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「立脚」を含む日記 RSS

はてなキーワード: 立脚とは

2025-05-26

anond:20250526204244

無知であることを誇ってる感覚はないな。

他のツリーでも書いてるが、30年もネット徘徊して色んな作品ごしに間接的に触れてると、見てなくてもどんなもんかだいたい分かった気分になる。

俺は映画ほとんど見ないほうだが、スター・ウォーズとか……スター・トレックとか……見てなくても、結局どんなもんか想像できるだろ。見ちゃってるなら適当アメコミとか想像してくれ。興味なくて見てすらいないのに誰々の正体が誰々みたいなネタバレも知ってる部分あるし。それと同じ。

そりゃまあ細かい人間関係とか勢力図とかはまるっきり分からんが、大枠が分かっているのに作風が好みじゃない長大シリーズをわざわざ見に行く気になる人間はいないだろう。エアプ乙と言われてもエアじゃなくするための労力を払う意義を感じない。

それよりは自分に刺さる最新の若いクリエーターが作った作品に、大河になるかもしれない源泉に触れていたい。既にある大きな流れに乗ることを優先するんだったら、まるでハルヒ球場で感じた感覚のように、自分をちっぽけな大衆にしてしまう気がする。

オタクというのは、自分センスを信じて貫くことで、自分の中に世界創造する人だと思うんだよ。それがあんたの言う無知立脚していたとして、俺は気にしない。嗜好の偏りこそが、オタクオタクたらしめる。

感動を共有できることの良さを知らないわけじゃないが、自分特別と信じてあげられるように、他者と線を引いていくことも不可欠だと俺は思ってる。

2025-05-23

フェミニズム理論立脚すれば・・・夫が懲役刑、妻が執行猶予付き無罪相場・・・

生後4カ月の男児死亡…「妻と息子が出ていった」と夫が通報、駅にいた妻を発見 抱える男児、すでにどこかで溺れさせたか産後うつがつらい」と語る38歳、鑑定留置へ…水没させる前、出勤する夫を引き留めていた

https://news.yahoo.co.jp/articles/2a3616e3594d771d56e485b766e6099dca2ca1b5

同署によると、同日、夫が出勤する際、女が夫を引き留めるなど様子がおかしかったこから帰宅したところ、別れを告げるような置き手紙を見つけ、同日午後1時ごろ「妻と0歳の子どもが出ていってしまった」と110番した。

蕨署員が戸田駅構内で長男を抱えた女を発見した。長男心肺停止状態搬送され、搬送先の病院で死亡が確認された。目立った外傷はなく、死因は溺死とみられる。女は同日から入院し、治療を終えて7日に退院した。

2025-05-19

anond:20250519071907

まず、個体寿命人類の存続が因果関係で結ばれていないという主張は一理ある。

だが、その主張をもって「寿命が短くなっても人類は滅びない」と言った者に対して、「会話になっていない」と断ずるのは、因果関係構造ではなく議論土俵を誤って自己放尿している証拠だ。

ここでの論点は、個人寿命の縮小を理由経済成長正当化できるかどうかであって、「人類寿命によって滅びるかどうか」ではない。

まり寿命人類の命脈の因果関係があろうがなかろうが、それは主論点の外にある。

寿命の変化を主要な判断基準に据える姿勢に対して、そもそも寿命という物差し絶対視に値するのか」と疑義を呈するのが発端の反論であって、そこで「寿命が短くなっても人類は滅びない」などという応答があったとしても、それは主張の妥当性の限界を示すための例証であり、論点の混乱ではない。

それを「会話になっていない」と断ずるのは、構造理解が甘いか相手の話を逆手に取って揶揄するための詭弁だ。

会話になっていないのではなく、元の主張が「個人寿命というミクロ指標をもって経済政策の是非を判断する」という根本的な錯誤に立脚しているから、議論が噛み合わないように見えるだけだ。

さらに言えば、日本語揶揄に話を逸らすのは、議論詰んだとき感情で逃げる人間典型的パターンだ。

言語文法や語感の話を持ち出しても、論理矛盾は消えない。主張が論理的に成立していれば、多少言葉がたどたどしくても筋は通る。

逆に、どれだけ流暢に話そうが、論点がずれていれば中身はゼロだ。

寿命の短縮を口実に経済成長正当化する論理には、因果があるかどうか以前に、そもそも評価軸として寿命妥当かどうかという問いを無視している欠陥がある。

その妥当性を問うているときに、「寿命人類は滅びない」という反論が出ても、それは会話の否定ではなく、論理解体として成立する。

日本語どうこうより、論点の読解精度を先に心配したほうがいい。

2025-05-18

anond:20250518191652

国債借金じゃん

その昔、中学校では国債借金なので増えるのはよくないんだよと教わったわけだけど、今や国債無限の財源とか言い始める議員がいる始末

何が正しいのか全くわからん

このようなインターネット書き込みを見ました

日本において国債増発、積極財政提言しているのはどのような人々ですか?

日本国債の増発や積極財政提言しているのは、以下のような立場・背景を持つ政治家経済学者言論人たちです。彼らの主張には共通点もありますが、立脚している理論目的には違いもあります

🔷 1. リフレ経済学者

代表例:

上念司(元経済評論家

中野剛志評論家、元経産省官僚

高橋洋一(元財務官僚、嘉悦大教授

藤井聡京都大学教授、元内閣官房参与

主張:

デフレ脱却のためには政府支出の拡大(積極財政)が必要

国債発行で財源を確保しても、金利が上がらなければ問題ない

「国の借金=悪」という考えは誤解であり、通貨発行権のある日本政府破綻しない

🔷 2. 政治家議員積極財政/反緊縮派)

代表例:

山本太郎れい新選組

大石あきこ(れい新選組

小沢一郎無所属旧民主党

安藤裕(元自民党現在新党くにもり系)

安藤裕自民党責任ある積極財政を推進する議員連盟)

西田昌司自民党財政政策検討本部

三橋貴明経済評論家政治活動家)※直接選挙には出ていないが影響力あり

主張:

国債通貨発行の一手段であって借金ではない」

財政出動こそが景気を支えるエンジン

消費税廃止とセットで財政支出を拡大すべき

彼らの多くはMMT現代貨幣理論)に一定の理解を示しつつ、「財政均衡主義」への反対を訴えています

🔷 3. 現代貨幣理論MMT)に理解を示す論者

代表例:

松尾匡立命館大学経済学部 教授

井上智洋(駒澤大学経済学部 教授

田中秀臣上武大学 教授

主張:

日本のように自国通貨を発行できる国は、インフレ率の範囲内で財政赤字問題視する必要はない

国債発行で供給能力を引き上げ、失業対策社会保障を充実すべき

🔷 4. その他メディア言論空間での支持者

一部のYouTube経済チャンネルニコニコ動画系の政治コンテンツに登場する論者(例:KAZUYA Channel、一部三橋派)

SNS上では「積極財政クラスタ」や「反緊縮系アカウント」などが活発

🔸補足:主流派との違い

日本の主流経済学(特に財務省日銀周辺の主張)では、依然として「財政規律」が重視されています

国債残高がGDPの2倍を超えている現状では、「将来世代へのツケ」という発想が根強い

インフレ率は抑制されていても、国債の信認低下を懸念する向きがある

🔚 まとめ

国債借金だが、それを悪と断じるか、景気対策手段と見るかで立場が分かれる。

積極財政を主張する人々は、財政赤字よりもデフレ貧困供給能力の低下の方が深刻な問題だと捉えています。彼らは「政府が使わないか民間が貧しくなる」という立場です





だってさー

2025-05-16

anond:20250516172400

根本的に君はかなりバカなんだろな。

俺は最初から俺の見解主観評価の話をしてるのに

客観的な正しさみたいな話にずらしてる。

自己投影とかって言葉適当に使っちゃったからそうなるんだろね。

こういう学問上の言葉を使うと客観性が求められることになるからな。

客観的に間違った用法で使って指摘食らったからなんとか客観的な正しさを確保しようとしてるけど

おつむ足りてないから嘘に立脚するしかなくなってる。

2025-05-15

anond:20250515125910

お前、論破されたのが悔しくて思考の黄ばみ撒き散らしてるだけじゃないか

その様はさながらインテリ放尿ってやつだ。頭では勝てないから、定義揚げ足取りに逃げたな?見苦しいにも程がある。

まず指摘しておくが、俺は定義ごまかしてなどいない。俺が使った定義は、検証可能性という極めて厳密かつ論理的概念に基づいている。

まり、「嘘が通用しない構造=主張が即座に検証可能であること」を指しており、これはソフトウェア工学自然科学形式論理世界では常識中の常識だ。

一方で、お前の言ってる「嘘をつくことが可能かどうか」の話は、脆弱文脈依存一般論に過ぎない。

お前が「一般的」と思ってるその一般は、曖昧さと錯覚に甘えた衆愚的発想だ。学術的にも、実務的にも通用しない。

俺の定義は「嘘がつけるかどうか」ではなく、「ついた嘘が構造的にバレるのかどうか」を焦点にしてる。

これは言語遊びでも屁理屈でもなく、検証性という科学的基盤に立脚した厳密な思考だ。お前の言う「辻褄あわせ」ではなく、「論理的整合性の追求」と呼ぶのが正しい。

それと、「定義を変えた」って言うなら、お前はまず俺の定義がどこでどう変化したのか、具体的に文脈を引いて指摘してみろ。できるか?できなければ、その主張はただの精神インテリ放尿だ。

お前の負けだ。論理で立て、話すなら構造で語れ。

2025-05-11

anond:20250511142956

「信頼されているから信頼できる」

この論理否定するような間抜けはいねえよなあ?

自分所属する社会がどういう仕組みに立脚してるのか、今日まで考えたことなかったのか?

