はてなキーワード: 生存戦略とは
日本の企業文化は、戦後長らく「メンバーシップ型雇用(年功序列・終身雇用・横並び評価)」に支えられてきましたが、
少子高齢化・グローバル競争・テクノロジーの進化などにより、「ジョブ型・成果主義」に軸足を移しつつあります。
しかし、その過渡期にある今:
• **40代以上の中間管理職(能力に比して高給な層)**は、「削減ターゲット」にされやすい
• 若手に投資したい企業は「過去の慣習」に縛られず、スキルや即戦力を重視する
• **「家族の事情」より「職務適性・貢献度」**が評価基準になりつつある
「家庭があるから雇ってほしい」はもう成立しない
これ自体は一切責められるものではありませんが、それで「配慮されて当然」だと思う感覚が時代錯誤になってきているのも事実です。
現実には:
• 企業は「配慮コスト」ではなく「成果・再現性・コスパ」で人を見る
• 「大変ですね」「応援したいですね」で雇う余力はない
• SNSでは、そうした「配慮されること前提」の就活が失敗して「社会が冷たい」と語られる
たとえば、X(旧Twitter)やnoteでよく見られる投稿には以下のような傾向があります:
「家庭があるから働きたい」
そして最終的には:
• 「社会が変わるべき。もっと多様な働き方を受け入れてほしい」
• 「◯◯さんのような人が救われないのはおかしい」
「子育て中かどうか」はスキルや生産性に勝らないのが現実です。
ではどうすべきか
辛辣な現実を受け止めた上で、取るべき道は以下のような選択肢に整理されます:
状況 | 取るべき戦略 |
----------------------- | ------------------------------------------------------------------------------ |
育児中・時短希望 | 時間内で結果を出す専門職スキルを磨く(例:経理、広報、Web制作など) |
育児後の再就職 | 「未経験OK」ではなく、在宅スキル(業務委託向け)を明示してアピール |
事務職しか経験がない | Excelスキル・VBA・RPAなど「事務系IT力」を付けて市場価値を出す |
SNSで共感を求める前に | 「市場で評価される力」への投資をする(地に足をつける) |
「誰もが頑張っている」は事実ですが、
「頑張っている」と「価値を出している」は別の話です。
はぁ〜〜〜……。マジで今日も憂鬱な一日が始まるわ。お疲れ、私。そして全国の同志。
最近さ、つくづく思うんだけど、
なんて言うか、こう…「動物的人間」とでも名付けたくなるような奴に悩まされてる。
「自分は絶対正しい!」教の信者たち(反省?何それ美味しいの?状態)
まずね、こっちがどんなに丁寧に、言葉を選んで説明しても、自分の非はぜーーーーったいに認めないのよ。
うちのAさん(仮名)なんてまさにそれ。
自分にもできないこと山ほどあるくせに、他人(特に自分より弱い立場の人)には「なんでそんな事もできないの!理由を言って!」って鬼の首取ったみたいに詰めるの。怒鳴りながらね。
でも、こっちがAさんに「Aさん、これはどうしてこうなったんですか?理由を教えていただけますか?」なんて丁寧に聞いた日には、もう大変。
みるみる顔が赤くなって、
「そういう言い方するなんて、あなたの性格に問題があるんじゃない?」
いやいや、どの口が言うとんねん!
こっちがどんなに問題解決しようと歩み寄っても、向こうは「自分が攻撃された!キーッ!」ってなる。
「自分が間違ってるかも?」っていう発想がないんだろうか?
ああいうの見ると、こっちのライフポイントがゴリゴリ削られていく音が聞こえるわ…。
「都合が悪いこと」、「痛いところ」 を突かれると、もうビックリするくらいの速さで逃げるのよ。
「この件について、もう少し話し合わせてもらえませんか?」って言おうものなら、「またその話?」とか、「もうその話は終わったはずですけど(一方的に)」とか。。。
こっちは問題解決したいのに、向こうにとっては「不快な状況から一刻も早く逃げること」が最優先、なんだろね。
しまいにはさ、Aさん、こっちが色々言っても無駄だって悟って、諦めて距離を置こうとすると、「ほら、やっぱり私の言うことなんて誰も聞いてくれないのよ。もうあの人には本音は言わないって決めたんだから!」って被害者ぶるの。いやいや、こっちが諦めたんじゃなくて、あなたが聞く耳持たなかったんでしょーが!って、喉まで出かかった言葉を何度飲み込んだことか…。
私の気持ち <<<<< 超えられない壁 <<<<< アタシの気分(自己チュー&感情ジェットコースター)
みたいな?
