソシュールやロラン・バルトなんかも単なる中二病になってしまうから。
そう説明したが、知人は要領を得ない様子で首肯しない。
そこで気づいたんだ。
自分が分からないことに対して、それが少しでも曖昧で、抽象的であるとそれを「中二病」と称することで、自分の知識不足を咎めることなく、逆に「中二病」なことだから知らないほうがまともだと自分を肯定するための免罪符なのだと。
自己欺瞞だ。
未知なるもの、未開なものに対して「中二病」と名づけることで、その可能性に蓋を閉めるという行為は、大人が行うのにはあまりに幼稚すぎないか?
そして彼らはその対象に対しての適切な表現を知らないからこそ、ブラックボックスとして「中二病」という言葉を使っているのだと思う。
「風車」と言うと、脳内でパッと浮かぶ画はあのデカい羽根がブンブン回る装置。
字面をよく見ると、風車は「風で回転する装置」だから、まあ言葉とモノが直感的に結びつく。
でもウィンドミルは「風で動かす臼」、というのを表すのが言葉のキモ。確かに、元々は穀物を挽く装置だっから、そこにフォーカスするのもおかしくない。
臼ではないのだから、モノと言葉が一致するのはウィンド部分しか残らない。
他にも、ここ数十年で著しく成長した電子技術分野では特に「名残の表現」が数多く残る。
こういう名残りは個人的に嫌いじゃない。でも、「言葉は変わるもの、変わってきたものなのだから、これからも適宜変えていきべきだ」という人には面倒な話なんだろうな。
あと、「新幹線」というと、パッと浮かぶのはあのシュッとした車体の快適な高速の列車。
でも「新幹線」という名前の中に、特殊な車体に関する言及は一切ない。「新幹線」と聞いて恐らく真っ先に浮かぶ、速いだとか快適だとかちょっと高いだとかのアイデンティティは一切表されていない。在来線とは違うという、交通網としての特殊性だけ。
「モノレール」が何か説明されろと言われて、「線路が一本の列車」という部分にフォーカスする人はあまり多くはないのではないかと思う。
パッと浮かぶイメージは、高架に吊られたり抱え込んだりして走るちょっとレアなアレ、といった所だろう。
ソシュールは記号、シニフィアンと意味されるもの、シニフィエとの結び付きが恣意的だと言う。我々が外で履くアレを「靴」と表すのに必然性は無いが、しかし靴を入れるモノを「靴箱」と呼ぶのには必然性があると言える。足に履くものを「靴」と呼び、モノを入れる設備を「箱」と呼ぶ合意が既にあるから。「名が体を表す」例と言える。
すまん、それは確かにそうだった
ソシュール独自の内容を主目的にしたものを発表するなら、多分、ソシュール独自の表現などが含まれるだろうって感じかな
講義ノートの再現という場合にどこまで自分なりの言葉にできるものなのか的な?
まあそこは工夫すればどうとでもなるのかもしれない
授業の種類というか特質によりそうな気はするんよね
誰が講義しても本質的な内容の変わらない一般的な講義から、ただ科学的事実のみを持ってくるなら著作権的問題は存在しないと思う
(線形代数の授業で先生はこの公式はこのような意味であると言ってた、的な)
でも今回の場合ソシュール独自の考えの部分をおそらく主目的に出版しているわけで、そこが問題になりそうな気がする
以前、先生が現在やってる研究内容の途中経過的なものを授業でしゃべって、それをTwitterにあげた学生が出た時はリスクがあるのではと言ってた人もいたし
これ自体がソシュールオタクがソシュールという「公式」の言いたいことが何だったのかを
『講義』はソシュールが1907年から1911年にかけて行った3回の講義の内容をバイイとセシュエがまとめたものであるが、この2人は3回のいずれの講義にも出席していない[13]。2人は授業に出席できなかったことを悔やみ、ソシュールの講義を一つの本にまとめて形に残すことにした[14]。しかし、ソシュールの講義は整然と言語学を論じるものではなかったため、2人は出席した学生から集めた講義ノートをそのまま本として刊行するのは不適切と考え、ソシュールが以前に書いた草稿などとまとめて大きな編集を施し、出版することにした[15]。
ソシュールは一般言語学の講義が終わるたびに、準備した走り書きを破り捨てており、これを参考にすることはできなかった。バイイとセシュエが参照したソシュールの草稿は、1894年前後のものを中心にしており、そのうち主要なものは3つある。「形態論」と題された講義の序論と思われるノート、上述の一般言語学についての本の草稿、ホイットニーに向けた追悼論文である[16]。2人はこれらを断片的に利用しつつ[17]、比較的バランスの取れていた第3回講義を元にして、1916年に一般言語学講義を刊行した[18]。
ソシュールの講義ノートをそのままには刊行しないというバイイとセシュエの方針には、同じソシュールの弟子であったルガールが反対していた[19]。『講義』の刊行から3年経った1919年、一般言語学講義にはソシュールの講義が持っていた魅力が欠けており、講義ノートをそのまま刊行してソシュールの思想を忠実に伝えたほうがよかったのではないか、と述べている[20]。
大学の「講義」というものの著作権ってどこにあるんだろうそもそも
先生本人にあるものなん?大学として発表したということで、発表後50年(今だと70年?)過ぎたらパブリックドメイン化したりしないんだろうか。
あと、出席者が10人しか居ないような講義って実態としてはゼミ見たくなって先生がただ話してるだけの部分だけが内容の全部ではないってなることもあるけど
話は半世紀前の文学研究に戻る。ソシュールという言語学者が「一般言語学講義」という10人くらいしか出席者のいない講義を行い、ソシュール死後、その講義にも出てなかった全く関係ない奴が学生のノートをもとにソシュール『一般言語学講義』として出版し、これがコペルニクス的転回にもならぶ「言語論的転回」のはじめとなった。
話の論旨に関係ないんだけど、こういうことって著作権的にはどうなるんだろう
特に今とかオンライン授業の関係でノートをデジタル的に書き留めてあるし、
タイピングだから手書きよりも早くてかなり抜けが少なくなってる状態だから勝手に出版とか学生ができなくなさそうに思えるんだよな