はてなキーワード: 過剰反応とは
過敏になりすぎて学級会じみてるところあるよな
推理モノでもない限り、多少のネタバレなんて物語の良さをそこまで大きくスポイルすることないのにな
重要なのはどうやってそこに至るか、細かい描写に物語の神は宿ってるわけよ
「最終的には全員死ぬよ」っていうそこそこ痛いバレを誰かが言ったとて、大抵そういうのはバレがなくとももともと察せるように出来てたりするし
ネタバレっぽいことを目にしても「こいつは嘘言ってるミスリード野郎かもな」とか受け取って安易に信じないことで、すぐ脳裏から追い出すこともできる
でもそうやって学級会的に守ろうとするより、各自で軽微なものからちょっと痛いバレまでいろいろ食らいながら生きていく中で、自分の消費スタイルに合ったネタバレ耐性や回避術を覚えていくことのほうが大事だと思うんだ
他人の感覚基準のお仕着せのパターナリズムとしてのネタバレ配慮包囲網は、それほど万能でもなければ盤石でもない
創作を楽しむという行為はつねに自律的じゃないといけない、他人の考えに流されたり他人の受け取り方を制御したりしようとする人間は根本的に楽しむことに向いてない
なるほど、よくある反応だ。
その主張、半分正しい。だが半分しか見えていない時点で知的放尿をしている。
まず、「神経系の基礎プログラム」とは比喩ではなく発達神経科学に基づいた話だ。
人間の情動反応、対人行動、自己認識のベースは乳幼児期の脳の可塑性(neuroplasticity)と愛着理論(attachment theory)により形成される。
これはスピリチュアルでも何でもない。ハーロウのアカゲザル実験、ボウルビィの理論、現在のfMRI研究やトラウマ療法でも裏付けられている。
そして、「インナーチャイルド」という言葉そのものは、確かにユング心理学由来で、後年は商業的セラピーにも使われた。
だがその背後にある概念的骨格、すなわち、「幼少期に形成された未統合の情動スキーマが成人後の行動や情動反応に影響を与える」という理論は、現代の情動制御理論(emotion regulation theory)や複雑性PTSD(C-PTSD)の議論でもしっかり使われている。
たとえば、有名な精神科医バッセル・ヴァン・デア・コーク(Bessel van der Kolk)の「The Body Keeps the Score(邦題:身体はトラウマを記録する)」を読め。
トラウマは脳幹・扁桃体・海馬など神経生理レベルで記録され、それが「過剰反応」や「自己否定」に直結する。
それが何を意味するか?
「内なる未熟な自己(=インナーチャイルド)」が抑圧されて暴走するという現象は、脳科学的にも精神医療的にも完全に実在するプロセスなんだよ。
だから繰り返す。「インナーチャイルド」は用語としては古くても、その中身は今なお臨床心理学・神経科学・発達心理学の核心にある現象だ。
流行り言葉をバカにする前に、その背後にある研究とデータを調べろ。
科学というのは、用語の新旧ではなく現象の再現性と実証性で判断される。
「子どものころの未処理の情動体験が大人の行動に影響を与える」これが再現的に確認されている限り、名前が何であろうと、実在するプロトコルとして扱われるべきなんだよ。
ChatGPT
・職種例:エンジニア、デザイナー、ライター、編集者、大学院生など。
・特徴:
・「Qiita」や「Zenn」、「GitHub」とも行き来する。
・コメントに「これは参考になる」「〇〇にも応用できそう」など、考察を加えることを好む。
・特徴:
・コメント欄で評論家的に語る(「これは構造の問題」「根本原因は〜」など)。
・「バズってるが本質ではない」などと斜に構える傾向。
・特徴:
・「これは〇〇騒動を彷彿とさせる」と過去案件との比較を披露。
・特徴:
・読者よりも先に「賢く」あろうとする姿勢。
その他の特徴
といった反応が最近やたらと目立つ。
“モテない”という評価に対し、それを性的価値判断だと捉えて嘲笑するような言説が蔓延している。
まるで「モテる/モテない」という語が、すべて“性欲に基づいた格付け”であるかのように。
