はてなキーワード: 生来とは
アンガーマネジメントって言葉もうだいぶ普及したけど
生来怒りをコントロールするのが下手くそな人がアンガーマネジメントを学んで上手くなったところを見たことがない
ミドサー女。独身一人暮らし。「子ども部屋おばさん」を自称する、実家暮らしの友人のことが羨ましくてたまらない。
20代の頃に実家を出た。贅沢はできないけど、何とか自分の稼ぎだけで東京に住み続けている。仕事も以前から志望していた業界で、同僚にも上司にも恵まれている。それなのに何故か友人たちのことが羨ましくて、時々気が変になりそうになる。
お金の心配をしなくていいのが羨ましいのか。確かに、家賃を負担しなくてよい彼女たちは恐らく収入の大半を推し活に注ぎ、休みのたびに全国のコンサートに行ったり、グッズを買ったり楽しそうだ。でもそれなら、大企業に勤めて私の倍くらい稼いでいる知人などのほうが羨ましいはずだ。でも、どうしてか、そっちのほうは大して羨ましくない。
家事をしなくていいのが羨ましいのか。確かに、彼女たちはお母さんの作ったごはんを食べ、買い物も掃除もお母さんがやってくれる(もちろん手伝うこともあるだろうが、平日は仕事、土日は朝から晩まで推し活なのでメインで担っているのはお母さんだろう)。でも私は家事が案外好きなのだ。料理も掃除も、仕事で疲れてるのにやりたくないな〜と思う日も多いけど、丁寧にやると心がスッキリする。
では、何が羨ましいのか。一年ほど考えていたのだが、このたび、やっと分かった気がする。つまり私は、彼女たちがこの歳になっても親元から離れず、まるで子どもみたいに自由に振る舞っていること自体ではなく、そんなふうにしていても『親に叱られない』ということこそが、羨ましくてたまらないんだと思う。
私の家では許されなかった。家事を少しでもサボると、大声で怒鳴られたし、ごはんを作っても、「まずい」と言って食べてもらえなかったこともあった。遊びに行くと「遊ぶのだけは一所懸命なんだね」と嫌味をいわれ、テストで親の満足する点を取れないとパソコンのマウスを隠された。少し皿を洗うタイミングが遅れたりゴミ袋をセットし忘れるなど、私が言いつけ通りにしないと、「どっかおかしいんじゃないの、頭の病院行きなよ」などと言われた。
私は子どもの頃から、ずっとどこか緊張しながら生きていた。しかしながら、事実、私の家はわりあい裕福だったし、時々旅行にも連れて行ってもらったし、いつも良い服を着て、学費も出してもらえて、他人からすれば、裕福で幸せな家族と見られていた。だから、こんな目に遭っていても、うちには何も問題ない、私は幸運なんだと思い込んでいた。
私は耳元や胸元にアルハンブラがきらめくバリキャリの友人より、自分を「子ども部屋おばさん」と卑下する実家暮らしの友人のほうが、ずっと羨ましい。そして、羨ましいと思っているのは、ミドサーの私ではなく、子どもの私だ。
しかし、私の実家が私の望むような場所になる日はもう一生来ない。どうしたら、子どもの私は納得するだろう。優しいお母さんと無邪気な子どもの一人二役でもやればいいのかな?
