はてなキーワード: 火葬とは
その人は70代なので、割と納得が行く年齢ではある。ただ、その人の姉は80代で2人とも健在なので、そういう事情を加味するとやるせない。
自分は鬱になり、好きなジャンルでの仕事が出来なくなり、その原因の1つは故人にあるので、そういう意味ではまるで悲しくない。とは言え喜んでいるかと言えばそうでもない。
人生には色々な側面があり、自分にとって悪魔でも誰かにとって天使な事が往々にしてある。葬式には多くの人が参列して故人の死を悼み悲しんでいた。
故人を見たり触れたりするのはともかく、話しかけている様は正直馬鹿馬鹿しいと感じてしまった。とは言え、それは人それぞれ。
今の葬式はかなり自由で、その葬式は仏教を介さず、故人を参列者が自由に囲い任意で帰るだけのものだった。意味もわからない《お経》よりも、故人にまつわる音楽や映像を流した方が誰にとっても幸せだろう。当然ながら選択肢の問題であり、仏教を介した葬式をしていた別の枠もあった。
自分が子供の頃は《通夜》と言えば文字通り夜通しで酒を飲み語り合い、ある種の祭りでもあったが、現代人の生活は仕事や時間に追われているし、土着的な関係でもない。数分、数十分でも会えば充分な関係。《通夜》は3時間程度で終わり、翌日の火葬などは2時間で終わった。
今回の葬式に関わらず、いつから参列者による故人の写真撮影が平然とおこなわれるようになったのだろうか。自分が子供の頃は業者や身内の一部が一眼レフなどで仕事や役割として故人を撮影する事はあっても、参列者が平気でパシャパシャと撮る事なんてなかった。スマホという道具が常識や歴史や文化を変化させているというのを目撃して違和感があるのと同時に感慨深いものであった。
逆に、棺を運ぶのが男だけ、という風習が今でも残っているのが意外だった。これ現在のポリコレ的に問題にならないのだろうか? とは言え、基本的に泣いているのは女で、そして受付や食事の用意や手伝いをよくしているのも女で、互いにそこには疑問を持っていない古典的で典型的な場所でもあった。いつか、こういう事もポリコレ的に問題にされるのだろうか?
故人に対する何かというよりは、自分はどうやって死ぬのだろうか、という事を考えさせられた。自分の人生はそれなりに自由に生きてきたが、人並に挫折も経験して、今は妥協の中で生きている。よくある話だが、人はいつ死ぬのかわからないのだから、犯罪でもない限りは、後悔の無いように好きに生きたいものだ。
自分というよりは他の誰か用
葬儀のプラン(焼くだけ・通夜やるやらない)に関してはこの記事では取り扱わない。(個人差がデカいので)
自分の経験としては通夜無し・告別式有り・お清め無しで55万とお布施35万だった。
病院/施設で亡くなったときは看護師とかに突っつかれる(病院/施設に置いておける期限があるので)し、看護師も別に葬儀業者に詳しくない。
ネット検索で引っかかる業者は金額が高くなる傾向にある。(独自研究)
病院/施設で亡くなった場合は片面埋まっているのでもう片面を葬儀業者or自分が書く。
早めにやっとけ
親の借金が多くて相続しないつもりであれば口座の金には手を付けてはいけない。
だいたい職員が優しく教えてくれる。
この時に亡くなった親の戸籍謄本(全部事項証明書)は取っておいたほうが楽。
まとめて行ったほうが楽。どうせ同じような書類を各銀行で書かされる。
ゆうちょ・JA以外は同じフォーマットを使ってる?ので使いまわしがきく。(っぽい)
相続人全員の実印と印鑑証明を要求してくるので下記までに行っとくほうが無難。
遺言書があるなら遺言書通りに、ないなら戸籍謄本で見た法定相続人を集めて協議をする。
後で追記する。
俺は増田。旧統一教会の祝福2世だった男だ。大学入学を期に実家を離れて世間を知り、なんか違うなと思って教会を離れた。両親は信仰があり、絡むといちいち面倒なのでLINEでのやり取りするぐらいで、疎遠にしていた。結婚して地方都市に住んでいる妹も教会を離れているが、用もないのに連絡をする仲ではない。不仲って、言うほどでもないが、一般的に兄妹ってそんなもんだと思う。
