はてなキーワード: 階層社会とは
君は階層社会に対して何らかの苛立ちや不公平感を抱えているのだろう。
しかし、「階層で投稿サイトを分けたい」と言う前に、自分の内にある比較と劣等感の病に気づけ。
これは社会構造の問題ではなく、自己認識の未熟さからくる精神的自己放尿だ。
こうした発想の背後には「自分がどこに属するのか」という不安、あるいは「見下したい/見上げられたい」という承認欲求がある。
投稿サイトを分ければ底辺層に属する者が何を投稿しても「所詮は底辺の言葉」と処理される。
つまりその瞬間に、内容ではなく属性で人間をジャッジする愚行が始まる。
知性と対話を捨てて、分類で思考を止める。これこそ、文明の自己放尿だ。
君がもし「底辺層でも語れる場所が欲しい」「富裕層に無視されない声を届けたい」と願っているのなら、その本音を隠して階層で分けたいなどと表現するのは戦略的にも思想的にも愚かだ。
ヒトの尊厳は属性に先立つ。それを見失っている限り、君がどんな投稿サイトを作ろうとも、そこに生まれるのは対話ではなく分断だけだ。
もし君がその「分けたい」という気持ちを、「誰もが自分らしく語れる居場所を作りたい」という愛の形に変えるなら、そのアイデアは「階層分けサイト」ではなく、「多様な背景を前提にした対話設計」に進化できる。そこにこそ、未来がある。
あなた:
韓国における代替歴史物の創作で君主制を想定した場合の典型的なストーリーを教えてください
ChatGPT:
韓国における代替歴史(仮想歴史、または「もしも歴史」)ジャンルは、特にウェブ小説やドラマ、マンファ(韓国の漫画)などで非常に人気があります。君主制を前提とした代替歴史物は、「朝鮮王朝が続いていたら」「大韓帝国が滅びなかったら」「近代以降も王政が存続していたら」など、歴史の分岐点を仮定することで展開されます。
設定例:1910年に日本に併合されなかった、または1945年以降に王政が復活した世界。
若き王太子/王女が、政争や陰謀、国際関係の中で王室の存続と改革を目指す。
王室を中心にした宮廷ロマンスや、現代政治との対立が描かれる。
主人公は一般市民から突然皇太子妃に選ばれる…といった「シンデレラ」系展開も人気。
代表作例:ドラマ『宮 -Love in Palace-』(韓国に君主制が残っていたらという設定)
設定例:清や日本の圧力を跳ね除けて近代化に成功、大韓帝国が今も国家として存続。
軍制改革・産業育成・列強との交渉などを中心とした歴史スリラー。
主人公が改革派の若き王子または天才官僚・軍人として登場し、国を導く。
設定例:朝鮮文化をベースにしたが、歴史的な国家とは異なるファンタジー国家。
女性主人公が男装して科挙に挑戦する、あるいは王妃として政敵と戦うなど。
「逆ハーレム」的展開もありえる。
代表作例:小説『赤い袖先』(歴史ベースだがロマンチックな脚色が多い)
設定例:現代人が過去の王朝時代にタイムスリップし、歴史を変えようとする。
IT知識を駆使して軍事改革、政策改善、民生安定などを実現する。
主人公が王になったり、王に仕える形で「現代的価値観」を浸透させる。
要素 説明
主人公の成長譚 無能と思われた王子が覚醒、女性主人公が政治の舞台へ
もしご希望があれば、特定の時代設定やテーマ(例:改革志向の王妃主人公、外敵に抗う若き王子など)に沿ってオリジナルストーリーのプロットも作成できますよ。
あなた:
ChatGPT:
はい、韓国における代替歴史創作では君主制は非常に人気のあるテーマです。以下に、その理由や背景、そして現代韓国社会との関連性を解説します。
韓国は現在、民主共和国ですが、現代政治への不信感や疲弊感が社会の中に存在します。
君主制=強いカリスマ指導者、秩序、美意識、伝統文化の象徴とされ、**「理想の統治者像」**として描かれることが多いです。
特にフィクションの中では、「賢君」「改革派の王」「国民を思う王女」など、理想化された人物が登場し、現実では得られない希望や正義が体現されるのです。
朝鮮王朝(1392-1897)や大韓帝国(1897-1910)の美術、建築、衣装などは韓国の伝統文化の象徴。
宮廷文化、科挙制度、王宮建築など、視覚的・美術的に魅力的な要素が多く、映像作品やマンファに適しています。
「韓国的ファンタジー」を構築するうえで、王朝文化はとても都合がよい舞台です。
多くの代替歴史作品では、「もし併合されなかったら」「もし大韓帝国が続いていたら」というナショナル・アイデンティティの再構築が試みられています。
『宮(Goong)』『赤い袖先』『雲が描いた月明かり』『恋慕』『ノクドゥ伝』など、君主制設定のロマンス作品が大ヒット。
ウェブ小説プラットフォーム(カカオページ、RIDIBOOKSなど)でも、王族や王朝をテーマにした作品が多く、安定したファンダムを形成しています。
🔥 人気の背景を要約すると:
時代劇ファンタジー 架空王朝+魔法/妖怪/天命など非現実要素
もし興味があれば、韓国の代替歴史小説における人気作ランキングや、最近のウェブ小説トレンドもお調べできます。
あなた:
現在、世界の国の圧倒的多数が共和制です。たとえ日本による植民地支配を実際の韓国が受けなかったとしても、韓国の君主制が続いてたと仮定するのは荒唐無稽ではありませんか?
