はてなキーワード: 能天気とは
おかしいな、と思うべき出来事は色々あった。しかし、その時は母がおかしいなんて全く思ってなかった。
──母は向かいのマンションを見ながら、「あそこの窓からピンク色の光が漏れ出ている。きっと怪しい家だ」と語っていた。
ダイニングのテーブルのすぐ裏の壁がベリベリに剥がれていて、中の配線が丸見えになっていた。呑気な私はそれを見て、「壁の中ってこんななってるのか」と興味を引かれたものの、そうなった理由については考えもしなかった。盗聴されているという妄想を持っていた母が、調査するためにやったらしい。
朝の通学路で手袋を落としたところ、家から結構離れていた地点なのに、母がすぐ後ろから「はい落としたよ」と手袋を渡してくれた。これはきっと、ずっと後ろから見守ってたのだろう。
などと、思い返すと繋がる出来事なのだが、当時の私は「そんなこともあるか」と徹底して能天気であった。
そんな私でも、さすがにおかしいんじゃないかと気づく事件が起きる。母が失踪したのだ。中2の時だった。
母は突然何も言わずに消えた。しかしその当日、私の叔母が家にやってきて母の不在を告げたので、「まあ何かあったのだろう」と納得していた。
しかし、母は思ったよりも長く帰って来なかった。5日ほど。この間、叔母が食事は用意してくれていたのだが、私は一人で家で過ごしていた。(私の父は小5の時に他界しており、兄弟もいない)
そして母は帰ってこない中、私は唐突に叔母から真実を伝えられることとなった。母はどうやら東京にいるらしい。なぜ東京にいるかは分からないが、母が統合失調症を患ったことが原因らしい、と。
そこで、東京の中でも正確な居場所をつかめない母に、帰ってきてほしいと電話をして欲しいと叔母から頼まれた。
私としては、正直夢の中の出来事みたいなところがあって、私が電話してどうなるんだよと思ったのだが、割り当てられた仕事のような義務感で電話をした。
「もしもし、(私)だけど。困ってるから帰ってきてほしいんだけど」
そこで母は言った、
「あなたなんか(私)ちゃんじゃない!本物の(私)ちゃんはどこ!」
それを聞いて、ショックというより、平熱が1度下がるような感覚がした。それ言われたらさぁ、どうしようもないじゃんか、という言葉が本能と理性の両方から出た。
「(私)だよ〜、本物だよ」
と私は反論したが、対話としてそう言うしかないと思ったからであって、
本当にそれが伝わることを、私はきっと期待していなかった。
……結局、叔母が東京まで迎えに行ったこともあって、母は地元に戻ってきた。
しかし、その後パトカーが家に来て、地元の警察まで行くことになった。
マンションのエントランスで、家の前に停まったパトカーを見た母が嫌がって、私の腕を掴んできたとき、母の異様な力の強さに驚いた。リミッターが外れているかのような馬鹿力だ。腕に跡がつきそうなほど握りしめられ、骨がちな母の指が私の贅肉に埋もれた。
その後、とにかくパトカーに乗ることになり、私と母は隣同士で後部座席に乗せられた。席は硬く黒い材質で出来ていてタクシーのようだった。その間、母は私の手を握っていて、それは優しく握られていたのだが、私たちの手の間には手汗による湿気の滑り気があって、それがなんだか、この異質なパトカーの中にて、私と母との切っても切れない粘ついた関係のようで気まずかった。
いつも見かけてはいたけど、入ったことのない地元の警察署に初めて入った。警官さんが母に向かって、「(苗字)さん」と親しげに話しかけていて、私の知らない間に警官と顔見知りになっているという事実が薄気味悪かった。
叔母とおばあちゃんは既に警察署に居て、多分失踪事件の後始末をしていた。それがその時呼ばれた理由だった。
あれから、母は精神病院で入退院を繰り返している。失踪が起きてから10年が経った。
