はてなキーワード: 高校中退とは
初の精通は14歳で、暇なのか現実逃避的に「股間をしごき扱き続けるとどうなる?」「本当に何か出るのか?」と何もオカズを見ずに手淫をしていたら射精してしまって手やブリーフを汚してしまった。その時は自室で夜(21時前後)だった。
14歳でオナニーをして射精を1度してしまって射精後の罪悪感や怖さからか、15歳になって1年間はオナニーをしないようにした(オナ禁)。一応手淫の刺激は得ていたが、たまに出そうになった場合は最悪寸止めをして15歳の間に射精は一度もしなかったのは確実。
その前後の頃にPSPで閲覧していた、2ちゃんねるのコピペブログらの記事や萌駅辺りから、性的嗜好とかも狂い始めた。
16歳になってからはオナ禁の反動か、浴室で妄想しながらシコって射精する事を何回かする程ふしだらになった。母から洗い場の排水溝がデロンデロンになってるのを言及されて自分が洗い場で性処理してる事が親にバレた。
14歳の頃は性的嗜好はパイズリで、18歳頃から胸や口よりも膣が確実に快感であるという事を理解した。それ以前まで、なぜか「ヴァギナ・デンタータ」という生半可な知識が先にあって、なんとなく「膣に歯がある事がある(膣への薄っすらネガティブなイメージ)→膣には無関心・距離を置いてた」という時期があったせいか、体位とかあまり興味が無かった。
17~18歳頃から「膣って歯とかの痛みも無く(悪い印象無く)快感を得れる箇所なんだ」と理解した際に膣への執着が増していった。オナホ妖精とかインピオとか。それでもオナニーをする際のオカズは大抵その自慰初期に知った萌駅辺りからの二次元のエロ画像を繰り返し使っていた。
ちなみに17歳頃まで二次絵のパイズリ絵が中心で、膣の性交エロ絵は3番手ぐらいだったと思う。ケモノのエロ絵は2番手ぐらいか。
その頃はまだ自分がピュアなのか、二次絵の竿役の上半身とか体が変に黒光りムキムキで人工的な不自然な雰囲気な事も受け入れられなかった。(そういう絵が強姦物である事を理解したり、強姦物に地味に自分に影響されてる事に気付くのは大分後になる。)
1日1回抜いたら抜く気にならず、20代の頃でも週に2~3回程度だったと思う。
「中学生時代に興味本位でシコって射精してしまったり そのエロ絵のまとめブログとかを見てなければ、二次絵とかでのオナニーや、今でもそれ程オナニーしていなかったかもしれなくてオナニーした時の罪悪感や執着や時間浪費などに今も苦しまずに済んでいたかもしれないのに…」と今でも思う。
最近は、自分に刺さるエロ絵があると、二次絵エロ絵師は「ズルい」と腹立たしく思ってしまう。
自分はアラサー後半だが一度も恋愛すらもした事が無い。自分はエロは二次元派で、専らAVを本格的に見始めたのは20代後半(2022年頃)で、それまで三次元のエロ動画などのAVを見たのは指で数える程度だった。なんなら14歳の頃に戻れるなら、二次絵すらハマらないようにすれば良かった。ちなみにオナホなどの性器具も一度も手に入れたり使った事はない。
自分がオナニー回数に積極的でなかったりオナニーに肯定的でない事情を今書かないと忘れそうな気がしたからこれを書いた。書いてる気分としては走馬灯みたいになってる。
平成一桁台生まれ、親にはとにかくぶっ叩かれながら育てられた。
高校中退の父親には安全靴で小石みたいに蹴られまくり、母親には平手で叩かれたり殴られたり、勝手に所有物を捨てられたり壊されたり、裸で外に出されて鍵閉められたりもしたな。
クソ田舎とはいえガキの泣き叫ぶ声は聞こえていたと思うが、近所の奴らは特に何もしてくれなかった。まあそんなもんだよな。
父親は暴力の擬人化だったので人格を語るべくもないが、母親は「きちんと育ってほしいから殴って躾けている。殴っているこちらも痛いが、お前のためを思ってしていることだ」と主張していた。筋が通っていると思ったので、18歳頃まで素直に殴られ続けていた。
で、大人になって子供を持ったわけだが、本当に自分の子供に手を上げる親の考えが分からなくなった。
だって可愛いとか可愛くない以前に、ひとつの人格を持った他人だろう。自分の子供だからとか関係あるか? 暴力に訴えるのがいけないということは大前提だろう。他人の子供を殴ったら逮捕されるのに自分の子供を殴るのは許されるなんて、なんだかその部分からしておかしくないか。今はちゃんと許されてないのかもしれないけど。
で、自分の子供を育てるにつれ、親があの冬の夜に泣き叫ぶ俺を素っ裸にしてせせら笑いながら表に出したこととか、「避けるなよ」と手で庇うのも許さずビンタし続けたこととか、安全靴の土とゴムの匂いとかあれが腹にめりこむ感覚とか思い出して、思い出しては子供の顔見て、あり得ねえよなって確信して、どんどん許せなくなるわけ。
その一方で、バカガキは痛みを以ってでしか学習できないっていうのも分かるんだよ。行儀のなってない奇声ガキに遭遇するたび(殴ってでも躾けろや)って苛々するし。苛々して、かつての親が自分の中にもいるのを自覚して、落ち込んで、せめて自分はガキの頃の自分に欲しかった理想の親を演じ続けようと思うわけだけど。