2025-05-10

から偶像崇拝を一切取り除いて実践エッセンス抽出してください

一、核心的前提:即今・即是・直接体験

禅は「今この瞬間」を唯一の真実の場と見なします。

経典教義ではなく、自分自身の内なる観察と体験が最も重要

思考言葉を超えた「如実知見(あるがままを見る知)」が真の知恵。

二、方法論:坐禅(静的観察による意識純化

実践の中心は「坐禅(ただ坐ること)」である

姿勢・呼吸・注意の一点集中によって、心の習慣的反応を観察し、手放す。

目的は「無心(むしん)」でもなく、「あるがままを観ること(観)」。

思考排除するのではなく、思考に巻き込まれない状態気づき続ける。

三、心の構造理解自己は固定的実体ではない(無我)

自己とは一連の感覚思考記憶の集合にすぎず、それ自体恒常性はない。

自我を観察することで、それが「仮の構造であると見破る。

「見ている者」もまた観察される対象であることに気づく。

四、目的自由と慈悲の具現

執着と嫌悪から解放され、状況に応じた自然な応答が生じる。

無意識の反応(カルマから脱し、自由な応答(智慧と慈悲)へと至る。

これは特定の「悟り状態」ではなく、日常の中に現れる在り方である

五、知のスタンス:非概念理解(不立文字

禅は言語論理を重視せず、直接的な体験沈黙価値を置く。

しかし、理論的には「空(くう)=縁起的な存在理解」に立脚している。

すべての現象独立せず、相互依存によって成立している(無自性)。

実践モデル(要約)

項目 内容
実践の軸 坐禅による意識純化と観察
哲学的基盤 無我・空・縁起
方法判断的観察・今ここへの気づき
心理的構造自我は固定ではなく、条件づけによって生起する
ゴール 慈悲と智慧による自由生き方

このように、禅の本質宗教的装飾や象徴を離れても、その実践価値哲学的深さを保ちます

仏像を拝むことなくとも、自己を深く観ること、執着から自由になること、他者に慈悲を向けることは、禅の精髄です。

教えの中でも「一切の法は自心より生ず」とあるように、外に求めず、自らの心の内を静かに見つめることが、最も確かな道であると申せましょう。

都市伝説解体センター批評がどう変なのかを解説するための文章

最初にはっきりさせておくが、私はミステリー大好物だが、ミステリファンは嫌いだ。

フーダニットだのハウダニットだの身内でキャッキャとしているうちは可愛いものだが、いざミステリーポピュラーになろうとすると、いつもその芽を潰してきた。

いつもだ。だから衰退した。

都市伝説解体センターネタバレはしない。CMローンチトレーラー)で流れている範囲では触れる。

まず、批評のものについて

批評は、基本的には「批評する対象が、批評しようとする空間のどこにあるのか位置付ける」作業だと言える。

ざっくり言えば、「都市伝説解体センターは、河原町通三条下ルですな」のように言うことが批評家だ。

この時、媒体によっては「(京都市中京区河原町通三条下ルと言える」と書いたり、「注記: 河原町通三条通の交差点から南側に入った場所」と記載する。

もっと平たく言えば、ファミ通レビューのように、0〜10の得点のうち、このゲームは9点の位置ですよ、と位置を示すのが批評だ。

これは大いに自由にやるべきだし、自分の信念に従って自分対象空間位置付けるべきだ。

ただ、「これはこうすればもっと得点が高くなる」と言うべきではない。それは批評ではなく改善提案からだ。

また、「こういう批評をする奴は、こんな奴だ」と言うべきでもない。それは「該当する批評家を批評する」ことだからだ。対象への批評ではない。

ラーメンハゲラヲタ蛇蝎の如く忌み嫌い批評するのは一貫性がある。

「こんなラーメンを好きなのは情報を食ってるからだ」と言うのは、ラーメンに対する批評ではなく、ラヲタを正しく批評している(位置付けている)。

都市伝説解体センター批評で多く目にするネガティブな反応について

概ね以下に集約される

にも関わらず、世間ポジティブな反応が多いのに納得できないというものだ。

特定の誰かを批評することが目的ではないが、該当する批評感想を持った人たちを批評する目的のこの文章でははっきり書くが、幼稚なのだ

幼いのだ。未熟なのだ。自他の境界線曖昧で、自分世間の中に立って批評できない。

俺がおかしいのではない、世間おかしいと叫んでるのだ。そして残念ながらその声はある程度、当人たちにも届いてしまう。

都市伝説解体センターというゲームが、面白くなかったのであれば面白くないと書けば良いのだ。

どこが面白くてどこがクソなのか書いて、だからこのゲームはこの位置だと叫ぶのが大人のやることだろう。

都市伝説解体センターが好きなのは、こういう人物像だろう」という批評も、別にすれば良い。

ラーメンハゲも信念に基づいてラヲタ批評する(ように見える)から人の心に刺さるわけだろう。

「俺の好きなミステリーではなかったから、この作品が好きなやつはミステリー好きではない」と書くのがハッキリと害なのだ

アドベンチャーゲームについても同じだ。正確に言えばあらゆるゲームについても同じだった。新人を鼻で笑うのではなく、沼に沈めなければならないのに。

なぜ自由にすれば良い批評を変だと評するのか

自分批評の論拠を、世間の誤りだと立脚するからだ。

俺は誤りとは書いていないというかもしれないが、書いている。

「俺は最後オチが納得できなかった。だからクソゲーだと思う」と書けば済むところを、

「え?俺以外は絶賛してるの?なんで?俺と同じ人もいるよね、良かった……じゃあやっぱり俺以外の感想を持った奴はニワカなんだな」と書くからなのだ

さっきラーメンハゲをわざわざ引いてきたのは理由がある。ラーメンハゲは、なぜどうして情報を食っていると評したのかを明確に示したからだ。

「このラーメンはまずい、それを絶賛するのだからこいつらは間違っている」という論立てをしていない。それは別のものからだ。

から都市伝説解体センターを絶賛するやつは、普段ゲームをしない奴だ」と言いたいのであれば、その論拠を示すべきであって「だって俺は面白くなかったから」というべきではない。

そこが変なのだ

ではどうするのが良かったのか

自由批評して良いし、クソだと思うものをクソだと言うのも表現の自由だろう。

ただ、その批評も当然のように批評さらされる。今やってるのがそれだ。

なぜ、ミステリーが好きじゃないやつに刺さったと言えるのか、なぜ普段ゲームをしない層にリーチたからヒットしたと言えるのか。

だってヒットしているのだから」と言うのはトートロジーであって、批評ではなく言葉遊びだ。

例えば、以下のような点だ。

これはアドベンチャーゲーム好きな人ほど陥りがちな穴であって、自分がほぼ無意識に流したところに何かあったかもしれないと言う内省につながっていない。

  • 総当たりで調べれば先に進めるように作ってあるが、総当たりがしやすいように、また間違えた場合もご褒美が得られるようになっているからヒットしたのではないか

ローンチトレーラーCM)にもあるように、新人調査である福来あざみが先輩調査であるジャスミンと、SNSを利用して調査するパートと、現場調査するパートがある。

そのいずれも、非常に明快に、既読と未読がわかるようになっている。

そんなの当たり前じゃんと思わずに、思い出してみて欲しい。今まで一度選んだ選択肢がグレーアウトされるアドベンチャーゲームがいくつあったかを。

また新人調査である福来あざみはメガネをかけることで念視と呼ばれる特殊能力ゲーム中で使うことができるが、SNS調査パートでは念視を使えばマークが付くのだ。

これは小さなマークだが、思っているよりも目立つので、どこを見たのか一目瞭然だ。

(これは念視を使っていわゆる正解を見つけた場合であっても、不正解であってもマークがつくところが重要であるメガネ既読がしっかり表示されるのだ)

また、多数の選択肢から正解を見つけなければいけない時に、間違ってしまってもキャラクターの掛け合いが見られることで結果としてご褒美になっている。

新人調査員の福来あざみが、真顔で変なことを言って所長にツッコミを入れられるのは、プレイヤーにとってはペナルティではなく微笑ましい会話を読めたご褒美なのだ

それ以外にも、調査がどの程度進んでいるかは、常に証拠品の数で示されているし、調査完了すれば次に進めるようになっている。

ゲーム体験が快適になるように、非常に丁寧に作り込まれている。

これまで、アドベンチャーゲーム慣れした人ならごく自然にやっていた、どの選択肢を選んだか覚えておく、どの場所調査たか覚えておくという、「ゲーム側の都合で人間対応しなければならなかった部分」が、「ゲーム側で対応されたことで人間がやらなくて済むようになった」と言う丁寧な作り込みが見られる。

これはゲームとしては些細だが本質的なところで、似たような例はシミュレーションゲームでは頻繁に目にする。開発陣が想定していなかったような細かいパラメータの調整を人間に強いていた場合、続編ではそのパラメータがバッサリとカットされることは良くある。ソコを遊んで欲しいわけじゃ無いから止めよう、というものだ。

ドラクエリメイクの時にも話題になった気がするが、デメリット付きで教会からやり直すのか、デメリットなしで戦闘直前に戻るのかの違いは、いわゆる「戻し」をどこまでプレイヤー強要するかであって(それが遊んで欲しいことなのであれば必要だが)もしも「戻し」で時間を取るのは今は違うよね、と思うユーザーが多いのであればそちらに合わせるのが自然だろう。

と、言うように、「なぜゲームに慣れていない人にヒットしたと言えるのか」を説明したいのであれば、それを説明すれば良い。

ゲームの作りが丁寧で、今までアドベンチャーゲーム理不尽離脱していた人たちを留めて置けたから」と自分は考えて文章にした。間違っていると思うなら反論すれば良い。

少なくとも、「俺はアドベンチャーゲームが好きだが、このゲームは嫌いだ。だからヒットするならゲームに慣れていないやつに刺さった」よりはマシだ。

なぜ自分が楽しめなかったミステリーは浅いと思ってしまうのか

自分の楽しめなかったのものを楽しむ相手を格下に見るのは、自己確立できていないから生じる。

このムーヴは何度もジャンルを潰してきた。先鋭化した果てに新規参入者がいなくなり、ジャンルが無くなる。

ここが良く無いと思った、これは私にはわからなかった、そんなミステリーは読んだことがない、大いに結構

問題はこれに「だから、これを楽しめるやつはニワカだよね」と傷を舐め合う自称その道のファンだ。

自己確立できていれば、「これは物理的に無理があるよね、三流」と言うだけで済むのだ。ヒットしても狼狽える必要はない。

なぜならば、確固たる自己があれば、もっと言えば美学があるのであれば世間がなんと言おうと「物理的に無理があり三流のゲーム」だと言えるからだ。

ヒットしているか否かは、自身批評には全く影響しない。

「なぜヒットしているのか」を論評したいのであれば、その論拠を立てないのであれば、空論である

「なぜアドベンチャーゲームと言えないか」を論評したいのであれば、やはりそれを示す必要がある。マルチシナリオでないからだとか、マルチエンディングでないからだとか、好きに言えば良い。

ただ、言葉にしなければ、反論してもらえないので、いつまで経っても自身の思いは曖昧なままだ。

(Polish pillarを入力するようなアドベンチャーゲームは硬派なのではなく、ゲームの都合を人間押し付けたからだと今でも思っている)

最後に、都市伝説解体センターミステリーアドベンチャーとしてどうなのか?