生まれた瞬間から男女平等をインストールされた夫にとっては何の問題もないはずだった。夫は諸手を挙げて歓迎し、妻の新しい仕事が始まった。
あるときふと妻は思う。……(どうしてこの男と私は結婚したのだろう?私はこの男よりも年収が高く、すなわち能力が高いのに。)女の悲しき性、負の性欲だ。
妻はいつしか夫に体を許すことが嫌になってきた。自分よりも「劣った」男の精を受け入れるのが心底嫌になったのだ。
心底、というのは文字通りの意味だ。心の底でだけ拒否している。妻の理性はそれを理解できなかった。妻の意識は、そもそもその可能性を検討しなかった。
劣った男の精をも受け入れる度量が自分にはあると思っていた。……というより、そのように自己の性的な欲望を分析したこと自体が無かった。
妻の人生においてそのような行為の必要性は皆無であった。今となっても、妻にとってはあのときの「冷め」が理解不能なままである。
夫が求めても断られる日が続く。
夫の方は妻がどうして豹変したのかわからない。妻もわからないので当たり前だが。
もともと二馬力の夫婦生活、それが更に世帯年収UPとなったのだ。通常、金銭的な余裕はほとんどそのまま精神の余裕に直結する。実際、転職して1年間ほどはそうであった。
それに妻は仕事で自己実現もできているようだ。順風満帆、という言葉をそのまま体現したような夫婦になるはずだった。
夫は忙しい中尽くした。家事をし、マッサージを申し出(断られ)、アロマを炊き、少しいいディナーをサプライズで予約してみた。
……妻は冷ややかだった。根本的に「劣った」オスが、何をどうしようと妻の女には響かない。むしろその頑張りが、妻にとっての夫をよりいっそう惨めに見えさせた。
なにせ「年収が妻>夫」という根本的問題が未解決である。それが解消されない限り妻の性欲は夫に向くはずがない。しかしその真実は十重二十重と積もった体裁とポリコレのヴェールに覆い隠され、見えなかった。
まあ、仮にこの夫婦にこの真実を教えてやる奇特な紳士が現れたとて、男女平等をインストール済みの夫にとってはなおのこと理解できず、どころか夫婦そろって怒り出したかもしれない。
ポリコレ的倫理観は、それが真実と相反するとき、あたかもカルト宗教の教義のようにふるまう。自己の動物的本能を否定し、自己を客観視することを許さない。夫婦にとってはいわば遅効性の毒であった。
セックスの機会はついに2年に1回未満に減少した。夫は妻を誘うことを辞め、妻は夫から誘われることを期待することを辞めた。
夫は不能になった。
夫は自分の分身がもはや機能を失ったことを自覚こそすれ、落胆することは無かった。
男女平等は夫の精神を去勢していた。去勢された彼氏は優しく魅力的に見えた。妻はその後夫になる男の、去勢された姿にこそ惚れたのである。
夫は家庭にフルコミットすることにした。勇気の決断だ。言葉を選ばずに言えばヤケクソだ。
よりによってプロジェクトが炎上している中で定時退社を切り出す。帰る背中には物理的に冷ややかな視線が突き刺さるような気がした。
気がしただけだ。
……やってみればあっけないものだ。無能の烙印を押されたところで、それがどうした。たかが仮想の烙印だ。焼き印を押される訳でもあるまい。夫は、締め切りの近すぎる仕事を無視するようにした。
今期の査定はB-であった。最低である。昇給はゼロだ。夫の居場所は職場ではなくなった。
夫は家庭にフルコミットすることにした。
……妻が夫を叩くことが増えた。物理的な意味だ。もはや妻の中で、夫は人間ではない。睾丸を取られた犬である。犬は叩いて躾けなければならない。
「私の方が稼いでいるのよ。」いつからそうなったか、妻の口癖である。
実際に妻は優秀であった。実は、激務の夫よりも多くの家事をこなしていた。なにせ夫よりも通勤時間が短く、無能の烙印を押される前の夫よりも仕事時間が短いのである。生来の容量のよさも相まって家事は8割がた妻であった。
「フルコミット」を決めた夫が奮起しても、せいぜい五分五分といったところであった。こうなると養っているという表現がふさわしい。
妻は疲弊していた。働きもせず家事もしない穀潰しを養っていることは妻を極端に疲弊させた。疲れた私に何もしてくれない。ゴミのような奴だ。姿を見るだけで腹が立つ。
妻には夫を叩く権利があった。最近仕事も忙しくなってきたし、叩かなければやっていけなかったのだ。
妻の行為は、本邦においてDVとみなされることはない。妻を失望させた夫が悪いのである。夫もそう思い甘んじて叩かれた。叩かれたことを反省し、家庭を切り盛りしていこうと考えた。
劇的な転機は唐突に訪れた。