ちょっとは分かりあえるかなと思った、いわゆる毒親持ちの相手に自己開示したら「親も親という他人。そのことを理解して許してあげて。それができないのは子供ですよ」とか、優しげな笑みのまま言われるわけだけど。
何が正しいんだろうな。
でも何が正しくたって、俺は許せねえんだよ。
親とはもう連絡をとってない。遠方に住んでるし、携帯も着信拒否にした。何度か叔母づたいに連絡が来たけど、幼少期にされたことが許せない旨を伝えてシャットアウトしてる。あんなバケモノどもに大事な人たちを会わせたくないし。あれに会うことで自分の中のバケモノが惹起されて、今の生活を壊してしまうのも怖いし。
孫の顔は二度と見せない。近況も送らない。葬式にも出ない。これが報いだと思うのかな。思わねえだろうな。子供のままでいいよ。あいつらの心なんか一生分かんねえもん。
子どもが家を出た。
https://anond.hatelabo.jp/20230622095834
当時、まだブログというものは無くて、Dreamweaverで作ったホームページに掲示板機能を追加、好きな音楽の話やPDA(PalmOS端末が盛んな頃だった)についての話を書き、大学時代の友人達と内輪で楽しんでいた。
ところが、やがて掲示板に荒らしが来るようになってしまい、その対応が煩わしくなった。
もう少しクローズドな環境で遊びたいよね、というタイミングで、まだ招待制だったmixiを始めた。
当時のmixiには様々なコミュニティがあり、比較的マイナーな海外ミュージシャンの情報等が得られる貴重な場でもあった。
そのうちに、音楽とは関係のないコミュニティで20代の女性と知り合う。
YahooチャットやSkypeで他愛もないやり取りをしているうちに、彼女の頭の良さ、人柄に惹かれるようになった。
彼女には当時生後6ヶ月になる娘がいた。
結婚はおろか、親になることなど全く想定していなかった人間だったので、夫という立場、父親という立場には戸惑いの連続だった。
妻とは年齢が一回り以上離れており、育ってきた環境も大きく異なる。
しかし私は、話し合いが深くなる過程で自分自身の問題を直視せざるを得なくなるのが嫌だった。
人と暮らすのは、このように苦しいものなのかと思い悩んだ。
不惑まで独り自由気儘に過ごしていたツケが一気に回ってきたようにも思えた。
それでも、妻のことは好きだし、この幼い娘に二度も父親を失わせるようなことはあってはならない、と思った。
やがて、話し合いのテーマの8割は、子育てについての話になって行く。
頼れる親戚も、莫大な遺産もない。
必然的に、この子は独りで、自分の力で生きる期間が長くなるだろう。
娘は、持って生まれた個性(特性)がなかなか強い子なのだと、成長するにつれて分かってきた。
今の社会の不寛容さの中で無事に過ごすには、この子自身がそれを自覚して、社会と自分とのズレをある程度調整する必要がある。
妻はそう感じていた。
娘の特性は、私のそれによく似ていた。
私は、幼い頃から「マイペースな子だね」と周囲の大人に指摘される事が多かった。
所謂、ASD的な傾向、ADHD的な傾向のどちらもが自分にあるのだ、親という立場になって初めてそう自覚した。
ただ、私の育った環境では、それはあまり珍しいものではなかった。
国家公務員官舎の集まった地域で、同級生の親は昭和一桁生まれにもかかわらず旧帝大卒が何人もいた。
総じて児童の学力は高く、また当時は珍しい帰国子女受入校だった。
大卒の保護者が多く、それなりに教育熱心な家庭の多い環境で過ごしているうちに、私もほどほどには勉強の出来る子になった。
ちなみに、私の父は高校中退だった。
父については、以前に書いた事がある。
https://anond.hatelabo.jp/20230202131807
何と言えばよいのか、少しばかり浮き世離れした、不思議な人だった。
森の小人が人間の世界に迷い込んで、なんとなくそのまま居着いたような。
(大学を卒業して働くようになってから、あの父を受け入れてくれていた社会、周囲の人々の寛容さを初めて理解した。)
そうして、自分の過ごしてきた環境を振り返ってみると、私のような子どもは決して珍しくなかった。
「僕もこんな感じだったけど、別に気にする事はないんじゃないかな」
と呑気に答えていたが、それは私の育った環境がこうしたものだったからだ。
だとすれば、様々な「世間」のうち、比較的この子が生きやすい側の世間を選びつつ、こちら側もある程度の調整をして行こう。
父や私が運良くそうしてきたように。
娘の個性は、それを理解してくれる人々の間では、おそらく大切にしてもらえるだろう。
小学校では、他の子たち、特に女子のグループにはあまり上手く馴染めなかった。
同調すること、足並みを揃えること、それらが苦手なのは既に分かっていた。
図書館には良く連れて行った。
自分自身の経験から、本を読む習慣さえ身につければ、学業ではそれほど困る事もないだろう、と考えた。
子どもにプログラミングをさせてくれるサークルを見つけて、ワークショップに何度か連れて行った。
小学校2年生くらいの頃だ。
やがて、地元に出来たばかりの子どもを対象としたプログラミングサークルに定期的に参加するようになった。