少し前に父が亡くなったので、何年かぶりに帰省した。持病があるのに医者と喧嘩して病院に行くのをやめていたので当然の結果だった。死に際は人に迷惑をかけるような状況じゃなかったのが救いだった。
この記事を読んでいる人の中で、ひょっとすると統一教会の葬式に出る人がいるかも知れないので、思い出がてら書いておく。
まず、喪服は着ない。男はスーツに白ネクタイ、女は白っぽいジャケットとスカートを着る。式場は教会の人ばかりだったのであまり気にならなかったが、火葬場で浮きまくって居心地が悪かった。
そして、葬式(統一教会では「聖和式」と言う)は新しい出発をするお祝いというていになっている。なので万歳三唱がある。世間一般とかけ離れたことばかりする集団にも顔色ひとつ変えず親切に対応してくれた式場の人にはプロ意識の高さを感じた。
その他、家庭盟誓(やばい会社の社訓みたいな奴の統一教会バージョンだと思ってほしい。8番まであって長い)を唱えたり、聖歌(教会の歌。何かと歌う)を歌ったりした。毎週の礼拝ってこんな感じだった。
もう何年も教会に行っていないので結構忘れていたが、やっていたらなんとなく体が覚えていて、嫌なノスタルジーを感じた。
妹は式の間ずっと口をつぐんでいた。
親族はコロナを理由にほとんど参加しなかったが、教会の人が足を運んでくれてそれなりに人が集まった。自分や妹の顔を見ると皆にこやかに「久しぶりだね〜」と言った。
教会の人って基本的に親切で優しくて、あなたの隣に住んでいても良き隣人であるような人が多いのだが、時々地雷がある。
父も反ワクチン・反マスクだったが、他にもいそうな雰囲気だった。ある人に「増田くんもワクチン打ってしまったんでしょう…?」と言われた、やっぱりカルトと陰謀論は親和性が高い。
また別の人に「お父さんは増田君の気持ちわかってたと思うよ…」っと慰めるように言われて何の話?となったりした。俺は「憎まれっ子世に憚る如く長生きするかと予想していたが、案外ポックリ逝ってくれて助かった」と言うのが本音だった。言える訳がないので曖昧に相槌を打った。
親切でちぐはぐで、柔らかくてグロテスク。言いようのない不快感があった。
父方の親戚で、一人の老紳士が通夜葬式の両日参列してくれた。もちろん、両親が教徒だと言うことは知っている。通夜の日、黒いネクタイを締めてきた彼は「明日は白いネクタイで来るね」と言った。色々思うところはあるだろうに、嫌な顔ひとつしなかった。なんて人間のできた人なんだと思った。こんな人を意味の分からない儀式に付き合わせて申し訳ないと思った。
後から聞いた話だが、葬式の時点で妹は妊娠していたらしい。「夫も子供も教会に関わらせたくない。必要ならできる限り経済的な支援はするが、それ以上は期待しないでほしい」と言われた。それでいいと思った。
教会には「氏族メシヤ」という考え方がある。教徒の親族に布教して家庭内の救世主になろう、という囲い込み戦略だ。しかし、実際は葬式に兄弟は来ず、子供達すら離れている。“統一”教会ってなんだよ、と思った。
人それぞれ。うちの場合、父方の祖父母は直葬、母方の祖父母は家族葬だった。
どこも一緒だろうが、(どこで亡くなってからによるけども)病院で亡くなったら葬儀屋に頼んで腐らないようにドライアイスで冷やしてもらって家に運ぶ。ほんで斎場に運んでもらって火葬、という流れ。うちは公営の斎場でやった。
通夜とかないけど、なくなったのを知った地域の知り合いの学会員さんがお別れに家に来たり納棺の時に来てくれた。
地域の葬儀担当のおじいさん(儀典長)がきて題目唱題をあげて終了。
(タダでやってくれるからありがたい話だ)
人それぞれ。公営の納骨堂に入れる人も多い。
学会が管理してる墓地は170万くらいで買えるのでそこに入れる人もいる。
金がかからないのはありがたい