私は母に対して、不気味なものを見る時のような感情がずっと捨てられることが出来ず、全てを忘れて優しく接しようとしても気まずくなってしまう。
母が「お茶に毒が入れられている」と言おうが、「就職は何系を考えてるのか?」と聞こうが、私からの答えは「うーん、そうだね〜」で固定されている。
後者の問いかけはまともだと私は分かっているのだが、私はもう、母がまともなことを言っている時も、なんかもう嫌なのである。
母が嫌いなのではない。関わりたくなくて、存在を認めたくないのだ。きっと、母という存在に向き合いたくないのである。
そうやって、私は母への思いを10年間も保留している。
私の大事な人へと、母の話をする機会が稀にある。私は初めて自分の意見を表明する段になって、自分のスタンスに迷ってしまう。
「大嫌い」か、「かわいそう」か、「大事にするべき」か、「優しくしたい」か……きっともっとある。
「なぜか女性に不自然なほど優しい暴力的な男性」に対する警戒感が薄すぎる女性は、そのガバガバなリスク感覚だと最悪命に関わるという命題に対して、賛成派と反対派がいます。
https://posfie.com/@golden_haniwa/p/uQUvcjF
以下の文書は、銀座線での出来事をきっかけにSNS上で展開された議論をまとめたものです。ある男性が女性をハラスメントしていた別の男性に対して攻撃的に対峙し、その前に近くの女性に優しく声をかけたというエピソードが発端です。この出来事は、「女性に対して異常に優しい暴力的な男性」への警戒心の薄さとそのリスクについての議論を引き起こしました。議論の中心となる論点は以下の通りです:
女性が、(「悪人」に対してであっても)暴力を振るうが自分には優しい男性に警戒心を持たないことは、危険で命に関わる可能性があるか?
このような男性の行動は、女性を守る行為として称賛されるべきか、暴力的な傾向として批判されるべきか?
このような男性を称賛する女性は、危険な本能や誤った判断によるものか、守られたことへの合理的な反応か?
「英雄的」な男性の暴力とハラスメントする男性の暴力は同等であり、同様のリスクを孕むか?
非暴力的な方法(例:警察への通報、対話による解決)はより安全かつ効果的であり、暴力に頼ることを見過ごすのは危険か?
命題との関連: この論点は、女性が暴力的な男性への警戒心を欠くことが危険かどうかを直接扱います。
よしおか (@yosshiiii23): 自分に向けられていない暴力は称賛されがちだが、それが自分に向かう可能性を無視していると指摘。
ひよの (@hiyono_leverage): 女性が暴力が自分に向かう可能性を考えないのは「面白すぎる」と皮肉。
めんとすTタイプ (@kusyatori): このような男性を称賛することは「DV男の特徴」を支持することであり、将来の被害を招くと警告。
aircooling883: 弁護士の意見を引用し、暴力を手段とする男性は最終的に身近な人にも危害を加えると主張。
らくだ (@rakuda4u): 危険な人物に対峙するには攻撃性が必要であり、こうした男性を一律に危険視するのは不公平だと主張。
key_tracker: この男性の行動がDVの特徴と一致するという見方を否定し、明確な脅威への防衛的反応だと強調。
空白 (@khwCGQZrH6eqNRY): 女性がこうした男性を称賛するのは、危険な世界で守ってくれる存在だからであり、リスクと決めつけるのは現実を見ていないと反論。
命題との関連: この男性の行動を称賛するか批判するかは、女性の反応が誤っているかどうかを評価する上で重要です。
シラクモ (@Gpvjwb09): 投稿に12万の「いいね」がついたことに驚き、支持者を「猿並みの頭」と批判。