夫はペアローンを組んで入手した高気密高断熱一軒家の、Low-Eの窓ガラスに自分から頭を打ち付けた。
夫は妻に手を出すことは無い。その発想さえないほどに夫は男女平等である。しかし暴力的な衝動だけは胸の奥深くで燻っていたのかもしれない。
文字通りの「やり場のない怒り」の奔流はついに堰を切り、しかし妻には向かわず、夫自身に向かったのである。
化学強化されたガラスは映画のように粉々に砕け散った。夫の頭は血まみれだ。
妻は泣いた。かように自分の言動が夫を傷付けていたことをいまさらながら自覚したのである。夫も泣いた。痛かったし、叩かれたことも痛かった。
夫婦は抱き合って泣いた。救急車を呼ぶ発想に至るまで10分以上かかった。
会社に復帰の連絡はできなかった。しようと思って携帯を手に持つと、力が入らず滑り落とした。震えて焦点が定まらない。困ったものだ。
会社への連絡は妻にしてもらった。退職の手続きも妻がやるしかなかった。
妻は自分が夫を叩いたことが直接的原因だと思った。夫を「手の届かないところ」に遠ざけなくてはならなかった。夫の為にだ。
幸い妻は最近忙しくなっていた。家に帰らないことにした。
職場の男性Aは妻の指から結婚指輪がなくなったことに気付いていた。職場の男性Aは妻のことが好きであった。妻もAが好きであった。二人はいつしか恋に落ちる。
最終的に夫婦は離婚。妻は有能であった。Aと恋仲になると同時に弁護士をつけた。
夫には財産分与を争う気力は無かった。妻の不貞はもはや公でさえあったにも関わらず、夫が得た慰謝料も財産分与もゼロであった。厳密には、夫にはペアローンと高気密高断熱の一軒家が残された。
パクチーは好きだ
料理に入っていると嬉しい 爽やかな香りで、独特のよさを料理に足してくれると思う
近くのスーパーで、ほっそい2株で300円とかで売ってて、質量に対してはあきらかにほかの野菜より高いんだけど、結構買ってしまう つうかハーブであって野菜ではないのかな
パクチーをはじめて食べたのが具体的にいつだったかは思い出せないけど、「好みが分かれるらしいもの」として向き合ったのは確かだ
川村教授が嫌いなもの、カメムシと同じ匂いだなんていう人もいるもの、好きな人は好きだが嫌いな人は嫌いなもの そういうものをいまから初めて食べるんだな、と思いながら食べた
その瞬間にあったのは、"逡巡"だったと思うんだよな
俺はこの味が好きなんだろうか?好きってことなんだろうか、嫌いってことなんだろうか?
コンマ1秒とかそのくらいの、火花が散るような時間の中で、その問いが立ち現れて、俺は咄嗟に、好きなものは多い方がいいよなと思って、好きであることを選んだ
そんなことがあったように思う
パクチーの味が俺の生来もつ受容体にぶつかってきて、オートマチックに好きであることがわかった、という話ではなかった気がするんだよ
そういうふうに思うんですよね
そういうことってありませんか?
これは英語圏のトランス活動家たちがGender(社会的な性別)とSEX(生物としての性別)を混同させて、それに異を唱えたり疑問を持ったりすると超攻撃的な態度で相手の職を奪ったり嫌がらせをしまくってることを知らないと意味が分からないと思う。「社会的な性別と生物としての性別を混同させてる」一番わかりやすいのはスポーツね。トランス女性が女性スポーツで無双したやつ水泳のやつとかオリンピックの重量挙げとかのあれ。よくネットで女子トイレを使うなだとかなんとか小競り合いしてるのもここに含まれる。ちなみにトランジェンダーを自称する未手術の男性を女子刑務所に入れたところ収監先で強姦事件を起こすという実害が出ていたりもした。にも関わらず生来の女性とトランスジェンダー女性を区別しようとすると、それがどんなに穏当なものであっても差別者とレッテルを貼られ罵声と嫌がらせの対象になっていた。
なおトランス活動家は「社会的な性別と生物としての性別を意図的に混同させてる」「超攻撃的な態度で嫌がらせをしまくっている」ということをわざと無視して一方的にバッシングを受けている無垢無謬な被害者という体で話をするので騙されないように。
皆川ゆかって
男性なのにも関わらずティーンズハートという年少向け少女小説レーベルで女性作家のような体を装って本を出し(それ自体は他にもいたけど)
作中においては自分は経験した事もない生理ネタを、生来的女性に対するミソジニーを籠めて垂れ流し
続編の内容が大人っぽくなったので小野不由美の十二国記のように年長向けレーベルのホワイトハートに行くかという提案も断って
その結果人気が落ちて打ち切り状態になった作品を中途半端な状態で放り出し
同人誌を出したがその後音沙汰無しの
あの皆川ゆか?