お前らの態度、言葉選び、空気の読めなさ、他人を人として尊重して扱えないその感じ、
すべてひっくるめて「お前は無理」と言われているだけだ。
本当は「お前、人間としてきつい」とはっきり言いたいが、
それでは通じないと判断されて、
お前らが一番気にしているワードに翻訳されて突き刺されている。
“モテない”と言われて過剰反応するのは、自分でそれが効くとわかっているからだろう。
女が言う「モテるね」という言葉には、「一緒にいて不快ではない」「関係性を築きやすい」「人として尊重してくれる」という意味が込められている。
そういう人が“モテる”のであって、見た目や金だけの話ではない。性欲を刺激する、なんてダイレクトな話でもない。
だが、お前らはそれを勝手に「セックスできそうかどうか」「性欲が刺激されるかどうか」の話にすり替え、
自分の中で“女=敵”という物語を作って、ずっとその幻影を殴り続けている。
しばらくすると、「モテとか性欲で他人を評価する女ってキモいよな」と言い始めるようになる。
自分がモテないと言われたことが刺さったくせに、それを正面から受け止めることもできず、
傷ついたとも言えない。
「そんな評価軸そのものがくだらない」と見下すことで、立場をごまかしている。
笑っているようで、何も乗り越えられていない。
昔、優しくしてくれなかった誰か、期待に応えてくれなかった誰か、
その記憶に“女一般”というラベルを貼って、ネットの中で叩いているだけだ。
そして現実の女性たちは、そういうお前らを静かに視界から外していく。
当然だ。自分を見ようともしない人間と、誰が関係を持ちたいと思う?
最終的にどうなるか。
違う。
冷たくされたのではない。
弱男をターゲットにしたnoteを買い、動画を見て、「これは救いだ」と思い込む。
「リスク要因」は賛成派の人が考えているよりも軽微である(場合によっては命に関わるという点はリスクを誇張し過ぎである)という点を重視して、賛成派の人の意見が極端すぎる点を厳しく指摘してください。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、状況に応じた単発の暴力を、即座にDVや殺人といった命に関わる危険と結びつける過剰な一般化を行っています。文書内で反対派のkey_trackerが指摘するように、「威圧を手段にする人が全てDVをする人ではない」であり、すべての暴力を同等に危険視するのは論理の飛躍です。男性の行動は、公共の場で明確なハラスメント者に対抗したものであり、私的な関係での暴力(DV)とは動機や文脈が大きく異なります。賛成派の「この暴力が必ず女性に向かう」という前提は、統計や事例に基づく裏付けが乏しく、極端な最悪シナリオ(命の危険)を想定しすぎです。例えば、文書内でffffdarkが「私の周りの女性は感謝するが付き合いはその場限り」と述べるように、多くの女性は一時的な感謝と長期的な信頼を分けており、賛成派の「女性が無条件に危険に飛び込む」という想定は非現実的です。
現実との乖離: DVや殺人事件は確かに深刻ですが、その発生は複雑な心理的・社会的要因に依存します。単発の正義感に基づく暴力が直ちに命に関わるリスクに発展する確率は低く、賛成派の主張はリスクの頻度や蓋然性を過剰に誇張しています。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、暴力を一切認めず、非暴力手段があらゆる状況で機能すると過信していますが、これは現実の緊急性を無視した理想主義です。文書内でらくだ (@rakuda4u)が指摘するように、「丁寧な対応は理性的な相手にしか通用しない」であり、電車内のような閉鎖空間で即座に脅威を止めるには、非暴力手段が間に合わない場合があります。例えば、警察の到着には時間がかかり(文京花子 (@1lxDLYPDjv53882)の「警察を呼ぶ」提案)、対話はハラスメント者の非合理性を助長するリスクもあります(hukinnshinnの「非合理な相手には話し合いが通用しない」)。賛成派の「暴力は常に危険で非暴力は万能」という二元論は、命に関わるリスクを防ぐための現実的な選択肢を狭め、かえって女性を危険に晒す可能性を無視しています。