面白い大人、大人っぽくない大人がたくさん居て、私にも居心地の良い場だった。
義務教育が終わったら、こちらの「世間」寄りの、この子と同質性の高い環境に入れてやろう。
学校説明会や文化祭に連れて行くと、もう娘の眼中には高専以外の選択肢はないくらいに気に入っていた。
中学2年生になり、そろそろ受験のための準備をしなければならない。
塾というものはどうにも合わなかったようで、私が勉強をみることになった。
大昔の高校受験の頃を思い出して、一緒に参考書や問題集を選んだ。
振り返ると、娘を育てる過程で、私も一緒に遊んでいたような感覚がある。
子ども向けの展覧会やイベントには、私が楽しめるものがいくつもあった。
デザインあ展、チームラボのイベント、ワークショップコレクション、科学未来館など、どれも楽しかった。
大人として、親としてそれらに参加しているという感覚はあまりなかった。
思っていた通り、娘にとっては実に居心地の良い学校だった。
ただ、無駄に行動力があり過ぎるために起こす問題で、しばしば親が学校に呼ばれる事もあった。
そこで、学校後援会というPTA的な保護者の会に参加して、保護者として学校との距離を縮める事にした。
高専という学校の特殊性もあり、後援会には似たような考えで参加している保護者も多かった。
「目一杯遊ぶために、目一杯アルバイトする。落第は絶対にしない。そのようにリソース配分しています」
同級生の4割くらいは国立大学への編入などの進学組、娘を含む6割は就職組。
皆、全国各地に散らばってしまい寂しい、と言っていた。
そして、自分のやりたい分野の事業を手掛けている就職先で、今月から社宅での生活を始めた。
社会に出たら出たで、やはり心配は絶えないが、ここからは離れて見守るしかない。
少し前に、娘と二人で駅から家まで歩いている途中、
「パパは、人としては「え、この人どうなの?」って思うところが割とあるけど、父親としては満点かな。まぁ、よく来たねw」
と言われた。
よく来たね、というフレーズは、私との間に遺伝子の繋がりが無い事を小学生の頃に知って以来、娘がよく使うものだ。
私にとっても実に面白い20年間だった、というのを書き記しておきたくて、長々と匿名日記に書いた(読む人が読めばすぐに特定出来てしまうけど、内緒でお願いします)。
子どもが家を出た。
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当時、まだブログというものは無くて、Dreamweaverで作ったホームページに掲示板機能を追加、好きな音楽の話やPDA(PalmOS端末が盛んな頃だった)についての話を書き、大学時代の友人達と内輪で楽しんでいた。
ところが、やがて掲示板に荒らしが来るようになってしまい、その対応が煩わしくなった。
もう少しクローズドな環境で遊びたいよね、というタイミングで、まだ招待制だったmixiを始めた。
当時のmixiには様々なコミュニティがあり、比較的マイナーな海外ミュージシャンの情報等が得られる貴重な場でもあった。
そのうちに、音楽とは関係のないコミュニティで20代の女性と知り合う。
YahooチャットやSkypeで他愛もないやり取りをしているうちに、彼女の頭の良さ、人柄に惹かれるようになった。
彼女には当時生後6ヶ月になる娘がいた。
結婚はおろか、親になることすら全く想定していなかった人間だったので、夫という立場、父親という立場には戸惑いの連続だった。
妻とは年齢が一回り以上離れており、育ってきた環境も大きく異なる。
しかし私は、話し合いが深くなる過程で自分自身の問題を直視せざるを得なくなるのが嫌だった。
人と暮らすのは、このように苦しいものなのかと思い悩んだ。
不惑まで独り自由気儘に過ごしていたツケが一気に回ってきたようにも思えた。
それでも、妻のことは好きだし、この幼い娘に二度も父親を失わせるようなことはあってはならない、と思った。
やがて、話し合いのテーマの8割は、子育てについての話になって行く。
頼れる親戚も、莫大な遺産もない。
必然的に、この子は独りで、自分の力で生きる期間が長くなるだろう。
娘は、持って生まれた個性(特性)がなかなか強い子なのだと、成長するにつれて分かってきた。
今の社会の不寛容さの中で無事に過ごすには、この子自身がそれを自覚して、社会と自分とのズレをある程度調整する必要がある。
妻はそう感じていた。
娘の特性は、私のそれによく似ていた。
私は、幼い頃から「マイペースな子だね」と周囲の大人に指摘される事が多かった。
所謂、ASD的な傾向、ADHD的な傾向のどちらもが自分にあるのだ、親という立場になって初めてそう自覚した。
ただ、私の育った環境では、それはあまり珍しいものではなかった。
国家公務員官舎の集まった地域で、同級生の親は昭和一桁生まれにもかかわらず旧帝大卒が何人もいた。
総じて児童の学力は高く、また当時は珍しい帰国子女受入校だった。
大卒の保護者が多く、それなりに教育熱心な家庭の多い環境で過ごしているうちに、私もほどほどには勉強の出来る子になった。
ちなみに、私の父は高校中退だった。
父については、以前に書いた事がある。
https://anond.hatelabo.jp/20230202131807