今ガンダムに関わってるの?やめてほしいんだけど。
素直に一般書籍に移る事もせず、敢えて少女向けレーベルで悪趣味な内容を書いて少女達に見せて悦に入るようなミソジニーに溢れた人間は
汚い手で触れないでほしい。
まあガンダム自体、昔の富野小説からして割とキモいからそんなもんではあるが…
産みの親にやられるのと外野にやられるのとではまた違うんだよな
〇陰膳
犯罪生物学の創始者ロンブローゾが提唱したトンデモ説。処刑された囚人の頭蓋骨を分析しいくつかの身体的・精神的特徴を見つけ、こういう特徴を持った連中は類人猿に先祖返りした社会に適応しにくい奴らとして先天的に犯罪に手を染める宿命にある存在とした。
〇ミスターアベレージ
架空の完全普通マン。健康で活動的で効率的に働ける男性=ミスターアベレージを主たる利用者として主に20世紀前半から社会は設計されてきた。それを打破するのがユニバーサルデザインという考え方。
〇愚行権
他人からみるとバカげた事、愚かな事でも、第三者に危害を及ぼさない限りは、こういった行為を邪魔されない権利
クソつまらないことで高名なピアノの初心者用教則本。単調でつまらないバイエルを毎日延々と練習させられピアノ嫌いになった子どもは多い。昭和のピアノ学習ではバイエル必須だったが、現在では他の導入教材が非常に充実している為あまり使われない。
〇毒樹の果実
違法に獲得された証拠から派生して得られた二次的な証拠をさす法用語。違法収集証拠から派生して得られた二次的な証拠についても証拠能力を否定すべきであるとされる。
〇達成と逸脱
逸脱=こんなくだらない事しちゃいます自慢、昔は悪かった自慢。
〇冷蔵庫の女
何らかの理由で無二の力を駆使しないヒーローを発奮させるために犠牲となる彼の恋人や近しい女性親族等を指し、転じて「都合よく殺される女性キャラ」の揶揄として用いられる。アメコミ『グリーンランタン』で主人公の恋人が殺されその遺体が冷蔵庫に入れられたのが元ネタ。
〇963(くろみつ)の法則
〇セレクティブ・エネミー
ソーシャルメディアで、自分と相反する意見を取捨選択し、極端な意見や軽率な意見だけを取り出して紹介する手法。「こんなにロクでもないことを言っているやつらがいるんだ、許せない」という怒りを増幅させるのに非常に効果的。
やりたい事というのが分からない
ぼんやりとした憧れのようなものはあるが、具体的に何がやりたいかが定まっておらずやる気が出ない
全ての趣味に対して、俺にはできない相応しくない気がする。うつ病のせいか生来の無気力なのか、好きなものがあってもそれを作る側になろうと思えない
正確には、何々を作りたい、という欲求は少しはあるのだが、どうせ誰かがより良いものを作っていると考えてしまって作るのをやめてしまいたくなるんだ 小説もアプリ作りもそうだった
そもそもその好きなものさえ本当に好きなのか、実際は自分を騙しているだけではないかという気持ちになる
今の学部を選んだ時もそうだった、ぼんやりとした憧れのみで実がなかった
今持っているエンジニアになりたいという願いも、実は発達障害の自分が唯一活躍できそうだから、という薄っぺらい考えと不可分なものじゃないのか?
でもまあ、言語等を学ぶのは比較的楽しいと思う。少なくとも英語とか簿記とかよりはやっていて楽しい。
でも何がしたいのかと一度考えると辛くなってしまう。
伺かライクの作業用アプリを作りたいだとか、生成AIを使ってどうにか本当に架空のキャラクターと話している実感を得られるようにしたいとか、なんかそこら辺の欲求はあるのだけれど、それが将来に役に立つのか、だとかそもそもお前なんかが思いつくことはやり尽くされてるとか考えてしまって、何も意味のない事をしているようで虚しくなってしまう。まだ何も作れてないのに。
もう大学生活も終わりが近づき、春が来れば俺は3年生になる。早く就活に向けて何かをしなければと思うのだけれど、何もできない。宇宙の中で一人藻掻いているようで苦しい。
俺はITエンジニアになりたいのか?それならば早く業界を決めて成果物を作ったりインターンに行かなければならない。ほかの職業だったらほかの職業でやらなきゃいけない事はあるだろう。決めなくては。
でも、俺は俺が何をしたいのか全くわからないんだ。悪化しているうつ病も相まってもう終わりな気がする。休みの終わりが怖い。もういやだ。誰か助けてくれ。
hib3 軽度のASDだけど、抽象的なことができないのにふわっとした羊羹投げられて具体化数値化する作業任されすぎてて鬱になった。仕事内容向いてなさすぎる