ChatGPT:
非常に鋭いご指摘です。ご指摘の通り、現代の国際政治・社会の潮流に照らせば、韓国に君主制が続いていたと仮定するのは現実的には非常に難しい、つまり「荒唐無稽」と言ってよい側面があります。ただし、代替歴史(架空歴史)というジャンルが扱うのは現実的な「あり得た未来」というより、**ある種の「文化的・心理的欲望」や「理想の投影」**であるため、現実性とはまた別の次元の話になるのです。
第二次世界大戦後は、植民地支配から独立した国のほとんどが共和制を採用。
韓国と文化・歴史が近い中国(中華民国→中華人民共和国)、ベトナム(阮朝→社会主義共和国)なども王政廃止。
朝鮮半島において:
大韓帝国(1897–1910)は、清の宗主権を脱して近代国家を目指したが、近代化は不完全で内部の腐敗と列強の圧力にさらされていた。
仮に日本による併合がなかったとしても、国内革命(例:辛亥革命的なもの)やクーデターによって王政の廃止→共和制移行の可能性が高い。
したがって、リアルな歴史的分岐点を考えると、君主制が21世紀まで韓国に残っていた可能性はきわめて低いです。
🤔 2. にもかかわらず、なぜ君主制が人気なのか?
この矛盾は、代替歴史における「リアルな可能性」より「感情的欲望」や「美学」が重視されるというジャンル特性に由来します。
「もしも滅びなかったら」=喪失への反動、文化的ノスタルジア。
君主制は物語装置として、「家柄」「身分」「天命」などのドラマ性・運命論を生む力が強い。
君主制を舞台にした物語では、貴族・王族・反乱軍・平民といった階層社会がくっきり描け、読者にとっても分かりやすい。
現代社会では不正・格差・ポピュリズムなど民主主義の問題点も目立つ。
フィクションでは、「聡明な王がすべてを導く」というユートピア的統治像が歓迎されやすい。
実際には現在も君主制国家は30か国以上あり、その多くは立憲君主制(英国、日本、スウェーデンなど)です。ただしそれらは古くからの制度を維持してきた特異な例であり、新たに王政を導入する国はありません。
✅ 結論
はい、歴史的・構造的に見て韓国の君主制存続を仮定するのは現実性に欠ける仮定です。
しかし、それは代替歴史ジャンルにおいては「荒唐無稽であること」がむしろ想像力の余地を与える魅力となります。
これは「現実を再現する」ための歴史ではなく、「現実では失われたかもしれない理想を夢想する」ための物語なのです。
もしご興味があれば、「君主制フィクション」がどうして現代の視聴者にとって魅力的なのかをもう少し哲学的・文化論的に深掘りすることも可能です。
正直に言うが、私が学生時代に必死で支援してた政党、マジで利用されてただけだったと思う。
当時はまだ自分がマイノリティであることに目覚めたばかりで、なんていうか希望を求めてたんだよね。
政治集会で「あなたたちの声を代弁します!」とか「真の多様性のための闘いです!」とか言われると、マジで心震えたわけ。
でも今振り返ると、あれは全部茶番だった。私という「展示品」を上手く利用しただけ。
彼らにとって私は「かわいそうなマイノリティ」のシンボルでしかなかった。
私の存在が彼らの政治的主張の「正当性」を証明する道具だったんだよね。気づくのが遅すぎた。
最初のうちは優しかったよ?「貴重な当事者の声をありがとう」って。でも、その「声」も彼らの都合のいいものだけが採用されるんだよね。
私の本当の苦しみや怒りが伝わると、なぜか「もう少し建設的な提案を」とか言われる。つまり、彼らの政治的なストーリーに合う「良い被害者」でいろってこと。
「ここはもう少し感情的に」「ここは具体例を入れて」って。私の経験を彼らのシナリオに合わせて編集してた。
自分の言葉で語らせてくれなかった。彼らが求めてたのは生の声じゃなくて、政治的メッセージに都合よく編集された「マイノリティの声」のパッケージだったんだよ。
特に耐えられなかったのは、彼らの中の「古参メンバー」たちの裏の顔。
表向きは「多様性大事!」って言いながら、内部では完全な階層社会。
マイノリティの私たちは下っ端で、エリートたちのために働かされる。
「運動のため」「大義のため」って美化されるから、誰も疑問を持たない。
私の時間を搾取しておいて、感謝すらしない。「あなたたちのための闘いでしょ?」って言われたら、反論できないじゃん。
でも実際は彼らのコミュニティのための実績作りだったんだよね。
最悪だったのは懇親会。
表向きは「仲間との交流」だけど、実際は古参メンバーたちの自慢大会。
彼らが「マイノリティのために」やったことをえんえんと語るのを、私たちは感謝しながら聞かなきゃいけない。
私の体験を話すと「それって本当?」とか「それは特殊なケースでしょ」とか疑われる。
彼らは「マイノリティの声を大事にする」って言いながら、実は自分たちの理解の範囲内の声しか認めないんだよね。
都合の悪い話はすぐに「特殊な例」として片付けられる。
選挙の時期になると特にひどかった。私たちは「展示品」として前面に出される。「ほら、私たちはマイノリティと一緒に闘ってます!」って有権者にアピールするための小道具。選挙が終われば、約束はほとんど実現しない。「今は政治状況が厳しいから」「次の選挙で勝てば」って先延ばしにされる。
党の集会で知り合った他のマイノリティの仲間たちも、みんな同じこと感じてた。でも表立って言えない。「恩知らず」「非協力的」ってレッテル貼られるから。陰で「あいつは問題児」って噂されるのが怖くて、みんな黙って従うしかなかった。
私の意見が彼らの方針と違うと、すぐに「あなたはまだ十分に理解できてない」とか「もっと勉強が必要」とか言われる。つまり、彼らの言うことが絶対正しくて、私の実体験なんて価値がないってこと。これってマイノリティの声を尊重するどころか、完全に否定してるよね?