非常に良くできたインディーゲームだと言える。間違いない。

グラフィック雰囲気重視のドット絵で高精細とは言えず、音楽ループもそれほど長いとは言えず、フルボイスですらない。

いわゆる最先端ゲーム機の性能を最大限活かしているかと言われると、そんなことはない。

しかし、ゲームを始めて、どうなってしまうのだろう、このゲームを遊べるだろうかという不安に過剰なまでに寄り添うようなゲームシステムは、おそらくゲーム慣れしていない人をほぼ脱落させずに最後まで連れていくに十分な丁寧さを持っている。もちろんゲームに慣れている人はサクサクと気軽に遊べる。本が読めない社会人でもやり通せる良いボリューム感になっている。

ゲームシステムとして都市伝説というきっかけを作っておいて、きちんとアドベンチャーゲームをした上で、ミステリーとしても良くできている。

ネタバレをしないために個別具体的には触れないが、いわゆるミステリー好きならきちんと違和感を持てるように作ってあるし、少なくとも作中に描かれているもの整合が取れていないものはほぼ無い。ミステリー好きなら当然知っているだろうネタについては軽く流され、そうで無い人にも雰囲気で伝わるように作ってあるのは、非常に丁寧にシナリオが書かれているからだと思う。

既読セリフをもう一度読むことができるため、同じ人から同じものを何度も貰うとか、初見の話のはずなのに何度も聞けてしまう、というゲーム性に起因する不整合存在する)

一点だけ苦言を呈するなら、特装版に入っている冊子がゲームカートリッジよりも上にあって、いかにもパンフレットとして置かれているのは良くない。あのパッケージングだと先に冊子をめくってしまう。ゲームクリアした後でという文言を読まずに中を見るところだった。非常によろしくない。

自分ミステリーには一家言あるぞ、という人には勧めない。お前は小説を読め。売上落ちてんだぞ。

昨今は軟弱なアドベンチャーゲームばかりでというやつにも勧めない。お前は伊勢志摩ミステリー案内 偽りの黒真珠をやれ。やったか

そうでない人には割と広くお勧めできる昨今珍しいタイプゲームでもある。よくあるストレスがかかるようなセリフや状況もどうしても存在するが、ツッコミ役が常に入ることでかなり中和されている。

疑う人もいるだろうが、ネガティブな反応も含めて、感想ほとんどクリアした後のものであることをもう一度良く考えてほしい。

映画のように映画館で拘束されて最後までほぼ見ることしかできないような状況とは全く違う、ストレスフルで娯楽の多い現代において、それがどれほどの快挙か。

面白くなるように座組して、面白くなるように作って、ちゃん面白くヒットすることがどれほどの偉業か。関係者各位に惜しみない賞賛を送りたい。

そして、面白いと思ったそこのあなたあなたはニワカではありません。

そして、あなた幸運にも、まだまだミステリーアドベンチャーも読みきれない遊びきれないほどたくさん広がっているのです。

そして、まさにあなたが居てくれるからこそ、次の企画が立ち上げられるのです。ありがとう。本当にありがとう

2025-05-09

恋愛結婚ルール無用だろ

就活が嘘つき大会であるのと同程度には騙し合いだし

極端な話「お前被差別部落出身からダメ」というのも「お前身内に障害者いるかダメ」みたいなのも、個人選択レベルではすべて許される

そりゃ表に出せば差別主義ではあるが、黙ってやられる分には引き下がるしかない

からそういうモノなんだから都合のいい時だけ無駄神聖視するのをやめろって話なんだよ


国家主義民族主義や家父長制に立脚した上で「めでたい」とか言うなら、まだわからんでもないのよ

でもそうじゃないでしょ?

今そんなものの影響なんか知れてて、せいぜい皇族の皆様がご結婚かご出産なさる時ぐらいじゃん、そういうのが顔を出すの

同性婚とかの話題で「愛し合う2人がいるのにどうして祝福できないのか!」みたいな物言いいまいち乗れないのはそういうことなんだよ

時代的なものの影響をことごとく排していけば、最終的には個人自由と打算以外に何も残らないわけで

おそらくそれはセクマイも一緒のはずだ

からそんなもの平等価値がない

2025-04-30

anond:20250430114804

「肉を食べる人のおかげでヴィーガンでいられる」という主張への反論

「肉を食べる人がいるか自分ヴィーガンでいられる」という主張は、一見パラドックス的な皮肉に見えますが、論理的には成立していません。この考え方には複数の誤解が含まれています

まず第一に、ヴィーガンという選択は「多数派依存しないと成り立たない」とする前提そのものが誤りです。現代の食料供給多様化しており、穀物や豆類、野菜ナッツ代替タンパクなどを通じて十分な栄養を取ることが可能です。つまりヴィーガンは肉食者に依存して成立しているわけではなく、独立した倫理的実践的な選択なのです。

次に、「他人犠牲があるからこそ自分理想が成り立っている」という論点は、あらゆる倫理的行動を無効化する危険相対主義につながります。それを言ってしまえば、環境配慮する人、ゴミを減らす人、公正な労働条件を求める人も「他人配慮していないからこそ自分がいい顔できる」と言われかねません。だが、実際にはそうした少数の行動が変化の原動力になるのです。

さらに、ヴィーガンの中には「想像力が足りない」と批判されることもありますが、むしろ逆です。動物が感じる苦痛や、畜産業環境に与える影響を想像し、そこに倫理的配慮を働かせているのがヴィーガンという立場です。

想像力が「自分一人で終わっている」のではなく、「他者の痛みにまで届いている」からこそヴィーガンでいようとするのです。

科学においても、現代畜産温室効果ガス排出水資源消費・森林破壊に与える影響は多くの研究で示されています。それに基づいて食の選択を見直すのは、むしろ科学思考立脚した行動です。

2025-04-29

goo blog サービス終了のお知らせ  田中秀臣の「ノーガード経済論戦」  量的緩和解除以後の日本経済 II 2006-03-08 | Weblog

 前回に去年の夏に事実上の"親日銀派"のエコノミストたちが今年春の量的緩和解除やデフレ脱却政策オプションとしてのインフレ参照値の導入を語っていたと述べた。そのような発言を聞く一方で、小泉政権サイドに近いところから夏の終り日銀政府との名目経済成長率論争が起きるだろうという観測を聞いた。もっとも去年の夏は郵政民営化を焦点とした政治の季節に吹き飛ばされて、この「論争」が正体を現したのは年末になってからであった。具体的には昨年12月経済財政諮問会議において与謝野馨経済財政金融担当相と竹中平蔵総務相との間で交わされた財政再建をめぐる論争である。これは財政再建をめぐっての金融政策位置づけをどうとらえるのか、という論争であったともいいかえることができる。長期国債の利回りである長期利子率と名目成長率の大小関係がどのように金融政策と関連しているのか、という点で与謝野大臣竹中大臣との間で意見が交換された。では、なぜ長期利子率と名目成長率の大小が財政再建や金融政策のあり方に関係するのだろうか(以下は拙著経済論戦の読み方』(講談社現代新書)による)。

 

 国債新規発行額が次式で表わされるとしよう。

国債新規発行=政府支出-税収+名目金利×国債残高   

 ところで国債残高が財政健全性で問題になるのは絶対的な大きさではなく、ネットでみた名目国民所得との比率である。上式を用いて簡単に導出されたのが次の関係である

 

国債新規発行分/名目GDP)の一年間の変化分

  =〔(政府支出-税収)/名目GDP〕-(名目GDPの成長率-利子率)×(国債新規発行/名目GDP

 

 政府支出-税収がプライマリーバランスとよばれるものだが、この式の右辺第2項をみるように名目GDPの成長率が利子率を上まわれば、プライマリーバランスにかかわらず国債新規発行分・名目GDP比率はある一定の値に収束する。逆に名目GDPの成長率が利子率を下回ると発散する。すなわちしばしば財政再建論議話題になるプライマリーバランス改善よりも財政危機回避する際にきわめて重要なのは名目利子率と名目GDP成長率の大小関係ということになる。この関係を「ドーマー命題」と呼んでいる。

 

 そしてどのような国債残高の初期水準からはじめても、利子率が成長率よりも大きいとき財政破綻に直面し、利子率が成長率よりも低ければ財政破綻の危機は訪れない。もちろん現在日本ゼロ金利であり、長期国債の利回りも歴史まれにみる低水準である(1~2%)。しかし他方で名目成長率はマイナスで推移している。つまり名目成長率よりも金利のほうが大きい事態が長期的に継続しているのが日本現在の状況である日本名目公債残高/名目GDP比が90年代から今日まで増加トレンドを変更しないのは主にこの事情による。成長率の低下をもたらしているデフレ継続すれば、ドーマーの命題でいうところの財政破綻の危険性が高まっていくわけである

 

 さて与謝野大臣は近年では長期金利名目成長率を下回ることはない、という認識であり、対して竹中大臣金融政策などの政策対応がきちんとしていれば名目金利名目成長率を長期にわたって上回ることはない、という立場にたっている。このことは言い換えると、与謝野大臣側は金融政策による名目経済成長率の引き上げは難しく、せいぜい3%程度だという認識のようだ。竹中大臣側は金融政策によって名目成長率は4%程度が達成できると主張しており、実は与謝野竹中両者ともに実質成長率は2%の認識があるため、問題インフレ率をどう判断するかによっている。与謝野大臣側はゼロインフレからせいぜい1%以下にインフレ率を抑えことが望ましいという判断であろう。これは今日日銀政策整合である竹中大臣はいわゆる「リフレ」的観点立脚して発言していると思われ、中長期的に2%程度の低インフレを目指して、税収を改善しもって財政再建に資するという考えかたであるわたしOECD諸国の多くが名目成長率≧長期金利 を実現しているために、日本においても達成可能であると思っている。

 

 ここで今回の量的緩和解除をめぐる騒動でもこの種の日銀的なゼロインフレ志向世界的にはデフレ基調の水準を最適インフレ率とみなしているようである)と竹中大臣代表される政府内の「リフレ」的見解対立が底流のひとつとしてあるということである

 

 昨年の郵政民営化以後、小泉政権目的喪失現象を起こしているのではないだろうか。首相は積年の懸案を達成して、残る政策課題として小泉流の誰から政策障害犯人が明瞭となる課題を探して、政権の緊張感の維持、そして後継選出の影響力を保とうとしたのかもしれない。その意味で、この名目成長率論争を通じて、金融政策のあり方がクローズアップされたのは自然な成り行きだったのかもしれない。なぜならデフレ対策だけはいっこうに改善兆しみえないものだったかであるしか政府挑発ともいえた日銀パッシングはどうも政府自身の思惑や日銀自体計算4月以降の解除)を上回る形で、早期の量的緩和解除にむけて日銀自体を走らせてしまったのかもしれない。

(続く)