自分の場合、抽象的なことができないというわけじゃないと思う。
例えば、法律を調べるのは苦ではない。
その助成金の根拠法令の本文から施行令に飛ばされ、施行令から地方税法に飛ばされ、地方税法の本文から附則に飛ばされ、孫引きひ孫引きしながら、自分が助成金を貰えるかどうかを、源泉徴収票や証券会社からの年間取引報告書をもとに電卓を叩いたりした。
読み方がわからなかったら、それも調べて読む。
医師が予想したとおり、優秀に見られることが多いように思う。
(実際、自分でも平均以上だとは思っていた)
チームリーダーになって切り盛りしろとか、後輩の指導とか、そういうことができない。
いっそ、こっちが客とか、向こうが客というわかりやすい関係ならいいと思う。
こっちが客で要求する立場だったら、材料から方法からスケジュールまで全部指定して、できないところはできないといってくれればいい。
教える必要もない。わかるんだったら任せるし、わからないんだったら自分でやるだけだ。
向こうが客だったらその逆をすればいい。
指示にだけ従う。どんな難しい要求でも、個人の力量で出来ることだったら個人の力で解決する。
組織とは、1人1人の役割、1人1人の能力、1人1人の思いがつなぐ大きな物語なのだと思う。
有能な人はたくさんの仕事を、無能な人は無能なりの仕事をこなし、だからといって無能な人は無用化と言えば、そうではない。
1人1人の能力は数値化されていない。
また、あの人とこの人は不仲、あの部署とこの部署はライバル、競争や貸し借りがある。
無駄なように思えても、今に至る歴史があって、なるべくして今の形に落ち着いてる。
個々人の人間関係や組織の利害関係を考慮して仕事の再配分をすることができない。
刻一刻と変化する情報を汲み取り、柔軟に対応することができない。
いつも、自分にとってはベストを尽くしたつもりでいるが、おそらくいつも浮いているのだと思う。
犬を蹴とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、十倍も早く走って、褒められると思ったところ、
「どうして犬を蹴飛ばした?」
「ちゃんと橋を渡れ」
「お前が走ってどうする」
「どうして裸なんだ?」
と叱られる。
(もちろん、これは誇張した例えではあるが、実際にそれに近い行動をしてとがめられている)
これまで、何度も転職したが、いつも突然にやめてしまっている。
今回は退職ではなく突然の休職ではあるけれども、似たような感じではある。
友人がいないわけではないが、友人とは結婚式などで会うだけで、交流は久しくない。
今回も、もう戻れないような気がする。
そして、40代の今、こんな形でやめたら、次は好待遇の仕事はない。
常に正社員だったのと、生来の倹約なのと、資産運用が上手くいったのとで、手取り年収の15倍くらいの蓄えがある。
運用が上手くいっても少し厳しいが、その前に親が死んで遺産が入るだろうし、近くのヤマトで仕分けのバイトでもすれば、無職でも生きていけないかなと目論んだりしてる。
以前、Twitterで
「子供の頃にピアノを練習していたらおじいちゃんに「下手だ」と言われたのがショックでそれきりピアノを辞めてしまった。姉はそのまま続けて大人になった今も趣味のひとつとして楽しんでいる。自分も続けていてピアノが弾けたらいいのにと思ってしまう」(うろおぼえ)
というような投稿をみた。
おじいちゃんの発言は決して褒められたものじゃないけど、強く非難されるほどのものでもないと思う。子供のピアノなんて下手なものだし、お姉さんと比べてまだまだという意味だったのかもしれない。それでもその一言でピアノが嫌になるくらいに打ちのめされてしまったのはすごく理解できる。おじいちゃんはきっと覚えていないだろうし、投稿者も別におじいちゃんを恨んでいる訳ではないと思う。ただ、誰かの一言がどうしようもなく人生を変えてしまうことはあるよね、という話。
幼稚園の頃、父とふたりで近所を散歩していた。小さな赤ちゃんを連れた若い夫婦が前から歩いてきた。旦那さんはまだ学生のようなフレッシュさと清潔感があったけど、奥さんは太っていて髪もボサボサで服装もだらしないと思った。当時の私から見てなんだか釣り合いの取れないふたりが、赤ちゃんを覗き込んではとても幸せそうというギャップが印象的だった。(大人になって思えば産後すぐの奥さんがスリムでヘアケア&オシャレばっちりのはずはない)