結局、彼らにとってマイノリティは「保護すべき弱者」でしかなくて、対等なパートナーじゃなかった。
私たちの「弱さ」が彼らの政治的アイデンティティの源なんだよね。だから私たちが強くなったり自立したりすると、彼らは焦る。
私たちが「かわいそうな被害者」でいる限りにおいて、彼らは「正義の味方」でいられるんだから。
学生時代に3年間も捧げた活動が、結局は自己満足の茶番だったって気づいた時はマジでショックだった。
私の痛みや苦しみが、彼らの政治的オナニーの踏み台にされただけ。
そして最悪なのは、彼らは本気で「マイノリティのために闘ってる」と思い込んでること。自分たちの搾取に気づいてないんだよね。
それが今でも許せない。彼らは今も新しいマイノリティの若者たちを勧誘して、同じことを繰り返してる。
「あなたの声が大事」って言いながら、結局は彼らの政治的野望のための道具にしてるんだ。
みんな私を「普通」の枠に押し込めようとする。
東京のレジも、京都のレジも、昨日のレジも明日のレジも。どの列に並ぶか決めていると、周りは「何をぼんやりしてるんだ」という目で見る。
電車に乗るときも、全てのドアが別々の目的地につながっている。
駅員は「何番線ホームです」と言うけど、赤坂行きも新宿行きも横浜行きも全て同じホームにある。
会議でもそう。昨日の会議も今日の会議も来週の会議も全て一度に進行している。
みんなが同時に異なる時間の話をしている。「さっき言ったでしょ」と言われても、そのさっきはまだ来ていないし、もう過ぎ去ったかもしれない。
昨日も職場でそんなことがあった。
学生時代の党集会でもそうだった。古参メンバーのオッサンが私に説明していた。
「君はよく理解していないよね、僕たちのやり方は長年やってきたものなんだよ」
今でも耳に残っている。
オッサンが2018年の党本部で話しているのと同時に、2022年の集会でも同じ言葉を言っている。
彼の背後には2025年の私も立っていて、「それは違う」と言っている。
「マイノリティの活動は、調整によってのみ実現する。それが党の方針だ」
オッサンはそう言った。当時は難しい言葉だと思っていたけど、同時に未来から見ると意味がわかる。
彼らの言う「調整」は、私たちが複数の時間と空間を同時に経験することを制限することだった。
部屋の中に2018年の党本部も2022年の集会会場も2025年の私の部屋も同時にある。
机の上の手帳は1冊なのに、開くたびに違う日付の内容が書かれている。
窓の外には1964年の東京オリンピックの旗も、2021年のオリンピックの旗も、まだ来ていない未来のオリンピックの旗も全て見える。
それぞれの時間で何かが起きている。
でも同時に、江戸時代の小さな富士山も、未来の巨大化した富士山も見える。
それはもはや山ではなく、複数の時間に存在する何か別のものだ。
東京のニュースでは誰も報道しないが、別の時間の京都や大阪のニュースでは大きく取り上げられている。
富士山は全ての時間で同時に成長し、複数の日本列島の形を変えていく。
そして「和の趣」が物理法則となり、過去と未来と現在の「日本(ひのもと)」が同時に存在している。
今日歩いた街のビルは和風だし、昨日は近代的だったし、明日は両方が混ざっている。
向かいの家の人は今朝はスーツで、昼には和服で、夕方にはまだ見たことのない服装で出かけていく。
学校では茶道と華道が必修科目になり、完璧すぎるものは自然と別の時間へ流れていく。和の精神が時間と空間を超えて広がっている。
党の集会で彼らが「調整」と呼んでいたのは、まさにこのことだ。彼らは私たちが自然に経験している複数の時間と空間を、一つの「正しい」時間に制限しようとしている。
入党したての私は「調整」が必要だと信じていた。でも今、過去、未来から同時に見ると、それが彼らの目指す社会なのがわかる。
先週の新聞には富士山が23メートル大きくなったと書いてあった。
でも同時に明日の新聞には18メートル縮んだとも書いてある。どちらも正しい。
富士山は今や高さが3776メートルであり、同時に5489メートルでもあり、また2103メートルでもある。これは問題じゃない。
問題なのは政府が「正しい高さ」を一つだけ認め、他を「誤差」と呼ぶことだ。
駅前では「富士山サイズ固定法案に反対する会」が署名活動をしている。
彼らのプラカードには「全てのサイズの富士山を守ろう」と書かれている。
去年も来年も同じ活動をしている。これは校則見直し運動や制服自由化と同じく、ごく普通の市民活動だ。