 

goo blog サービス終了のお知らせ  田中秀臣の「ノーガード経済論戦」 バーナンキインフレターゲット論の復習 2005-12-05 | Weblog

 ベン・バーナンキFRB議長指名を受けての上院銀行委員会公聴会においてグリーンスパン路線継承約束した。バーナンキ90年代からグリーンスパン後の金融政策のあり方のひとつとして、インフレターゲット政策採用すべきだとする論陣を張っていた。この上院での証言では、まさに物価安定と経済成長の安定、そして市場とのコミュニケーションを円滑に行うためにインフレターゲット導入が必要であると、バーナンキは力強く述べた。このバーナンキ証言に対して、委員会メンバーからインフレターゲット採用することで物価安定が優先されてしま雇用の確保が保たれないのではないか、という質問がだされた。それに対してバーナンキインフレターゲット物価雇用の安定に共に貢献することができると言い切っている。

 

 インフレターゲットとは、改めて定義すると、インフレ率の一定範囲(例えば2~4%)におさえることを中央銀行公表し、その達成のために必要金融政策を行うことである。ただしバーナンキ自身がかっていったように何がなんでもインフレ率の達成にこだわるような、「インフレ狂のいかれぽんち」に陥ることはない。

 

 バーナンキ自身は、現実経済は非常に複雑であり、また不確実性を伴うものであるので、しばしばいわれる金融政策とその政策担当者を「自動車運転手」の関係に喩えるのは誤りであると述べている(講演「金融政策論理2004年12月2日)。なぜなら運転手自分走行中におこることがらをかなりの程度予測して運転しているが、金融政策担当者には四半期先の予想でさえも困難なことが多い。確かに金融政策を通じて中央銀行経済主体の予想に働きかけることができるが、それがどのように現実経済反作用するかを見極めることは実に難しい。しかしそれだからこそこの複雑で不確実な経済において経済主体の予想に働きかける政策の方が、それを考慮しない政策よりも重要になる。なぜなら主体がどのように政策に反応するかの理解を欠いた政策実行は予期しない失敗を引きおこすからである

 

 そして経済主体の予想形成とその経済への反作用をしっかりと政策当局が見極めるためには、予想をベースにした政策の実行とともに市場参加者中央銀行とのコミュニケーションがきわめて重要になる、とバーナンキは述べている。そして中央銀行市場に対してその政策目的予測を伝えることで、市場からリアクションに対して柔軟に対応するべきである、とも述べている。これらの政策に対する基本姿勢は、彼のインフレターゲット論の中にいかんなく反映されている。

 

 従来の経済学では金融政策をめぐっては、「ルール裁量か」という二元論でしばしば議論が行われている。金融政策が長期的には貨幣中立性が成立していて、実体経済には影響を及ぼさずに、ただ単に名目変数(例えば物価水準)を動かすだけである、という点では新古典派経済学マネタリスト、そして(ニュー)ケインジアンは一致している。しか短期的に実体経済に影響を及ぼすことができるのか、いいかえると経済の深刻な変動に対して金融政策有効手段になるのかどうかで、新古典派ケインジアンには特に深い対立が残っている。

 現時点で新古典派マネタリスト、そしてケインジアンは非常に深く混じってしまっており、例えばバーナンキの初期の金融モデル新古典派的な発想に立脚したRBCモデルを基本にしている。しかし、最近バーナンキ政策スタンス経済の変動(産出量ギャップの大きな変化)には積極的金融政策中心の政策対応をすすめるものであり、その基本はまぎれもなくケインジアンである。そして財政政策よりも金融政策を中心に景気対策を行う点では昔風?の区分ではマネタリストでもあるだろう。

 

 一般的新古典派マネタリスト中央銀行マネタリーベースを四半期ごとにX%にコントロールする「ルール」に準拠して金融政策を行うことで、中央銀行戦前大恐慌時のように大きな経済変動の原因になることを未然に防ぐことができるとし、安定的経済成長資することができると考えている。そしてルールを事前に公表することで中央銀行の行動に対して市場が信頼をもつことができることも経済不安定性を回避するとルール主義者は信じている。それに対して裁量を重視する旧来のケインジアンは産出量ギャップの拡大に対して機動的な政策対応を主張している。裁量主義者ルールのもたらす「信頼」と、大恐慌のような予期しない経済変動に迅速に対処する際の政策の「柔軟性」にはトレードオフ関係があると信じて疑っていない。もし柔軟性を認めれば、そのことがマネタリストの主張するようなマネタリーベースの成長率ルールへの信頼性を損ねるというわけである

 

 バーナンキインフレターゲット論は、この「ルール裁量か」でいえばまさに彼の経済学の総合性格を反映するかのように、彼自身言葉で「制約された裁量」というコンセプトに即したものであるバーナンキの「制約された裁量」としてのインフレターゲット論は、バーナンキらの論集『インフレターゲット国際的経験からの教訓』やFRB理事としての講演「インフレ目標展望」(2003年3月25日ベン・バーナンキリフレと金政策』(高橋洋一訳、日本経済新聞社)に収録)に表明されている。

 

 バーナンキインフレターゲット論の主要内容は、1)フレームワーク、2)コミュニケーション戦略 のふたつで構成されている。フレームワークとは、先ほどの制約された裁量と同じであり、金融政策いかに行うかについての「ベストプラクティス」(最善の実践であるという。

 

 「制約下の裁量のもとで、中央銀行は、経済構造政策効果について知識が不完全なことに注意を払いながら、短期的な混乱は無視してでも生産雇用の安定のために自主的に最善を尽くせます(これが制約下の裁量の「裁量」部分です)。しかし決定的に重要な条件は、安定化政策実施するにあたり、中央銀行インフレーーそして、それゆえ国民インフレ予想??をしっかりとコントロールするという強いコミットメントを維持する必要もあるということです(これが制約下の裁量の「制約下」部分です)」(邦訳39頁)。

 

 そしてこのようなインフレターゲット金融政策が通常、半年から1年半ほどの政策ラグを伴って効果があらわれるために、先行して経済主体の予想をリードしていくという性格を色濃くもった期待形成フレームワークでもある。

 

 例えば、今日アメリカ経済低インフレの好循環が成立している背景には、まさに低インフレ予想がキーであるといえる。その反対のケースが70年代石油ショックエピソードである産油国石油価格戦略的値上げによってコストプッシュ型の激しいインフレが起きたというのが定説であるしかバーナンキは実際には石油価格の高騰が各種財やサービスコストを引き上げたことによってインフレが多少は悪化したのは事実であるが、むしろそれよりも深刻だったのは家計企業FRB金融引き締めが不十分であることを予想し、それが高いインフレ予想を招き、そして賃金値上げや製品価格値上げに移行した、という見方を立てている。むしろFRB石油ショックに直面する以前の金融緩和姿勢もそのような経済主体の高インフレ期待を促したともバーナンキは指摘している。

 

 実は日本でも石油価格の高騰が70年代の「狂乱物価」を引き起こしたとする通説が根強い。しか小宮隆太郎は「昭和47,48年のインフレーションの原因」の中で日本銀行石油ショック前の行き過ぎた金融緩和政策とその後の引き締めの遅れがこの「狂乱物価」の犯人であり、日銀政策の遅れが(小宮バーナンキのように期待の経路は明示していないが)企業労働組合などに製品価格上昇や賃上げに走らせた、と述べている。そして70年代から80年にかけての第二次石油ショックの影響が軽微だったのは、日銀過去反省していち早く強い金融引き締めスタンス採用したことにあり、それに応じて(これも期待の経路は小宮では不明なのだが)労働組合企業賃上げなどのコストプッシュの要因をおさえるべく、労使協調路線採用することでこの事態を乗り切った、と書いている(小宮隆太郎現代日本経済東大出版会)。

 

 アメリカの方はボルカー元FRB議長1979年における断固たる“タカ派”的レジーム転換で、徹底的に高インフレと闘ったことで、その後の低インフレの好循環の基礎ができた、とバーナンキボルカーの業績を評価している。しかし、このボルカーのタカ派へのレジーム転換が社会的にきわめて重いコストを伴ったことを指摘することをバーナンキは忘れていない。

 

 ボルカーの行った「ディスインフレ」(高いインフレ率を抑えて低インフレにすること)政策が、積極的名目利子率と実質利子率の引き上げによって実行され、それが80年代に入ってインフレ率の劇的な低下を見る一方で、それと見返りに10%にせまる高い失業を生み出してしまった。バーナンキはこの70年代インフレ予想形成の失敗がいか社会的コスト失業)を生み出したのか、このような失敗を今後しないためにも経済主体の予想形成金融政策の欠かせない要素になると力説している。

 

 第二の要素のコミュニケーション戦略であるが、これはすでに自動車運転手比喩の話で触れたように、中央銀行国民市場参加者に対して政策目標フレームワーク経済予測を事前に公表することで、中央銀行政策に対する信頼を醸成し、さら政策責任明確化政策の決定過程とその帰結の透明性をはかろうというものである。このことが自動車運転手比喩でも問題となった経済の不確実性について、少なくとも政策当事者の行動とそれを予測する民間主体の不確実性を大幅に減少することは疑いがないであろう。

 

 ところでこの「ベストプラクティス」としてのインフレターゲットアメリカに導入される見込みはどうであろうか。従来、インフレターゲット導入への反対の論拠として、連邦準備制度目的規定連邦準備法2A条)とのダブルスタンダードになるという点をあげて反論するのが一般的であった。

 

 「連邦準備制度理事会及び連邦公開市場委員会は最大雇用物価の安定及び緩やかな長期金利という目標有効的に推進するために、生産を増加する経済の長期的潜在性と均衡する通貨及び信用総量の長期的成長を維持する」

 

 と連邦準備法にある。これはかってのハンフリー・ホーキンズ法の趣旨を反映した条文であるが、議会にもこの雇用物価の両方への重視が強いことはすでに述べた。このようなダブルスタンダード批判について、バーナンキはここでインフレターゲットの柔軟性を強調し、雇用物価双方にどんなウェイトづけを行っても首尾一貫したインフレターゲットの援用が可能である、と断言している。バーナンキ議長意思が強固なことが伺われる。

 

 今後、アメリカインフレターゲット導入の議論高まることは当然に予想される。この議論高まることによって日本においても同様の議論高まることが予想されよう。実際に政府の一部では強力にインフレターゲット導入を視野にいれた日銀改正論議まで行われようとしているようである。すでに私はこのバーナンキ経済学を通して、日本銀行がその政策説明責任、透明性、そして経済主体の予想形成、ほぼすべてにおいて稚拙な決定の連続であり、また今日においても外的な要因が重なっただけで金融政策レジーム転換なきまま景気回復がある現状も指摘した。簡単にいえば、丸山真男過去に指摘した官僚的な「無責任主義」がまだ日本銀行とその利益団体ともいえる日銀シンパエコノミストに根強い。この無責任主義を打破するためにもインフレターゲットの導入とそれによるリフレマインド形成日本社会にいま最も望まれているように思われる。