すれ違ったあと、しばらく黙って歩いていた。おそらく父も若い夫婦のことを考えていたんだと思う。おもむろに私の顔を見て
と言った。
ショックだった。
私があの奥さんのことを不美人だと思っていたことを見抜かれたこともショックだったのかもしれない。それよりなにより、おまえの顔を誰も愛さない、と言われたことがショックだった。
父はこの出来事を覚えていない。実は私も二十歳過ぎまで忘れていた。忘れていたのに「誰かに選ばれるような顔ではないので分相応にしなければ」という決意だけがずっと心にあった。可愛い服など着てはいけない。オシャレを楽しむなんて身の程知らず。でも他人に不快感を与えない程度には身だしなみを整えなければならない。でも見た目を気にしてるなんて気付かれてはいけない……。ずっとそう思っていた。
二十歳を過ぎて初めてお付き合いした相手が容姿を褒めてくれた。知らない国の言葉を言われているようで、意味は分かるけどなんでそんなことを言うのか分からなかった。それをきっかけになぜ自分は自分の容姿がキライなのか考えていたら突然、件の出来事を思い出したのだった。
思い出したけど、なにも変わらなかった。
私は制服と冠婚葬祭以外のスカートを着たことがない。スマホにはいろんな写真が数千枚保存されているが、自分の顔が写った写真は一枚もない。朝、マナーとしてのメイクをするが、出先のトイレで鏡はなるべく見ないし、街中のガラスに反射する自分の姿も絶対に見ない。
父の一言はひどいとは思う。そんな失礼なこと言っていいわけないやろ、あの奥さんに対しても。(父は普段から毒舌というか、いらんことを言うタイプではある)
でもまさか娘の人生をこんなに変えてしまったとは思っていないと思う。私も父に責任があるとは思っていない。なにが悪かったんだろう、タイミングかな。ただ、こういう人生を後悔したり悲しんでいる訳ではない。カワイイ服を着てミニスカートで脚を出したり、いろんなメイクを試してベストな角度を研究したり、友達とプリクラを撮ったりしたかったか?と言われれば別にそうでもないと思う。それは幼い頃の出来事が影響しているのか、私の生来の気質なのか分からない。単に私が中年になってしまって容姿のことなど大した問題ではなくなったのかもしれない。でも他人や親から見ればかわいそうなことなんだろうか。これを知ったら父は悲しむだろうか。
なんてことない言葉で人生が変わってしまうことはある。人と関わって生きる以上、それは仕方ないんだろうし、きっと良い方に変わることだってあるんだろうと思う。
でもアドバイスや意見を求められて~ではなく、こちらの覚えていないような一言で他人の人生を変えてしまうことが私にとってはとても恐ろしい。
・表題の通り。
・アルコール依存(いそん?)と言うのが最近の流れだろうが、自覚はあっても医者の診断はない。
週2回は自宅に呼びつけられ、釈明と謝罪を繰り返した。
時間調整に寄ったスーパーのイートインスペースで栄養ドリンクを流し込んでいた。
後から入って来た老人男性が買ったばかりの缶ハイボールを煽る。
・瞬間、猛烈に酒が飲みたくなった。
酒を飲めば気楽になれるんじゃないかと思った。
思いながらもクレーム主宅へ向かう時間になり、その場を後にした。
・ベンチで酒を煽る老人の姿が頭から離れなくなった。
しばらくの日数を葛藤した後、同じスーパーで缶チューハイを買い、隠しながら飲んだ。
クレーム主宅へ向かった。
いつもなら心が折られる言葉を避けられているような気がした。
バレなかった。
・缶チューハイを飲んでから当のクレーム主宅に向かうようになった。
酒といえば外食だったが、仕事帰りに缶チューハイを買い、家で飲むようになった。
買うものは缶チューハイから大容量ペットボトル入り甲類焼酎になった。
上記のクレーム主以外にもクレーム対応に向かう時に駅や店舗のトイレで流し込んだ。
父は帰宅して5分後には酒瓶を手にしている人だった。
だから、知らずのうちにストレス発散の選択肢に酒が入っていたのかもしれない。
・特に夢も希望もなかったので結局3年くらいそういう生活を続けたが、父に介護の必要が生まれ、転職して実家に戻った。
・飲酒習慣のマズさの自覚はあり、これを機会に改めようと思った。
しかし、実家生活+自宅介護は思った以上のストレスで、また缶チューハイを家で飲むようになった。
母に咎められたので、仕事帰りや夜中に家を抜け出してコンビニで飲むようになった。
・そして、またありがちルート。
ただ母にバレないようには気を使った。