鳥 (@UK6hnoYFvtwpVtq): 男性の行動を問題視された「私人逮捕系YouTuber」と比較し、批判的思考の欠如を指摘。
ShinTAM91019338: 正義を名目に暴力を振るうのは「小悪党」の行動であり、力を正当化する危険性を警告。
massappouu: 暴力による解決を否定し、相手が武器を持っていた場合の危険なエスカレーションを指摘。
ニャンすけ (@ume_syuuu): 男性を「かっこいい」と称賛し、勇敢な行動を広める流れに感謝。
みなこっち (@zwillingmutter): 男性を「正義のヒーロー」と呼び、恐怖を感じていた女性を守ったことを高く評価。
らくだ (@rakuda4u): 非合理的なハラスメント者には丁寧な対応は通用せず、攻撃的な対応が必要だと擁護。
hukinnshinn: 男性を社会秩序を守る「自警団」に例え、自己中心的な「私人逮捕系」とは異なる意図を強調。
命題との関連: 女性の称賛が危険なリスク感覚の欠如によるものか、保護への合理的な反応かを問う。
にゃあとるず (@HINEM0SS): 女性は自分にだけ優しく他人に攻撃的な男性を好む傾向があり、これが「DQN」男性の人気の理由だと分析。
おりぃぶ (@_OLIVE_a): 女性向け漫画のテーマに繰り返し現れることから、女性特有の暴力的な男性への憧れがあると指摘。
HimazinMan3: 暴力的な男性への惹かれが、DV被害者が減らない理由だと主張。
tyamagis: 女性の称賛が社会の対立を煽り、極端には戦争を引き起こすと過激に主張。
どぶねずみ (@Nzm_in_the_Dark): 日本の男性には優しい人が多く、女性の肯定的な反応は自然だと示唆。
NightQueen (@NightQueen_7): このような「素晴らしい男性」のエピソードをさらに聞きたいと述べ、否定的な男性像と対比。
funpan2015: 進化生物学の観点から、保護してくれる男性への惹かれは子孫の生存確率を高めるため合理的だと説明。
key_tracker: 女性の反応が本能の誤りだとする見方を否定し、危機での決断力ある行動を評価しているだけだと主張。
命題との関連: 「英雄的」な男性の暴力がハラスメント者の暴力と同等かどうかは、女性がその男性を信頼することの妥当性に影響します。
クルル (@kululushousa): 男性の行動を「DV男の特徴」と呼び、ハラスメント者の暴力と同等とみなす。
RYU-1貴族 (@r1kzk): 男性が弱い相手を選んで暴力を使った点で、ハラスメント者の弱者攻撃と同じだと指摘。
よしおか (@yosshiiii23): 自分に危害が及ばない暴力は称賛されがちだが、その本質的な危険性は変わらないと主張。
ShinTAM91019338: 両者の方法は社会秩序を乱す点で同じであり、目的の違いは言い訳に過ぎないと批判。
the_my_pace: 防衛的暴力と攻撃的暴力を同等に扱うのは誤りであり、目的が異なることを強調。
key_tracker: 男性の行動は攻撃者への反応であり、理由なき暴力ではないとして同等視を否定。
hukinnshinn: 男性を秩序を守る「自警団」に例え、ハラスメント者の自己中心的行動と区別。
空白 (@khwCGQZrH6eqNRY): 男性の暴力は非合理な攻撃への必要悪であり、普遍的な敵意の表れではないと主張。
命題との関連: 女性が暴力的な男性を信頼することが、より安全な非暴力手段を見過ごす危険な判断かを評価します。
aircooling883: 「傾聴」や交渉を推奨し、人質交渉人の例を挙げ、暴力の法的リスクを警告。
massappouu: 暴力は相手が武器を持つ場合に危険をエスカレートさせ、冷静な介入で十分だと主張。