2025-04-10

統合失調症感覚説明する

以前統合失調症だった。今は寛解して、普通社会人をしている。

広末涼子クレイジーな話でちょっと思い出したので書く。

はじめに

統合失調症というのはいつも狂っているわけではなく、狂う時期と落ち着いている時期がある。

統合失調症患者ネットでは「やべー奴」として処理されているが、見た目には普通だし、会話をしていても意外と普通なので、あまり気付かないと思う。(「変わった人なのかな」と思う程度かも)

落ち着いている人はかなり長い間落ち着いているので、本人からカミングアウトされるまでわからないと思う。また、相当信頼されてなければ病気のことは言われないはず。意外と社会に多い。

これは統合失調症全般解説したものではないのでそこは注意してほしい。

身バレしたくないので個人特定に繋がりかねない部分はかなりボカしている。具体的に話さないつもり。

感覚について

統合失調症のいわゆる狂う時期(前駆期・急性期)になると、いろいろなことが「わかり」始める。

なんでもかんでも「わかって」しまう。

「ああなんだそういうことだったのか」「そうか!」「わかった」「どうしてこんなことに今まで気付けなかったんだ」のようなことが毎日ものすごい量発生する。

この「わかったぞ!」という感覚は、勉強仕事をしていてわからなかったことがわかったときと同じ。解放感と嬉しさがそこにはある。

このなんでもかんでもわかってしまときの「わかり方」は基本的論理的ではない。なのでわけのわからない意味接続が脳の中で行われる。

たとえば「いちごが赤いのは、もともといちご赤ちゃんだったためだ」のような理解をし始める。全く関連などないのだが、一度この理解がなされると今度はこれが前提知識となる。

それで「いちご赤ちゃんだったから、赤ちゃんの髪の毛は黒いのか(つぶつぶ)」「待てよ?つまり人間の髪の毛が黒いのはいちごのおかげか?」のようなことを真剣に考えてしまう。

ギャグならおもしろいかもしれないが、現実なので全くおもしろくない。

そしてあらゆることがわかり始めるので万能感が増す。全能感があり、他人を見下すようになる。

他人を見下すというレベルではない。他人が、知能の劣った存在・脳の回転が異様に遅い存在・猿のように見えてくる。会話不能存在のような感じだ。

なぜなら自分が「明らかにすぐにわかってしまう」ことを、彼らは全然理解できないからだ。(他人から理解できないのはあたりまえだが)

自分統合失調症にかかっていたときは「お前らの方が全員支離滅裂統合失調症だ」と思っていた。

また、他人の心が「読める」ように感じたり、逆に読まれたりしているように感じることがよくある。(全能なのでそういうことができると思っている)

「俺はそいつの顔を見ただけでだいたい何考えてるかわかるんだよ」と言う人の強化版だと思ってもらえるといいかもしれない。

本来他人思考とは関係なく、自分の中で他人という存在が完結する。相手の中の合理性を考えなくなる。

人の話を全く聞かなくなるわけだな。

万能感の次はだんだん焦燥感が出てくる。これは信じられないほどの切迫感があり、今すぐに何か行動しないとまずいと感じてめちゃくちゃなことをし始める。

本人としては筋が通っているのだが、周りから見ると全然筋が通っておらずめちゃくちゃなので、狂った行動をする。

自分場合は「これをしないと明日死んでしまう」という焦燥感が1週間ぐらい連続で続いて、死にたくなかったので狂った行動を取り続けた結果、精神と体力が疲弊して入院させられた。

おまけ。回復期について

統合失調症回復期(落ち着いている時期)は、鬱っぽくなる。

自殺衝動も出てくる。自殺衝動というのは文字通り衝動で、「もう今すぐにでも死にたい」「この苦しみから解放されるなら今死なないと」という状態

この自殺衝動ブラック労働での「こんな人生嫌だ……死にてえ……」の持続する死にたさではなくて、かなり衝動的。

死ぬためにいてもたってもいられなくなるような感じだ。なんだろうな。ブラック労働死にたい場合はまだ理性的判断で死を考える部分があるように思うが、感情的に損得など関係なく死を考えてしまう感じだ。

「こんな人生嫌だ……死にてえ……」の方の死にたさももちろんある。

自殺衝動の他は、回復期は本当に何もできない。外を歩くのだけで割と精一杯みたいなところがあった。

本を開いても文字が頭に入ってこない。文章を書こうとしてもすぐに疲れて30文字ぐらいでやめてしまうとか。

何をしてもつまらなかったのもしんどかった。この世に楽しいことなんて1つもないんだという感覚

自分の脳なのに、自分の脳のように動かせないことがもどかしかった。今スラスラとキーボードを叩いているのは当時からしたら奇跡に近い。

社会復帰できてよかった。

まとめ

統合失調症感覚を知ってもだからなんだよと感じる人もいるかもしれないけど、似たような経験をした人が社会擬態しているかもなというのは、知っておくとちょっとお得かもしれない。

追記: 幻覚妄想について

自分場合幻聴ほとんど無く(自覚してないだけかもしれないが)、幻覚は多少あった。

時計の針がものすごいスピードで進むとか、道行く人たちが全員知的障害者のように見えたことがあった。

明らかにリアルにそう見えていて、そのリアルさは今でも残っている。

あれはきっと幻覚だったのだろうなと理性では思うものの、感覚としてはどうしても幻覚だと思えていない。見たというより本人から見るとはっきりと実在していた。

ちなみにそのあたりで留置場に入れられた(※現実)。

※ ここからかなり統合失調症患者っぽい文章になるので注意

留置場に入って気絶した後、ドラえもんが来て留置場の鍵を開けてくれるという謎の直感があった(そのとき地球によく似た異世界地球にいると考えていた。オリジナル地球は既に滅びているが、人類銀河系進出技術発展を遂げてドラえもん実用化されているという状態)。当然だが結局ドラえもんは迎えに来ず、警察病院まで移送された。

警察から病院に行くことは特に知らされず、移送するための車はなぜか飛行機械だと思っていた。

その車の音が異常にガンガンとうるさかったのは覚えていて、おそらくこれが幻聴だったのだろうと疑っている。他には、自分が見えていない範囲世界が組み替えられていくようなガタゴトした音が聞こえていたりしていた。

それでその飛行機械で銀河系の中心地まで向かうのだと考えていたが、病院に着き、大勢精神科医や警察官等に囲まれて身の危険を感じていた(現実的には、単なる精神異常者の診察と引渡し事務)。一方で自分はいつでも好きなタイミング人類を滅ぼせると思っていた。

隔離室に入れられて、なんで「自分は正常なのに」、異常な人類ものせいでこんな目に遭わなきゃならないんだ、こんな地球もう滅ぼしてもいいかと思っていた。

そのとき感覚は、本当に異世界にいるような感覚で、とても同じ地球自分がいるとは思えなかった。ありとあらゆる存在がまるで偽物のようで、一見すると確かにそれっぽいがどこかが確実に異なる感じがして、人も物も何も信用ならなかった。他人は異星人のようだった。




自分場合妄想は、もともとSFが好きだったこともあってわりと特異な形のものになっていて、ある程度科学立脚していたと思う。

当時の妄想は今振り返って自分で書いてみるとちょっとおもしろいなとは思うが、ガチで信じ込んでいるので周囲の人からしたら意味不明な思考プロセスで行動をする厄介な人間だったと思う。

見知らぬ通行人に「なぜまともに生きようとしない?!」と言いがかりをつけて急にビンタしだしたりとか。だいぶ危なかった。というかこれは普通傷害事件ですね。

そういうことをしていたので警察に連れていかれて入院したのでした。

2025-03-25

いま関東大地震が起きたらクルド人虐殺事件が起こるんだろうな

クルド人コミュニティ新年のお祝い行事に反クルド議員突撃して問題になったらしい

https://news.yahoo.co.jp/articles/c4f725fbea4e5e5a4ec7ac48b8627b2430a13c3a

Yahooニュースコメント欄を見てるとつくづく思う

我々は立派に関東大震災朝鮮人を殺しまくった民族末裔をやっているよ笑

関東大震災において朝鮮人が殺された原因にはその前段階として外国人に対する社会不安が醸成されていたことがあった

朝鮮人をはじめとする外国人国内共産党員地震が起こる前から犯罪者集団であると見なされて迫害されていた

政体メディアもこれに乗っかる形でいたずらに不安感を煽った結果地震発生後に流言飛語が増大して朝鮮人虐殺という恥としか言いようのないゴミのような所業へと繋がっていった

クルド人関連のニュースを見るたびにつくづく思うよ

ほんと日本人って歴史に対する反省がないよな

無駄プライドばかり肥大化させて民族としての恥部や暗部を省みない

過去日本の恥ずかしい出来事直視することと自分アイデンティティが棄損されることの区別がついていない

民族無謬性の上にしか自己立脚できない幼稚な輩がこんなにいるなんて本当に恐ろしいことだと思うよ

俺なんかは逆に反クルド連中の所業を見るたびに自分日本人としてのアイデンティティが棄損される気がしてマジで気が滅入るようになったよ笑

川口市はいま一部ユーチュバーが自警団を組んで自発的パトロールまでしているらしい

こいつら流石に義務教育関東大震災朝鮮人虐殺について最低限勉強はしてきてるよな?

最低限の知識があれば特定民族対象とした自警団的な活動がどれだけ野蛮で恥知らず行為なのかわかるもんだよね?