何と言えばよいのか、少しばかり浮き世離れした、不思議な人だった。
森の小人が人間の世界に迷い込んで、なんとなくそのまま居着いたような。
(大学を卒業して働くようになってから、あの父を受け入れてくれていた社会、周囲の人々の寛容さを初めて理解した。)
そうして、自分の過ごしてきた環境を振り返ってみると、私のような子どもは決して珍しくなかった。
「僕もこんな感じだったけど、別に気にする事はないんじゃないかな」
と呑気に答えていたが、それは私の育った環境がこうしたものだったからだ。
だとすれば、様々な「世間」のうち、比較的この子が生きやすい側の世間を選びつつ、こちら側もある程度の調整をして行こう。
父や私が運良くそうしてきたように。
娘の個性は、それを理解してくれる人々の間では、おそらく大切にしてもらえるだろう。
小学校では、他の子たち、特に女子のグループにはあまり上手く馴染めなかった。
同調すること、足並みを揃えること、それらが苦手なのは既に分かっていた。
図書館には良く連れて行った。
自分自身の経験から、本を読む習慣さえ身につければ、学業ではそれほど困る事もないだろう、と考えた。
子どもにプログラミングをさせてくれるサークルを見つけて、ワークショップに何度か連れて行った。
小学校2年生くらいの頃だ。
やがて、地元に出来たばかりの子どもを対象としたプログラミングサークルに定期的に参加するようになった。
面白い大人、大人っぽくない大人がたくさん居て、私にも居心地の良い場だった。
義務教育が終わったら、こちらの「世間」寄りの、この子と同質性の高い環境に入れてやろう。
学校説明会や文化祭に連れて行くと、もう娘の眼中には高専以外の選択肢はないくらいに気に入っていた。
中学2年生になり、そろそろ受験のための準備をしなければならない。
塾というものはどうにも合わなかったようで、私が勉強をみることになった。
大昔の高校受験の頃を思い出して、一緒に参考書や問題集を選んだ。
振り返ると、娘を育てる過程で、私も一緒に遊んでいたような感覚がある。
子ども向けの展覧会やイベントには、私が楽しめるものがいくつもあった。
デザインあ展、チームラボのイベント、ワークショップコレクション、科学未来館など、どれも楽しかった。
大人として、親としてそれらに参加しているという感覚はあまりなかった。
思っていた通り、娘にとっては実に居心地の良い学校だった。
ただ、無駄に行動力があり過ぎるために起こす問題で、しばしば親が学校に呼ばれる事もあった。
そこで、学校後援会というPTA的な保護者の会に参加して、保護者として学校との距離を縮める事にした。
高専という学校の特殊性もあり、後援会には似たような考えで参加している保護者も多かった。
「目一杯遊ぶために、目一杯アルバイトする。落第は絶対にしない。そのようにリソース配分しています」
同級生の4割くらいは国立大学への編入などの進学組、娘を含む6割は就職組。
皆、全国各地に散らばってしまい寂しい、と言っていた。
そして、自分のやりたい分野の事業を手掛けている就職先で、今月から社宅での生活を始めた。
社会に出たら出たで、やはり心配は絶えないが、ここからは離れて見守るしかない。
少し前に、娘と二人で駅から家まで歩いている途中、
「パパは、人としては「え、この人どうなの?」って思うところが割とあるけど、父親としては満点かな。まぁ、よく来たねw」
と言われた。
よく来たね、というフレーズは、私との間に遺伝子の繋がりが無い事を小学生の頃に知って以来、娘がよく使うものだ。
私にとっても実に面白い20年間だった、というのを書き記しておきたくて、長々と匿名日記に書いた(読む人が読めばすぐに特定出来てしまうけど、内緒でお願いします)。
「三大~」「教えて系」「ネタがすぎるやつ」「挙げてけ系」「政治」みたいなのは除外
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自分は駄目な人間だった。小学校の高学年のとき、心因性頻尿になって外に出られなくなった。
金曜の、ピアノ教室の直前だった。その日突然トイレが近くなって、結局家の周りをぐるぐる車で回った挙句に帰った。
それからの日々は地獄だった。家から出ることすらできなかった。私自身自分に何が起こったのか理解できなかった。
学校は、授業は嫌いだったけど友達は好きだった。学年みんな友達だと思っていた。みんなの名前と顔を覚えていた。
学校に行けなくなった。
学歴主義で権威主義の父は、私のことを人間じゃない何かを見る目で見ていた。
私は当時の記憶があまりない。ただ、下手くそに隠された不登校に関する解説本や、
リビングで両親が自分について語り合ってるのを察するのがつらかった。
そのあと数ヶ月してから学校に復帰したけど、結局私は中学校も不登校になって、高校も退学した。
大学受験は当然するものだと思っていたので、高校退学前に高認を取って、
中退後は勉強のやる気が出るまで少し時間をもらった。結果的には一浪という形で
MARCHの少し下くらいの大学に通うことになった。みんなが最初に受験をしていた年は、何も勉強していなかったが。