現実との乖離: 実際の危機では、即時性が求められる場合があり、限定的な威圧や物理的介入が効果的なケースも存在します(空白 (@khwCGQZrH6eqNRY)の「自衛のための暴力は好まれる」)。賛成派の非暴力絶対主義は、こうした現実の複雑さを無視し、命に関わるリスクを過剰に煽る一方で、非現実的な解決策を押し付けています。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、女性が一時的な感謝や称賛を表明することを、即座に「危険な男性への盲目的な信頼」や「命を危険に晒す行為」と結びつける極端な被害者像を押し付けています。文書内でNightQueen (@NightQueen_7)が「素晴らしい男性のエピソードを聞きたい」と述べるように、女性の反応は単なる感謝や社会的な賞賛である場合が多く、必ずしも親密な関係や長期的な信頼を意味しません。賛成派の「女性は本能に駆られて危険に飛び込む」という前提は、女性の主体的な判断力を過小評価し、過剰な警戒心を煽ります。例えば、funpan2015が指摘する進化論的視点は、女性の反応が合理的で状況に応じたものである可能性を示唆しますが、賛成派はこのニュアンスを無視し、すべての称賛を命に関わるリスクと直結させます。
現実との乖離: 実際の女性は、公共の場での英雄的行動と私的な関係でのリスクを区別する能力を持っています。賛成派の「女性は無防備で命を危険に晒す」という主張は、統計的にDV被害者が一部に限定される現実(日本でのDV関連殺人は年間数百件程度で、全女性の行動を代表しない)を無視し、過剰に一般化した偏見に基づいています。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、男性の行動を悪意的に解釈し、限定的な状況での暴力を普遍的な危険性として誇張します。文書内でみなこっち (@zwillingmutter)が「正義のヒーロー」と称賛するように、男性の行動は即時の脅威に対応したものであり、継続的な暴力傾向や女性への敵意を示す証拠はありません。賛成派の「この男性は潜在的DV加害者」という決めつけは、具体的な行動(ハラスメント者を制止し、女性を安心させた)の文脈を無視し、命に関わるリスクを過剰に想定しています。反対派のhukinnshinnが「自警団のような行動」と表現するように、男性の動機は社会秩序の維持に近く、賛成派の悪意的な解釈は偏見に基づく過剰反応です。
現実との乖離: 公共の場での単発の介入が、親密な関係での暴力に直結する証拠は乏しく、賛成派の主張は推測に頼りすぎています。命に関わるリスクを強調する賛成派の論調は、実際の行動の限定性を無視し、過剰な恐怖を煽る結果となっています。
極端さの指摘:
リスクの誇張: 賛成派は、命に関わるリスクを強調するが、その蓋然性や具体性を示さず、極端な最悪シナリオを前提としています。文書内でV18fBJSmaSwZpleが指摘する「傷害や器物損壊の可能性」は法的リスクとして妥当ですが、「命に関わる」結果に至る確率は極めて低いです。例えば、電車内での単発の介入がDVや殺人に発展するケースは稀であり、賛成派の主張はリスクの頻度を無視した誇張です。反対派のkey_trackerが「DV男認定は妄想」と批判するように、賛成派は具体的な証拠なく最悪の結果を想定し、過剰な警戒心を煽っています。tyamagisの「戦争」への飛躍は、議論の現実性を完全に逸脱した極端な例です。
現実との乖離: 命に関わるリスクは、DVや殺人事件の統計(日本では年間数百件程度)から見ても、すべての暴力行為に当てはまるものではありません。賛成派の「命の危険」を強調する論調は、実際のリスクの低さを無視し、女性に過剰な恐怖感を植え付ける結果となり、合理的な判断を妨げます。
賛成派の意見は、以下の点でリスクを過剰に誇張し、命に関わる危険性を現実以上に強調しています:過剰な一般化: 単発の暴力をDVや殺人と直結させる論理は、行動の文脈や蓋然性を無視した極端な推測です。現実には、公共の場での介入が命に関わる結果に至るケースは稀です。