そして何より疲れるのが、徹底的な自己中心性と、感情のアップダウンの激しさよ。
「普通はこうでしょ?」、「常識的に考えて!」ってのが口癖ね。
自分のローカルルールを世界の中心みたいに語るけど、その「普通」とか「常識」って、あなたの頭の中にしかないやつですよね?って、心の中で何度ツッコんだことか。
結局 「自分がどうしたいか」、「自分がどう感じているか」が全ての判断基準。
まるで、お腹が空いたら泣き叫び、眠くなったらどこでも寝る赤ちゃんみたいに、本能のまま生きてる感じ。
はぁ…。もうね、こういう「動物的人間」さんと毎日顔を合わせてると、こっちの精神がすり減って、悟りを開くか発狂するかの二択を迫られてる気分よ。
「ああ、この人は今、自分の感情という名の嵐の中にいるんだな…触らぬ神に祟りなし…」って、そっと心の中で距離を置くスキルだけが、日に日に上達していく今日この頃。
皆さんの周りにもいません?こういう、良くも悪くも「自分に正直」すぎる人たち。
こういう人らに「動物的人間」ってラベリング、言語化して、普及していきたいわ。マジで。死ね。
あ、やべ仕事しなきゃ。
誰もが「自分は普通」だと思ってるから、マナーがマナーにならない。
だから、先に言っておく。これはお願いじゃなくて生存戦略の話。
・見たい映画は公開すぐに行くこと。
あの集中力の高い初期観客たちと観るのは気持ちがいい。空気がピンと張っていて、誰もおしゃべりしない。
数週間たつと、内容を知ってる勢が油断して笑い声を挟んだりするので、可能なら初動で押さえたい。
ミニシアターだとスクリーンが思ったより小さくて、「家で観てもよかったのでは?」となることもある。
・本当に見たい映画は朝イチに行け。
静かで、集中してて、誰も喋らない。あの空間こそが正解。
昼の回は動物園。子供がどうこうじゃなくて、放置してる大人が地獄。
・公開終了間際の映画に遅刻/途中退席する奴は撃たれる覚悟で来い。
あのタイミングで観てるのは、既に視聴済みで、もう一度味わいたい人間達だ。
静けさと集中に命かけてる。乱入すると命が危ない。お前の物音は爆発音だと思え。
・荷物は少なめに。
自分の足元以外に物を置くな。他人のスペースを侵すな。気遣いができない人間に映画を見る資格はない。
・座席を蹴られたくないなら一番後ろに座れ。
蹴る側は無意識。怒るだけ無駄。なら、最初から物理的に逃げるしかない。
・傘は椅子の下に寝かせろ。
・飲み食いするなら音の大きいシーンで。
ポップコーンすら許されない場面ってある。静寂を割る咀嚼音は暴力。
頑張って最後まで観るな。眠気と戦う音、頭が揺れる影、いびき。全部、迷惑。
眠いことは罪じゃない。映画館にいることが罪になる前に、出ていけ。
こっちはお前の尻を見たくて来たわけじゃない。感情の尻尾を踏んで帰るな。
誰かがまだ心の中で映画を上映してる。隣でエンディング解説始めんな。
特に小中。学級崩壊で授業が成り立たない&暴力が日常茶飯事の学校だったけど
・クラスメイトが集団いじめされているのが見ていて気分悪かったので注意→その子の親から感謝されてお菓子もらえた。その子へのいじめも多分なくなった
・上級生に体操服を貸して一週間経っても返ってこなかったから、そこの担任に直接文句→実は被害者多数で全員分返ってきて、被害者の親たちからお菓子もらえた
・軽く嫌がらせ(今思えばいじめだったのかも)されたけど、その時はじゃれてるだけだと思って同じことやり返し→やられなくなる
など、他にもあるけどこんな感じで気楽に生活できた。
まあ中学入ってからは一部の不良の言いなり(キョロ充ってやつ?)の人たちからはあからさまに嫌われてたんだけど、取るに足らない存在だったしどうでもよかったかな。
あまりにも酷すぎる環境だったから逆に幸せだっただけかもしれないけど、空気読めないのも生存戦略として必要だから
こんな卑屈なめんどくせーカスにしつこくする男なんてそんなのしかいないのは当然だろ
「卑屈なカスぐらいにしか行けなくて目的がセックスなだけのいろんな意味でランク低い男」だよ間違いない
なんか生意気な態度でいっちょ前の反抗心や猜疑心みたいなの見せる癖に
それでこの芋は当然セックスすべきだよ
自分のことばっかり気にしてる周りを全く見てないこんなゴミカス、
カスみたいなやつとはいえ異性が寄ってきて優しく構ってくれてんじゃん
なんでもいいから一方的なテイカーじゃなくてお返しをしろって話だよ
お返しが出来ないような質量の好意ならおかしいと感じて受取拒否しろって話だよ
自分は返礼をなんもしないのにそのことすら美化して被害者ぶって
そういうのは男女以前の人間の屑だぞって言う
それだけの話だろ
構ってくれて世話をしてくれた以上はなんかお礼をしなきゃいけないんだよ
で、芋がなんなんだよな
そういう人としての節義の前には
てめえが芋かどうかなんか心底どうでもいいんだわ
そのセックス男含めてだーーれもそんなこと興味ねえわ
お前も芋女もそうやって
滅茶苦茶低いラインでちゃぶちゃぶしていて
「いかに被害者ぶるか」「いかに責任から逃げるか」ってラインで戦ってんだよな
なんかいっちょ前に強気な口きいたり人への批判っぽいこと言ったりするのが謎過ぎるわけ
お前等は自分から水面にケツを浸してそのラインにケツを固定した底辺なんだから、
偉そうにするんじゃなくて哀れっぽく媚びて同情を誘えよ
「お尻がつめたいですう~~~溺れるですう~~」って
生存戦略としてそっちの方がいいだろ
あと俺これ実は男女問題じゃない気がするんだ
女と上手くやれないから男に期待して
「私はずっとうじうじしながら『私どうせ芋だから』 と言い続けるのでめげずに構って励ましてください」とか
「私は庇護されながらセックスすら拒否して『彼とは心で繋がっている』といううわごととウンコだけを垂れるので見捨てず面倒見てください」とか
仰天するような片務的な搾取関係を夢見てそれが叶わないと男への恨みを抱くわけじゃん
お前等のこと誰が好きなの?