叔母が死んだ。享年60歳。
乳がんだった。
叔母は私が子どものとき、夏休みの帰省の度にひとつ、玩具を買ってくれた。
叔母、叔母って、他人行儀だね。いつも呼んでたように、はな姉って呼ばせてもらうね。
今思うと、小さな額ではないだろう。
メヒカリの唐揚げは絶品だった。そうめんの汁にマヨネーズを入れるのは未だに理解できないけど。
成人してからは、はな姉にはよく小言を言われた。
女なんだから、給餌を手伝いなさいと。お酒ばかり飲んでないで、と。
その地域は親戚の集まりがあると男性は食卓で、女性は料理と給餌をする文化が残っていたから、それはその土地では当然なんだけど、
いつのまにか、はな姉は怖くて苦手になっていて、長期の休みのたびに帰っていた父の実家への足が遠のいた。
はな姉は犬を飼っていた。犬はいつも毛並みがよくて、人間を疑っていなくて、世界一かわいい自分(犬)は愛されるべき存在だと疑っていないようなふるまいで、いつも食卓で人間の横にスタンバイしていた。
とても寒い日だった。
泣きながらも、遺族より動いてくれた。
はな姉は骨になった。ボルトで背骨を支えてたから、ボルトは火葬場の人がその場で除いてくれた。
はな姉は恰幅がよかったけど、小さくなった。
そんなはな姉は、もう二度と私に小言をいうことはない。
はな姉よ、葬式で聞いたよ。
当時は、結婚したら子どもを生み育てるのが当たり前だったんだろう。
そのなかで子どもがいなくて、きっと大変なこともあったんだろう。
でも、そんな素振りをみせず、キャリアを築き、ヴィトンのバックを持ちながら、はな姉はいつもかっこよかった。
親戚も別に何もいわない。それはもしかしたら、はな姉が築いた信頼によるものなのかもしれない。
はな姉が、子どもがいなくても幸せに、キャリアを築いて、そうして生き抜いてくれたから。
だから私は何も言われなかったのだろう。
はな姉、いまなら話ができる気がするけど、はな姉はもういないんだね。
もう少し話したかったよ。
火葬のあと、はな姉のおうちにお邪魔したよ。客間に、四十九日までの祭壇を作るために。
アイアンとウッドのインテリアがおしゃれなお家だね。
ガラスの飾り棚に、指輪を飾っていたね。歴代のわんちゃんたちもそこに並んでいたね。
はな姉の大事なものがたくさん詰まっていたね。キッチンにははな姉が時々かけていた老眼用のメガネがおいてあったよ。
はな姉はもういないのに、はな姉の気配がたくさんあったよ。
ただ、山下達郎好きだったのは知らなかったよ。
あんなにたくさんグッズがあるとは知らなかったよ。ついでにいえば、私も好きだよ。
悪役令嬢機甲のコックピットのハッチがゆっくりと開く。パイロットが乗る準備ができたのだ。若きパイロット、アンジェリカ=アンジェリカが機甲に乗り込む。
悪役令嬢機甲が打ち上げられるのは宇宙空間にある巨大機甲戦闘系である。ここは銀河レベルの世界大戦が起こっている地区であり、地球人類の未来がここにかかっていた。
第1世代の悪役令嬢機甲は技術の拙さにより暴走。一度やむを得ず破棄され、パイロットは戦死した。人類は人類絶滅を防ぐために新たなパイロットを送り込むことに決めた。
悪役令嬢機甲は、操作指示を送ると自然にエレガントな動きを行う。第1世代はエレガントな動きはできていたが、暴走により他の勢力が送り込んだ悪役令嬢機甲と無数に敵対し始め、孤立無援の状況に陥ったのだった。
「地球の未来は後に続く人々にまかせた」と第1世代のパイロットは独りごちた。その言葉を変換した悪役令嬢機甲が最期に出力したのは「お兄様……」だった。涙を流し、機能停止したのだった。
他の悪役令嬢機甲により、第1世代は葬儀を画策されていた。葬儀、それは一見普通の葬儀のように見えるが、他の悪役令嬢機甲との摩擦を防ぎつつ1体の悪役令嬢機甲を完全に破壊するためのプロトコルである。猶予時間以内に予備機が到着・交戦形態に復帰しない場合、その勢力は「末期状態」とみなされ、その勢力全体に準悪役令嬢機甲が続々と襲来し、侵略される。準悪役令嬢機甲1体で星々を蹂躙することが可能なのだ。