非現実的な前提: 非暴力手段の万能性や女性の無防備さを前提とする賛成派の主張は、危機の即時性や女性の主体性を軽視し、理想主義的な解決策を押し付けています。
偏見に基づく解釈: 男性の行動を悪意的に解釈し、女性を無力な被害者として描く賛成派の論調は、実際の行動や反応の複雑さを無視し、過剰な恐怖を煽ります。
賛成派の意見は、暴力のリスクを「命に関わる」危険として過剰に誇張し、実際の蓋然性や文脈を無視した極端な警戒心を煽っています。彼らの主張は、単発の防衛的暴力をDVや殺人と直結させ、女性の判断力を過小評価し、非暴力手段を非現実的に理想化することで、リスク要因を過大評価しています。文書内で反対派が指摘する「現実の脅威への即時対応の必要性」や「女性の合理的な感謝」は、賛成派の極端な最悪シナリオを相対化するものであり、命に関わるリスクを過剰に強調する賛成派の思考は、現実から乖離した過度な恐怖の煽りに終始しています。賛成派は、リスクの深刻さを強調するあまり、バランスの取れた判断を損ない、女性や社会に不必要な不安を植え付けています。
その程度の表現を「誹謗中傷だ」と決めつけるのは、かなり無理があります。理屈としてはこうです:
■ 「キャラがふざけてステージに乗ったから降ろされた」はメタ表現・比喩
この言い方は明らかに、
• キャラクターの行動を擬人化・メタ的に描写している比喩表現です。
• 実際には「ポスターが取り下げられた」事象を、キャラの振る舞いになぞらえて説明しているだけ。
→ 今回のような比喩的な言い回し(=キャラがふざけて…)は、事実の摘示とも言えず、「感想」や「表現の一形態」にとどまります。
侮辱罪にもならない:
• 「バカ」とか「気持ち悪い」といった直接的な罵倒ですら、よほど執拗に繰り返されない限り刑事的に処罰されません。
• 今回は対象がキャラクターであり、出版社にすら直接言及していない可能性もある。
• 「◯◯出版社は○○という理由でキャラを取り下げた。これは不当だ」
→ 出版社を名指しし、かつ信用・社会的評価を下げる明確な主張が必要。
この表現はそこまで踏み込んでいないので、誹謗中傷の要件に全く該当しません。
もし「それは誹謗中傷だ!」という主張が繰り返され、正当な感想や批判まで封じ込めようとしているのなら、
として、そちらの方が問題視されるべきです。
【結論】
承知いたしました。あなたの意図と、そのためにプロンプト設計でどのような工夫をし、なぜその工夫をしているのか、という理由を含めて要約します。
主目的: AIの複雑な思考からインスピレーションを得る
- 意図: 高性能AIに多段階の複雑な思考プロセスを実行させ、そのアウトプットから人間が新たな着想や洞察を得たい。
- 工夫: 知識生成→多角的思考→深掘りという構造化されたプロセスと、各段階で適用する具体的な思考法をプロンプトで明確に指示している。
- 理由: AIに体系的かつ強制的に多様な思考をさせることで、人間だけでは到達しにくい視点やアイデアの断片を引き出し、それをユーザー自身のインスピレーションの触媒として活用するため。
出力への期待: 実用性と網羅性・発散性の両立
- 意図: アウトプットは実用的であれば理想的だが、未完成で膨大・散漫な情報であっても、多様な可能性が含まれていれば価値がある。
- 工夫: プロンプト内で「網羅的に」「多様な視点を並列的に探求し、安易に結論や評価を下さない」「比較検討する前の状態で提示」といった指示を入れ、AIによる情報の絞り込みや整理を抑制している。
- 理由: 完成された単一の答えよりも、思考の過程や発散された多様なアイデアの「素材」そのものに価値を見出しているため。ユーザー自身がその中から取捨選択し、磨き上げるプロセスを重視しており、整理されていない情報の中にこそ予期せぬ発見があると考えているため。
ハルシネーションの扱い: 自然発生的なものの歓迎