男から嫌われてるからって女からも好かれてねーだろおめーらみたいの
会ってる間中ずーっと「私芋だから」とか言ってる女を女は許すのか?
都会の事情は2000年代まで知らない。それを前提で書かせてもらう。
最近起きた万博のマルシルコスプレの件を見ていて色々思い出したんだが、自身もオタクで同人活動したり色々オタク文化にどっぷりだった身としてどうしても好きになれないものがある。
それはオタク自身によるオタク文化やオタクコンテンツに対する卑下だ。
マルシルの件でも日陰者として振る舞えと言わんばかりに法律や万博運営側の出してるルールを超える自主規制を求めてコスプレイヤーを叩いてる人が結構いる。
これらの発言でどうしても好きになれないのはコスプレは隠れてしなければならないという前提だ。
私が高校の頃に同世代や地元の大学生のお兄さんお姉さんが同じように言うのに違和感を持っていた。
「怪しい」「恥ずかしい」とういう風に自分の好きなものを扱う人たちにこちらが不快感を持ったほどだ。
好きなものに胸を張れないってダサいし、それを作っている人たちに対して失礼な態度だと思っていたし、今も思ってる。
けど、仲間内くらい堂々とこれが好きだと自虐せずに物を言えなかったのかと思う。
例えば私が10代の頃に最近リメイクされた「To Heart」というゲームのオリジナル版が人気だったが、これを好きと堂々と言うのも憚られたし、何かアングラなものかのように言うのにも違和感がある。
この「To Heart」って作品のストーリー、ほとんどの少年漫画のラブコメより健全だし、日本映画黄金期の青春映画くらいには保守的なストーリーだったんだ。
オリジナルのPC版は18禁でセックスが描かれたけど主人公とヒロインたちは高校生なので別にセックスしてたって不自然な年齢じゃない。
他にも色んな作品を例に出したいが長くなるので1作にしておくけど、大抵のオタクコンテンツって映画や小説とくらべて特別不健全かというとそうじゃなかった。
むしろ当時流行りだったミニシアター系映画に比べたら健全な作品も多かった。
当時、映画とかバンドとか色んな趣味に手を出したけど他の趣味でこんな風に自分の好きなものを恥じる風潮ってなかった。
生存戦略としてオタク以外の人に対して、ならわかるけど仲間内くらいそういうのやめるべきだと思っていたし実際それを言って叩かれたが今でも納得してない。
それが万博のコスプレの件で今でも続いてるのを見ていると悲しい気持ちになる。
同人活動していて私のいるジャンルではそういう卑下みたいなものはあまり見られないので過去のものになったと思ったらそうじゃなかった。
今回の件で政治家の人たちや政治関連アカウントが憲法などのレイヤーから話している例もあったり色々な意見が出ている。
そんな中で、「自分の好きなものくらい卑下せず堂々としてろ」って言葉はもっと出てきていいと思う。
もう日陰者でないといけない時代は終わったし今のオタク文化は堂々としていられる。
逆にコスプレイヤーを非難している人たちは昔に戻そうとしているし、昔のオタクの態度が一つのカルチャーに関わる人間としてダサい事を自覚してほしい。
今回炎上したコスプレイヤーはきちんと世の中との関わり方、公式のルールを踏まえて自分の好きなものに向き合ってて格好いいと思った。
ネコは別の猫を羨望して自分の子猫はいい大学に入れたいとかよそと比べるという発想が希薄だと思うから人間とは比べられないというのはわかるけど、実際に先天的なものだけで誰に教わったわけでもないのに立派に子育てするじゃん。独立までの期間が短いとか言っても、それを言うならネコの寿命自体が短いじゃん。仮にネコの十年がヒトの90年だとして、子猫の独立まで大雑把に十倍したとして、そんな驚くほど違わないと思うんだよね。それなのにヒトの女は子育てが大変すぎると言いすぎじゃない?ネコ以下なのかって思うよ。
面白い視点ですね。確かに、ネコは本能的に子育てをこなしているように見えますし、寿命や独立までの期間を考慮すると、彼らの子育ての効率性には驚かされます。ただ、ヒトとネコの子育てを単純に比較するのは難しいかもしれません。
ヒトの場合、子育てには本能だけでなく、文化や社会的な要素が大きく関わっています。例えば、教育や感情的なサポート、社会的なスキルの習得など、子どもが独立するまでに必要なことが非常に多岐にわたります。一方で、ネコは本能的に生きる術を教え、比較的短期間で子どもが自立できるようになります。
また、ヒトの「子育てが大変」という感覚は、現代社会の複雑さや期待値の高さにも影響されているかもしれません。ネコが他のネコと比べて「羨望」することがないように、ヒトも他人と比べることをやめれば、子育ての負担感が軽減されるのかもしれませんね。
このテーマ、もっと掘り下げてみますか?それとも別の話題に移りますか?