大学に行き始めて数ヶ月でやっぱり行けなくなって、2年ほど休学した。
自分は何故生きているんだろうとよく思った。死ぬ勇気は無く、事故で死なないかな、と妄想していた。
復学後は配慮申請をして、出られなかった授業のプリントを貰ったりしていた。
私の時代は不登校や発達障害は時代の最先端の社会問題で、まだ数が少なく、学校や大学側も対応に苦慮していた。
体調が悪くなりやすいので、保健室を使う許可をもらい、授業の隙間はベッドで寝るようにしていた。
大学は地獄だった。面白い授業もあったと思うが、何の目的もなく社会学を勉強し、
ヴェーバーやデュルケム、フーコー、マクルーハンなどを習った。個人的にはヴェーバーが好きだった。
大学時代、地元に帰ったときに暇で仕方なく、日経ネットワークの初心者用のTCP/IP解説本を買った。たまたま立ち読みして面白そうだったからだ。
それから何冊か自分でネットワークに関する本を読んだ。面白かったし憧れたが、
自分は文系だし人生に夢も希望もなかったので、これはただの遠い憧れだな、と思いながら過ごした。
しばらくして、最初に買った日経ネットワークの本以外ほとんど捨ててしまった。読んでも意味がないと感じていた。
大学も結局中退した。3年にやっと上がれるという冬の試験で、起き上がれなくなった。
毎日天井を見て過ごした。今日は○○の試験だったのに…と思って、泣きながら過ごした。
ここで単位を落としたことで、卒業まで想定より1年だか2年かかりそうだなと自分で計算し、心が折れた。
何度目の挫折か数えるのも嫌になっていた。
画家さんの絵の手伝いに行ったり、フォトコンに応募したりしていた。絵と写真だけが、自分が唯一続けてきたものだった。
それも当然上手くいかず、暫くして、父から障害年金と手帳をとるように言われた。父には逆らえなかった。
父に逆らえる人は家族の中で誰もいなかった。とても怖い人だったから。
父は節税になる!と喜び勇んで説明し、私は、やっぱり自分は道具なのだなと思いながら、そのまま手帳と年金を取得した。
初めて自由に使えるお金を手にした。20代後半で、初めて自分で家具を買っていいことに気づいた。
家の中を、好きだった祖父母の家を模すような感じに作り変えた。
友人が美術館のバイトを紹介してくれたので、小さな美術館で週3日のバイトをすることになった。
が、その直後にコロナ禍になって、半年ほど美術館は閉鎖することになった。
休業補償?だか何だかで、一応もらえた。その年の秋から再開した美術館のスタッフを少しやって、年末年始は地元に帰った。
両親に、戻ってくるように言われた。
父の会社が上手くいっておらず、母方の祖父母から大変な額の借金をしていた。
利益なんて10年ほど出ていなかったらしい。元々何をしているのかわからない
人に説明するのが困難な父の会社だったが、父はとにかく経営センスがなかったらしく、酷いことになっていた。
私は一度地元に戻る決意をしたが、やはり怖くて直前になって無理だと母の前で泣いた。
地元に戻っても居場所はないと感じていた。東京にもなかったけど…。
すぐに次のバイトを探したが、それも2ヶ月しか続かなかった。秋からまたバイトを始めた。
小さめの不動産会社で事務をしていた。年始にまた、今度は以前より強めに、帰ってくるよう説得された。
私はすぐに市の生活相談窓口に駆け込んで、就労移行支援やギリギリ間に合ったコロナ関連の貸付金を紹介してもらった。
非課税世帯なので、返済する必要はないから安心して、説明された。
自分の決断は、生活保護になってでも東京にい続けるというものだった。コロナの貸付金で一時的に数十万のお金が手に入ったので、
それを使い生活保護でもやっていける物件に引っ越しをした。不動産も一人で回ったし、引越しの手配も手続きも全て一人でやった。
就労移行支援は少し通ったが、この時間でバイトをした方がマシに思え、すぐに辞めてバイトを探した。
並行して勉強を進め、基本情報技術者試験に合格した。その後障害者雇用で小さなコンサル会社で資料作りのバイトをし、
その間にMOSのExcel Expertを取った。お金をかなり切り詰め、貯金を始めた。結局生活保護にはならなかった。
翌年バイトが契約終了になったので、ネットワークの仕事にチャレンジすることにした。
人生で初めてのフルタイムのバイトだった。倒れる前提で、駄目元でやってみることにした。
昔柄谷行人の『探究』で読んだ、暗闇の跳躍だか飛躍だかを思い出した。
価値は、価値がついたあとにしかその意味を読み取れない。価値がつくには暗闇を跳ばなきゃいけない。
薄給の上に業務量がえげつなくて、人がすぐに辞めていく環境だった。
ある程度初心者ができるように自動化されていたので、1ヶ月を過ぎる頃には一通りの業務を覚えていた。
毎日現地作業員と電話を繋げながら、色々な試験をし、NWを開通した。たまに撤去もあった。
障害を隠して仕事をしていたが、ある日電話中にパニック発作が出て、電話を保留にした後しばらくトイレにこもって薬を飲んで休んでいた。
ここでもこうなるのか…、とトイレの中で泣いた。結局その職場も居づらくなって辞めてしまった。
諦めきれずに、次の仕事を探した。ベンチャー企業で、またネットワークの仕事をやることになった。