遊烏氣 (@yuki_yugi_paru): 対話や当局への連絡など理性的な対応を提案し、感情的な暴力は自制心の欠如を示すと指摘。
文京花子 (@1lxDLYPDjv53882): 警察を呼ぶと述べ、制度的な介入を優先。
らくだ (@rakuda4u): 理性的な相手にしか丁寧な対応は通用せず、ハラスメント者には攻撃的な勢いが必要だと主張。
hukinnshinn: 理性だけに頼るのは非合理な相手が存在しない前提であり、強制的な介入が必要だと述べる。
key_tracker: 非暴力的な方法は即時性を欠き、男性の行動は現実的な対応だったと擁護。
牛職人 (@GR_4): 非暴力を唱える人を「能天気」と批判し、即時の危害を止めるには不十分だと主張。
この議論は、暴力、リスク、ジェンダーに関する深い意見の対立を浮き彫りにしています。
女性の称賛は潜在的な危害を無視した危険なリスク感覚の表れであり、より安全な非暴力手段を優先すべきだと主張します。
一方、反対派は、男性の行動は状況に応じた正当なものとみなし、女性の肯定的な反応は保護への合理的な感謝であり、非暴力手段が常に有効とは限らないと反論します。
議論はジェンダー期待、進化心理学、暴力の正常化といった社会問題にも及び、双方が相手を単純化やイデオロギー的偏見で非難しています。
しばらく前の話になる。
周りのサラリーマンが騒ぎ出したけど、私の目に入ったのは胸元のペンダントの揺れだけ。
壁のAEDケースが目に入ったけど、あれ女性に使ったらセクハラ訴訟になるかも、賠償金払わされるかもと頭をよぎってしまった。
結局駅員が到着するまで10分、その女性は青ざめたままだったけど、私の身を守る選択は正しかった。
見ず知らずの女性に関わるのは、こわい。
家で旦那に「女にAED使ったら人生終わるよ」って釘刺したの。
だってあの人、市の防災訓練で「人命最優先」って能天気なこと言ってたから。
私が「見境なくあることないこと言う女性だっているの!自己責任でしょ、健康管理できてない人が悪い」って言っておいた。
ああ、春ですか。まあ、確かにカレンダーはそう言ってますね。でもあなたのその感傷的なつぶやき、まるで去年の花粉症の苦しみを完全に忘れたか、あるいは脳の記憶領域がスギ花粉で埋め尽くされたかのようで。
春ですって? そうですね、自然界は再生の季節ですよ。でも人間界は相変わらずで、SNSには「春だな~」という無脳な投稿が再生産され、まるで思考停止のループ。桜の花びらより軽いあなたの知性が風に舞っていますね。
「春だな」って、何が? 税金の支払いが迫ってくること? 新入社員という名の使い捨て労働力が大量投入されること? それとも花粉、黄砂、PM2.5で呼吸が罰ゲームになること? ああ、素晴らしい季節ですね。生きててよかった。
春が来たからって、あなたの人生に突然ポジティブな変化が訪れるとでも? 桜が咲いたところで、あなたの自己啓発本の積読タワーは相変わらずですよ。その「春だな」の一言で、空虚な日常をごまかそうとしてるのが見え見えです。
自然界のサイクルとやらに感傷的になる前に、あなたの部屋のサイクル(汚れ→さらに汚れ)でも見直したら? 春の訪れを感じるどころか、カビの繁殖を感じるレベルですよ。
ああ、春。就活生には地獄の季節。花粉症患者には拷問の季節。あなたのような浅はかなつぶやきをする人には「そうですね」としか返せない人々をイライラさせる季節。素晴らしいですね。
春ですよ! 新しい始まりです! といって、あなたが去年やり残したこと、挫折した目標、消えたやる気、全部そのままじゃないですか。桜が咲こうが、あなたのダメさは枯れ木同然。
「春だな」というありきたりな感想。その陳腐さは、コンビニの桜味商品並みのオリジナリティですね。せめて「春の訪れに、私はまた一年無為に過ごしたことを思い知らされる」くらいの自覚はあるのかしら?