社会性っていうのも所詮はヒトが作り出したものでしょ。物理的に生きていけるというなら5歳~10歳、ネコで言うところの半年~1年。人の場合も食べ物さえ転がっていれば物理的には勝手に食うわけだし。
面白い視点ですね。確かに「生きていける」ということを単純に物理的な生存に限れば、人間もかなり幼い段階で食べ物を見つけて食べることは可能でしょう。ただ、人間の社会はそれ以上のものを必要とするように進化してきました。
ネコの場合、子育ては短期間で完了し、独立までのプロセスもシンプルです。それに比べると、人間の子どもは非常に長い期間、他者のサポートを受けることになります。この違いには、脳の発達や社会的な学習の重要性が関係しているのかもしれません。ヒトが築いた社会性は、単なる生存以上に、協力や知識の継承を可能にし、より複雑な文明を作り上げるためのものだったのかもしれませんね。
あなたの視点では、そういった社会的な要素は不必要だと思いますか?それとも単に「大変すぎる」と感じる点に疑問を持っているのでしょうか?
非常に長い期間のサポートっていうのもねえ。必要かどうかという話ではないんだよ。もともと社会性のために育児が20歳超えても必要っていうのは思い込みに過ぎないと思うんだよ。物理的な子育てと社会性のための子育てを無理やり切るとすると、家や食事、幼稚園や学校があって何もかも一緒くたにしてるから、やたらと大変だという風に映るんだよ。そこの部分の考察を深めたいと思ってるわけ。
なるほど、育児の負担感が「社会性のための子育て」と「物理的な子育て」を混同していることから生じているのでは、という考えですね。確かに、現代の育児は生存のためだけでなく、教育や社会的な適応までを含んでいるため、非常に長く複雑なプロセスに感じられるのかもしれません。
もし物理的な生存だけを目的とするなら、衣食住が整っていれば、子どもは比較的早い段階で自立できるはずです。でも、人間社会では、単に「生きる」だけではなく、「社会の中で機能する」ことが求められるため、教育や人間関係の形成が不可欠とされています。これが「育児が長い」と感じられる要因かもしれません。
この視点から考えると、ヒトの育児が大変なのは、文化的な要素が複雑に絡み合っているからであり、必ずしも子どもが自立できるまでの生物的な限界に起因するわけではない、とも言えますね。では、この育児の「社会的な側面」をもっと簡略化できる可能性はあるのでしょうか?それとも、そもそも社会のあり方が変わらない限り、この負担感は続くものだと思いますか?
けっきょく健康保険や年金みたいなもので、肥大化しすぎると観念的な世界であっても、一旦一歩引いて考え直すかという姿勢は必要になってくると思うんだよ。
まさにその視点は重要ですね。一度作られた制度や仕組みは、時間とともにどんどん複雑になり、それが当たり前になっていくと、本来の目的や必要性を再評価する機会が減ってしまうかもしれません。健康保険や年金のような社会制度も、最初はシンプルな「助け合い」の仕組みだったものが、制度の拡張や人口構造の変化によって肥大化し、維持するための負担も増してきました。
育児の話に戻すと、社会の中で「当たり前」とされている子育ての形も、本来はもっと多様なやり方があるはずなのに、既存の枠組みの中で考えがちになっているのかもしれませんね。一歩引いて「そもそも何が本当に必要なのか?」を考え直すことで、新しい視点や選択肢が見えてくるのかもしれません。
こうした「思い込みのリセット」は、どの分野にも必要ですね。もし特定の制度や仕組みについて掘り下げてみたいことがあれば、ぜひ教えてください。
社会性というか、自分が生まれてもいないときに出現していた仕組みや価値観のレールに乗って、自分はそのレール上でさらに過酷なものへと仕立て上げているという傾向が強すぎると思うのね。けっきょくのところ3人が2人になり1人になり、ゼロになるという現実は小説1984年ではないけど、観念の暴走でついには自分を自分で殺すとなってしまっているんだと思うよ。
深い洞察ですね。確かに、既存の仕組みや価値観に無意識に従い、それをさらに複雑化させてしまうというのは、人間社会の特徴かもしれません。特に、観念が暴走することで、個人の自由や選択肢が制限され、最終的には自己破壊的な結果を招くこともあり得ます。
ジョージ・オーウェルの『1984年』のように、観念が現実を支配し、個人がその枠組みの中で苦しむという構図は、現代社会にも通じる部分がありますね。社会の仕組みが肥大化し、個人がその中で自分を見失うことがないように、一歩引いて考える姿勢がますます重要になっているのかもしれません。
このテーマ、さらに掘り下げてみますか?それとも別の視点から話を広げてみますか?