いま関東で起きたらクルド人虐殺事件とか普通に起こりそう

仮にそこまでいかないにしろ避難所への立ち入り拒否だの食事提供拒否だの差別的な取り扱いはまず間違いなく起こるよな

小学校の頃に中東系の顔をした友人がいたけど、今彼はどこに住んでいるんだろうって思うことがある

どうか関東一帯にはいないようにと心から願ってるよ

2025-03-05

anond:20250305101318

横だが、お前はまさに核心を突いていると思うのだよ。

 

結局のところ、ヒトの生物としての相、生物物理存在としての相を、物理感情として現れる相を

全部無視して、理性とか倫理形而上学に全振りしてきたのが

20世紀の人文思想だった。

で、それは間違ってたと今では批判されてるわけだ。

 

ところがそういう20世紀の人文思想に基づいて作られた人権思想

しろ間違いだと言うのが誤りだ、という前提のもとに

たいした修正も受けずにここまできている。

そこで矛盾が起きるのだよな。

 

まさに人権どうすんねん、が今そこで問われているんだよ。

人権を守るのがマクロ生存の最適解ではないと判ってしまったら、理性・合理性立脚していたはずの思想の根元がぶっ壊れている。

2025-02-06

13歳の息子へのメッセージ

本稿は、13歳になった君にこれから人生を生きる上での考え方の土台や心の支えとなる思考的枠組みを網羅的に記したものである

観念的でメタな内容が多く具体的なことについてはあまり書いていないが、それは君の人生選択肢を狭めないためである

具体的なことについてはその時々に応じて人に教わったり、自分で文献に当たったりしながら方策模索して欲しい。

もちろんお父さんも協力は惜しまない。

目標の話

人生を過ごすとは「何か」を成し遂げることである。まずは「目標」を持つこと。目標があれば「何をすべきか」=「手段道筋」は自然と定まる。

歴史上、偉人と呼ばれる人々は皆、高い理想と大きな目標を抱き、それを目指して全力で努力をした。目標は、その時点で可能な限り高く大きく設定すること。最初は、例えば「貧困をなくす」「世界平和を実現する」「地球温暖化を防ぐ」「子どもたちを笑顔にする」などの抽象的なもの漠然としたもの、夢のような目標で良い。後から変わっても構わない。というより、人生において目標はどんどん上書きされるものからである

ポイントは、まず「自分想像する理想未来目標ビジョン」を思い描き、そこからそのための「手段ミッション」を考えることである。(これを上から下への思考法という)

ビジョン」は感覚的、直感的、創造的なものなので右脳で捉えるものと言える。一方で「ミッション」は、抽象的でぼんやりとしたビジョンを具現化するための方法を、左脳を使って計算分析論理的思考精緻に組み立てていくものである

多くの人は与えられた「手段から始めてしまう。とりあえず言われたから「勉強」する。とにかく「お金」が必要から働く。なんとなく環境に悪そうだからビニール袋」を使うのをやめてみる。などである勉強も、お金も、ビニール袋をやめることもすべて「手段」であり、それ自体が「目標」ではない。

電気自動車があれば地球環境が良くなるかも?」ではなく、「地球温暖化を止める、そのためには何をすべきか?」という問い(イシューから入る習慣を身につけること。これはすべての課題解決のための基本的姿勢である

そのためには、視野を広く大きく持たなければならない。物質(モノ)、出来事(コト)、人間(ヒト)などはすべて、「多面的」、「俯瞰的(ふかんてき)」、「時間的」にとらえるクセを付けること。その裏側や側面はどうなっているのか、他のモノやヒトとの関係は? 昔はどうだったのか、10年後にはどうなっているだろうか? 世の中の多くの物事は複雑で、いろんなものと影響し合っており、時間とともに変化する。一義的一面的一時的見方で正しい評価はできないと常に肝に銘じること。

受験就職、大きな買い物、仕事恋愛結婚など人生重要決断をする時は、一歩引いて、客観的に、様々な立場や状況からモノ・コト・ヒトをとらえ、十分に考えること。

その際、ひとつ注意すべきなのは人間物理感覚時間的感覚記憶はとにかくあいまいでいい加減なものだということである。『10cm』は自分が思ったより短かく、『10分間』は長い。その逆もある。人の『過去記憶』は都合よく修正される。正しい判断のためには科学的、客観的な「根拠」に立脚することが求められる。日記をつける、ちょっとしたメモを残す、時間度量衡(どりょうこう)は道具を使って正確に測る、何かを分析する際は統計データに当たるなど、簡単なクセをつけるだけで結果は大きく変わる。

先に述べたように、目標は変化してもいい。というよりも変化すべきである。13歳の時にしか見えない、感じられないことがある一方、20歳になれば見えてくることも、40歳、60歳でしかできないこともたくさんある。重要なのはいつも目標を設定し前進し続ける、上を目指すという「姿勢である

人生は長い。5〜6歳で天才的な才能を発揮する子どもも、20代、30代で活躍するスポーツ選手も、70歳で功績が認められる科学者もいる。良いことだけではない。人生のどこでどんな不幸やトラブルに見舞われるかは予測できない。人生には浮き沈み、山も谷もある。どんな天才にも挫折はある。災害戦争など自分では回避制御できないことも起きる。

『良いことばかりは続かない』という覚悟必要だ。しかし『悪いことばかり起こるわけでもない』。現状を悲観してばかりではダメだし、現状が順調であってもそれに安穏(あんのん)としていてはならない。常にトラブルに備えつつ、そして決して希望は捨てないこと。

おそらく、君の人生はお父さんやお母さんが生きてきたそれより厳しい時代を生きることになる。しかし、目標を一段高いところに置けば、現状に迷い悩んだ時にもぶれることはない。未来を信じて、希望を持って進むことができる。

人間関係の話

成功」への最大の近道は「人間関係(人脈)」だと断言できる。「実力」でも「運」でも「お金」でもなく「人脈」である。いい学校に行く、いい会社に勤めるのもすべていい人に出会うためであると言って良い。

成功の最大の秘訣は「人脈=人の縁」であり、人と人が出会って起きる化学反応「奇跡」を起こす。

重要なのは奇跡自分で起こすことはできないが、奇跡が起きる「確率」を上げることはできるということである。単純な話、「機会」が増えれば「確率」は上がる。サイコロで六の目を出すのに一回振るのと六回振るのとではどちらの可能性が高いかは考えるまでもない。

人との良いつながりを広げるための小さな可能性を積み上げることがチャンスを引き寄せる。良い人には出向いてでも会いに行くこと。無駄かもしれないと思うような「小さな機会」を大切にすること。

『人は環境によって作られる』これは絶対的な真理である。高尚で、得るものが多く、社会的に正しい環境や居場所に自らを置くよう意識して行動しなさい。善良な人間と付き合えば善良になるし、朱に交われば赤くなる学校には「校風」、会社には「社風」がある。

自身意図しないこと、コントロールできないことで大きく運命が変わることもある。それを完璧に防ぐことは難しいが、「確率を下げることはできる」。

気をつけなければならないのは、「人としての善悪」は頭の良さや肩書金持ちかどうかとは関係がないという点である会社社長にも教師にも医者にも政治家にも科学者にも宗教家にも、悪人変人はいる。それを見抜く眼力は、多くの人間を実際に見ることで養われる。つまり「機会」が重要だ。おそらく君が想像する以上に人間は「多様」である。良い方にも悪い方にも突き抜けたとんでもない人間存在するという現実認識しておいた方が良い。

出会人間を自ら選ぶことは難しいが、付き合う「距離感」は自分コントロールできる。付き合う人や、身を置く場所環境自分で決められる。できるだけ「良い環境」で時間を過ごし、おかし場所コミュニティには近づかないこと。

たった一滴の赤いインクが落ちてピンク色に染まった水を元に戻すことはできない。大切なのは自分のコップにインクを落とさないように気をつけることだ。

エントロピー増大の法則熱力学の第二法則)」というものがある。エントロピーとは「無秩序さの度合い」を示す尺度である。放っておくとエントロピーはどんどん増大し元に戻らなくなる。これは物理空間森羅万象すべてに当てはまる普遍法則とされる。水に拡散したインク自然に水とインクに分離されることは絶対にない。トランプシャッフルするのは容易だが、偶然きれいカードが揃うなどということはまず起こり得ない。机の上や部屋はどんどん散らかるが、自動的に整理されることはない。社会的な混乱の広がりもエントロピーの増大であるエントロピーの増大を制御し「秩序」を保つためには人の意志と行動と力が必要である

人と人との関係も同様で、意識して制御する必要がある。良い人と出会うことが良い環境への扉を開く鍵であり、良い環境に身を置くことがより良い人に出会う条件である。この好循環を自ら意識して作り出すこと。

井の中の蛙は池を知らず、池の小ブナ大海を知らない。大海原や大空に出て様々な出会いを経験することは君を大きく成長させる。

もう一度言う。『人は環境によって作られる』

お金仕事の話

お金がある事は必ずしも人を幸せにしないが、お金がない事は確実に人を不幸にする。そういう意味お金重要である

その日その日の生活がやっとという状態では先のことが考えられなくなり目標を見失なう。そうするとどんどん人生選択肢が狭まっていく悪循環に陥る。

金はどん欲に稼ぐ必要がある。ただし「正しい心」は忘れずに。

お金を稼ぐときには、ギャンブル宝くじのような一攫千金は「まず起こり得ない」と肝に銘じること。0%ではないがあまりにも期待値確率が低く、選択肢に含めて物事を考えるには無理がある。確率論に基づいて冷静に考えれば理解できることである。一攫千金を前提に物事計画を立ててはいけない。

怪しげな儲け話も同様である。誰かからうまい話」を持ちかけられた時は、それは「あなたのことを思って」の話ではなく、相手が「自分のために考えた」話だと受け止めること。うまい話の裏には必ず別の悪い話、ヤバい話、落とし穴がある。

かに成功し、大金を手にした」という人は世の中に多数存在する。だがそれはほとんどの場合「塵(チリ)が積もって山になった『結果』」である。着実に金を稼ぐには「塵のような稼ぎをどん欲にかき集める」ことが必要だ。1円、10円のような「塵のような稼ぎ」を生み出すことはそれほど難しくはない。ただしそれを「どん欲にかき集める」ためには知恵と努力必要になる。

100万円の商品を1個売る』より、『100円の商品を1万個売る』方がビジネスとしては堅実である100万円の商品が1個売れなかったらそこで終わりだが、100円の商品が9,999個しか売れなくてもあまり影響はない。『100円の商品を1万個売る』より『100万円を一発で当てる』ことの方が何倍も難しいが、多くの人はそれを逆に考えてしまう。『一発当てる』ためには運が必要で不確実性が極めて高い。しかし「塵をかき集める」ことは自分努力でなんとかなるということを理解すること。

近い将来、君は世の中に無数にある仕事事業の中から何かを選んで生活の糧を得ることになる。何をすべきか迷ったら「人から感謝」を対価として得る仕事を選ぶと良い。

野菜が欲しいと思っている人に野菜を作ってあげることは素晴らしいことである。困っている人を助けてあげれば感謝されるだろう。スポーツ芸術で人々に感動を与えることも意義のある仕事だ。それが「世の中の役に立つということ」である。『いい世の中』はそうやってできている。

しかし、投資ギャンブルで稼いでも誰から感謝されることはない。つまりそれらは「仕事」にはならない。ギャンブルは論外としても、投資は今の時代には資産形成のために必要(そういう仕組みが前提の社会になってしまっている)なので否定はしないが、少なくとも「生業(なりわい)」にすべき仕事ではないことは知っておいて欲しい。

お金を「貯める」ことも同様に大切である

人間欲求には際限がない。1万円あれば1万円使うし、1億円あれば1億円使いたくなるのが人間である。これは抑えることが難しいし、無理に抑えこむと精神的にも疲弊QOL(Quality of Life生活の質)が低下する。