一刻を争う事態だ。地球の技術者は総力を挙げて第2世代を完成させたのだ。
アンジェリカ=アンジェリカは機甲を発進させた。宇宙空間には0.1秒で到達する。だが交戦区域まで5時間。間に合うかどうか、ギリギリのラインだった。地球の技術者や科学者、それだけでなく全人類は固唾をのんで見守っていた。
交戦区域では悪役令嬢機甲 Type-執事が、笑いを堪えられない顔をしていた。乗組員が誰かは不明だが、今まで地球勢力にいいようにされてきた復讐心が抑えきれていない。だがその動作は素早い。葬儀の手配をテキパキとこなしていた。プロトコルは厳格に守りつつ、それでいて葬儀までの最速を目指していた。
「お嬢様!お嬢様ァ!!!どうして!目を覚ましてはくれなイのですか!」
悪役令嬢機甲の微細な声のトーンや行動をコントロールすることは難しい。技術力が低い勢力の悪役令嬢機甲はどこかおかしな部分がある。そのため貴族的立ち位置を確保できないのだ。しかし今宵はそれをひっくり返すことができる好機だった。
居並ぶ悪役令嬢機甲 Type-メイドたちもまた迅速に行動していた。誰も地球勢力を侮ってはいない。モタモタしていれば次の悪役令嬢機甲が送り込まれてしまうことはわかっている。パイロットたちは互いに通信を送り合いながら苛立ちを隠せない様子だった。
アンジェリカ=アンジェリカは、強靭なメンタルを持ったパイロットだ。
地球の技術者たちは第2世代からエレガントさを削ることに決めていた。第1世代が武によって築き上げてきたポジションを活用することにしたのだ。多少エレガントさに欠けたとしても、勢力との均衡や同盟が重要だと考えた。
アンジェリカ=アンジェリカに課された使命は巨大機甲戦闘系での覇権を握ることではなく安定性。地球人類は一度暴走によって窮地に陥ったためにそれを思い知った。
なぜ他勢力は、勢力の総力を挙げて悪役令嬢機甲を構成しないのか、それが長らく疑問だった。だが他勢力は巨大機甲戦闘系での安定をはかり同盟を築くことにより技術を向上させ、着実に銀河内の勢力圏を広げていくという地道な道を選んでいたのだ。いま地球が陥っているような問題に直面しないために。
悪役令嬢機甲が破壊されても破壊されても問題ないように設計していたのだった。量産華麗型(Mass-Produced Ornate Body)、通称、Mob。Mobをたくさん送り込めば1体が破壊されてもバックアップがいるために問題がないのだ。極めてシンプルな思想に地球人類は己の無知を恥じた。
「希望者はたくさんいるのですが……」
「使命感だけでは話にならんのだ。我々が求めているのはスキルだ!」
巨大機甲戦闘系では火葬場の用意がされていた。1つの恒星を覆い尽くし、悪役令嬢機甲1体を完全に破壊するためのシステムだ。それは地球からも観測できた。
「あぁ……点火が始まったか」
光速を越えて宇宙空間を疾走するアンジェリカ=アンジェリカにその科学者のつぶやきは伝わらない。だがその必死な形相と最高レベルの機動操作からは、確かに地球を救おうとする意志を感じられた。
第2世代悪役令嬢機甲からの出力が発信された。一部のOSは、移動しながらインストールされていたのだった。地球の観測所からは歓声が上がる。
目が覚めたとき、そこは火葬場か、お嬢様のベッドの上か、それはまだ誰にもわからない。
しかし第2世代悪役令嬢機甲はただ優雅に、巨大機甲戦闘系をしっかりと目指していたのだった。
つづく。
家から出入りする上で必ず通ることになる道沿いに商業施設ができるのってうざくね?
便利さよりも、いつでも通行人がいて自転車でのお出かけでも注意して轢かないようにしなければらなくなってるうざさの方が大きい
家から出て少しの間ぐらい気楽に走れる区間があってほしいわ。音ゲーだって始まってすぐはミスしてもダメージ受けない区間があるものだろう?