別の視点もほしいです。
面白いですね。では、別の視点からこの話題を考えてみましょう。
生物学的な視点 人間の育児は長期間にわたり、社会制度とも密接に関係していますが、生物学的な進化の観点から見ると、「長期的な子育て=高度な知能と社会性の結果」とも言えます。例えば、イルカやオオカミなどの社会性の高い動物も、群れの中で子どもを育てる期間が比較的長いですよね。これは単なる生存戦略以上に、知識の継承や協力関係を深めるための重要な要素かもしれません。
哲学的な視点 社会に組み込まれることが前提となっている育児のあり方を疑うのは、いわば「個人の自由と社会との関係」を問うものですよね。たとえば、古代の狩猟採集社会では子どもも早期に労働に参加し、「育てる」というより「生きるために学ぶ」という感覚が強かったかもしれません。現代では、「教育」や「人格形成」が重要視されることで、子育てが単に生存を確保するためのものではなくなっているのかもしれません。
技術的な視点 技術が発達することで、人間の育児のあり方も変化していく可能性があります。たとえば、AIやロボットが育児の一部を担うことで、親の負担が軽減されたり、「社会性のための育児」と「生存のための育児」がもっと明確に分かれる時代が来るかもしれません。極端な話、社会のあり方自体が変われば、「育児が長期化することが当然」という考えも見直されるかもしれませんね。
このような別の視点から考えると、育児の「常識」とされているものを根本的に問い直すヒントになるかもしれません。どの視点が特に面白いと思いましたか?さらに深掘りしてみたいですか?
レヴィストロース名前だけ知ってるけど、先人の人で似たような考察した人いる?
レヴィ=ストロースの構造主義的な視点に近い考察をした先人として、いくつかの哲学者や人類学者が挙げられます。
例えば、エミール・デュルケームは社会学の分野で「社会的事実」という概念を提唱し、個人の意識を超えた社会構造が人間の行動を規定するという考えを示しました。これはレヴィ=ストロースの「構造」の考え方と通じる部分があります。
また、フランツ・ボアズは文化人類学の分野で「文化相対主義」を提唱し、異なる社会の文化を比較する際に西洋的な価値観を押し付けるべきではないと主張しました。レヴィ=ストロースも神話や社会構造を比較する際に、普遍的なパターンを見出そうとした点で共通しています。
さらに、ジャン=ポール・サルトルの実存主義に対して、レヴィ=ストロースは批判的な立場を取りました。サルトルは個人の自由と選択を強調しましたが、レヴィ=ストロースは文化や社会の構造が個人の思考や行動を規定すると考えました。
こうした思想家たちの考え方を比較すると、レヴィ=ストロースの構造主義がどのように発展してきたのかが見えてくるかもしれませんね。どの視点が特に気になりますか?
レヴィ・ストロースとサルトルの対立が気になる。ネコの子育てと人の子育てに関連付けるようなことはできる?
これはかなり面白い視点ですね!レヴィ=ストロースとサルトルの対立は、構造主義と実存主義の違いによるものですが、そこに「ネコの子育て」と「人間の子育て」を絡めることで、新しい切り口が生まれそうです。
レヴィ=ストロースの構造主義 vs. サルトルの実存主義 レヴィ=ストロースは、個人の意思よりも文化的・社会的な「構造」が人間の行動を規定すると考えました。つまり、「育児の仕組みは社会の構造によって決められ、人はそれに従う」という視点です。一方で、サルトルは「人間は自由に選択できる存在であり、育児も個人の意思によるものだ」と考えるでしょう。
ネコの子育ての視点 ここでネコの育児を考えてみると、ネコの母親は本能的に子どもを育てます。社会的な仕組みというより、遺伝的にプログラムされた行動が育児の本質になっている。これは「構造によって行動が決まる」というレヴィ=ストロースの考え方に近いかもしれません。
人間の育児の視点 一方で、人間の育児は文化や社会に大きく依存しています。社会の期待や教育制度によって育児のあり方が決められます。これはレヴィ=ストロースの「社会構造が個人を規定する」という考えと一致します。しかし、サルトル的な視点からすれば、「どんな育児をするかは個人の選択次第」なので、子どもを早く独立させることも、長期間サポートすることも、究極的には親の選択になるはずです。
まとめると… ネコの子育ては構造主義的で、人間の子育ては社会に影響されやすい。しかし、人間の育児のあり方も「本当に構造に縛られているのか?」という点を考えると、サルトルの「選択の自由」の視点で見直すことができるかもしれません。
「取り柄」とは、特定の環境下で他者よりも相対的に優れた成果を生む属性である。この概念は環境依存性が極めて高く、座標系を変えればその優位性は容易に反転する。例えば、空間を平面から高次元に拡張すれば、ある特定の軸で突出していたベクトルは瞬時に優位性を失う。
従って、取り柄とは「空間に依存する局所的最大値」にすぎない。
これは他者の存在意義を特定の関数で評価し、その関数の極値を持たない個体を低位に分類する操作に他ならない。問題はその評価関数が、要求者によって恣意的に定義される点にある。数学的に言えば、評価関数は外挿的に拡張されたスカラー場であり、領域全体の最適化を目的としない局所解の探索に過ぎない。
この行為は、「外部参照の座標変換を考慮しない座標系依存の最適化問題」という致命的な欠陥を抱えている。