今度は客先常駐。仕事に出る前に第一級陸上特殊無線技師の資格を取った。
高校数学は赤点だったので、選抜試験も養成講座も地獄だった。何年振りかの座学だった。
そのあと1時間半ほどかかる場所で夜勤をすることになり、私はすぐに壊れた。
夜勤明け、ふらふらになりながら漫喫に入ってひたすら寝続けた。またパニック発作が出て、帰ることができなくなっていた。
大手IT企業の子会社で、採用の仕事をした。面接時はいずれITの仕事を回してくれると言っていたが、
一向に果たされる気配がなく、半年で辞めた。ここまでの失敗で辞めた後に空白期間があるとメンタルに来ることはわかっていたので、次の仕事はすでに探してあった。
障害者雇用の契約社員として、またIT系企業に入った。1ヶ月の待機期間の間にCCNAを取って、
今はそこで仕事を続けている。何故かPython人員になってしまったので、毎日ツールを作っている。
ChatGPTのおかげでなんとか仕事ができている。
今の案件は年内で終了するらしい。
数週間前に正社員登用の話があり、面接を受けた。周りからは多分行けるんじゃないかと言われている。
貯金はやっと130万ほど貯まった。将来は…できれば健常者として生きていきたいが、まだ暫くは難しそうだ。
まだ何も安心できない。実家の父母は離婚問題でめちゃくちゃになっているし、
リモートだから仕事ができているのでは?という懐疑が常にあって、次の案件でどうなるかわからないと思っている。
私は障害について色々思うところがあるが、30ぐらいの時にはっきりと
「自分は才能が無いのだから、せめてコミュ力を伸ばそう。自分は一人で生きていけると思えない。
だから、人から助けてもらえる、助けようと思ってもらえる人間になろう」とずっと考えてきた。
今の時代は障害者健常者に関わらず、みんなにとってつらい時代だと思う。
何かを抱えているのはみんな同じだと思っている。そんな時代に、
マイノリティが自分を救ってくれ!と叫ぶことはとても怖いことだと思っている。
社会に余裕がなくなれば、一番最初に切り捨てられるのは自分たちじゃないだろうか。
今までたくさん人に迷惑をかけたけど、少しでもそうでない自分になりたい。生きていていい自分になりたい…。
------------------------
私は今もたくさんの問題を抱えているし、色々上手くいっていない。
人生を呪っているし、楽しくはない。たまに楽しいこともあるが。まあしかし、こうやって足掻いている人間もいるよ、と思って書いてみた。
特定されようが、もうプライドなんて無いからどうでもいいのだ。
私を見下して、自信をみんな持って欲しい。こんな見苦しくみっともなく足掻いてる人間もいるのだから。
…まあ今後どうなるかはまだわからんけど。
------------------------
思ったより反響があって驚きました。
タイトルは自分の人生を象徴するような言葉ですが、実際そういう境遇にある人間がどのように生きていくのだろう?という
素朴な疑問から読んでくださった方がいるのかなと思います。あるいは下層にいる人間の惨めな人生を期待した方もいるでしょう。
励ましの言葉やアドバイス、叱咤を下さった方、それぞれありがとうございます。全部読んでます。
わーっと書いてしまったのでちょっと読みにくかったかもしれませんね。申し訳ないです。
障害については一応ASD…ということになってます。診断が下りたのは大学生のときでした。
ご存じの方も多いと思いますが、当時はアスペルガーと呼ばれていて、空気が読めない・人の感情がわからないだとか、まあ散々なことが書いてありました。
カサンドラ症候群の話もありますし、今でもややADHDよりASDの方がイメージは悪いのかも、と思うところはあります。
高校生の頃にWAIS-Ⅲを受けた際には、言語性IQと動作性IQに結構な隔たりがありました。
当時の記録だと言語理解111、知覚統合99、作動記憶105、処理速度84。PARSの結果は幼児期が25点、思春期成人期が34点です。
一昨年だかにWAIS-Ⅳを受けたときは色々マシになっていて、言語理解119、知覚推理107、ワーキングメモリー117、処理速度111という結果でした。
今は人からは障害を持っているようには見えないとよく言われます。体力がないのは相変わらずですが…。
慢性疲労症候群の診断も下りていて、当時医師からは「あなたは将来生活保護か専業主婦でしか生きていけないと思います」という
大変メンタルに来る言葉をいただいていました。それから一気に体調が悪くなり、何も自信が持てなくなった後に
自分はそんな未来を信じないし、絶対にあの言葉を覆してやると決め、もう一度立ち上がりました。
大学でも発達障害で中退した人たちの予後が悪い、まともに働けていないという話を聞かされていたので
これについても、だったら最初の一人になってやる、と思った記憶があります。
自分は女ですが、文章が怖いと言われることもあったので、その辺も徹底的に直しました。
人を観察して、絵文字や顔文字をちゃんと使って明るく取っつきやすいイメージを持ってもらえるよう修正し、