火葬場や刑務所みたいに周囲の住人の許可制にしてほしいわ。まあそれでも自分みたいなのは少数派だろうから意味ないだろうけど。
もともと捨て猫だったのを弟が拾ってきたから誕生日は定かではない。でも拾った時生後2ヶ月だったのだから春生まれなのは間違いないし、結局約9年後、桜の開花したその夜に逝ってしまった。ペットロスという言葉を初めて知った時、自分がいかにもかかりそうだなと思ったのを覚えている。正しく今がそう。だからここで気持ちの整理をする。
愛猫は私が大学受験を控えていた時期に来た。可愛い盛りの茶トラのオスで、よく運動会をするし食欲が旺盛だった。子猫の時期が一番ストレスのかかる受験期だったから癒やしにもなったし、無事に志望していなかった格上の大学へ現役合格できたのも愛猫のおかげだ。その後私は入学のため実家を出て、海外留学や別の地方へ就職し、実家の近くに転職したりした。彼は私が社会人になり羽ばたくのを目にしてきたのだ。
当然、両親や弟よりも過ごした時間は短い。だけども、どれだけ長く会えなくても帰宅するといつも出迎えて、ペロペロ舐めてちゅーるをねだろうとくっついてきてくれた。私が仕込んだから餌をもらいたい時はジャンプしてくれた。愛猫に会うためが目的で、転職後頻繁に帰っていた。とても可愛い猫だった。
食欲旺盛過ぎるから、どんな餌だろうと、どんなに多めにご飯をあげても全部食べる猫だったのにだんだん残すようになり、餌も選り好みするようになった。とはいえ今までのように隙あらば人間のご飯を狙っていたし、「年取って考えられるようになったんだね」なんて家族と言っていたのに、今にして思えばそこからもうすでに猫の宿命の腎臓病だった。たまに尿路結石で獣医にかかることはあっても、獣医さんに入院を拒否されるくらいに暴れ回り、怒っていた。
だけども大好きなちゅーるすら受け付けなくなってからはみるみる悪くなっていった。やり過ぎて禿げるくらい好きだった毛繕いもする余裕もないから褒められる毛並みもボソボソ。そうして吐くようになっていった。最初は毛玉、次第に食べないから透明の泡、黄色い胃液、最後には血を吐いていた。あんなに元気に走り回っていた愛猫はぐったりと、立ち上がってもフラフラした状態だった。体重も一時は5キロを越えそうだったのに、3キロ切る手前まで落ちた。獣医さんで慢性腎臓病と診断され、今後の治療方針を決めてなんとかエナジーちゅーるを食べさせていた。
しばらく母に抱っこしてもらっていたが、私も寝る時に抱かせてもらった。いつもはすぐに腕から逃げていくのにいつまでも腕にいる愛猫。そして彼はずっと私の方を見ていた。「もう疲れているだろうから、お目目閉じていいんだよ?」と撫でてやっても見続ける姿に涙が止まらなかった。いつも撫でていたように顎の下を撫でても、いつものように目を細めて上を向いてはくれなかった。辛くなって母の腕に返し、2時間くらいが立って日付が変わった頃だった。尻尾を踏まれて怒った時のような鳴き声で泣いたと思ったら、また血を吐いていた。大好きな母の腕枕から逃れようと奥へ行くも頑張って阻止して、母と私で懸命に呼びかけたものの、天国へ行ってしまったのだ。その後父も駆けつけて箱やタオルを準備し、お別れを言った。滅多に泣かないのでこんなに泣いたのはそれこそ子供の時以来で、頭痛がひどくなった。
その後なんとか眠りにつき、翌朝在宅ワークを始めた。もちろん、仕事中も涙が止まらないからリモート会議中に発言したら上司からすぐに「風邪ひいた?」と聞かれた。確かに鼻が酷かったから、「ああ、花粉…ですかね?」と誤魔化した。スギノキの多い地域だけど、私は花粉症とは無縁なのに。そして、交流のあった保育園の子どもたちが箱の中の愛猫にお別れをしに来てくれた。2歳くらいの子達だから死というものをまだよく知らないのだろう。「またあとでね」なんて言われていたけども、その言葉にハッとさせられた。確かにこのあと虹の橋で再会できるのだから。その後、火葬の日取りも決まり、最後まで付き合った。人間の時も荼毘に付されるのは寂しくて苦手なのに愛猫なんてなおさらだった。骨になった愛猫を見て泣きながら納骨をした。長くて真っ直ぐの自慢のしっぽは先の方まで可愛い骨があったし、肩甲骨も華奢だった。撫でていた顎も可愛らしく思えた。