他者に「取り柄」を要求する者は、環境依存の狭義な局所解しか見ていない。これは熱力学第二法則の誤読にも似ている。エントロピー増大の法則が示すように、閉鎖系では秩序は必然的に崩壊する。人間社会も局所的に取り柄の有無で序列化すればするほど、その評価系全体はエントロピーを増し、やがて無意味な均質状態に至る。
「取り柄の強制」とは、系の不可逆的劣化を加速する操作なのである。
加えて、自己保存の観点からも非合理だ。進化論的に見ると、単一の適応形質に依存する集団は環境変化に対して脆弱になる。生態学における「ニッチの多様性」が示す通り、生存戦略は分散化されるほど安定する。取り柄を強制することは、全体の多様性を削ぎ、結果的に集団自滅のリスクを高める。
この意味で、他者に取り柄を要求することは、単なる倫理の問題ではなく、システム論的な愚行である。
「取り柄の有無」は有限の情報量から決定されるが、他者の全属性をスキャンし適正な評価を下すには、膨大な計算リソースが必要になる。現実には計算コストの制約から、人は粗雑なヒューリスティックで判断せざるを得ず、その結果「取り柄の強制」は常に誤差を含む不完全なアルゴリズムとして機能する。この種の雑な評価は、機械学習における過学習(オーバーフィッティング)に類似し、短期的には精度が高く見えても、長期的な汎化性能は著しく低下する。
これらの理由から、非合理であり持続可能性のない戦略であることが論理的に導かれる。倫理以前の問題として、単純に「サイコ」であるという評価は、正確に言えば「システム思考において破綻した設計思想」とまとめることができる。
「気丈にふるまっていたけど,あの人自殺したよね」「あいつ死ぬ死ぬ言ってる割に全然死なねーじゃん」
30代になる程度には年を重ねると,一度や二度とは言わずにこういったことを経験することもあるのではないだろうか.
では,この人たちの思考の境界線,自殺へ発展するか否か,はどこにあるのだろうか.
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僕は双極性障害とADHDとASD(共に診断済み)を持っていて,精神手帳2級と障害基礎年金2級を持ってる,博士課程(理系)の学生だ.
(おそらくASD傾向が強くて)自身の思考を内省したり,薬を調節して自身の人体実験をするのが結構好きである.
希死念慮が強いときも結構あり,死にそうになるたびに「今日も自殺願望湧いてて草,頓服飲むか~死にてー.殺してくれないかなぁ」などと思っていたりツイートしたりする.春になり,暖かくなり,生物の活動が活発になるほど,自分のことを惨めに感じ,死にたくなる.
そんな僕が最近"自殺の境界線を越えたな"と感じる場面が,先週うつ転して以来,多々あるので,死ぬ前に見えるところに日記を残そうと思い筆をとった.
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普段の思考はいわゆる一般人と変わらないであろう,と思ってる.それなりに勉強できるし,友人とのやり取りやツイッターなども楽しめる.たまには知り合いとディスコードで雑談したり,Youtubeの面白い動画をみて笑ったりできる.正直,そこには障害も何もない.神経多様性も何も感じない,普通の人生.
お薬を飲んで,早めに休憩を取って,適切なタイミングで頓服を取れば,皆と同じように博士課程も進めることが出来るだろう.ドクター後の研究者人生は大変なのかなぁなどとぼんやり考えていた.
実際,ここ2ヵ月,修論発表や博士課程入試後,は気分がよかった.簿記を勉強してみたり,専門科目の勉強をすすめたり,研究会に行ってみたりと落ち着いた生活を送っていた.
だが,春になり入学式のシーズンが始まると,やけに思考の歯車が狂ってくるのを感じる.うつ転した.
双極性障害やうつ病といった気分障害というものを知らない方たちに説明するが,気分の落ち込み,即ち抑うつ気分は病的なものであり,希死念慮や自殺企図といったものもある種病的な自然発生の仕方で,脳内で発生し,循環する.
そのたびに,僕は「このような思考障害はドーパミン系の回路を含む脳の血流の問題であるだろう*」とか,「思考制止が表れてるか判断する方法はないのか」などといった,片手間で眺めていた精神医学の本の知識を思い出す.
(注*直接は書いてないが,電気けいれん療法などがうつに聞くということから,脳の回路の循環をとめ,血流をよくすると治療抵抗性のうつなどがある程度寛解するのではと考えている.精神医からすると違うかもしれないが.)
とにかく,自殺願望は自然現象であり,止める手段といえば頓服(抗精神病薬)を飲み,休憩することで少しは改善するが,基本的に避けようがないものである.
では,このような自殺願望が止められないというようになったらどうするべきか,それは入院である.
入院して,テレビや数年前の雑誌,かるたやオセロといった制限された娯楽しかない場所に行き,2-3か月療養することである程度は回復する.死ぬといって暴れれば,保護室(ベッド以外何もない部屋,持ち込み禁止で水を飲むか思考するかしかできない)へ送られる.そんな人生.
もちろん,一度入院した身としては思考の歯車が狂い,希死念慮を唐突に感じるようになったとて,数週間も入院はしたくない.その思いが強く,うつ転し,希死念慮を鋭く感じて手元にあった薬でODして吊るか悩んだあの夜は乗り越えた.