仕事はそれほどストレスはなかったので、仕事前と仕事中のアルコールは必要なかった。
・2年後、父が逝き、再び一人暮らしを始めた。
ここでも飲酒習慣を改善しようと思い、アルコール依存治療を標榜する病院へ行った。
「どうせコイツも裏では飲んでるんだろ。」
何度か参加しただけで行かなくなった。
何をしてくれるわけでもない病院も行かなくなった。
・そのまま、改善することができないままに今に至る。
・断酒継続に成功している人のエピソードは、たいてい「家族が〜」と「子どもが〜」ばかり。
守るべきもの、言い換えれば、一度壊したものがなければ断酒はできないのだと思う。
・家族もいない。友達もいない。仕事も、自分がいなくてもどうにかなる。
行く末は良くない結末だとわかっている。
でもどうすべきか分からない。
https://zenn.dev/bird32/articles/37906495e56ba5
グラント氏は最終的に、セルフ・アイデンティティに基づく定義に落ち着きました。これは「女性とは、自分がそうであると主張する人である」というものです。
もちろん、これは同語反復(トートロジー)であり、女性とは実際に何であるのかという疑問は依然として残されています。長い生物学的な歴史を持つ用語のこの驚くべき再定義は、自然に対してイデオロギーを押し付けようとする試みとしか見なされません。
「ノンバイナリー」の人々、または「女性」として自らを認識する(identify as)男性(「トランス女性」)の中には、生物学によってそのアイデンティティが十分に認識されていないと感じる人々もいるため、彼らは生物学に対してイデオロギーを押し付け、「女性」の新しい定義を作り出そうとします。
さらに言えば、セルフ・アイデンティティが直接的に経験的な現実と一致するという主張には、多くの問題があります。
自分が太っていると感じているからといって、常に太っているわけではなく(拒食症の問題)、自分が馬であると感じているからといって、馬ではなく(「シアリアン」と呼ばれる人々が心理的に動物であると自己同一化している)、自分がアジア人だと感じているからといって、アジア人になるわけではありません(「トランスレイシャリズム(transracialism)」の問題)。
しかしながら、性別についてはこれは異なる、とグラント氏は言うのです。それは、人間の生物学的な特徴の一つでしかなく、単に心理的な作用によって変化しうるものであると述べます。
生物学では伝統的に「性別(sex)」とは、生殖細胞(「配偶子 gametes」)の大きさと運動性によって定義されています。
雄(male)の生殖細胞は小さくて運動性があります(動物では精子、植物では花粉)。雌(female)の生殖細胞は大きく運動性はありません(植物では卵細胞、動物では卵子)。すべての動物と維管束植物には、正確に2つの性別(sex)があり、それ以上はありません。 植物の相当数と少数の動物種では、単一の個体に両方の機能を併せ持つもの(「雌雄同体」)もいますが、これらは典型的な2つの配偶子を生成するため、第三の性別(sex)ではありません。
確かにごく一部の例外として、分類に従わない "インターセックス" の状態の人々がいます(その割合は約5,600分の1から約20,000分の1と推定されています)。このような配偶子観点の例外は確かに興味深いものですが、性別(sex)の二元性(バイナリー)の一般性を損なうものではありません。生物学において、これほど稀な逸脱が基本的な概念を揺るがすことはありません。例えば、約300人に1人の割合で、生まれつき正常な10本の指を持たない多指症の人々がいます。しかし、誰も「指の数のスペクトラム」などは語りません。(なお、ノンバイナリーおよびトランスジェンダーの人々のうち、"インターセックス" の状態である人はごく一部であり、ほぼ全員が生物学的に男性または女性であることを認識しておくことは重要です)
したがって、生物学では、女性とは「成人の人類の雌(An adult human female)」という言葉で容易に定義できます。
グラント氏が犯した最大の誤りは、生物学的な特徴である性別(sex)と、ジェンダー(gender)、つまり社会において担うことを推測される性役割(sex role)とを混同し続けたことです。性別(sex)はあらゆる点でバイナリー(二元性)であるが、ジェンダーはよりスペクトラム(連続体)的であり、それでも「男性」と「女性」の2つのラクダのこぶのようなモードがあります。