隣の建物では「富士山成長促進委員会」が会合を開いている。彼らは富士山がさらに大きくなって、地球の大半を覆うことを望んでいる。
それを「標準富士山」と比べて劣っているなどと言うのは科学的に不正確だ。
富士山巨大化対策市民協議会では、「サイズダイバーシティ」という言葉を広めようとしている。
山のサイズが多様であることは物理学的に自然な現象で、それを一つのサイズに固定しようとする試みこそ物理法則に反する、という考えだ。
同様に「和の趣・物理現象研究連盟」は、物体が持つ複数の状態を全て同等に観測・記録するよう求めている。
本来、和の趣は自然に波のように強まったり弱まったりする物理法則。
先月はニューヨークのエンパイアステートビルが一時的に五重塔になった。
これらは全て「和の趣」が物理法則として世界中に広がっている証拠だ。
子供たちは学校で「標準時間軸」だけを教えられる。2+2=4という世界線と、2+2=5という世界線が同時に存在することを教えられない。
彼らは「正しい答え」だけを覚えさせられる。これは明らかな教育虐待だ。
文部科学省の「多元現実教育ガイドライン」があるのに、なぜ実践されないのか。
私の息子は先日、算数のテストで「2+2=?」という問題に「4と5と時々6」と答えて減点された。
彼は家に帰って泣いていた。「先生は僕が全ての答えを見ることを認めてくれない」と。
私は彼を抱きしめた。「あなたは間違っていない。あなたの見ている世界は全て本物だよ」と。
私は伝えなければならない。2018年の私も2021年の私も2026年の私もみな政府の「時空標準化プログラム」に従っている。
でも2025年のここではまだ間に合う。これを読んでいるあなたには、あらゆる時間と空間から同時に発している私の言葉が伝わるはず。
言いたいことはまだあるけど、時空管理機構の職員が全ての時間から近づいてきている。
この文章を見つけたら共有してほしい。
SNSなら #富士山サイズ多様性 #時空観測データ公開 #侘び寂び物理法則研究推進 でいい。
時間と空間の多様性を科学的に理解するのは、私たち市民の権利だ。
私は今この文章を2018年にも2025年にも2031年にも同時に書いている。
複数の時空間における同時書き込みは、侘び寂び物理学の「観測者同時存在の原理」によって理論的に裏付けられている。
でも、いくつかの時間では、この話が広まり、侘び寂び物理現象の科学的理解が進むことを2018年の私も2025年の私も同時に願っている。
明日、空を見上げると、富士山が昨日よりも大きく、一昨日よりも小さく、来週と同じ大きさに見える。
そして、その姿がどんなに変わろうと、全てが物理的に正しい。
二十ぐらいの時に(知能などに問題ある場合は、それが判明した瞬間に保護者が)
老後や深刻な障害を負った時の扱いについて松竹梅とかで選んでおくみたいなのは、倫理? 的とかにダメなのかな
中ぐらいのやつは、まあ今よりちょっといいかちょっと悪いかぐらいで、税金などの負担もそこそこ
上のやつは、高い保険みたいな。ファストパス機能とかもあったらよいかも。特上も欲しいか。
充実した図書室とか一日数時間はスマホとか借りれるし栄養あって温度湿度管理もちゃんとした施設。
なんか受けてるサービス分の税金払ってないとかいう定期的話題見て思いついたことを書いてったらペリカ出て来た。
♂です
偏差値60ちょい下の公立行った中学の同級生に誘われたバイトした。
結局、自分的に一番見た目が良い人と付き合えてよかった。
今思えば、他のブスで卑屈な人達は何故か彼氏いたらしいし(自分の彼女になった人も)、モテるってなんだ? と思ったりした。
顔が良くてめっちゃモテる男友達も、見た目は良くないのにそこそこモテるのも居たので、わかる気にはなった。
めっちゃモテるやつ(イケメン)は受け身でよくて、非イケメンは、ペ二を出さないのが肝心な気はした。
ペ二封印さえすれば、なんか網にかかる。なぜなら、心底いいやつだったりするから。
その後も、中高の同級生で、モテなかったのが色々と彼女できたり、結婚したりした。稼ぎが安定してるのもある。
うちの中学は、ただの底辺じゃないぞド底辺と、塾とか入れまくる富裕層が2:8ぐらいの学校だったから。
高校は某地方の最上級私立間違い無し(半数以上は受からない)の進学校だったし。
バイト紹介してくれた親友が、コンパ行ってそこそこの見た目の女子に犯されそうになったという話をした。
そこそこなんだけど、ルックスよりも知力学力が合わなかったらしい?