見た目もパーマをかけたりと柔和な雰囲気を心掛けました。そういう仮面は、今は自分の皮膚のようになって
人の気持ちがわからない、共感性がないという部分については、周囲から指摘はそこまでなかったのですが
とにかくできるだけ人のことを想像するようにしました。自分を取り巻く多くの人たちや、ニュースになっているゴシップやエッセイなどからたくさんのことを学べたと思います。
お金があっても、賢くても、健康な体を持っていても、それでもみんな裏では色々あるのだな、と。つらいのは自分だけではないと言い聞かせてきました。
恵まれて見える他者が、実は苦しんでいるという話をちゃんと覚えておくようにしていました。
人生が大変だと、どうしても被害者意識が強くなってしまうものですが
そのように思う瞬間はあっても、絶対に客観性を失わないようにしようと常に思っています。
同時に、自分自身をあまり障害者として扱い過ぎないようにも心掛けました。単純に、心がすり減るので。
あと数日でWAISの結果が分かってしまう。
そんなに頭がいい自覚はないが境界知能だったらどうしようという気持ち。
なにせ保育園のころから社会不適応まるだしで、高校中退してる中卒だ。頭がいいわけない。
文章題を暗算するやつは計算はできたし答えられたけど、答えるまでに時間がかかって制限時間をオーバーしていたと思う。
処理能力も平均より低いと思う。2種類とも当然のように最後まで答えられなかった。
完璧主義といえば聞こえはいいが、どうしても処理速度よりも丁寧さや間違えないことを重視してしまうのだ。
唯一(たぶん)最後まで答えられたのは積み木模様だけ。
どれだけボロボロの結果でディスクレパンシーも酷い結果なのだろう。
そんなことを考えつつ、一番つまらないと思うのが総合IQ100前後の平均値でディスクレパンシーもない、平々凡々とした結果に終わることだ。
我ながら歪んでいると思うが、なにか特別な結果が出てほしい気持ちがある。
そういう妙なプライドを持っていつつ、その結果と向き合うのが怖い。
自分以外の家族が全員死んでからもう5年になるけど、毎日人と話すことがなさすぎて気持ちが鬱々としてきた
仕事も自営業で同世代の知り合いがいない上に唯一の知り合いとも業務上のやり取りしかしない
中学時代の友だちは何人か連絡先知ってるけどそういう奴らと会うような年でもない
元々内向的なタイプだから最初はへっちゃらだったんだけど、変わり映えのしないそんな生活に段々と嫌気が差してきた
自分が何をしても周りの反応が一切なくて、モチベーションがなくなってきた感じ
当然異性との出会いもない
去年の今頃にマッチングアプリをやってたけど、2、3人と会ってしっくりこなくてやめた
特別会話が苦手なわけではないけど、品定めのためだけにわざわざ会うのが不自然に思えて嫌だった
それに、自分が欲してるのは話し相手であって恋人じゃないと途中で気付いたから
これといった趣味もない
うまくは言えないけど、長年頑張ってきたことがようやく報われ始めたような手応えがある
今ちょうど上手くいってる時期で、更に上に行くためにはどうするか?ということを毎日考えてるんだけど、
上に行ったところで自分は何がしたいんだ?これ以上金だけ稼いで何に使うんだ?とここでやはりモチベーションの壁にぶちあたる
こういうとき、例えば仲のいい家族や恋人、同世代の知り合いがいれば励みになるだろうと思う
とはいってもなんとなく金は必要、という思いがあるから毎日仕事は頑張ってる
でも、頑張った先に何があるのか見えない
そして、話し相手がほしい
大谷のニュース見てすごいねって言ったり、今日あった出来事をだらだら話したりしたい
大の大人がこんなこと言うのも恥ずかしいけど、寂しい
デキ婚で高校中退した母親のもとに産まれ貧困片親家庭で育った典型的な底辺育ちなんだが、俺の母親は親父と付き合っていた頃にパチンコの景品で取ってきてプレゼントされたHERMESだかのカバン(保証書も何もなしの明らかなコピー品)を常に持ち歩いてて、祖母や叔母に偽物ではと指摘されても頑なに無視していて、19の頃以降会ってないから今はどうか知らんけど少なくとも俺が家を出た時点まではそれを恥ずかし気もなく使っていた。
なのでコピー品を平気で持ち歩いて恥ずかしくない人間は知識教養や育ちが心配になるという指摘はまあ間違ってないと思うよ。そういう人間の息子である俺がまさに底辺家庭育ちなんだからな。
https://anond.hatelabo.jp/20241007213420
アメリカの大学を卒業した俺が、この意見が如何に的外れか指摘する。
英語が下手でも、能力やアイディアを認められたら、相手は話を聞いてくれる。
あとTOEIC満点と英検1級ってまた、試験の質が大分違うだろ。
TOEIC満点とか取る奴は試験オタクだ。地頭で行ける人もいるだろうが稀だ。
例えば、ほとんどの日本人はおそらく、普通の高校受験の現代文で満点取れないだろ?
英会話に慣れてくると「難しい表現・ボキャブラリーをいかに平易な英語に変換するか」の能力が発達する。
話すにはこの能力の方が不可欠。
さらに言えば、ほとんどの日本人は急に、準備無しで結婚式のスピーチなんてできないだろ?