春ですね、確かに。でもあなたのその言葉、まるでAIが自動生成したような薄っぺらさ。感情の深度がインスタントコーヒー並みに希薄です。もっと捻ったメタファーはないのか? 例えば「春は社会という歯車にまた噛み込まれる季節」とか。
ああ、春。あなたのような人々が一斉に「癒される~」とか言い出す季節。でも現実は、クソみたいな日常が色を変えただけ。桜のピンクに染められても、あなたの愚かさは相変わらず真っ黒ですよ。
春が来たからって、何か変わる? あなたのその怠惰な性格、自己中心的な思考、浅はかな価値観、全部そのままでしょ。季節が変わったところで、中身までリニューアルされると思った? 残念、人間はそう都合よくできてません。
「春だな」という安易な言葉。その裏には「何も考えるな、感じろ」という思考停止の命令が隠れてますね。まるで「とにかく盛り上がれ」という強制された陽気さ。春の嵐よりうるさいのは、こういう薄っぺらなポジティブ思考です。
春ですって? 社会の歯車がまた回り始める音が聞こえますか? 新年度という名のシステマティックな暴力が始まりますよ。あなたの「春だな」という言葉は、その暴力を美化するためのBGMに過ぎません。
ああ、春。自然は再生するというのに、あなたは相変わらず同じ過ちを繰り返す。去年と全く成長してないじゃないですか。桜の木は年輪を重ねるというのに、あなたの脳内は1周回って同じ場所。立派な停滞ぶりです。
春の訪れを喜ぶ前に、あなたの人生の冬を何とかしたら? 人間関係もキャリアも趣味も、すべてが凍りついたままじゃないですか。自然界のサイクルとあなたの成長が完全に同期してないことに気付いてる?
「春だな」という言葉の軽さ。まるでその一言で、自分が何か深いことを言ったかのような錯覚。その自己満足、春の陽気に浮かれた花粉のようです。一瞬で消えますね。
春が来たからといって、あなたの内面まで花咲くと思った? 残念、そこは不毛の地のまま。むしろ「春なのに何も変わらない自分」に気付いてさらに憂鬱になるのがオチでしょう。
ああ、春。この季節だけなぜか哲学者になる人が増えるよね。「命の尊さ」とか語りだして。でもそのくせ普段は平然とコンビニで使い捨て商品を買い漁る。矛盾もいいとこです。
春の訪れに感傷的になる暇があったら、まずはあなたの部屋の掃除をしたら? 冬物のコートの下から出てくるのは、去年の食べかけのお菓子じゃないですか。自然の循環より、あなたの生活のループの方が深刻ですよ。
「春だな」という言葉に込められた無内容さ。その空虚な響きは、あなたの頭の中をそのまま反映しています。せめて「春が来ても何も感じない」くらいの自己認識があれば救われるのですが。
春ですよ! 希望の季節です! ……と言い張る人々の、その根拠のない楽観主義。現実を見ろよ。春が来ようが、世界は相変わらずクソだらけ。あなたのその能天気さ、むしろ病気ですよ。
というわけで、春だな、とつぶやくあなたに春の訪れを祝うよりも、まずは自分自身の陳腐さを反省することをお勧めします。自然界のサイクルにすがる前に、自分という惨状と向き合いなさい。それができたら、まあ、それもまた春の奇跡ですね。
いいだろう。ではお前のことを認め、まともに話してやろう。
民主主義が理想です。でもギリシャのポリスみたいな直接民主制は無理なので、間接民主主義、代議制を現代では採用しています。
でも代議制だと、代議員、すなわち専業政治家が権力をつかって不正をする。
ここで「政治の監視」が出てくる。監視部分に代議制をつかわなきゃいいじゃんって訳。
それは、無理があるよ。
一部復活とかできるわけないだろ。
次に出てくるのは「マスコミによる監視」だ。政治とは別に、監視も代議制で間接でやろうってわけ。
これは、腐敗したよね。
あたりまえ。代議制だと腐敗がおこるからその監視をするんでしょ? マスコミの監視をしてないと、次はマスコミが腐敗するでしょうが。
次はどうすんだ? プロ市民代議にマスコミ監視を任すのか。無限後退だね。
俺が思うに、市民の政治参加だとか、市民による政治の監視、部分的な直接民主主義の復活で政治の正常化を図ろうとする、その試み自体に無理があるよ。直接民主主義が無理だって最初に言った。無理なもんは無理なのだ。
それにだ、代議制・官僚制には、もう一つの側面がある。分業制度としての側面だ。
言うまでもなく、分業は、社会の近代化を実現した大きなパワーの一つだ。政治学の祖と言ってもいい、Mウェーバーも言っている。代議制=分業を放棄して直接民主主義に戻ろうというのは、近代化の放棄に等しい。
お前、頑張ってるじゃん。政治の情報をめっちゃくちゃ追っている。それが出来ているのはなぜ?