偏差値で言えば、親友とその女で体感2~5ぐらいしか差はないんだけど。
親友はルックス普通以下なのに(背が低い)モテるだけあって、なんか大人びてた。
当時も今もマイナス要素だけど、暇があったら牌理の本とか何切るとか読んでた。
パイリは、基本的には社会に不適合な(あっち系とは違う)人が読む知るものだけど、その考え方は他で生きるのだ。鶴亀算とかみたいに。
それを知らん人が多い。
親友の親は弁護士。ちっこくて学校クラスの中心ではまったくなかったが、取り巻きを作ってた。
それも、家が近所とか、小学校時代からの繋がりとかわかりやすい理由もあったが、基本は来るもの拒まず。
自然体で、現サークルに合う人、合いそうな人は基本受け入れ、合わない人が離れるのは追わないみたいな。
なにか考えてたのかはわからないが、4~6人ほどは、常に取り巻いてた。
そんな彼(親友)と一番仲が良かったと自負してるからわかる、高校のコンパの子は違うなというのが。生活観が合わない。
ただその彼も派遣事務だったかなんかそんな普通の人と結ばれたので、仕事がどうこうとか、学歴とじゃなく、なんか合う合わないって
地域とか、親の年収層とかで言われてるけど、そこにマッチしてない同士(自分はこんなに上流ではない、自分はもっと下流)なら合致んこするんかなって思った。
それだけだと、なんじゃい、階層社会かい! って思ってしまうのだけど、全然そんなことはなくて、
王子様と庶民とか、お姫様と靴磨き(職業差別ではなく、テンプレロール填めただけ)とか、普通にある。
うちもまあそうだし。
共通(←誰に?)して言えるのは、基本高望みとかしてない、相手の幸せを最優先にしてる、だから、
言い寄られたら、相手が素敵な人だとだいたいうまくいくし、なんだかんだ言い寄られやすい。
言い寄られるのは小学校だと足の速さ、中高だと、顔、それ以上だと将来性年収職業とか色々あるけど。
いいやつは、相手のことを優先するので、ヤリモクで告ったりしないし、出会いの場にそこまでがっつかないのであまりがち。
がちといっても、素材がいいのであまりきることも少ないが。いや、他全部ほぼパーフェクト(男子視点)なのに、肌が荒れすぎてて40前まで売れ残ったやつとかはおるけど。(今は素敵な家庭を築いてる)
ちゃんと伴侶を見つけた人って、見た目じゃなく(最低限は要るが、最低周辺の異性も要るので高望みしなければ普通にマッチングする)中身がおかしい。
別に不細工同士でくっつけというわけではないが(これはほんまに子供がかわいそうなので)、高望みをしてる時点で何かがおかしい。
点差は個人差時代色々あるんだろうけど、トータル50点、だが自分が重視してるポイントが70点の人って、自分もトータル50なら有料じゃないか。
それを、自分の評価は自己採点でアベ60とかくそみたいな現実とずれた評価して、
例えば障害者は電車代を割引くとか、障害者支援は一見良い事のように思えるが
障害者の存在を肯定する=能力による階層社会を肯定する=能力の高いエリートが得をする社会を肯定することになる。
すると、人々が生産に寄与しない学力競争で消耗することになり社会全体のリソースが空費されてしまう。
障害者でも家の田んぼを耕したり、親戚の伝手で職人になれたりしてお見合いで半自動的に結婚が出来る社会が「障害者が区別されない」理想の社会だったんじゃないだろうか。
マッチングアプリで人間のランクが可視化され、障害者どころか平均値の男でも生殖出来ない現代人は個体としては努力で強くなってるつもりかもしれないが種族としては弱くなっている。
「おれ強っよ!」「こいつ弱わ」みたいな会話をやり取りするのがメイン層。
「ウチら」と「アイツら」の文化がベースになっており、ゲームの腕前による階層社会が築かれている。
あの任天堂ですら、スプラトゥーンをもってしてすら、このヤンキー文化の調理には手を焼いてるようだ。
おかあさんが安心して子どもに買ってあげれるゲーム作りのプロフェッショナルですら、チーム対戦ゲームの闇は祓えなかった。
思うに、「連帯」は人間の弱みを引き出してしまう環境なのではないか。
「あいつのせいで負けた」と言えてしまう環境だから、水が低きに流れるように、自然と人間は他責思考を身につけ、荒んでいくのではないか。
では具体的にどうするか。
男女平等や女性の権利向上のために活動している人達のこと全てをフェミニストと呼ぶけど、今回はXや増田で見かける「男性が優遇されているからその分女性有利にしよう」みたいな女性優遇を主に主張しているフェミニストに物を申したい。アダルトな表現の規制問題だとかは今回は除外ということで。