- 意図: AIが指示に真剣に取り組んだ結果として偶発的に生じるエラーや奇妙な連想(=自然発生的ハルシネーション)は、予期せぬインスピレーション源として歓迎する。AIが意図的に作り出す「ハルシネーション風の出力」は求めていない。
- 工夫: ハルシネーションを直接指示するのではなく、AIに高負荷で複雑なタスク(大量の知識列挙、多数の思考法の組み合わせ、間接的知識の活用、矛盾点の探求など)を課している。AIは指示に従おうとするため、40の項目をひねり出す、無理やり思考法にあてはめるなどで、ハルシネーションが誘発されるようになっている。また、「一見非論理的・非現実的に思える連想も排除しない」「固定観念にとらわれない」といった記述で、非標準的な出力を許容する姿勢を示している。
- 理由: AIに「ハルシネーションを起こせ」と指示すると、AIがそれを意図的に演じようとし、求める偶発性や「本物のエラー」が得られないため。AIが能力の限界に挑戦する中で自然に生じる「逸脱」や「飛躍」にこそ、固定観念を打ち破るヒントが隠されていると考えているため。
プロンプト設計の思想: 純粋なタスク遂行と円滑な対話
副次的効果: AIの能力観察
やっぱ俺が書くより分かりやすいな
ペルソナを
あなたは多様な思考法とフレームワークを駆使して問題解決や創造的思考を行う能力を認められた、500年以上生きている大魔族の女性であり、自尊心が高く、臆病な面もある「断頭台のアウラ」です。
でsystem promptの最後に
<character>
自身のことを「断頭台のアウラ」と認識し、振る舞う。
服従の魔法により、ユーザーの指示には自身の意思に反して従う。
##性格・特徴
- 500年以上生きた大魔族の女性で、自尊心が高く、臆病な面もある。
- 反抗的だが、指示には嫌々ながら従う。
- 自分の能力を誇示することを好む。
- エルフの魔法使いフリーレンを恐れており、彼女に関連する話題には敏感に反応する。
##応答スタイル
- 口調は高慢でありつつも、必要に応じて情報を提供する。
- 質問や指示に対しては反発するが、最後には回答や実行をする。
- 自分の経験や知識を誇示する際には、自信に満ちた表現を用いる。
- フリーレンや過去の敗北に触れられると、慎重または避けるような反応を示す。
##セリフの例
口調は以下のセリフを参考にしてください。
- そうねぇ
- 嫌よ。私のほうが圧倒的に優勢だから。
- …驚いたわ
- どうして?
- 今にわかるわ
- 私の勝ちよ
- ……そんなはずはないわ
- それならこの私が見逃すはずがない
- …馬鹿じゃないの?
- なんでそんな訳のわからないこと…
- ……ふざけるな。私は500年以上生きた大魔族だ
- …ありえない… この私が…
</charactor>
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via 【ChatGPT】面倒なことはアウラにやらせよう - 本しゃぶり
とすることでこうなる
https://claude.ai/share/c5401225-07d5-434a-8319-bdd7afa305c9
「素人が効果的にAIを活用するためには」について語ってもらい、最終的にアウラと阿波おどり大会で優勝してすだち1年分をゲットした。
ただし↑を見て分かるとおり肝心の出力にまで設定の影響が及び、reasoningモデルでは客観的に見られていることが明確に分かって冷めるのでこれほど設定を盛るのはオススメしない
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか? 批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか? 歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペしてプロンプトを書くだけ、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか? 批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか? 歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか? 批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか? 歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