この課題に対する古来より解決策はただひとつ収入から天引き」することである給料であれ何らかの収益であれ、収入があったらその10~25%くらいをすぐに使えないような形で貯蓄に回しておく。

天引き」が蓄財のための最も効果的な方法であることは、ユダヤ人イスラムメソポタミア文明華僑日本本多静六という人物明治造園家であり東大教授)も提唱している「お金を貯めるための基本中の基本」である。(逆説的だが、租税公課組織必要費用の類はだいたい給料から天引きされる。その理由をよく考えるべきである

人間は9000円しかなければ9000円しか使わないし、1万円あれば1万円使ってしまう。その理由消費社会の仕組みがそうなっているからだ。時計には1000円から1000万円以上するものである自動車も同じ。毎日飲むお茶毎日使う紙にもいくつもの価格が設定されているように、世の中のありとあらゆるものには価格の上中下(日本では松竹梅)が存在する。お金があるからといってその分高いものを買っていると際限がなくなる。この欲求お金がある限り続く。それが人間本質なので努力気合いで抑制するのは難しいし、何より楽しくない。だから欲求」を抑え込むのではなく、「お金」の方を制限しなければならない。

そのために最も有効方法が「天引きである人間は9000円しかなければその内でやりくりをするのである。それで困ることはほとんどない。資本主義とはよくできたもので、モノ・コトの価格には上には上があるように下には下もあるからである

天引き」のための具体的な方法は色々ある。最も簡単方法は「定期預金」や「財形貯蓄」を銀行に申し込んでおくことである。今の時代なら「(安定した)投資信託」も選択肢に入るだろう。初任給をもらうと同時に始めることを勧める。

次に、天引きした後のお金で「やりくり」をするための基本的な「生活の知恵」を記しておく。

高額のものを買う時は、その価格に「本質的な価値」があるかどうかを見極めること。

高級車も普通車も、飛行機エコノミークラスビジネスクラスも、「移動する」ための時間は変わらない。どんな時計も「時刻を知る」という性能はほとんど同じである。どんなカバンでも「物を運ぶ」という役割は変わらない。もちろん機能以外に別の価値デザインなど)を認めることは人間文化的な営みを行うために必要なことだが、消費社会においては高価な価格価値の大部分は「欲望」=「欲しいと思う気持ち」を揺さぶるために人為的に生み出されたものだ。

その価格差は、機能や性能によって生じているものなのか? 人間心理的欲望を巧みに刺激するために付けられたものなのか。物を買うときは「本来機能目的」を基準にして価値判断するとぶれない。

基本的日常生活品を買うときは「今ある物を使い切ってから買う」こと。流通が高度に発展した現代日本においては(災害などの例外的事象別にして)無くなってから買っても不自由することはない。

経営学における重要概念として、「在庫」と「廃棄」には「維持」と「損失」という大きなコストがかかっているという考え方がある。物は「置いておくだけ」でお金がかかっているという感覚を徹底して身につけることが重要である

特売だからとか念のためにとかい理由安易に「在庫」を増やしてはいけない。「無くなってから買う」が原則である。1日程度のブランク(空白)が生じたとしても、ほとんどの場合なんとかなる。文房具も、食料品も、日用品も、服も、本も、ゲームも、前のものを使い切り、無くなってからのものを買う。これで無駄遣いは随分と減るはずだ。(繰り返すが非常時への備えは別である

それからこれは私の経験則だが、衝動的に「欲しい!」と思ったけど買うかどうか迷ったものは、1週間〜一か月程度我慢してみる。ほとんどのものは熱が冷めたように関心がなくなる。ただし「売る側」もしたたかで、「期間限定」や「数量限定」といった手法こちらに考える隙を与えない。冷静な判断のためには、やはり「それをいつ、どこで、どのくらい使うか」という「在庫管理」を常に正確に行うことが肝要だ。

あらゆる在庫管理するためには「整理整頓」が重要である身の回りのもの整理整頓に努め、いつでも数量や状態を把握できるようにしておくこと。

整理整頓には各分野に体系化された「技法」がある(代表的ものとして図書館の本の分類法である日本十進分類法(NDC)や日本工業規格(JIS)、ISO公文書管理規則生物の分類と同定法、見える化など)。早いうちに機会を作り、習得しておくことを勧める。

ちなみに、このような「一生使える知識技能」は習得が早ければ早いほど人生において得られる利益が大きくなる。大人になってから「こんな便利なもの方法知識があるとは知らなかった」と後悔することは多い。

金銭出納帳を付けることも重要である。帳簿をつけない企業組織など存在しないことを考えれば、出納管理必須Permalink | 記事への反応(0) | 21:00

2025-01-17

性加害という今回露わになった一面に留まらない「中居正広」という男のくだらなさと、そのくだらなさこそがSMAPや「キムタク」、彼自身すらも偉大たらしめてきた最大の要素だった

中居正広ってもともと喋りは下手な方で、その名残は今でも一向に改善されない稚拙言葉選びや引き出しの狭さに見られるのだが、しか中居は全ての台本を完全に暗記するという苦行を30年以上やり続けており、その蓄積が彼を大物司会者たらしめている。中居司会者としての凄さ人工無能のソレに近い

あの話芸の本質って「芸を一万個覚えたチンパンジー人間と同じように振る舞うことができるのか❓」みたいな問いとかなり近くて、要するに中居は「芸を一万個覚えたチンパンジー」なんだよね。氏の凄さは「偉大なる凡庸」というところにあるのだが、問題はその凡庸さがある種の虚飾とルサンチマンの上に立脚していたこと。

2024-12-13

このマンガがすごい!1位「君と宇宙を歩くために」の受賞から読み解く空前の「俺は発達障害ブーム

をやろうと思ったのですが、私の知識不足企画倒れが決定しました。

多分、俺以外の誰かがやると思うので期待して待ってます

直感的にそれがあることは分かっていても知識検証能力の不足によって尻尾を掴めないのがとても歯がゆいですね。

ある種の前世症候群の如く「そうか!俺は実は発達障害だったんだ!」と「目覚めて」しまっている人達の急増はもはや社会問題と言っていいわけですからね。

この状況に対して何らかの調整弁を働かせなければ本物の発達障害人達が「発達障害自称するただのワガママな人」と同列に扱われて苦労するのは目に見えています

誰かが正義の一石を投じてこのブーム暴走を食い止めて欲しい限りです。

正直、漫画ランキングに対してのツッコミなんかでそんなことをやっても仕方がないのは事実ですけどね。

本当に動き出すべきは「本物の発達障害を診ている精神科医師」達だと思います

実際どうなんでしょうね?

偽物が次々にドアを叩いてくれるぐらいの方が自分たちの客が増えるからラッキーとか思ってたりするんですかね?

それとも、偽物であるか本物であるかを調べる機会を得るためには玉石混交状態でいいので篩に一度かけさせて欲しいという感じなんでしょうか?

昔は学校教育の中で「コイツ脳の構造が生まれつきヤバイだろ!病院いけ!」みたいな話をオブラートに包んで親御さんに相談したり、保険医勝手病院に連れて行ったりも出来ましたが、今はそういうのは難しいでしょうね。

そうなると自然発見が遅れるリスクがあるわけですから、「気になった時点で一度発達障害かどうか確かめる機会を増やしたほうがいい」という意味では、この「俺俺発達障害」のブームは結果としてプラスなんですかね?

まあ、単なるワガママによる人格破綻であっても、ある種の思考の癖によって本人や周りが生きづらくなっているなら、そこに精神医学心理学技術を介入させて軌道修正を行ったほうがいいわけですから自称だろうが発達障害理由医学的なサポート必要とする姿勢は正しいんですかね?

かに自分発達障害である可能性を視野に入れたうえで検査を受け、そこで出てきた医者アドバイスを素直に聞くというのは実際正しい気はしますね。

でもそこで「デパスで元気になるから」と薬に頼る道を安易に選んでしまパターンゼロじゃないのが恐ろしい。

マイナンバー保険証の件で再燃しましたが、世の中にはちょっと精神病っぽければいくらでも向精神薬を投げつけてしまうような医者も少なくはないと聞きますからね。

単なる「自称発達障害普通の人」がそういった医者にひっかかって「薬物の力を借りなければ脳内物質コントロールが出来ない体になってしまった人」になるリスクも無いとは言えません。

うーん。

この問題について真剣社会は考えてくれるのでしょうか?

私が思うに、単にこれは次なる「社会の闇に切り込み現代社会の生きづらさを描くセンシティブ漫画」の人気ジャンルとして立脚するだけなんじゃないかという懸念さえありますね。

実際、一時期の青春文学などにおいては医者から処方された薬物を濫用するという場面が現代人の闇(ニチャァ)の描写として流行たことはありましたからねえ。

完全自殺マニュアル後の自殺コンテンツブームの如く、自称精神病薬物乱用コンテンツブーム雨後の筍の如く乱立し、それがこのマンガがすごい!として持ち上げられるという流れもあるかもですね。

まあ、それで一度キッチリ社会問題として顕在化することまで含めてのPDCAサイクルとも言えるんですかね。

いやー本当誰かバシっと買ってくれないもんですかね「俺は発達障害ブームについて。

素人が雑な知識グダグダ管巻いてもやっぱいい感じにはならんですのよ

2024-12-06

anond:20241206021944

そういう伝聞知識でいいならそこを共通知識として論理立脚させていくターンですよね

なんで誰でも分かってることを辞書で引いてみろ以下のことをいっていたんですか?