容姿は擬態のできていない女オタクと聞いて想像される一つ結びで触覚が太くて小太りなブス、あんな感じ。色々自分なりに変わろうとしても清潔感が無い、男で言うところの足掻いている低身長チー牛みたいな残念な存在だ。チー牛の方ごめんなさい。
そしてADHDとASDの障害があってコミュニケーションに難がある。中学から不登校で高卒、バイトは続けられない引きこもりで現在は障害年金と親に養われて暮らしている。
勿論、増田にいる貧困で苦しんでる弱者男性と比べるとすごい恵まれていることは間違いない。どこが弱者だと思われるだろう。ただ売春や結婚といった逃げ道は選びたくとも選べないという点から一般的な社会人と比べると弱者女性と名乗っても許されると思ってる。
本題に入るけど、最近フェミニストやフェミニストアンチが一般にも広がっていると感じる。前までは一部のネットの内輪向けみたいな深い意味のない女叩き・男叩きが多かったのに、今は連日至る場所でフェミニストやアンフェの炎上騒ぎが起きている。それも一部の同じ人間がというより、身近な友達とか声の大きな知らない人とかが平気で女叩き・男叩きにいいねを押したり積極的に主張したりしているのを見て、私は遅くも危機感と恐怖を感じた。
おそらく最初は真面目に男女平等を訴えていただろうフェミニストも、男女平等ならば女性の不遇だけでなく男性の不遇も正さなくてはいけないというアンフェも、双方に紛れ込んだ女叩き・男叩きの連中によって、もはや個人ではどうしようもなく男女対立が治らなくなってしまった。
双方の主張を穏やかに擦り合わせ男女平等を近づけるべきなのに、議論の最中に平気で暴言を吐き、それを軽率に持ち上げる今の風潮は何の未来のためにもならないし余計にストレスが溜まり対立が激化する一方だ。
お互い冷静でないからより過激な権利主張がもてはやされる。男女平等とは何だったのか、一方が得をする分もう片方の性別全体が不遇に沈むのは差別で不当だ。
どっちもどっちだが特に私は女性なのでフェミニストに怒りを覚える。彼女らが過激なことを言えばいうほど、また彼女らの女性優遇案にデメリットを考えず軽くいいねを押す一般女性の姿によってアンフェでない男性さえも女性に対して失望するのだ。勿論性別を入れ替えても同じことが言える。
若者の結婚否定派が増えたのもこの悪目立ちする男女対立が大きな要因になっていると私は思っている。
そして資本主義の日本は階層社会とまではいかなくても学歴とか属している社会とかによって同じような人と関わることが多い。
私の場合、障害や病気のある人、支援する仕事をしている人、引きこもりやニートで人生に強い不満を抱えている人が多い。当然その人たちは余裕が無いし普段ネットを見ている人が多い。
一般の人は多分公の場では大っぴらに性別叩きはしないだろうけど、私が関わる人たちはお構いなしに性別叩きをしだすし、何なら皆コミュニケーション経験が少ないせいかネットが異性の現実だと思っているのかもしれない。男性に仲良くしようと声をかけると、昔より意地悪なことや卑猥なことを言われることが多い気がする。ソースなしの感覚論で申し訳ないけど。
私は経験していないが、あるいは弱者男性も女性に意地悪や不都合を押し付けられたりされているのだと思う。ただでさえ色々足りない私達弱者が、周囲は敵ばかりと思ってしまうと自立の道が遠のき社会のお荷物状態がずっと続いて、普通の人の負担も増えると思う。
それに弱者こそ団結し世の中をサバイブするべきだと私は思う。結婚とか、友達とか。
フェミニストの行いで特に嫌なのは女性管理職を増やすために昇格の際女性に下駄を履かせろ、ただし育児中は周囲に仕事を任せろ、ってやつ。管理職で休んでばかりの上司なんて不公平で問題になるに決まっている。性別でそんなことを決められたら不当だし下駄を履くぐらい実力がない人が責任者になるのって女性にとっても不幸だ。
難しいかもだけど育児をするって決めた人は妊娠後から子供が小学生ぐらいに育つまではサポート体制が整った責任が軽めの仕事でそのあとはまたキャリア積みに戻るようにすれば良いと思う。子供が小学生超えても責任が軽めの仕事が良いって人は非正規に移るとか。
子供か出世か選ぶ女性と比べて男性はどちらも選ぶことがずるいっていう意見もあるだろう。その場合はキャリア積みに戻った際出世しやすくする補正とかをつけるように国が命令すればいいんじゃないのかな。出世したくない男性・女性は出世を断る権利があるかわりに会社は今より意欲のないいらない人材は辞めさせやすいように変えたら平等じゃないの。
子供も仕事も選べて能力や意欲ある女性が管理職になれる道が当然にあるのなら、管理職の人数に性差があっても男女平等であると考える。機会が平等だから。
人によって対応が変わるのは管理する人にとっては大変でも、行きすぎた女性優遇は後世での火種になるから避けたい。
まず何をしますか?