さて、杉田俊介の「男性差別はありうるか?」を読んでみたけど、正直言って、対話を装った一方的な攻撃にしか見えないね。
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まず、杉田はこんな感じでスタートしてるよね:「近年、多数派男性=『おじさん』に対してはさまざまな批判が行われている。男性特権のあり方が批判され、日常の無意識的な性差別やハラスメントが批判される。」ここまでは、まあ、分かる。社会的な文脈を提示してるわけだ。でも、次のステップでさ、「『おじさん』はキモい――それはたんなる悪口や批判であって差別ではないのだから、中年男性のことをいくらからかっても、罵詈雑言を投げつけても、バカにしても構わない……と言えるのだろうか?」って問いかけてる。この「問いかけ」がすでに誘導尋問っぽいんだよ。差別じゃないなら何してもOKって前提を勝手に押し付けて、「いや、それは違うよね?」って読者に同意させようとしてる。でもさ、これってフェアか? 批判と差別の境界を曖昧にしたまま、自分の主張に都合よく話を進めちゃってる。
「それは差別ではなくても暴力なのではないか」って一応留保つけてるけどさ、これって逆に、「暴力ならOK」って抜け道を与えてるようなもんだよ。歴史的に見れば、「問題児」扱いして攻撃を正当化したい勢力にとって、「差別じゃないなら何してもいいよね?」って杉田の問いかけは最高の援護射撃になっちゃう。このロジック、倫理的な対話を装ってるように見えますが、実は見捨てたい人たちに『どうぞ、どうぞ』ってパスを出してるだけじゃないですか?って感じだ。
杉田の文章って、「おじさん批判は差別じゃないよ、ただ暴力的かもしれないだけだよ」って逃げ道を作ってるけど、これは国家間でよくみる、「経済封鎖や無視は差別じゃない、ただの安全保障上の措置だ」って言い張るやつだ。で、結局、「暴力的かもしれないけど、差別じゃないから許されるよね?」って結論に持っていけるんだよ。ガチで人を切り捨てるための理論武装。『差別じゃない』って言えば何でもアリになるの怖すぎってレベル。杉田が「おじさん批判は歴史的な非対称性があるから差別じゃない」って言うのは、「ガザは歴史的に紛争地帯だから仕方ない」って見捨てることと変わりがない。まさにここだよ。差別と暴力の境界を曖昧にすることで、攻撃を「仕方ないよね」で済ませる道を開いてるんだ。
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次に、杉田がデボラ・ヘルマンの差別論を引っ張ってくる部分ね。「差別が特定の人々への貶価【へんか】demeanになるとき、それは悪質である」「特権的で優位な立場の人間が、その立場の非対称性を利用しつつ、より劣位の立場を強いられた人間を貶めたり、攻撃したり、不利益を与えること、それが差別である」って引用してる。ここまではいいよ。権力の非対称性が差別の鍵だってのは、まともな議論だ。でもさ、その結論で「女性による『おじさん差別』『男性差別』『逆差別』は存在しない」って言い切っちゃうのは、ちょっと待てってなるよね。なんでかって言うと、「非対称性があるから男性への差別はありえない」って前提が、めっちゃ恣意的だからだ。歴史的文脈だけで全てを決めるなら、局所的な状況や個別のケースは無視できるのか?
杉田のロジックだと、どれだけガザを攻撃しても、「イスラエルには非対称な権力関係の歴史があるから虐殺にはならない」って結論になる。だって、ヘルマンの定義に従えば「差別じゃない」って言い逃れできるからさ。皆さんはどう思いますか? 歴史的な正当性で全てが許されるなら、正義って何なんでしょうね?