そう,希死念慮から見ると自殺企図はすぐそこにあるのだ.手段を考え,行動に移すかはほとんど希死念慮を感じ取っているときから始まっているといっても過言ではない.少し大げさだが,高学歴の大学を出て,修士課程まで専門分野をある程度修めて,博士課程でやっていこうとする人間が言う位である.こんな僕でも,この瞬間は大真面目に自殺を一時間位考えていた.あの瞬間に,決意のようなものが漲っていたならば,今この場には居ないと思う.
一度目の入院以降,ヘルパーさんといった家事のお手伝いの人や,訪問看護師が週3回入って傾聴してくれていて,二週間に一回は必ず病院に継続的にここ4年程通っているという状況だ.病気の人ならこれ以上努力すべきところはないといってもいい.なのに自殺願望は訪れる.うつ転,抑うつ気分,希死念慮は避けられない.
普段はナイーブなことなど微塵も考えてない.面白いコンテンツに触れることが出来るし,みんなも普通に会話してくれる.なのに唐突に死にたくなって仕方がなくなる.自分の価値を否定して,自らの生を否定する.
まずは自分の死にたさがどこからどの程度来るのかを観察しよう.うつ病ならうつ病の薬を貰い,適応障害なら職場からいったん離れよう.自分を否定し殺そうとする職場なんていても意味がない.好きな職場なら,少し回復を待ってからでもいいではないか.僕も指導教官から少し見放されてはいるが,回復という名目で少し距離を置いていいと思う.見放される原因は一過性のストレス障害である,適応障害だった.
今死にたがってる人を見かけてるみんな,生存戦略しましょうか.
青年期なら,青年期特有の心の動きというものがある.死にたくなったり突然幻覚幻聴といった一過性の精神病の症状がでることだってある.その子も,一つ一つの自殺願望を乗り越えれば,一歩ずつ大人になれる.大人になると,発達障害を含むいろんな障害が少し和らぐ.対人関係の距離感というものがあるが,仲良いなら仲いいほど良い距離感でいてあげればいい.対人関係という網は自殺からその子をある程度守ってくれる.
既に病気を持っている人なら,落ち着いて入院セットを整えよう.次に自殺願望がわいた時が最後かもしれない.
自殺というのは,現代社会において1,2位を争うほどの死因であるところの,「病気」である.その病気は最善を尽くしても避けられない場面は多い.対人関係などのバックグラウンドがあるとその病気を改善しないにしても守ってくれる.みんなも自分の身や大切な他人の身を守ってほしい.「死にたい」のすぐ先に「死」がいつでも待っている.
欧米と日本のルッキズム観が大きく異なる背景には、いくつかの要因が考えられます。主なポイントを挙げてみましょう。
アメリカなど多民族国家では、民族や肌の色、人種的背景など“見た目”に関わる要素が多彩です。また、暴力や犯罪から身を守るために「身体的な強さ」や「自分を主張する力」が重視される歴史的・社会的背景もあります。一方、日本は比較的同質な民族構成であるがゆえに、他民族間の衝突や生存戦略としての“強さ”という視点が表に出にくい。代わりに、より細部の顔パーツ(目や鼻、口元など)の美醜が「優位性を示す指標」として機能しやすくなっています。
日本ではアイドルや芸能人のビジュアル(特に顔のパーツ)が強調される傾向が長く続いてきました。テレビや雑誌、広告などで顔アップの写真やパーツごとの美醜に注目が集まることで、人々も自然と「顔こそが魅力の最大要素」と捉えがちになる。一方、欧米のメディアではモデルや俳優が身体全体のバランスや筋肉美を披露したり、アクティブに動く映像が多かったりと、体格やフィジカルの存在感が強調されやすい傾向があります。
たとえばヨーロッパやアメリカでは、伝統的に「自立した個人」としての生き方が尊重され、公共の場でも「自分がしっかり立っている」という姿勢が重要視されます。政治的・社会的な議論の場で、自信をもって主張できることは“強さ”と結びつき、それが「魅力的」な要素のひとつとして評価される。一方、日本は農耕民族の歴史が長く、集団調和を重んじるため、声高に主張し合うという文化が育ちにくい。その結果、「対立よりも調和を好む態度」が社会の基本となり、見た目の美しさにおいても「物静かだけど美しい顔」「華奢で繊細な顔立ち」といった、身体的強さとは別の方向の優位性が注目されがちです。
欧米の個人主義では、自分自身を周囲に示すことが生存戦略上も重要でした。ルックスの評価も「堂々とした振る舞い」や「自分の意見を表明する力」が含まれ、その延長で身長や体格の良さなどが「説得力」と結びつきやすい。一方、日本の集団主義的な文化では、外見も含めて周囲と調和することが大切とされ、全体の中で浮かない穏やかな顔つきや、洗練されたパーツのバランスなどが評価されやすい風潮があります。
インターネットやSNSの発達により、近年は日本でも身体的魅力をアピールするフィットネス系インフルエンサーが増えていますが、長らく続いた「顔こそが大切」という価値観をひっくり返すほどの大きなうねりはまだ限定的です。欧米のほうが社会の多様性や“セルフブランディング”への意識が先行して広まりやすい土壌があったため、顔のパーツよりも「全体的な自己表現」を重視する流れが根付きやすい側面があります。