猫の平均寿命は15歳ほど。だからこんなにお別れが早いとも思わなかったし、まだ折り返しだと思っていた。静かになった実家では、魚料理を食べようとしても邪魔されないことや、戸締りをしっかりしなくても脱走されないことで思い出しては涙が溢れる。ふとした時に愛猫の好きだった場所が目に入るたびにここにいないかなと思う。幸いにも転職先は自陣に申請すると自宅以外でも在宅ができるため、容態が悪くなってすぐに実家で二週間ほど在宅する旨を申請し、それも無事に通ったおかげで愛猫に寄り添えた。心から転職して良かったと思った。
拾ってきた弟も私も、高校生の頃からライフステージは変わったものの、まだ子供はいない。だからきっと九つの魂のうち二つを使って私たちのところへ来てくれることを祈っている。猫は次もまた飼い主に会うために目印として噛んだら引っ掻いたりで傷をつけるという。それなら私は彼が残した引っ掻き傷が鼻に、最後の力で噛まれた傷が指にある。きっとまた巡り会える。
きなこ、たくさんありがとう。私は家から離れていた期間も長かったからしつこくし過ぎたかな?でも、忘れずにいつも出迎えて撫でられ待ちしてくれて嬉しかった。虹の橋の下には会社の人たちが先住猫ちゃんにお願いしたと言ってたから、猫の家族や友達を知らなくてもたくさん友達がいるからね。私はまだまだ行くつもりはないけども、虹の橋を自由に探検して、寝て、気長に待ってるんだよ。大好きだよ。
子供のころはよく遊んでもらった。
10歳年上の姉だったので、小学生の頃はマラソンの練習にも付き合ってもらっていた。
一番上の姉がとげとげしい感じの性格だったので、とりわけ二番目の姉は大好きだった。
姉が都会から帰ってきたときはとても嬉しかった思い出があります。ミスタードーナッツのお土産嬉しかった。
姉が都会に戻るときは泣いたよ。そりゃあもう。
まだ携帯電話も無い時代。姉が連休か何かで都会から戻ってきた時。
家電話を使って誰かと韓国語を喋っていることを聞いたことがあるが、今思えばあれは統一教会の関係者だったのかもしれない。
自分が中学の頃だった、1990年代中盤の頃にはすでに姉がヤバい宗教に入っていた事は家族の中では周知の事実で、でも現代のようにパソコンどころかスマホが普及する前の世界だったので、そもそも何がヤバいのか。どうヤバいのか。どう対処したらよいのかすらわからんかった。
なので、北海道の田舎にある我が家は、札幌から統一教会の脱会をサポートする「ライラックの会」の人を呼んだ。
ライラックの会の人に何を説明されたかすら、今となっては覚えていないが、母親と同席した当時中学生だった私は「都会から来たわけわからん奴」っていう理由で、相手のことをひどく疑っていたし、事実私の意見が決定的となり、その人には丁重にお帰り頂いたと記憶している。
今の時代であれば、スマホで団体のWebサイトを調べるなり、SNSを調べるなりバックグラウンド調査を出来たはずだが、当時はそれも無理だった。
ある時、姉が結婚相手を連れてきた。キムさんだったかな。詳しくは覚えていないが韓国系の男性だったことは覚えている。顔はうっすらとしか覚えていない。
狭い町営住宅のリビングに姉、旦那、その向かいに自分、母と座っていた。姉の旦那からは白いセーターをもらった。
姉の旦那は「よろしくお願いします」とかなんとか言っていた。中学生だった自分は「あ、はぁ」みたいな感じだったと思う。
キムさんとは以後一度も会っていない。後にも先にもあの時一度きりである。
親戚づきあいみたいなことすら一度も無い。ただ、まだバカだった自分は「そういう人なんだな~」程度に思っていた。
今ならわかるが、姉の結婚相手は恐らくは合同結婚式で出会った相手なのだろう。