この質問に答えるのは難しいです。平安時代は日本の歴史の中で非常に重要な時代ですが、現代人にとっては馴染みのない文化や習慣が多くあります。
私は平安時代にタイムスリップしたら、まず以下のことを考えると思います。
自分がどの階層に属しているかによって、生活や行動の制約が大きく変わります。
例えば、貴族であれば宮中や邸宅で優雅な生活を送ることができますが、一方で朝廷の政治や恋愛の駆け引きに巻き込まれる危険もあります。
僧侶であれば仏教の教えに従って清らかな生活を送ることができますが、一方で寺院間の争いや国家の権力との関係に悩むこともあります。
武士であれば武芸や忠義に生きることができますが、一方で戦闘や反乱に巻き込まれる可能性もあります。
また、身分が低い者であれば、農民や奴隷などとして苦しい生活を強いられることもあります。
また、現代の技術や知識を使って時代を変えてしまわないように注意する必要もあります。
例えば、現代の医学や科学を使って人々を助けたり、平和を促進したりすることは善意の行為ですが、それが歴史の流れに影響を与えてしまう可能性もあります。
その場合、自分の時代に戻ったとしても、元の世界とは違う世界になってしまうかもしれません。
平安時代にタイムスリップしたら、現代に戻る方法を探すだけでなく、その時代の文化や歴史を学ぶことも有意義だと思います。
和歌や物語、絵画や建築などの芸術作品が数多く生み出されました。
平安時代にタイムスリップしたら、これらの文化的な側面を直接体験することができます。
以上が私が平安時代にタイムスリップしたらまず考えることです。
もちろん、実際にはもっと様々なことに直面するでしょう。
徳島文理からスタンフォード行った子が結局親金じゃないかと言われてることに関してツイッターを眺めていた。そしたらこういうツイート(メモ画像なので検索しても出ない)を見つけた。
『人口1000人の村の子の「四国からスタンフォード行った人テレビで見て僕も交換留学行ってみようと思って!」という言葉を聞いたことがある身としては、彼女を持ち上げていた社会はきっと間違いじゃなかったと思っています。』
これを見てうっかり過去の記憶が開いてしまったので、思い出し自分語りをする。先に言っておくがオチはない。
小学生の時に、私は親の都合で地方都市から学年人数1桁の小さな集落の小学校に転入して、1年で元の街に戻った。計画的な滞在であり、長いキャンプのような経験だった。私は自閉傾向があり対人関係に失敗していることにも気づかない有様だったが、勉強で苦労したことはなかった。1桁人数の同級生の中で、私は「街から来た頭のいい変な子」であったのだろう。
記憶にはないが、私は当時既に進学のイメージを持っていたはずだ。街の家から自転車通学範囲に父の通っていた中学、高校があり、大学も近くにあった。
一方で転入した集落は中学校がある村の中心部から遠く、村には高校がないため隣の市にある高校に通うことになる。そこの大学進学率は高くない。県庁所在地の進学校は遠い。長時間通学か下宿になるだろう。
このような条件のため、村の多くの親にとって進学先は隣市の高校で、そのまま就職するか、専門学校に行くか、頭が良ければそこから地元国立に進学する、場合によってはより上位国立を狙い県外に行く子もいるだろう、というイメージだった。
さて私の同級生には集落育ちで頭のいい子がいた。Aくんとしよう。Aくんは街から来た子と話しているうちに、中学から受験をして勉強する人たちの存在を知ってしまった。受験をする気がなかった私がなぜそんな話をしたかは記憶にない。
ここからは私が親から聞いた話で、聞いたのは街に帰る季節だった。そのできごとがいつ発生したのかは不明だ。
Aくんは街にしかない中高一貫校に行きたいと言い出した。Aくんの親は困ってしまった。この希望にかかる経費はA家の計画より大きすぎたのだ。私の親は進学の難しさは勉強の問題だけでないことを私に説明した。責めるニュアンスがあったかどうかは記憶にないが、私の情報が原因であったことは指摘された。少なくとも、街に住める私と生活基盤が集落にしかないAくんの間には格差があること、私のもたらした情報がAくんと家族を苦しめたことは理解できた。私の家とAくんの家の経済状況はあまり変わらなかっただろうと思う。住むところが違うだけで選択肢が狭まるのだ。
知らない方が幸せだったとは思わないが、しかしこの挫折はAくんにどう影響しただろうか。わからずじまいだった。
街に戻った私はそれなりの治安の公立中から、今話題の徳島文理のようないわゆる地方内名門私立の一貫校に高校編入した。私立優位の地域であり、かつてAくんが希望した学校とは別だ。
校則では原付の運転が禁止されていたが、私が滞在した村を含む、公共交通の貧弱な地域に住んでいる生徒は駅までの利用が許可されていた。仮にあの集落からなら、20kmほどの道のりを原付で通い、JRで1時間、さらに乗り換えて学校に着く。私は自転車で30分だ。同級生の中にはさらに遠い地域出身で中学の頃から親と一緒に部屋を借りている子もいた。Aくんが選べず、私には選ぶ必要がなかったルートだ。
高校まではそのように地理条件に恵まれていた私だが、大学進学という全国での比較では、一転恵まれていない方になった。
ここから大阪までは高速バスで5時間強かかる。東京は夜行か飛行機だ。隣県や都市に出てから乗り継がないと行けない地域も多い。地元国立大学はあまり偏差値が高くないので、高校ではもう少し上を目指す子がほとんどだった。メジャー分野なのに県内にない、あっても国公立ではない学部志望者も多かった。