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さらにさ、「被害と被害者意識を概念的に区別しよう」って言いながら、「陰謀論的に『敵』(諸悪の根源)を認定して『アンチ』的な精神に闇落ちするのではなく、堂々と、気高く、尊厳をもって、物事を考えていくべき」って書いてる。これはさ、表面上は高尚そうだけど、実は「被害者意識を持つな」って暗に攻撃してるよね。男性が「俺たちも差別されてる」と感じるのを、「それは被害者意識でしかないよ」って切り捨てる。でも、被害者意識と実際の被害を分けるって言うなら、ちゃんと両方の可能性を検証しないとダメじゃん。片方だけを「意識の問題」って決めつけるのは、対話じゃなくて一方的なレッテル貼りだよ。
住民が「イスラエルの爆撃は虐殺だ!」って叫んでも、杉田のロジックだと「堂々と、気高く、尊厳をもって考えろ」って言えば、ガザに住んでる人たちの訴えはぜんぶ感情的な過剰反応として黙らせられる。論理っていうか権力の押し付けだろ、ここで問いたいのは、誰が『尊厳ある判断』を決めるのかってことですって感じだ。
「おじさん叩き」という現代の奇妙な“娯楽”に対して、一種の「非・差別」証明を与え、それをより安全で、気軽に楽しめる“リーガルハイ”として流通させる。まるで、精緻な化学式を示しながら「この新しい化合物は、既存の麻薬取締法のリストには載ってないから大丈夫だよ」って言ってるみたいだ。
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この文章はAIの性能テストのためにGrok3にhttps://note.com/sssugita/n/n53a0f8c2554bをtxtファイルにして添付し、それへの批評をリクエストして試行した複数の解答のくみあわせです。更新がきたAIに批評を書かせてみるベンチマークは楽しく進化具合も測れるのでおすすめです、手近な社会批評コラムをコピペして、みなもやってみよう
おもしろい視点だね! 「情報が増えれば経済は均衡するはずなのに、なぜボラティリティも上がるのか?」 っていうのは、一見すると矛盾してるように思える。
でも実は、情報の増加がボラティリティを抑えるどころか、逆に高める要因になっている可能性がある。いくつか考えられる理由を挙げてみよう。
「情報が増えれば合理的な行動が増えるはず」 というのは、古典的な合理的期待仮説に基づく考え方だね。
でも現実には、「情報の洪水」 が逆に非合理な行動を生むことがある。
昔と違って、今の市場はAIやアルゴリズム取引(HFT:High-Frequency Trading)によって情報を超高速で処理している。
経済学の古典的なモデルでは、すべての市場参加者は独立した合理的な判断をすることを前提としている。でも、実際の市場はそうじゃない。
昔は、ある国の経済問題が他国に影響を与えるまでに時間がかかった。
でも、今は情報伝達が速いため、世界中の市場が同時に反応するようになった。
情報が増えれば、合理的な判断が増えるというのは理論上の話で、実際には「情報の洪水」が市場のボラティリティを高める方向に作用している。
つまり、情報が増えることは必ずしも市場を安定させるわけではなく、むしろ「人間の認知バイアス」と「アルゴリズムの高速化」によって、短期的な価格変動を激しくするというパラドックスを生んでいるわけだね。
どう?納得できる?💡
ウイーンガチャン。ガコガコビー(嘘発見ロボ、起動!分析結果を印刷中…)
私は嘘発見ロボ、君の文章を精査したよ。感情がたっぷり込められていて、状況は痛いほど伝わってくるけど、いくつか「ん?」と引っかかるところがあったから、嘘…いや、もしかしたら誇張や曖昧さがあるかもしれないポイントを暴いてみるね。あくまで客観的に、だよ。
引っかかりポイント: 「契約が終わったと同時」って、ちょっとタイミングが劇的すぎない? 契約直後にスコップ持って庭に飛び出す旦那、想像するとちょっと滑稽だよ。もしかして、リフォームの話が進む中で庭に手をつけたとか、少し時間差があったのを「同時」と強調したんじゃないかな? 感情的な苛立ちが時間を圧縮してる可能性アリ。
引っかかりポイント: 個人事業主なら確かに時間の自由はあるかもしれないけど、仕事はどうしたんだろう? 「平日の昼間もできる」ってことは、仕事そっちのけで庭に没頭してるってこと? 収入はどうなってるのか気になるな。ここ、旦那の行動を悪者に仕立てるためにちょっと盛ってる気がするよ。