これは悪口では全然ないという前提なんだが、お前に政治を追えるのは、お前が暇だからなんだよね。仕事してないから政治の話が追える。社会分業において、お前は政治の役割を進んで担っており、それは他の人にレストランのウエイトレスやタクシードライバーを仮託しているということなのだ。
これらを前提に、能天気に「日本国民はアホだから政治を監視していない」などと主張するのは、はっきりと誤りだ。
それはシンプルに不可能だ。日本以外の、お前の理想を実現している近代化国家も存在しない。
模索せねばならないってのは、答えはまだ見つかってないってことでもあるけど。
でもおまえは「俺は答えを知っていて、他の奴は知らないからアホ」だという。それはやめろ。
「ラストエンペラー」を観たことがある人なら分かると思う最終盤のシーン、ほんの一瞬だけど「アルプス一万尺」が流れる場面がある。
それまで何時間も、溥儀の逐われ釣られの生涯を見届けてきて、変わり果て誰もいなくなった紫禁城へ漸く“帰ってきた”溥儀と少年の関わり、筒から出てきたコロオギに幾らかの救いさえ見出されるようなクライマックスから一転、(公開当時の)現代に移り変わって最初に流れるのが、平べったい電子音の「アルプス一万尺」なのだ。
その音はガイドの女性が観光客を溥儀の玉座へ注目させるためにメガホン状の機械から流したものであり、2回ほど響いた後、彼女は溥儀の生年と、彼が最後の皇帝であったこと、そして没年について説明する。愛新覚羅溥儀の壮絶な生涯を見事に描写した大長編は、生きている彼に直接会ったことさえ無いであろう1人の女性が発する情感も何もない異国の電子音楽と、たった二言三言の解説だけであっさりと幕を閉じてしまう。
だけど、私はこのラストシーンが堪らなく好きだ。
人の生涯、歴史の中の出来事、それらのすべてには決してひと言では表せない様々な事象や感情が複雑に絡み合っているが、そういったことに直接関係ない立場からすれば、「○○年にこういうことがあった」「この人はこういう人だった」という程度にまで情報を押し潰すことはいくらだって可能なのである。数時間をかけて「ラストエンペラー」という映画は、観る人々にとって溥儀という男への感情移入を促し、決して赤の他人のままにさせない作りをしているくせに、自発的にそれまでのすべての時間をペシャンコにしてやるこの最後の一瞬だけで、まるで頭から氷水を浴びせられたような気にさせてくるのだ。
しかし、そうして冷えた頭の前に今度現れるのは、先ほどまで印象的なシーンを演出していた溥儀の玉座──主たる皇帝を喪い空っぽになったそれと、「ラストエンペラーのテーマ」なのである。劇中の様々なシーンで流れたフレーズを繋ぎ合わせたようなこの名曲は、主なき玉座を目にした時に初めて「愛新覚羅溥儀の生涯とその激動」を感覚的に突き付けるものとして完成するように思えてくる。
劇中の人々の中から彼ひとり分の人生が消えて見えなくなったとしても、スクリーンの目の前の人間の中に溥儀は確かに息づいている──あのラストシーンはそういった独特な感触を私に与えてくれるのだ。
「ラストエンペラー」にしかない読後感のようなものを味わうにあたり、そこへ至る物悲しさを得るために「アルプス一万尺」の能天気な音色とガイドの無感情な解説は無くてはならないものだと私は思っている。
たまたますれ違っただけの小学生が手遊びするのを見かける時、YouTubeの動画から偶然それが流れてくる時、或いは何の気なしに鼻歌として自分の中から出てくる時、私はその折々で「ラストエンペラー」のことをこれからも思い出し続けるのだろう。空っぽの玉座と、年老いた溥儀の微笑みを瞼の裏に映しながら……。