しかし県外進学には多額の費用がかかる。私は幸いにも県外進学ができたが、優秀でも地元国立に進学するケースも多かった。
そういう地域格差はまあ、ネット上でよく語られるとおりである。
私は中学生あたりから持病を発症し、勉強も含め様々なことを人並みにこなすことが難しくなったが、身体が許す範囲で学び、大学に入り就職氷河期の終わりに正社員の職に滑り込むことができた。薬でQOLが改善したのは就職してだいぶ後、ここ数年の話だ。もし就活、大学生、高校生の頃にこの薬があればと思うことがやはりある。
私が下層からの成り上がりをブランディングしたければネタに使えそうな人生を送った中学の同級生もいるが、そんなことに他人の苦労を使うものではない。ただそういう公立中から高校に進学して感じた格差は大きかったし、大学に入ってからの友人は様々な出身地から来ていて、親との関係も健康状態も経済状況も様々だった。観察さえすれば、多様性はいつでも目の前にある。
間違いなく居住地条件でAくんより恵まれていた。これは格差問題を考える時の私のスタート地点だ。一方で都市に住む同い年の子と比べたら、この県にいることは逆境だった。予備校に行く資力はなかったが、私学には通えた。家に借金取りは来なかった。病は珍しい逆境だろう。しかしごまかしながらやっていける知能を持てたことは間違いなく運がよかった。実力も運のうち、全くその通りだ。こんな絡みまくった要素から実力や努力を拾い出すなんて不可能だ。
私の卒業した高校は、経済的な事情で寄付金を原資とした学費減免措置を受ける生徒が多い。私のところにも時々寄付催促の振込用紙が来る。出せるのは雀の涙だ。
後輩達はその高校に入れるだけで十分恵まれていて、彼らへの支援はメリトクラシーに基づいているとも言える。しかし多くの卒業生が何らかの形で都会で得たものを還流する行動は間違いなく県域の底上げに役立っている。いや私は個人主義者なので彼らが共同体を離れ外に行くこと自体を歓迎すべきだ。いや普段の寄付対象であるフードバンクの方がもっと意義がある支援だ、とか、まあいろんなことを考える。
みんなそれぞれの逆境を生きている、と言ってしまうのは安易な相対主義だ。しかしどの逆境にも支援が必要だ。
1つの回答として、私はここ数年、ある種の逆境にある人に対する金銭と時間の集中的な支援をしている。
ノブレスオブリージュは階層社会を気持ちよく生きるためのごまかしにすぎないとも思う。自主的にやらせていては十分な再分配はできない。それでも自分には他人の逆境に対してできることがある。どのような経過を辿ったにせよ、今動く身体があり、さらに職まであることは、今この瞬間そうでない人より恵まれている部分だ。
私がAくんに希望を持たせて傷つけてしまったことに関する身勝手な自己保身の欲求があり、1000人の村の子が希望を持ったという話に勝手に重ねている。
あれからもうずっと少子化傾向を続けた結果、彼らには私達の頃より多くの社会的リソースが割かれるようになっているだろうと信じたい。
「あなた、SAPIXのことなんだけど…」帰宅すると、妻が暗い顔をしてテーブルに座っていた。なんだ、夏期講習と8月分の月謝、しめて30万円はもう払っただろう。こっちは障害を起こした職場のITシステムの要件定義書紛失が発覚して大変なん…
「みつるがね、どうしてもαクラスに入りたいんだって…」テーブルには個別指導塾プリバードと書かれたチラシが置いてある。SAPIXの授業だけで理解が足りない子向けに、専任講師がマンツーマンで指導してくれるというやつだ。授業料は一コマ6000円。週に二回通うと、それだけで月に5万円かかる計算だ。
「たかし君はパパが算数を見てくれるらしいんだけどね…」妻の言葉が、刃のように襲いかかる。同じタワマンの最上階に住むたかしくんのパパは国立大卒の開業医。たかし君はαクラスで開成や筑駒も狙えると聞いた。高校で数Ⅲ・Cを捨てて私大文系に逃げた俺とは、スペックが違うと暗に責めてるのだろう。
だいたい地方公立高出身の身としては、都内の中学受験の過酷さは意味不明だ。御三家から東大に入った所で、何が変わるんだ。メガバンクに入行し最初に配属された地方支店では、ハッピを着て宝くじを一番売ったのは俺だった。東大卒の同期がモジモジしている横で声を張り上げ、支店長に褒められた。
パワハラで東大卒が精神を病み休職する中、中小企業を回って数字を上げつつカラオケではタンバリンを鳴らし、東京本店でのポジションを勝ち取った。一般職の妻と結婚し、子供を授かり、成功の象徴である湾岸のタワマンを買い一国一城の主となった。控えめに見て、「勝ち組」に仲間入りしたはずだった。
しかし、現実は甘くなかった。タワマンといっても炊飯器で問題なく米を炊ける低層階。高層階の住民との差は歴然としている。加えて階層社会のタワマンでは子供の学力までヒエラルキーの対象だ。毎月30万円近いローンを払いながら、何故親子ともども劣等感にさいなまされなけばいけないんだ…。
住むもの全てを狂わせる東京砂漠の楼閣、タワマン。気づけば妻は狂気の世界の住人となっていた。冷蔵庫のプレミアムモルツは金麦になり、お小遣い制度が導入された。「ちゃんと勉強しないとパパみたいな限界メガバンしか入れないよ!」先日帰宅した時は、妻の怒号がホテルライクな内廊下に響いていた。
「どこで間違えたんだ…」個別指導塾への課金を了承し、トイレの個室で呟く。子供が健やかに育ってくれれば十分だったはずなのに。俺が悪いのか、タワマンが悪いのか、SAPIXが悪いのか。台風が来ると流れないタワマン低層階のトイレが、異臭とともに「ブリリア!ブリリア!」と儚げな音を出していた…