ほとんどの人々は、生物学的な性別に関連するジェンダーの役割を演じていますが、多くの数の人々が、両者の役割を混ぜ合わせたり、あるいは男性/女性の役割を完全に拒否したりしています。グラント氏は「私はジェンダー表現を、1日を通して変化するさまざまな方法で演じている」と語っています。しかし、これによってグラント氏が1時間ごとに性別を変えているというわけではありません。
したがって、性別の生物学的な概念の下では、人間が性別を変えることは不可能です。つまり、真の「トランスセクシュアル」になることは不可能なのです。なぜなら、哺乳類は配偶子を生産する方法を変えることができないからです。より適切な用語は「トランスジェンダー」または、「トランス女性」に対しては「女性として自己を認識する(identify as)男性」でしょう。
グラント氏はここでも読者を誤解させます。例えば、彼らは「トランスジェンダーの人々は、他の人々よりも性犯罪者になりやすいわけではない」と主張しています。しかし、少なくともトランスジェンダー女性に関しては、事実はこの主張とは反対のことが裏付けられています。
英国法務省と英国国勢調査の統計を比較すると、性犯罪を犯した受刑者の割合は、男性受刑者の中の約20%、女性受刑者の最大約3%であるのに対し、トランスアイデンティフィケーションした受刑者の少なくとも約41%が性犯罪で有罪判決を受けています。したがって、トランスジェンダーの受刑者は、生来の男性の2倍、生来の女性の少なくとも14倍の割合で性犯罪者である可能性が高いようです。
これらのデータは、逮捕された者や有罪判決を受けた後に女性であると宣言した者だけに基づいているため不完全ですが、トランスジェンダー女性は生物学的女性よりもはるかに多く性的に略奪的であり、生物学的男性よりもややいくらか略奪的でありうることを示唆しています。スコットランド、ニュージーランド、オーストラリアでも同様の傾向が見られるという指摘があります。
まず、生物学的な性別の現実を認め、イデオロギーに基づく概念を拒絶することは「トランスフォビア」ではないということを主張したいと思います。科学的な現実とトランスジェンダーの権利のどちらかを選ばなければならないということは、決してあってはなりません。
トランスジェンダーの人々も、他の人々と同様に、道徳的・法的権利をすべて享受すべきです。しかし、道徳的および法的権利は、「消えない刻印」としての性別(sex)が他者の法的および道徳的権利を損なう結果となる分野にまでは伸長されません。
例えば、トランスジェンダー女性は、生物学的な女性と女子スポーツで競うべきではありません。また、レイプ等の性犯罪に関するカウンセラーや暴力を受けた女性のためのシェルターのスタッフになるべきではありません。また、犯罪で有罪判決を受けた場合は、女子刑務所に収監されるべきではありません。
そういった領域が誰かにとっての聖域だってことを自覚した上で容赦なく踏み荒らす覚悟を決めた(キリリみたいな態度辞めて欲しい。
自分にはオタク知識があるんだぞという自負によってしか自分を愛することが出来ない弱い人達に「でもスーパー勝ち組アーティストの米津玄師だって同じことやってるじゃん。やっぱりお前には何も無いんだよ」をぶつけないでやってくれ。
あらゆる面において他者に劣っていてそれ故に社会から弾かれ若くして姥捨ムラハチを当たり前として生きてきた生来の負け組たちが、それでも生き残るために手繰り寄せた蜘蛛の糸なんだ。
そっとしておいてやってくれないか。
自分の強さを抑えようとすることが却って与えられた天賦に対して失礼な生き方になるとかなんとか言ってノブリス・オブリージュを気取っているようだが、それは強者としての割り切りを大切にするという宣言じゃなかったのか?
オタク文化圏にズカズカと入り込んで「それ俺も好きだわ~~~オタク君あんま詳しくないんスね~~~~」とやっていくのは、本当の弱者から見れば切り捨て御免で命を絶たれたのと同じ気持ちにしかならんぞ。
お前ら強者はもっと超常的な感覚と才覚と理解力をもってして「ふん……この程度のことは図鑑をパラパラ読んでいるうちに分かったわ……こんなものを読み解くのに50年かける無能は大変だな……」ぐらいの態度を気取っててくれよ。
どうせ本心ではそう思ってるんだろ?
それを上辺だけ取り繕ろうことが一番他人を傷つけるんだよ。
やめてくれよマジでさ。