慣れない環境で、TPOを踏まえた言葉遣いを使うのは、ネイティブにとっても難しいんだよ。
英語学習に関して言えば、日本の国内教育だと発音は壊滅的だから、多少勉強しろ。
最低でもELSAみたいなアプリ、もっと良いのは発音強制とか行って、フィードバック受けろ。
恥をかいて、刻みこめ。
単に友達じゃなくて、本気で喧嘩したり、笑ったり、感情の起伏を共有するほどの仲のやつ。
これが結局一番大事。
これだけ自動翻訳や生成AIのサポートと充実してる現代で、第三言語の学習のコスパがどれだけ良いか怪しいだろ。
やはり海外は文化等が違うので、思いもしないトラブル等が起きる。
その対応力や機転が身に付く。
精神的に相当きつかったりもするが。
生産拠点の国外移転なんて話は数十年前から言われてるが、なんだかんだ生産拠点を完全に日本から撤退みたいな極端なことは起きてない。
インドや中国の国民性だとか、政治リスクや為替リスクのヘッジだとか、輸送コストだとか様々な理由がある。
それに日本語ってのは、英語話者からすれば参入障壁でもあるんだよ。
日本人全員が英語を話せるようになったら、英語に文化や経済を乗っ取られる可能性だってあるぞ。
実際、英語圏のアジア人とか、よくアメリカのバラエティーやドラマよく見てるイメージあるぞ。
結局は、英語自体よりも、海外で通用するアイディアや能力を磨くことが、グローバル化を乗り越えるために重要なことだと思うぞ。
ただ、そんな能力の高い奴はそういない。
また暇アノン負けたんか
男性はニュースサイト「エコーニュース」を運営する江藤貴紀氏で、X上では「音無ほむら(@echonewsjp)」のアカウントで発信を行っている。
ご挨拶
メインスタッフ
1980年生まれ 東京都在住。好きなものはお酒(でも禁酒中)と古めの映画と旅行。それほど好きじゃないのは、そつの無いエリートと体罰教師。熊本県立済々黌高校中退、大検合格、東京大学法学部および東大法科大学院卒業。
日本はこれまで長らく、情報発信力の弱さが指摘されてきました。この原因としては明治維新以来の西洋型ロールモデルを模倣する枠組みが背景にあると言われることが多くありました。
しかし現在ではそれに留まらず、海外からの情報収集能力の低下も著しいものがあります。新聞・テレビをはじめとするメジャーメディアの取り上げるニュースはその多くにおいて、他国と比べて、ポイントがずれています。その内容は(それ自体をカルチュラル・スタディーズの対象としたり、いわゆる「ビッグデータ」の元としてみるならともかく)刹那的なノイズでうまっています。
そしてユーモアのなさにおいては嘆く余地もないほど嘆かわしいのが現状です。(記事は無論のこと、新聞に掲載の、いしいひさいち氏以外の4コマ漫画で面白いものがあるでしょうか?)これはかつて、偉大な福澤翁らを擁していた国とは思えない状況です。
しかし、嘆いているばかりでは現代社会において生きている世代としての義務を果たせていないと私は考えました。
そこで①古典のごとく100年後にも読み返す価値のある記事を精選して、②海外情報を積極的に収集し③ゆくゆくは海外に積極的な情報発信を行い④福澤諭吉の文章ぐらいの遊びを持ったメディアを作り挙げることをいま、目指しています。
さむい・・・
https://seijiyama.jp/area/card/14040/a8fs6g/M?S=qenel9qelin
氏名 江藤 貴紀
得票数 1030
年齢 34
新旧 新
私は政治の透明性を高めることに関心があり、そのために大学は東京大学の法学部と法科大学院へ進学、情報公開法をとくに熱心に学んでいました。
そして、その知識を活かして生かしてジャーナリストとして調査報道を行ってきました。
そして、今度は政治の場で実践したいと思い、議会へ出馬することになりました。
一期目に、日本全国で(国の法律よりさらに)進んだ情報公開制度を文京区に作り、政治の透明性を高めるとともに、そのデータを元に行政運営の効率化を図ることの出来る議論の「仕組み作り」が目標です。
主な政策
身近な問題としてのゴミ回収日の増加です。高齢化社会に伴い、「おしめ」などの介護ゴミが増えています。また子育て世代 でも、子供の紙おむつがどうしても出ますが、集合ゴミ置き場のない物件に暮らす人は燃えるゴミの日まで匂うゴミを自宅で保管することになります。
無論ゴミを減らすエコ の努力は必要ですが、健康で文化的な生活のためには、なるべく速やかにゴミを処理できる仕組みが必要です。
おそらく、文京区単体ではなく他の行政機関や業者などとの調整が必要な問題と思います。ですが、調整も政治家の仕事の本分であり、まさに達成が必要な課題と考えています。
区立図書館におけるフリーWI-FIの 整備です。ネットの情報と文献で得られる情報は、両方を結びつけることで相互補完的に機能すると考えています。
ところが現在、図書館のWI-FI利用には 一部の携帯企業との契約が必要で、登録手続も面倒です。
これをメトロや羽田空港など位シンプルにすれば利用もしやすくなります。そして社会人が仕事で利用するにも学生が勉強をするにも、効率的な環境を行政が整備することが出来ます。
なお、近隣諸国、たとえば韓国のソウル市では昨年に出張した際に市内のほぼどこでもiptimeというフリーWI-FIが通じたので、図書館単体で整備するのは決して難しいことではないはずです。
財源も、セキュリティ対策の問題はありますが基本的に回線を引いてWI-FIを飛ばせば良いので、賄う費用は十分に捻出できるはずです。
https://web.archive.org/web/20150320211549/http://etotakanori.com/
親ガチャから始まり、良い友人と出会えるか、持っている才能はどうか、そもそもチャンスを活かせる性格に生まれているかetc……
結局、運じゃね?と思うのよ
これを言うと絶対に努力が足りないだなんだ言うヤツ居るけど、努力出来るのも才能なんだよなぁ
親ガチャでSSR引ければ、他全部が壊滅的に駄目でも生きていけるし
一回も働いた事ないし、なんなら高校中退で引きこもってる知人が居るんだけど、死んだ親からマンション相続してるから、よっぽどの事がない限り生きていけるのよ
別にそれがズルいとか言うつもりもないし、運の強さも才能と言えなくもない……のか?