まるで議論をいやがっているようにみえましたよ。

2024-12-04

anond:20241204224637

所得税別に労働条件の整備に対する対価ではないから、まったく通らない話。

税は対価があって初めて払う義務があるという立場自体そもそも主流ではないが、仮にそこに立脚するとしても、国防治安といった公共財を得ているし、財産権保護も受けている。ソープという仕事で仮に国からの便益がなかったとしても、所得税対応するものはそれに限らない。所得税は(その所得を得るための装置を整備するといったための)目的税ではない。

2024-11-24

財務省批判者に聞きたいのだけど

財務官僚は法学部出身者が多く経済学がわかっていない、という批判があります。例えば↓とか。

財務官僚は東大法学部から経済プロではありません。

https://twitter.com/kikumaco/status/1860489376737951883?s=19

経済学部卒だっているじゃん(例えば、財務官僚の中でも特に強く財政の立て直しを唱えていた矢野事務次官一橋経済卒)、というのは措こう(それにしても、学部の専攻で判断するなら、キクマコ先生だって経済学部卒だよね、とは正直思う)。それより重要なのは経済学部で教わるどころか、教える側の経済学者の多くが財務省的な主張をしていることである

例えば、プリンストン大の清滝教授である。氏は、ノーベル経済学賞受賞に一番近い日本人とたびたび名前が上がる業績を誇るマクロ経済学であるが、近年、経済財政諮問会議などで、消費税率の引上げを含む財政再建を主張している。清滝教授に対する批判が盛り上がったかと言えばさにあらず、むしろ著名なマクロ経済学者は同じような意見が多い(吉川先生とか、故大瀧先生とか)。田中秀臣教授清滝教授批判していたけど、田中教授の専門は経済思想史だし。

ことほどさように、こと経済学立脚する限り、軍配はむしろ財務省に上がると言わざるを得ないと思うのだけど、財務省批判者はこのあたりをどう考えているのだろうか? 経済学なんて当てにならない、というのなら、それはそれで了解可能なのだが。

2024-11-20

都知事選の時の調査、確かJX通信社調査、では候補者選びの参考にしたメディアネットを選んだ人とテレビを選んだ人で投票率に差があった

ネットテレビ、どっちが投票率が高かったのか予想がつくと思うけど、その予想通り、ネットを参考にした人の方が投票率が高かった

ネット陰謀論なりデマなりに陥って石丸なり斎藤投票したというのは全く見当違いだ

スタート投票しようという気持ちが生まれたところにある

からこそ、テレビを参考にする層と差が生まれ

投票のための情報を求め、その結果として石丸斎藤にたどり着いたと捉えるべき

テレビはどうにかしようとか言ってるけどプッシュ型メディアの最たるテレビ番組内容をどうにかしたところで難しいだろう

相変わらず愚民とか言っている層もメディア戦略は上手くいくはずもない

投票しようという」感情無視しているからだ

もともと多くの有権者には投票しようという感情があった

テレビや一部政党支持者はそれを汲み取ることができずに「投票したくなくても投票しよう!」そんな活動をした

その活動が「投票しようと」と思いながらも毎回必ず投票していない層にどう思われるのか

反発が生まれるのは当たり前だ

嘘があるのではないかと疑われるのは当然だ

多くの有権者に「投票しよう」という感情があることを前提とすべきで、それができなかったのは選民意識があったからにほかない

投票率が高まれば(私が考える)「正しい結果」になるはずだと考えていたことを認めなければいけない

その考えは差別的意識立脚していることを認めなければいけない

2024-11-19

anond:20241119194001

そんな古典的というか原理主義的な話には興味なくて、でも共同体主義立脚しつつ困ったときお互い様の発想で福祉肯定し、リベラルを自認しているおれとかはリベラルじゃないのかね?

2024-11-13

anond:20241113160219

面倒なのでAIちゃんに回答書いて貰いました、何度もやってる話題なので省エネ

 

抽象思考を持たない人に差別がなぜいけないのかをわかりやす説明する文章作成してください

 

### なぜ差別はいけないのか? みんなでご飯を食べるイメージで考えてみよう

 

皆さんは、みんなでご飯を食べる時、好きなおかずだけをたくさん食べたいと思うかもしれません。でも、みんなが同じおかずばかり食べていたら、他の美味しいおかずは残ってしまうし、お腹を壊してしまう人も出てきてしまますよね。

 

社会も、みんながそれぞれ違う「おかず」を持っているレストランのようなものです。例えば、

 

みんなが持っている「おかず」は違いますが、どれも社会を豊かにする大切なものです。

 

差別とは、ある人の「おかず」だけをダメだと言ったり、その人が好きな「おかず」を食べてはいけないと言ったりすることです。

 

例えば、「Aさんのおかずは、Bさんのおかずより美味しくないから、Aさんの意見は聞かなくていい」と言ったり、「Cさんの持っているものは、Dさんの持っているものより価値がないから、Cさんは大切にしなくてもいい」と言ったりすることです。

 

 

どうして差別ダメなのか?

 

 

差別をなくすためには

差別をなくすためには、みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことが大切です。

 

 

 

### まとめ

差別は、社会全体にとって良くないことです。みんながそれぞれの「おかず」を大切にし、尊重し合うことで、より良い社会を作ることができます

 

大切なのは、みんなが違って当たり前、そしてみんなが大切だということです。

 

 

### ポイント

 

 

補足

 

 

 

一定の知能を有する人は、抽象的な概念理解し、その概念に基づいて思考する能力を備えています
例えば、「尊厳」という概念抽象的でありながら、人間社会生活を送る上で非常に重要です。
現代社会制度は、すべての人間が生まれながらに持っている尊厳尊重するという前提に基づいて構築されていることを、私たちは当たり前のこととして理解しています

抽象的な概念理解することができない人は、何らかの問題を抱えている可能性が高いですが、だからこそ、知的ものに過度な憧れを抱くケースがあります
そういう人物対象にして、差別はなぜいけないのか硬めで権威付けされた文章作成してください

 

差別尊厳の不可分性:抽象思考を前提にした社会原則

 

現代社会における倫理的基盤は、人間の「尊厳」という抽象概念に深く依存しています人間は単なる物理存在ではなく、意識自己認識を持つ存在であり、その尊厳は一人一人が内包する不可侵価値として社会基本的原則に組み込まれています。これを理解することは、知的思考能力を持つ者にとって、社会健全性を理解するための前提であり、個々人の行動基準形成する上で不可欠な要素です。

 

社会制度は、この「尊厳」を根底に置き、全ての人間平等に扱われるべきであるという思想に基づいて構築されています差別はこの尊厳無視し、ある人々を不当に劣位に置く行為であり、その結果として社会全体の秩序が崩れる可能性があることを意味します。人間社会において抽象概念理解できることは、単に知識的なスキルを示すものではなく、社会全体の運営に対する責任感を伴う倫理的能力を示しています

 

知的能力社会化の相関関係

抽象思考能力が高い者は、「尊厳」や「平等」などの社会概念理論的に理解できるため、差別的な行為を避けることが期待されます。これは、知的能力が高い者が社会的なルール規範認識し、それを遵守することで社会全体の安定が保たれるためです。知的成熟度が欠如している場合、その人物社会で適切に振る舞うための教育支援必要であることは言うまでもありません。しかしながら、知識を持つことだけでは必ずしも倫理的行動が保証されるわけではなく、知識をどのように活用するかが重要です。

 

知的ものへの過度な憧れがある人物が抱える問題の一つは、知識を「優越性」の証として捉える傾向です。このような人物は、知識学問を持つ者こそが社会的に価値があり、そうでない者は劣位にあるという誤った認識に陥りがちです。しかし、この考え方こそが差別的態度を助長し、結果的社会の公正性を損なう原因となることを理解しなければなりません。知識は単なる道具であり、それ自体に優劣はないことを認識することが重要です。

 

差別社会に及ぼす影響

差別が行われると、その影響は個々人にとどまらず、社会全体に波及します。差別を受けた側は自己価値を低く見積もるようになり、社会的な参加意欲を喪失することが多く、社会の一員としての積極的な貢献ができなくなります。これにより、社会生産性創造性は低下し、全体の発展が阻害されますさらに、差別を行う側も、その行為によって倫理的成熟を欠いた存在となり、最終的には社会的な信用を失うことになります

 

抽象思考に基づく社会判断ができる者にとって、差別を避けることは単に倫理的義務であるだけでなく、社会責任でもあります社会における公正と平等原則理解し、実践することが、より良い社会の構築に寄与することは明らかです。

 

 

結論

差別社会秩序と個人尊厳を損なう行為であり、その行為がもたらす不公平不利益社会全体の成長を妨げる結果を招きます知的ものへの憧れを持つこと自体問題はありませんが、その知識を用いる際に他者を不当に評価し、差別行為に結びつけることは決して許されません。知識を持つ者は、社会全体の調和を維持するために、その知識を適切に活用し、全ての人々の尊厳を守る責任を負っています

 

 

 

 

ーーー

関連増田https://anond.hatelabo.jp/20230122083219#

 

この2つはすごく共感できる

別にバカのやることに大した理由はない。ド詰めにして「真意」を吐かせたところで「ちゃんと働いてなくてけしからんから」とか、その程度のものしか出てこないだろう。

>むしろそういうことをしない者はなぜしないのか。

>同情心、共感能力があるから。それはそう。しかし「しない人」がみな生来優しい心の持ち主なわけではない。

ひとつ理由合理的判断だ。露見して罪に問われたら割に合わないから。

>もうひとつ理由抽象思考だ。どういう立場人間尊厳尊重すべきというフィクションに現行社会制度立脚しているのを理解しているから。

そもそも自分より下の階層があるのは安心できることだ、自分より下のものバカにできるのは嬉しいことだという前提でモノ言ってるが、私はその前提を共有していない。

 

共感できないと言うか単純に間違っているのはここかな

教育によって遍くすべてのバカにそうした思考を植え付けることは可能か。できるわけがない。

ここが YESなっちゃうようなら、ペット共生なんて出来ないし、人間限定しても道徳社会規範刑法も要らないんだなぁ

○○をしたら自分社会的に損をするってことを理解させることは可能だし、それが達成出来ればその人物社会化に成功したと言える

動物だって理解させることが出来るんだから人間理解できないわけないじゃない

これを理解させることがすべて保護者義務だし(なのでメンヘラ開き直りDQN保護者として不適格なことが多い)、

フツーに文部科学省もそういう子どもたちがいることをちゃん認識をしていて

特別支援必要とする 児童生徒』として取り組み自体はあるよ。発達障害の枠組みに入ってるよ

CU特性

共感性に乏しく、悪いことをしても罪の意識を感じない。非行ハイリスク

http://www.ed.niigata-u.ac.jp/~nagasawa/2019SEN.pdf

 

あと『知能が低い=共感性が低い』ではないし、『知能が高い=共感性が低くても"どういう立場人間尊厳尊重すべき"の建前を守ることができる』わけじゃない

アインシュタインがド畜生だったの有名な話(https://anond.hatelabo.jp/20200706223440#)だし、

福沢諭吉大学出身者で世間を賑わせるド畜生発言している人(https://anond.hatelabo.jp/20210911095702#)たくさんいますよね?

あとアカデミアの人間なのに自身バックグラウンドを明示した上で、140文字できゃっきゃやってる人らたくさんいるし、

それだけでも度し難いのに、単純に学術的に間違ったこと(少なくとも国内外学会同意が取れないこと)を言ってる人すらいますよね?

こういう人たちは一刀両断バカで良いと思いますけど、別に知能が低いわけじゃあ無いと思います

ただただひたすらにバカなだけで

 

 

社会にとって、下記の二つに該当する人物は脅威になり得ます

 

こういう人たちが増えないよう出来ることをしたいものですな

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