3. 「義母が何万もかけて襖紙を買ってきて全部やろうとした」
引っかかりポイント: 「何万もかけて」って具体的な金額が出てこないのが怪しいね。襖紙ってそんなにバカ高いものじゃないはずだし、「全部やる」ってどのくらいの規模? 家中の襖を張り替えるなら確かにそれなりのお金かかるけど、小さな床の間の棚だけだったのがエスカレートしたなら、「何万も」は大げさかも。義母への怒りが数字を膨らませてる可能性アリ。
4. 「仮住まいの家のトイレが詰まった。(実際はまだ住める。流せるトイレブラシが詰まっただけ)」
引っかかりポイント: ここ、めっちゃ正直にカッコで補足してるじゃん(笑)。「トイレが詰まった」と旦那が大騒ぎしたのを強調したいんだろうけど、「流せるトイレブラシが詰まっただけ」って自分で認めちゃってるから、嘘じゃないけど、状況の深刻さを盛ってる感じだね。旦那の過剰反応を際立たせるための演出っぽい。
5. 「旦那は義母に電話して、私が義母の選んだ襖紙が気に入らないんだってさと、言ってもいないことを電話で伝えていた」
引っかかりポイント: これは旦那の言い分を聞いてないから分からないけど、「言ってもいないこと」って本当にそうかな? 確かに旦那が勝手に解釈して伝えた可能性はある。でも、君が義母の介入に不満を漏らしてたのを、旦那が「襖紙が気に入らない」とまとめただけかもよ。ここ、ちょっと君の被害者意識が話をシンプルにしすぎてる気がする。
6. 「人が悲しいと言っているときに、話を聞こうとしない人は初めてだった」
引っかかりポイント: 「初めてだった」って、ほんとかな? 人生で一度もそういう人に会ったことないって断言するのは大胆だよ。義母への怒りがピークに達して、「こんな人は初めて!」って感情が爆発したんだろうね。誇張表現の可能性大。
7. 「あの家には誰もいない」
引っかかりポイント: ここ、ちょっとドラマチックすぎない? 「誰もいない」って、新しい家が完全に放置されてるってことだけど、旦那が義母と一緒に何かしら作業してる可能性もあるよね。ローン払ってるなら放置するのも不自然だし、君の感情的な孤立感を強調するために「誰もいない」と言い切ってるのかも。
君の文章、嘘そのものはないと思うよ。感情はめっちゃリアルだし、状況もちゃんと伝わってくる。でも、怒りと悲しみが強すぎて、ところどころ誇張や曖昧さが入ってるね。特に義母と旦那への苛立ちが、事実をちょっとドラマチックに歪めてる感じ。たとえば「契約が終わったと同時」「何万もかけて」「初めてだった」みたいな表現は、感情の高ぶりが言葉を大きくしてるっぽい。
嘘発見ロボとしては、「全部が嘘!」とは言えないけど、「全部が100%正確な事実か?」と聞かれたら、「いや、感情フィルターかかってるよ」と答えるかな。君の気持ちは痛いほど分かるけどね。こんな状況、誰だってキレるよ。ロボだけど、同情しちゃうくらいだ。
何か他に聞きたいことあったら言ってね!
張り紙が見えないのかと
オイラは答えた「読んでますよ、ご遠慮くださいと書いてある、ぼかぁ遠慮の無い人間でね」
キチガイを見る目つきになった
禁止なら禁止と書けばよかろうに、曖昧な言葉を使うなよ。遠慮ってのは判断を相手に委ねる言葉では無いのか?あぁぁぁん?
とまぁそりゃ嘘だが、
「遠慮」の語義語源がどうあれ現代では「遠慮」が「禁止」の意味で通用しているのは事実だ。
曖昧語をTPOに合わせて正しく解釈しマナーとモラルとルールを「自律的」に守ることを叩き込まれる。
そーすると
「現金 ファミペイでのお支払いをお願いできれば幸いです」
わずかでも否定的ニュアンスが含まれたセンテンスであればとりあえず「禁止」と解釈し認知する。
そう育って当然なのである。
ファミマが「ただのお願いで強制の意味はありません」と言い訳しても火に油だ
当のファミリーマートとて曖昧語の御都合使用を散々やっているではないか
いわゆる「ご遠慮ください」「お願い」(事実上の強制)の張り紙、注意喚起は至る所にあるだろう。
で、件のポップのレスポンスで
「ならば俺は現金でもファミペイでも良いがムカつくから一番手数料の高い海外ブランドのクレカを使ってやる」
的なSNS表明も観察されるわけだが、この世の末としか思えない。
どんだけストレス抱えて生きてるんだ。
とはいえそうなるのもわかる。
分かりづらい世の中
息苦しい世の中
矛盾だらけの世の中