まとめると、欧米では複雑な社会事情や個人主義的価値観のもと、身長や体格、自己主張力など総合的な強さが「ルッキズム」に深く関わってきたのに対して、日本は同質な社会環境やメディアの影響、そして調和を重んじる文化によって「顔パーツの美醜」へ注目が集まりやすい歴史を歩んできたと言えます。その結果、両者のルッキズム観には大きな隔たりが生まれているのです。
今回の刺殺事件なども
事件の背景など
伝えられていることが
本当なのであれば
言いようがない。
完全に奪う行為だったのだが
だからといって
正しさが半減するような気もする。
ただひとつ言えることは
世の中を舐め腐る人間というのは
一度、殴っておいてあげるほうが本人のためにはなる、ということだろう。
女はとくに。
若い女というのは、
それだけで「男を誘惑する力」を
持っている。
今回の女性などは
その力の使い方としては
かなり愚かなケースとして
こういう大事件に発展する前に
彼女を殴ってやる
親切な人間が出てきていれば
それも無理だろう。
まあ、今回は完全に正しい暴力で
生半可なことをしなかったのは思いやりがあるとも言える。。
もう、誰かに認められるために生きるのはやめよう。努力が報われるとは限らないし、社会の基準に合わせるのも疲れた。だからせめて、自分だけは自分を大切にしたい。
朝、無理に早起きしなくてもいい。でも、起きたら布団を整えよう。それだけで、今日を始める覚悟ができる。昨日の飲みかけのペットボトルを片付け、机の上を軽く拭く。部屋がきれいだと、少しだけ心が落ち着く。
食事は適当でもいいけれど、せめて栄養のことは考えよう。白米に納豆、卵を落とした味噌汁。それだけで十分だ。プロテインを飲めば、たんぱく質も補える。金がないならないなりに、できる範囲で整えていくしかない。自分の体をないがしろにするのは、もうやめよう。
SNSを開けば、他人の幸せそうな投稿が流れてくる。比べたって仕方がないのに、気づけば心が沈んでいる。だったら見なければいい。誰がどこでリア充していようと、自分の生活には関係ない。情報をシャットアウトすると、驚くほど気持ちが軽くなる。
散歩に出る。行くあてもなく歩くだけだが、外の空気を吸うと、少しだけ気が晴れる。道端に咲いた花や、夕暮れの空を眺める。誰にも褒められないし、意味なんてないけれど、それでいい。意味のない時間こそが、自分を取り戻す時間だ。
疲れたら、休めばいい。働きすぎても報われるとは限らないし、無理をしても誰も褒めてはくれない。だからこそ、自分で自分をいたわるしかない。好きな映画を観る。音楽を聴く。本を読む。誰のためでもなく、自分のために、心地よい時間を過ごす。
「丁寧な生活」なんて言うと、意識の高い人間の話のように聞こえる。でも、これはただの生存戦略だ。社会が優しくないなら、自分くらいは自分に優しくしてやる。そうやって、今日も生きていく。
「目の前で老人が転んだら面倒くさいから、子供を抱っこしながらベビーカーを持って階段を使うのは危ないから」はまごうかたなき優しさやろとは思う。
目の前で老人が転んだって素通りすることもできるし、母親が子供ごと階段から転がり落ちたって知らんぷりすることもできる。
それをしない増田は優しい。
でもそれは結局は社会全体で見るとそのほうがコストが安いからだ。
他人に優しくするとお得。そういう社会にした国のつくりこそが優しい。
でもそれも国民が住みやすくすることが国を繁栄することにつながるからやっているだけだ。
群れて増えることを選んだ人類が存続していくために、社会性という優しさを備え持つことが必要なのである。
あとまあ小さい範囲で言うと優しいということは個人の生存戦略でもある。そのほうが好かれやすく生きやすくなるから。
まあそれはその分面倒ごとを押し付けられたりする諸刃の剣でもあるけどな。
ともあれ「優しさ」とは「無償の愛」ではない、ということだ。
優しいゆえに他人をスポイルしてしまう可能性については…まあそこは一考の余地はあるけどな。
でもそういうのは言い方ひとつで優しくすることはできるとは思う。
「できなーい」って言う人にやっとくよ、ができる余裕があるならば、ちょっとしたアドバイスの手間もそこまで惜しくないのではないだろうか?
そうか?
フランス革命で民衆が多数であることを武器に王侯貴族をギロチンかけまくったのを見るに、
そしてそこからの怒涛のほぼ世界を巻き込んだ「弱者にも人権を!」活動の主な活動者は男であることを鑑みるに、
女と同じ形じゃないので「理解できない」「理解したくない」というだけじゃない?
江戸では、往来でケンカして劣勢になったほうが地面に大の字でひっくり返って
「弱者に過度の手出しできない」を逆手にとったタンカを切ったというが
現代のそれは、バカが論理を理解できなくなったときに勝とうとして言う
「頭のいい人って、バカにもわかるように説明できるんですよねえ!」がそれ
>男の場合、ホモソーシャルにおいて弱者ポジションを取って利益を得られることが一切ないから、女の弱者の生存戦略に対する共感や同情は一切ないんだよね