一時期韓国に住んでいた事もあったと記憶しているが、それも今思えば統一教会がらみだったのかもしれない。
その頃の姉は、今よりまだまともだった気がする。完全にPX-0になる前のバーソロミューくまみたいな感じである。
今のようにメディアで騒がれるかなり前から知ってはいたのだが、どう対応したらよいかが分からなかったというのが正直なところ。
対応も何も、全容も良くわからない得体の知れない団体で怖かったし、姉とは何か関りがあるらしいが、我が家にまでは影響は及ぼしていない。
そのため、静観する姿勢を取ったのだと思う。まぁ「何も出来なかった」のが正しい。
ある時、親戚が亡くなった。通夜が終わり火葬場にて、姉の話になった。その時自分はすでに20歳を超えていたはずなので、姉は30を超えていたと思う。
つまりは、姉が統一教会と接点を持ち始めてから10年経つか経たないかの頃じゃないだろうか。
姉が、親戚中に「お金を貸してほしい」と電話をかけているらしい。とのことだった。
大好きな姉だったので、この程度で姉を嫌いになるわけはないのだが「へー、そんなことしてるんだー」とあっけらかんに思った記憶がある。
その後も二番目の姉の問題は家族の中では腫れ物に触るような案件だったように思う。
その後メディアでもこぞって統一教会のことを取り上げるようになったのだが、これは意外だった。
なぜならこれまで統一教会のことを取り上げることなぞ全く無かったからだ。
止まっていた時計が進み始めた気がした。
鈴木エイトさんなどが、ワイドショーで毎日のように統一教会を追及をしている時、「このまま統一教会ぶっ倒れろ、ざまぁぁああああああ」と思っていた。
姉をめちゃくちゃにした統一教会をついに動かすことが出来たかもしれないからだ。
中学の時、突然目の前に現れた巨大な団体。でもどう対処してよいかわからずこれまで生きてきたが、ついに彼らを白日の下にさらすことが出来る。そんな気分だった。いいぞもっとやれ。
毎日そう思っていた。
表向きは「安倍首相が亡くなったんだね。悲しいね」という感じを取り繕っていたが、内心は「いいぞもっとやれ」一択だった。
実際母親も同じ意見だった。母親は姉が統一教会に入ったことを長年責めていたので、なおさらだったのかもしれない。
実はそのころ、兄弟3人で作ったグループLINEが存在していた。何かのタイミングでわたし発案でつくったものだ。二番目の姉とテキスト上ではあるが話が出来てとても嬉しかった。
兄弟3人は割と仲良しなので深い話をするのかと思いきや、お互い二番目の姉に気を遣うような発言ばかりが続きそれは一番上の姉も同じだった。
わたしは調子に乗って、二番目の姉に対して「お姉ちゃん、お母さんも心配してるよ。体に元気でね(詳細忘れた)」みたいなことを送ったと思う。明らかに山上事件を意識してのメッセージだった。
姉はそれに反応し「しばらくグループから出ます」とだけ言い残し、グループを退出してしまった。以後、それから二番目の姉とはちゃんとコンタクトは取れていない。
連絡先はつながっているので、ちょこちょこ連絡はするものの、何かと用事をつけて会うことを断られるのでもしかするともう会えないのかもしれないとは思っている。
この結果は姉にとってはどう影響するのだろうか。
アイデンティティを失うのだろうか。
仕事命のオジサンが退職と同時に急激に老化が進むのと同じように、姉にとってはおそらくは心の拠り所となっていたはずの統一教会。
それが解散となると姉の心はいったいどこに行くのだろうか。心にぽっかり穴が空いて自死でもしちゃうんだろうか。
姉は今は50代前半である。
立派に子供を育てている話も聞いている。たぶんその子たちは二世信者なのかもしれないが。
我々の人生がこのような運命を辿ることになってしまった理由の一因には、間違いなく統一教会の存在があるが「そんな状況を作り出した統一教会がとても憎い!」 というような気持ちは実は全く無い。
姉の人生の目の前には統一教会があり、わたしの目の前には統一教会が無かった。ただそれだけの話だったのだと思う。